2021/07/30

礼拝堂  10

 「イェンテ・グラダで見つけられた3人の子供は幼過ぎて酒を飲まなかったのだ。だから生きていた。2歳の男の子、1歳の女の子、そして4歳になる男の子だった。我々は彼等をグラダ・シティに連れ帰り、ブーカ族の長老会に託した。グラダの血の濃い子供達の養育を任せられるのはブーカ族ぐらいなものだったから。子供は、2歳の男の子がシュカワラスキ・マナ、4歳の男の子がニシト・メナク、そして女の子がウナガン・ケツァルと言った。」

 シオドアは思わずケツァル少佐を見た。少佐は無表情だった。彼は再びムリリョを見た。

「少佐の本当のお母さんはイェンテ・グラダの生き残りだったのですか?!」
「そうだ。半分だけのグラダだった。ニシト・メナクも半分だけのグラダだった。しかしシュカワラスキ・マナは違った。あれは純血種だった。」

え? と驚いたのはシオドアだけではなかった。少佐も目を見開いてムリリョを見つめた。

「イェンテ・グラダの試みは成果を挙げていたのだ。彼等は念願の純血種を生み出していた。だがタバコの毒で堕落した彼等に純血種の教育は不可能だったであろう。シュカワラスキ・マナを託されたブーカの長老達もその教育に手こずったのだ。誰も純血種のグラダの能力を実際に目の当たりにしたことがなかったのだからな。長老達は彼を古代に絶えた大神官に仕立て上げようと悪戦苦闘したのだ。ママコナもマナの心に絶えず語りかけ、”ヴェルデ・シエロ”としての心得と義務を説いた。正しい能力の使い方を教えようと努力した。マナの力は強大で、成長するに従って誰の手にも負えなくなっていった。マナが暴走しなかったのは、彼の性質が穏やかだったからだ。そして兄妹の様に育ったウナガンとメナクの存在もあった。彼等は仲が良かった。マナは年頃になるとウナガンを妻にと望んだ。大人達も彼等が結婚するべきものと考えた。」

 そこでムリリョが口を閉じた。長い話なので疲れた様だ。シオドアは飲み物を持って来るべきだったと悔やんだ。

「外の屋台で何か飲む物を買って来ようか?」

と少佐に声を掛けた。少佐が一瞬期待の目でムリリョを見た。彼女も喉が乾いたのだろう。ムリリョが話を中断するのを嫌がりはしないかと心配もあったが、誰からも異論が出なかったので、シオドアは立ち上がった。
 礼拝堂から出ると晩課は終わっていた。暗い聖堂内を歩き、外に出ると屋台村はまだ賑やかで、彼は瓶入りのジュースを購入した。出来るだけ短い時間で買い物を済ませ、礼拝堂に戻ると、ちょっと雰囲気が重たくなっていた。ムリリョが彼の留守の間に話を進めたのかと思ったが、そうではなかった。ケツァル少佐がシオドアを見るなり告げた。

「カルロが病院にいません。」

 シオドアはジュースの瓶を落としそうになり、慌てて椅子の上に置いた。

「いない?」
「様子を見ようと心を飛ばしたら、廊下にいなかったのです。病院内に彼の気配がありませんでした。」
「何処にいるのか、わからないのか?」

 するとムリリョが意外な冗談を言った。

「あの男にGPSなど付いておらん。」

 シオドアは彼にジュースの瓶を渡した。少佐にも渡しながら励まそうと試みた。

「食事に出たんじゃないのか? 護衛に病院食は出ないだろう?」
「それなら、私に断って・・・」

 言いかけて、ケツァル少佐は「しまった」と拳で椅子の座面を打った。

「食事に出ようとして私に声を掛け、私の不在に気がついたのです。」

 はっとムリリョが短く笑ってシオドアを驚かせた。

「手抜かりだったな、ケツァル。ベッドで寝ていたのが枕だと気がついて、お前を探しに病院から出てしまったのだ。」
「探せないのか?」
「無理です。」

と少佐。己の失敗を悔やんでいるので不機嫌だ。

「元いた場所から移動されたら、彼が気を放つ迄私には彼の居場所がわかりません。タバコキャンデーを食べているので、彼は気を抑えているでしょう。」
「案ずる必要はない。」

とムリリョがぶっきらぼうに言い放ち、瓶の栓を祭壇の角で抜いた。カトリックの信者だったら不敬になるだろう。老人は構わずにジュースを一口飲んだ。

「子供ではないのだ。お前が今心を飛ばした気を感じて、そのうちここへ辿り着く。グラダであれば出来る。例え半分だけでもな。」

 ムリリョはカルロ・ステファンの存在を認めている。”出来損ない”と貶しながらも能力を認めている。シオドアは今迄この長老を誤解していたことを痛感した。ステファンの命を狙っているのは”砂の民”ではないのだ。
 シオドアが椅子に座ってジュースを飲むのを待ってから、ムリリョは「何処まで語ったかな」と呟いた。シオドアは答えた。

「シュカワラスキ・マナとウナガン・ケツァル、それとニシト・メナクが大人になったところまでです。」

 ムリリョは頷き、続きを語り始めた。

「長老達はマナを大神官にしようと教育に熱を注ぎ、ウナガンには彼の子を産むよう働き掛けた。この2人に注意を注ぐことに力を入れ、3人目がいることを忘れていたのだ。」
「ニシト・メナク?」
「そうだ。メナクはブーカの長老の一人に家族として大事に育てられたが、グラダの教育を受けることはなかった。育て親は彼を普通のブーカ族として扱った。しかし、イェンテ・グラダ村で保護された時、メナクは4歳だった。3人の中で最年長だった彼は、親が殺されるところを目撃していた。」

