2021/08/10

太陽の野  25

  ケツァル少佐は自らの休憩も兼ねて、ロホを好きなだけ眠らせてやった。ロホは物陰で休むジャガーの様に体を列柱の間に横たえて静かに眠っていた。手はアサルトライフルを抱えていた。ジャガーの姿の時も、人間の姿でいても美しい若者だ。Tシャツを着た少佐は、彼に借りていた上着をそっと彼に掛けてやった。上官というより母親か姉の表情で彼の額に軽く唇で触れた。恐らくロホはその光栄な処遇に気が付かないだろう。
 彼女は柱を支えにして立ち上がると、ゆっくりと自分が寝ていた場所へ戻った。そこでは彼女の義弟がまだ拗ねた顔をして装備の点検をしていた。ロホに持ち帰らせる物と、自分たちが持って行く物を仕分けているのだった。アリアナが目を覚まして彼の作業を眺め、何をしているのかと尋ねた。ステファン大尉は黙って少佐を見上げた。それでアリアナは少佐が起きて立っていることに気がついた。

「立って大丈夫なの?」
「スィ。グラシャス。」

 少佐は慎重に腰を下ろそうとした。ステファン大尉は無視しようとしたが、アリアナが立ち上がって彼女に手を貸したので、仕方なく質問に答えた。

「二手に分かれます。貴女とロホは地上へ戻って下さい。我々はシャベス軍曹を探します。」

 アリアナが少佐を振り返った。少佐は気怠そうに岩の床の上に座り込んだところだった。

「貴女も上に戻るべきよ、少佐。」

 ノ、と少佐が首を振った。

「私はまだ坑道を上る体力がありません。ここで座っていれば、シャベス軍曹かトゥパル・スワレがやって来るかも知れません。」
「でも、ここは薬も食料もないわ。」
「だから、貴女とロホが地上へ出て基地へ通報してくれると助かります。」

 勿論それがロホを地上へ戻す一番の理由だった。大統領警護隊本部に少佐とステファン大尉とシオドアが地下でトゥパル・スワレと対決しようとしていることを報告してもらいたかった。自分たちが敗北しても、上の人々に何が起きたか知らせておかなければならない。そして虚しい検問を行なっている憲兵隊と陸軍特殊部隊にも、誘拐されたアリアナ・オズボーンが無事に救助されたことを伝えなければならない。シャベス軍曹は未発見だが・・・。
 アリアナはステファン大尉を見た。彼はまた仕分け作業に戻っていた。彼女はシオドアを探した。暗がりの中で、シオドアがヘッドライトの頼りない光を頼りに警備に当たっているのが見えた。

「カルロだけでなく、テオも連れて行くの?」

とアリアナが咎める様に言った。

「欲張りね、少佐。」

 彼女は屈んだ姿勢で少佐ににじり寄って、用心深く少佐をハグした。

「約束して、必ず全員無事に帰って来るって。」
「貴女も無事に地上へ帰ると約束して下さるなら、約束します。」

 少佐はいつも通り素直ではない。その代償に、アリアナにギュッと抱き締められた。

「約束するわ!」
「・・・約束します・・・」

 ステファン大尉がアリアナに小声で注意した。

「少佐の心臓が・・・」
「あっ!」

 アリアナは慌てて少佐から離れた。一瞬、少佐とステファンの目が合った。殺されかけた、と少佐の目が言ったので、ステファンはもう少しで吹き出すところで堪えた。
 1時間後にロホが目覚めた。彼は少佐が起きて動き回っているのを見て、己が予定より長く眠っていたことを知って慌てた。少佐が彼を見て不気味な笑を浮かべた。

「十分な休息を取れましたか、中尉?」
「スィ・・・すみません、寝過ごしました。」

 ロホはステファン大尉がアリアナの素足を布で包んでやっているのを見た。少佐が説明した。

「彼女の靴の代わりに布を巻いています。これから貴方は彼女を護衛して地上へ戻りなさい。」
「え? しかし・・・」
「しかし?」

 ロホは口を閉じた。上官に向かって「しかし」はない。少佐が続けた。

「地上へ出たら、直ちに本部へ連絡を取り、司令にここで貴方が見たこと聞いたこと全てを報告なさい。後は司令の指示に従うのです。」

 ロホは直ぐに返答出来なかった。ステファン大尉は既に荷物の仕分けを終え、二手に分かれる準備を済ませていた。アリアナの足が傷つかないよう、しっかりと布を巻き、血行を妨げないよう、脚を少しマッサージしてやった。アリアナは彼の逞しい手の感触を肌に記憶させようと目を閉じていた。シオドアはまだ階段の上で警備に余念がない。ロホは尋ねた。

「テオはあなた方と一緒に行動するのですか?」
「スィ。彼は貴方の足手まといになることを心配して、ここに残ります。」
「私の足手まとい?」
「貴方は一人でアリアナを守って歩かなければなりません。だから十分な休息を取ってもらいました。絶対に2人で無事に本部へ戻るのですよ。」

 ああ、とやっとロホは納得の声を漏らした。彼はブーカ族の名家マレンカの息子だ。敵となったトゥパル・スワレもブーカ族の名家の家長だ。この地下の迷宮でブーカ族同士が戦えば、マナと一族の戦いだったものが、ブーカ族の内乱になってしまう。また新たな遺恨が生まれる。ケツァル少佐は、マナの子供達とトゥパル・スワレ個人の戦いでことを収めようと考えているのだ。そこにロホがいては拙いのだ。スワレ本人が現れる前に、ロホだけを撤収させる真の理由がそこにあった。

「承知しました。アリアナ・オズボーンを地上迄護衛し、大統領警護隊本部にここで起きたことを私の知る範囲で全て報告します。」

 ピシッと直立して命令を復唱したロホを、アリアナが眩しそうに見た。ステファン大尉が彼女にそっと囁いた。

「彼に惚れ直しましたか?」

 彼女は真っ赤になった。

「意地悪ね、カルロ・・・ロホを弄んだりしないわ。」
「そんなつもりで言ったんじゃありません