 シオドアは背筋が寒くなるのを感じた。

「メナクは4歳の時に故郷で目撃した惨劇を記憶していたのですね?」
「そうだ。そしてそれを覚えていることを誰にも語らずに成長した。だが成年式でナワルを披露した後で、彼はシュカワラスキ・マナとウナガン・ケツァルに自分達の出生の秘密と親達が一族から受けた仕打ちを教えたのだ。」


2021/07/29

礼拝堂  9

 「世間で”ボラーチョ”村と呼ばれていた村の本当の名前はイェンテ・グラダと言った。」

 ムリリョの言葉にケツァル少佐が怪訝な顔をした。シオドアが意味を尋ねると、彼女は言った。

「甦れグラダ と言う意味です。」
「もしや、グラダ系の人々が暮らす村だったのですか?」

 ムリリョが珍しくシオドアの言葉に頷いた。

「グラダの血が濃いブーカ系の者達が集まって暮らしていた。勿論”ヴェルデ・ティエラ”や白人や黒人の血は入っていない”ヴェルデ・シエロ”だけの村だった。閉鎖的で、他の部族の血が新たに入ることを拒み、婚姻も村の中だけで行った。」
「近親婚を繰り返してグラダの血の割合を増やしていったんですね?」

 シオドアは彼自身が生み出された研究所を思い出して嫌な気分になった。ボラーチョ村ことイェンテ・グラダ村の住民達はグラダ族が支配した古代のセルバを再現させようとしていたのだろうか。
 純血至上主義者と言われるムリリョが、暫く言葉を選んでいる様子で黙り込んだ。だからシオドアはケツァル少佐に小声で尋ねた。

「カルロのお祖父さんはそんなにグラダの血が濃い人だったのだろうか?」

 少佐は首を傾げた。

「カルロのお母さんは”心話”しか出来ないと彼が言っていました。もしお祖父さんのグラダの血が濃ければ、気の制御が必要でしたでしょうし、娘の能力もそれなりにある筈です。出稼ぎに行った鉱山で正体がバレなかったのですから、お祖父さんの力は弱かったのか、或いはその反対で、気の制御がとても上手で、娘の能力を封じ込めることが出来たのかも知れません。」
「力を封じ込める?」
「赤ん坊の時に子供の気を封じ込めてしまうのです。」
「封じ込まれたら、どうなるんだ?」
「その辺にいるメスティーソの”ヴェルデ・シエロ”並の”心話”しか使えない人になります。」
「一生?」
「それは封じた人の技量によります。とても難しい技で、失敗すると子供を廃人にしてしまいます。」

 ふと少佐がステファン家のもう一つの話を思い出した。

「カルロは姉が2人いたと言ったことがあります。 彼が生まれる前にどちらも生まれてすぐ亡くなってしまったと言っていました。」
「まさか、彼のお祖父さんは娘の力を封じて、孫にも同じことをした? だが失敗して2人立て続けに亡くしてしまい、3人目の孫であるカルロには何もしなかった?」
「カルロには妹がいます。彼女は”心話”しか出来ないと言っていました。」
「4人目は成功した・・・もしかすると女の子だけを封じたのかも知れない。理由はわからないが・・・」

 するとムリリョが言った。

「女の子は制しやすい。だから敵に奪われぬよう能力を隠したのだ。普通の人の子供だと思わせて連れて行かれないように予防線を張ったのだろう。」
「どう言う意味です?」

 しかしムリリョは話を元に戻してしまった。

「イェンテ・グラダ村の住民達のグラダの血は世代を重ねる毎に濃くなっていった。彼等はもう一つの血統であるブーカの血が濃い子供達を村の外へ捨てていった。だから、今セルバにいる遠い祖先にグラダを持つ人々の中には、イェンテ・グラダから捨てられた者の子孫がいるのだ。彼等はイェンテ・グラダ村のことを知らぬ。村の名前も聞いたことがない。ブーカや他の部族に拾われてそこの子供として育った。」
「俺にはイェンテ・グラダ村が何か異様な場所の様に聞こえます。」

 シオドアの感想に驚いたことにムリリョが同意した。

「左様、あの村は異常な程純血種を作ることに拘った。しかし、彼等は重大な問題を見逃していた。どんなに純血に近づこうと、彼等は所詮”出来損ない”だったのだ。」

 少佐が呟いた。

「気の制御が出来なかった・・・」
「そうだ。周辺の”ヴェルデ・ティエラ”達に正体を気づかれては困る。完全なグラダでないうちは、彼等は神と崇められた先祖達と同じではないのだ。彼等は自身を守る為に、タバコを乱用した。気を鎮める為に吸うだけでなく、食って飲んだ。」
「死ぬほど不味いんだろ?」

 少佐がこっちを見たので、シオドアは説明した。

「君が入院している病院の売店でキャンデーを売ってるってさ。」
「キャンデー程度なら害はありません。」

 シオドアのチャチャ入れにムリリョが不機嫌にならぬよう、少佐が急いで言った。

「タバコの乱用で彼等は酔っ払った状態になり、ボラーチョ村と呼ばれるようになったのですね?」
「そうだ。」

 そこでムリリョは大きく息をした。何か勇気が要る告白をする様だ。

「ボラーチョ村の噂はグラダ・シティにも流れてきた。イェンテ・グラダ村で行われていた異様な純血回帰が初めて我々の知ることとなったのだ。」
「ええ? それじゃ、それまで誰もボラーチョ村のことを知らなかったんですか?」
「村全体が”幻視”で姿を消していたからな。だが酔っ払ってそれが出来なくなった。」

 ムリリョが床を見た。

「ブーカ、オクターリャ、サスコシ、マスケゴ、カイナ、グワマナの長老達が集まった。存在しないと信じられていたグラダの血が復活しようとしていた。純血のグラダなら問題はない。理性を持つ混血なら問題はない。だが、イェンテ・グラダは村全体が狂気に包まれていた。放置すればオクタカス周辺の”ヴェルデ・ティエラ”達に危害が及ぶ。我々の存在が国外にまで知られてしまう。我々の存在意義はこのセルバと言う小さな国を守ることだ。我々はここでしか生きられない。我々の存在を受け入れてくれてきた”ヴェルデ・ティエラ”を暴走する”出来損ない”から守らねばならぬ。長老会は”砂の民”に総動員を掛けた。イェンテ・グラダを殲滅し、この世から完璧に抹消せよと。」

 シオドアは寒気を覚えた。一夜にして消えた住民達は殺されてしまったのか。

「”ヴェルデ・シエロ”は力を人の殺害に使ってはならないと聞きましたが・・・」
「勿論だ。」

 ムリリョは遠くを見る目つきをした。

「我々は満月を待って、彼等の月読みの酒に毒を入れた。」

 少佐がまた教えてくれた。

「月例の祭祀です。農耕の為に一月の天候を占うのです。今でも農村部の古い家庭に残っていますが、都市部では廃れてしまっています。」
「その祭礼に使う酒に毒を盛ったのか・・・」
「遅効性の毒でな・・・」

とムリリョが囁く様に言った。

「即効性では却って何かが起きていると彼等に知られてしまう。だからゆっくりと彼等の脳を死へと向かわせた。苦しみはなかった筈だ。死にきれなかった者は刀で始末した。死体は夜明け迄に全て村から運び出し、森の奥深くに埋葬した。」
「カルロ・ステファンのお祖父さんは出稼ぎに出ていて、難を免れたのか・・・」
「出稼ぎに出た者はまともな精神状態だった。だから見逃した。恐らく2人か3人だけだった筈だ。」
「まさか、その時の生き残りの子孫を全員殺そうと思うヤツがいるって言うんじゃないでしょうね?」

 ムリリョが首を振った。

「まだ話は終わっておらぬ。我々は死に絶えたイェンテ・グラダの村で、3人の子供を見つけたのだ。」


礼拝堂  8

 「あの”出来損ない”のグラダの死を望む者を、この儂が知っているとお前達は本気で思っているのか?」

 ムリリョが傷ついた様な台詞を口にしたが、顔は無表情で声も冷静だった。シオドアは一族を守る為に暗殺を請け負う役目を担ってきた老人を見つめた。

「貴方の仕業だとは思っていませんし、貴方が仲間に指図したとも思っていません。あなた方の仕事がどんなものか俺は知りません。しかし、オクタカスの”風の刃の審判”を利用したやり方や、外国での任務を遂行する相棒を操って心臓を刺そうとしたり、ロハス一味を攻撃する政府軍の中に紛れ込んでどさくさに彼を射殺しようとする、他人の心を操れるのは、あなた方しかいないでしょう?」

 ムリリョが口をへの字に歪めて彼を見返した。絶対に怒らせた、とシオドアは思った。後悔していないが、不安だった。ケツァル少佐を巻き込んでしまった。
 すると少佐が呟いた。

「今聞いてみると、随分手の込んだ回りくどいやり方をしている様ですね。」
「儂にもそう聞こえた。」

 ムリリョが不愉快そうに言った。

「もし儂の仲間がやるとすれば、そんな手の込んだことはせぬ。”操心”で他人を使うとしても、確実に相手を仕留める保障がなければ行わぬ。第一、あの”出来損ない”を殺す理由がない。」
「理由って・・・」

 純血至上主義者が混血児を排除するのに理由が要るのか、とシオドアは言いそうになって我慢した。ムリリョは彼が何かを控えたことに気づかなかったふりをした。

「白人の血が入っているが、あの男はちゃんとお国の為に働いておる。気の制御は下手くそだが、周囲に迷惑をかけぬようバレたりせぬよう、あの男なりに努力しておる。何故儂等”砂の民”があの男に死を与える必要があるか?」

 シオドアは、博物館でケツァル少佐がステファン大尉の気の動きを感じて心を飛ばした時のことを思い出した。あの時、少佐がムリリョの身内がステファンを怒らせたと言ったら、ムリリョは何と言った? あれには手を出すなと配下に言ってある、とムリリョは言ったのだ。
 ムリリョは純血至上主義者だと聞いていたが、この老人はメスティーソのマハルダ・デネロスを気に入っていた。「美しく獰猛な精霊」とデネロスを評したのだ。
 この人は正しく他人を見極めることが出来る人なんだ!
 それならば・・・

「では、お尋ねします。貴方は、誰がカルロ・ステファンを付け狙っているのだと思われますか?」

 シオドアの質問にムリリョは直ぐには答えず、ケツァル少佐を見た。

「唯一人の真のグラダ・・・」

と彼は少佐に呼びかけた。

「お前は己の親を知っておるか?」

 シオドアは礼拝堂内の気温が1度下がった様な気がした。少佐が緊張した?

「私の親と今話している件が関係しているのですか?」
「グラダは母親の名を受け継ぐ。」

 ムリリョがシオドアに顔を向けた。

「この女の母親は、ウナガン・ケツァルと言う。最初の祖先の名前がケツァルだった。」

 彼は少佐に顔を向けた。

「あの”出来損ない”の母親は、カタリナ・ステファンと言う名だ。その母親の姓もステファンだったからだ。普通、メスティーソは父なし子でなければ父親の姓を名乗る。カタリナ・ステファンの父親はグラダの血を引いていた。」
「彼のお祖父さんの話なら彼から聞いたことがあります。」

 シオドアはうっかりムリリョの話を遮ってしまった。少佐に横目で睨まれた。彼は、ここで爺様を怒らせるな、と言われた気がした。ムリリョは白人の無作法を我慢することにしたらしい。シオドアに尋ねた。

「彼とはあの”出来損ない”のことか? 祖父さんのことを何と言っていた?」
「彼にはカルロと言う名前があります。」

 シオドアは親友を”出来損ない”呼ばわりされるのにうんざりした。

「カルロのお祖父さんは、オクタカス遺跡の近くにあった”ヴェルデ・シエロ”の子孫の村の出だったそうです。若い頃にオルガ・グランデの鉱山へ出稼ぎに出て、ある時に同郷の人達と里帰りしたら、村が消えていたと、カルロに語ったそうです。」

 ムリリョが頷いた。

「あの男の祖父は”ボラーチョ”村の生き残りだったのだな。」

 シオドアはその言葉に引っかかりを感じた。

「”生き残り”と仰いましたか? ”ボラーチョ”村の住民は死んだのですか?」

 ムリリョが初めて躊躇いを見せた。ケツァル少佐をグッと見つめて言った。

「これを語れば、お前は我々に背を向けるかも知れぬな。」



礼拝堂  7

  朝の出勤時、運転手のシャベス軍曹に今夜も出かけるので帰りはアリアナだけ乗せてやってくれと言ったら、軍曹はまた不満そうな顔をした。

「せめて何処へ行くのか教えてくれませんか?」

 それでシオドアは行き先に関しては正直に言った。

「グラダ大聖堂だよ。晩課の礼拝を見学するんだ。俺は宗教と無縁の場所で育ったから、伝統的な宗教儀式に興味がある。」
「そこから別の場所へ移動とかはないですね?」
「ない。」

 もしかするとムリリョが場所を移そうと言うかも知れないが、シオドアはそこまで監視役に言うつもりはなかった。シャベスを安心させて、大学に出勤した。日中は考古学部の教職員と出会う機会はなく、昼食も一人で取った。シエスタの後半は学生が数名来て、世間話をした。若者達はアメリカ文化に興味がある。世界中どこでも普通に見られる光景だった。
 午後は授業がなかったので翌日の授業の準備で時間を過ごし、大学のカフェで早めの夕食を取った。街中のバルはまだ開店時間になっていなかったし、カフェを利用するなら料金が安い大学で飲食しても味はそんなに差がなかった。
 タクシーではなくバスでセルバ大聖堂へ行くと、聖堂前の大広場では屋台が出ていて、ちょっとびっくりした。お祭りかと思ったがそうではなかった。雨が降らなければ毎晩屋台が出ているのだ。
 大聖堂の中は屋外より涼しかった。晩課を行っている信者達の邪魔をしないように端の通路を静かに歩き、エクスカリバー礼拝堂を探した。結局近くにいた老女に声をかけて教えてもらう羽目になったが。
 グラダ・シティに最初に上陸した宣教師に捧げられた礼拝堂で、エクスカリバー師の像が祀られている。その祭壇の前でファルゴ・デ・ムリリョが座っていた。濃紺のシャツと黒いパンツで痩身を包んだ姿は、年齢を感じさせず、忍者の様に素早く駆け回りそうだ。

「こんばんは。来て下さって有り難うございます。」

 シオドアは礼を失さないよう用心深く挨拶した。ムリリョは無言で手を振り、彼に近くへ来いと合図した。シオドアは相手の目を見ないように心がけながら近づいた。ムリリョが指差した椅子に座ると、老人が言った。

「もう一人来る。」

 シオドアはびっくりした。2人だけで話したかったのだ。するとムリリョも言った。

「お前と2人だけで話したかったが、ケサダが余計な気を利かせてお前を私から守ろうとした。だから、あれも来る。」

 ケサダ教授が来るのか、と思ったら、礼拝堂の扉が小さく開いた。振り返ってシオドアは驚いた。思わず立ち上がってしまった。

「ケツァル少佐!」

 少佐がゆったり大きめのTシャツに病院職員のパンツを身につけて入って来た。明らかに病室を脱走してきたのだとわかる服装だ。

「まだ寝てないと駄目じゃないか!」
「平気です。戦闘をする訳でなし。」

 ケサダ教授は自分が来るのではなく、ケツァル少佐にシオドアがムリリョと会見すると告げ口したのだ。だから、友人を見捨てて置けないケツァル少佐は病院を抜け出して来てしまった。シオドアは思わず愚痴った。

「護衛は何やってんだ? ステファンの目を誤魔化して来たのか、少佐?」

 少佐がニッと笑った。部下を欺くなど朝飯前だと言いたげだ。そしてムリリョの前に来ると”ヴェルデ・シエロ”の言葉で挨拶をした。驚いたことに、ムリリョも立ち上がって、彼女に頭を下げて挨拶を返した。シオドアに少佐が説明した。

「族長同士の挨拶をしたのです。」

 現生でたった一人の純血のグラダ族だから、ケツァル少佐はグラダ族の族長なのだ。そしてムリリョは長老であるだけでなくマスケゴ族の族長だった。
  ムリリョが手で椅子を指したので、少佐はシオドアの隣に座った。微かに甘い香りがした。病室の見舞いの花の移り香だ。

「結界を張った。暫くは誰もこの礼拝堂に入って来ない。」

 ムリリョがシオドアを見た。

「さて、何を儂から聞きたいのかな、白人?」

 シオドアは深呼吸した。下手なことを言えば、この長老は腹を立てるだろう。2度と面会してくれないかも知れないし、最悪命を奪われるかも知れない。彼は用心深く質問した。

「カルロ・ステファンの命を狙っている者がいます。お心当たりはありませんか? 彼が殺されなければならない理由を知りたいのです。そして俺に出来ることならば、相手を説得して彼を救いたい。」

 少佐がゆっくり首を動かして彼を見た。感情を表さない黒い目で彼を眺め、それからムリリョに向き直った。彼女が言った。

「私も知りたい。誰が彼の死を望んでいるのですか。」


2021/07/28

礼拝堂  6

  盗掘美術品密売ルートの元締めで麻薬シンジケートの一端でもあったロザナ・ロハスの要塞を破壊しボスのロハスを生け捕ったステファン大尉が、手柄を褒められもせず、降格もされず、国防省病院の廊下でケツァル少佐の護衛を命じられているのは、上官が負傷して前線を退いた後の指揮を執らずに私怨でロハスの要塞に突入した罰だと、少佐は言い、ステファン本人もそう認識していた。しかしシオドアは、大統領警護隊の司令官であるエステベス大佐と言う人が護衛されている筈のケツァル少佐にステファンを守らせているのだと理解した。病院の建物は遺伝病理学研究所と同じで結界を張りやすい。少佐は彼女の病室から離れている大部屋で寝ているアスルも守ることが出来るのだ。
 見舞いを終えて、シャベス軍曹が運転する車で彼はアリアナと共に一旦帰宅した。彼女を家に入れて、彼は再び出かけようとした。シャベス軍曹は良い顔をしなかった。内務省の指示で亡命者の監視をしているのだ。のこのこ外出されては彼も気が抜けない。仕方なく、その夜は家にいることにした。
 シャベスが夜の護衛と交替に帰宅し、シオドアはアリアナと夕食を取った。アリアナは上機嫌でアスルが脚の傷以外は元気だったことを報告した。

「”ヴェルデ・シエロ”って、貴方と同じで傷の治りが早いんですって。だからアスルはもう痛くないそうなの。だけど憲兵隊の守護を放棄して要塞に突入した罰で、普通の人と同じ日数を入院していないといけないんですって。」
「何だい、それ? 仕事をするなってことか?」
「アスルは営倉に入るよりベッドで寝ている方が辛いってこぼしてたわ。」

 日中の業務時間以外は風来坊のような生活をしているらしいアスルには、例え数日のことでも1箇所で寝ているのは苦痛なのだろう。それは廊下の椅子に座って護衛を続けるステファンも同じなのだ。居眠りも散歩も許されない。トイレに行くにも上官の許可が要る。

「大尉はタバコを我慢しているのかい?」
「そうよ、病院の中ですもの。だから売店で売られているキャンデーを舐めていたわ。」
「キャンデー?」
「タバコと同じ香りがするの。」

 ああ、とシオドアは合点した。禁煙となっている国防省病院では、気のコントロールが上手くいかないメスティーソの”ヴェルデ・シエロ”の患者の為に、タバコと同じ植物を原料とするキャンデーを作って与えているのだろう。売店でも販売しているのだ。アリアナが可笑しそうに笑いながら言った。

「そのキャンデー、私も舐めたいと言ったら断られたの。死ぬほど不味いんですって。」
「そうだろうな・・・美味しかったら、街でも売られている筈だよ。」

 シオドアはタバコも吸わないので、キャンデーの味が想像出来ない。だが美味しい筈がないと思った。ハバナ産の高級葉巻だって、その味のキャンデーが出回ったと言う話を聞いたことがない。
 夕食の後、それぞれの部屋に引き揚げた。シオドアは電話を出した。セルバ国立民族博物館にかけてみたが、誰も出なかった。営業時間はとっくに終わっている。職員は皆んな帰ったのだ。館長も帰ってしまったのだろう。彼は自室を出て、アリアナの部屋のドアをノックした。アリアナはまだ部屋に入ったばかりだったので、寝る支度をしている最中だった。シオドアがデネロスの電話番号を教えてくれと言ったら、女の子の番号を本人の許可なく教える訳にはいかないと断られた。

「何だよ、下心なんかないぞ。」

 シオドアが怒って見せると、彼女はちょっとむくれた。

「一緒にバイトした時に訊かなかったの?」
「そんな必要はないと、あの時は思ったんだ。それに俺が今用があるのは彼女じゃなくて、彼女の知り合いだ。その人の番号を彼女に訊きたいんだよ。」
「誰なの? 私がマハルダに電話して訊いてあげるわ。」

 時々アリアナは故意に融通が効かない。シオドアが大統領警護隊の友人達に関わる行動を始めると、彼女は仲間外れにされまいと必死になるのだ。シオドアは仕方なく目的の人の名を言った。

「考古学のケサダ教授だよ。マハルダの担当教授だろ?」

 それでやっとアリアナはデネロス少尉に電話ではなくメールを送ってくれた。大統領警護隊の官舎は門限でなくても電話を掛けられる場所が決められていて、外から掛ける場合は事前にメールで予告した方が良いのだと彼女はロホから教えられていた。時間帯に関係なく電話を掛けられるのは、同じ大統領警護隊の少佐以上の階級の将校だ。
 メールの返事はメールで来た。シオドアはそれを見せてもらい、自分の電話に登録した。礼を言って、おやすみのキスをすると、アリアナがちょっと照れた。
 自室に戻り、シオドアはベッドではなく椅子に座って姿勢を正した。緊張感を持ってマスケゴ族の教授に電話をかけた。ケサダ教授はすぐに出てくれた。背後で子供の声や女性の声が聞こえたので、家族団欒の夕食の場を邪魔してしまったようだ。

「お寛ぎの時間に申し訳ありません。」

 シオドアは名乗って直ぐに用件に入った。

「ムリリョ博士の連絡先を教えていただけませんか?」

 ケサダ教授は暫く沈黙した。ケツァル少佐でさえ滅多に掴まえることが出来ないマスケゴ族の長老の電話番号を白人が訊いているのだ。シオドアは付け加えた。

「友人の安全を確保するために、あの方の協力を頼みたいのです。」
ーー友人?
「大統領警護隊の友人です。」

 数秒間を置いて、ケサダ教授は言った。

ーーこちらから掛けなおします。

 電話が切れた。シオドアは脈ありと感じた。ケサダとムリリョは同じ大学の師弟関係よりマスケゴ族の純血種同士の繋がりが強いのだろう。そして、恐らくケサダは”砂の民”だ。しかし純血至上主義者ではない。ムリリョは純血至上主義者で”砂の民”の組織の長であり、マスケゴ族の長老だ。
 まだ眠るには早い時間だったので、シオドアはジャガイモの遺伝子の変遷を研究した学者の本を開いた。料理のレシピが載っていれば面白いのだが、生憎文章と遺伝子の相関図ばかりだ。同じものを見るなら人間の方がずっと面白い、と思っていると眠たくなってきた。こっくりしたところに、ケサダから電話が掛かってきた。

ーー明日の夕刻7時、グラダ大聖堂のエクスカリバー礼拝堂で。

 それだけ囁いてケサダは電話を切った。シオドアは一瞬彼が冗談を言ったのかと思った。グラダ大聖堂と言えば、セルバ共和国カトリック教会の中心だ。”曙のピラミッド”より低い土地に建てられており、高い尖塔を持っているがピラミッドより高い位置にならないよう配慮されている。礼拝の時間には信者が集まっているので、聖堂は厳かだが周辺は賑やかな区域になっている。”ヴェルデ・シエロ”の長老がキリスト教会を面会の場所に指定するのは奇妙だが、仲間の目を誤魔化すには都合が良いのかも知れない。


礼拝堂  5

  アリアナとステファン大尉が部屋から去って3分ほどケツァル少佐は黙っていた。廊下の音と気配を伺って、誰もいなくなるのを待っていたのだ。それからシオドアに目で座れと言った。それまでシオドアは花の中で立っていたのだ。

「凄い花の山だな。」
「殆どが1回会ったか会わないか程度の面識のない人達です。大統領警護隊は私が負傷したことを公表していないのに、誰かが噂を広めてしまいました。」
「マスコミが来ていたものな。」

 少佐は親に知られたくありませんと呟いた。特に娘を溺愛している母親には、と。娘を家に閉じ込めておけないから、母は毎日電話をかけてくるだろうと。シオドアは父親だって心穏やかではないだろうと思った。ミゲール大使夫妻は昨日のテレビ中継を見ただろうか。仲間に抱き抱えられて運ばれて行く兵士が娘だとわかっただろうか。それとも、大統領警護隊から娘の負傷の連絡が入ったりしなかったのか?
 少佐がいつもの調子でいきなり話題を変えた。

「廊下での警護は、懲戒としてはかなり甘いものです。本来なら降格と営倉行きです。」

 シオドアはびっくりした。

「ステファンの処遇のことかい? 要塞の破壊は確かに目立ち過ぎたけど、ロハス一味を逮捕出来たし、爆弾や火薬が爆発したと誤魔化せるだろう?」
「そんな問題ではありません。」

 少佐が溜め息をつき、傷が痛んだのか顔を顰めた。

「少佐の私が倒れたら、部下を指揮して部隊を守るのは大尉の役目です。それなのに部隊の守護を放り出して勝手に突入してしまいました。私はロホに運ばれながら、守れと叫んだのです。でも彼の耳に入らなかった。ロホが私を運びながら気を放って部隊を守ろうとしたのですが、憲兵隊に複数の負傷者が出てしまいました。自分の背後に気を放つのは難しいのです。味方が撃つ弾さえ破壊してしまいます。いえ、ロホが失敗したのではありません。彼が気を使う機会は殆どありませんでしたから。アスルが残っていれば、もう少し事態はましな方向へ向かったのですが、彼もカルロに負けじと突入していたのです。」
「カルロもアスルも君が大事だから、君が撃たれて頭に来たんだ。」
「そんな個人的感情で戦闘に臨まれては困ります。将校である覚悟が足りません。エル・パハロ・ヴェルデなのですから、国民を守るのが第一の使命です。」

 ケツァル少佐は何処までも軍人だ。親に心配をかけたくない娘であり、国民を悪の組織から守る軍人なのだ。

「将校として重大な過失を犯したにしては、廊下での警護は優し過ぎるな、確かに。誰がその処分を決定したんだい?」
「司令官です。」

 少佐がいきなり病院着をめくったので、シオドアは慌てた。目のやり場に困った。少佐はお構いなしに、傷を彼の方へ向けた。

「ほら、横から撃たれているでしょう?」
「そうだな・・・」

 頼むから、そのおっぱいを早く覆ってくれ、とシオドアは目を逸らしながら願った。少佐は何事もなかったかのように、着衣を下ろした。

「銃弾は横から飛んで来たのです。」
「前からでなく?」
「前からではありません。私は軍医が麻酔をかける前に彼に依頼しました。銃弾を摘出したら後で見せて欲しいと。麻酔から覚めたら、銃弾はありませんでした。軍医が、本部に送ったと言いました。」
「つまり・・・」

 シオドアはピンときた。

「銃弾は敵ではなく味方の憲兵の銃から発射されたものだった?」
「スィ。軍医は私から摘出した銃弾を一目見て、すぐにこれは一大事だと感じたそうです。だから憲兵ではなく衛生兵を呼んで銃弾を司令のところへ送りました。」
「君は正面から撃ってくるロハス一味の銃弾を落とすのに集中していた。だから味方の中の誰かが横から撃った弾に気が付くのが遅れた・・・」
「狙われたのは私ではありません。」
「え?!」

 シオドアは一瞬ドアを見た。ドアの向こうは誰もいない筈だ。警護のステファン大尉はアリアナと共に大部屋のアスルのところへ見舞いに行っている。

「狙われたのは、もしやステファン?」
「スィ。私は彼に向かって飛んで来る銃弾に気がついて、彼の横へ飛び出したのです。気を放って落とせば勢いで周辺の兵士に当たっていました。」
「だからって、自分の体で銃弾を受け止めるなんて・・・」
「自分でも馬鹿だと思いますけど。」

 少佐はけろりとして言った。シオドアは不安に駆られた。

「憲兵隊の中に暗殺者が入り込んでいたんだな。」
「司令部は昨夜から憲兵隊長を呼んで捜査を始めています。憲兵隊はロハス一味の要塞の捜査をしなければならないので、思いがけぬ方向から横槍が入って大混乱です。」
「憲兵隊の中にも”ヴェルデ・シエロ”はいるんだろ?」
「スィ。純血種でも大統領警護隊に採用されなかった人は当然います。でも出世の問題でステファン一人が狙われるのは奇妙な話だと思いませんか?」
「そうだな・・・マハルダもまだ少尉だけど、能力が大きくないのに大統領警護隊で活躍している。他にもメスティーソの隊員はいるだろうし。」

 シオドアは少佐を眺めた。

「彼が半分だけのグラダだと言うことが理由じゃないかな?」
「私もそう思います。彼の能力の大きさを恐れている人がいるに違いありません。」

 彼は古い記憶を探ってみた。

「オクタカスの”風の刃の審判事件”が奇妙だと君は以前言いかけたよな? 俺が洞窟に入る前にステファンに伝言を頼んだ陸軍兵士が、実際には彼に伝言をしなかった。そしてステファンは俺と一緒に洞窟に入った。そして通常では考えられない通路の中に爆風が入ってきた。あれは俺の護衛を任務としているステファンが俺について洞窟に入ると踏んで、あの爆風を導いたヤツがいるってことじゃないか?」
「恐らく、発掘調査隊ごと彼を殺してしまうつもりだったのでしょう。でも、失敗でした。爆風の威力が期待した大きさでなかったのでしょう。あるいは、あの時点でカルロの自衛本能が働いて気で爆風を和らげ、結果的に調査隊も怪我人を出す程度で済んだのかも知れません。」
「純血至上主義者はそんなに彼のグラダの力を恐れているのか?」
「刺激しなければカルロは力を使いません。彼の人柄を知っていれば、彼が能力を意図的に使って他人を動かしたり自分が楽をしようとする人間でないことはわかります。 大統領警護隊の同期生達が彼にする意地悪も、彼のそんな性格を知っているから、出来ることです。」
「彼の人柄を知らないヤツで、彼が何者か知っている人間が、黒幕だろうな。」

 シオドアは話を聞かなければならない人間を頭に思い浮かべていた。



2021/07/27

礼拝堂  4

  シオドアはステファン大尉が疲れた顔をしていたので、昨日の要塞を破壊したのはこの男だろうと見当がついた。アリアナの「男を見る目」は確かだ。

「下士官ではなく大尉の君が廊下で護衛かい?」

と揶揄い半分で尋ねた。ステファンは肩をすくめた。

「警護は廊下でするものです。それにこれは一応懲戒なので・・・」
「懲戒?」

 アリアナが驚いた。

「何かミスをしたの?」
「スタンドプレイが過ぎたんだよ。そうだろ?」

 シオドアの言葉にステファンが苦笑して頷いた。

「目撃者が軍関係者だけなら訓告で済んだのですが、まさかテレビカメラがあそこにいるとは思いませんでした。」
「いると知っていても、君はやっただろう。」

 アリアナがシオドアを見た。目で説明を求めて来たので、シオドアは彼女に教えた。

「要塞を破壊したのは、彼だよ。」
 
 アリアナが目を見張った。ステファンは罰が悪そうにドアの方を向いた。ノックして、シオドアとアリアナが訪れたことを告げた。少佐の声で「どうぞ」と聞こえた。
 ステファンがドアを開けてくれた。途端に強烈な花の香りが廊下に吹き出して、シオドアとアリアナはたじろいだ。室内に沢山の南洋の花々が溢れかえっていた。まるで花屋だ。その中で病院着姿のケツァル少佐が窓際の机に向かって座り、ラップトップでせっせと仕事をしていた。入院が必要な怪我人とは思えない。彼女はいつものごとく、客に背中を向けたまま、手で「座って下さい」と合図した。折り畳み椅子が数脚あったので、シオドアはそれを広げてアリアナを座らせた。彼自身は座る前に室内に飾られている花を眺めた。どれもカードが付いており、贈り主の名前は様々だ。これは彼女が有名人だからだろう。

「お怪我をなさったとお聞きしましたけど?」

とアリアナが遠慮がちに質問した。少佐は勢いよくキーを叩きながら答えた。

「スィ。銃弾一発、右の胸に受けました。」

 彼女は「ブエノ」と呟き、ラップトップを閉じて、やっと客に体を向けた。薄い病院着が透けて右胸の乳房近くに貼られたガーゼが見えた。シオドアは思わず目を凝らしてしまった。

「俺は射撃のプロじゃないが、そこを撃たれるって、敵は横にいたのか?」

 おかしなことを言うのね、と言いたげにアリアナが彼を見た。ロハス一味は要塞にいて、政府軍はその周囲を包囲していた。兵士は皆んな敵を正面に見ていたのではないのか。
 少佐が病室のドアが閉まっていることを目で確認した。

「弾は肋骨に当たって止まりました。”ヴェルデ・ティエラ”だったら貫通していたでしょう。」
「君らしくないな・・・」
「ロハスの要塞から飛んで来る銃弾を落とすのに熱中していましたから、気付くのに遅れました。」

 ケツァル少佐はいつもストレートに言わない。何か含んだ言い方をする。シオドアは彼女が彼に何か伝えたいのだと気がついた。だからロホが病院に行ってくれと言ったのだ。

「私は自分の油断で負傷したのですが、それを見た部下達が動揺してしまい、憲兵隊に負傷者を出してしまいました。申し訳ないことをしたと思っています。」
「貴女に責任はないわ。」

 アリアナが言った。彼女はそこで見舞いの品を思い出し、バッグからチョレートとクッキーの箱を出した。

「お花はアレルギーの人もいるので、お菓子を買って来ました。病院食はこんなの出ないでしょう?」
「グラシャス、嬉しいです。ここで出る甘い物と言ったら、ゼリーばかりで。」

 少佐が笑顔で受け取った。クッキーの箱を机に置いて、チョレートの箱をまたアリアナの方へ差し出した。

「もしよろしければ、これをアスルに上げてくれませんか?」
「彼も入院してましたね。何処を怪我なさったのですか?」
「脚を骨折したのです。階段から落ちて。」

 シオドアとアリアナは顔を見合わせた。昨日見た映像では、アスルと思しき男性は普通に歩いていたが? 少佐が説明した。

「私が撃たれたので、カルロとアスルは頭に血が上ってしまい、部隊長が止めるのを振り切ってロハスの要塞に2人だけで突入したのです。アスルはロハスの手下どもと格闘になり、10人倒して、11人目と一緒に階段から転げ落ちました。その時は興奮していたので怪我に気づかず、カルロと共にロハスを捕まえて外へ引きずり出したのですけど、その後で歩けなくなって軍医に診てもらったら、右腓骨が折れていたのです。」

 アリアナがアスルの苦痛を想像して顔を顰めた。シオドアは”ヴェルデ・シエロ”達の暴れぶりに呆れ返った。少佐がドアに向かって、「カルロ!」とステファン大尉を呼んだ。ステファンがドアを少し開けて中を覗き込んだ。少佐が命じた。

「ドクトラをアスルの部屋にご案内しなさい。」

 ステファンがドアを大きく開いて、アリアナを待った。アリアナはちょっと戸惑った。アスルとはそんなに親しくなかったし、ステファンとも何を話せば良いのだろう。しかしステファンが言った。

「アスルは貴女が気に入っていますから、来ていただけて喜ぶでしょう。」

 アリアナは頬が熱くなるのを感じた。少佐が部下に注意を与えた。

「大部屋ですから、他の患者が彼女に失礼なことをしたり言ったりしないように、睨みを利かせておきなさい。」
「承知しました。」

 つまり、ステファンはずっとアリアナのそばにいてくれるのだ。アリアナは立ち上がった。屈んで座ったままの少佐をハグして、お大事に、と挨拶した。傷には触れないように気をつけた。 



第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...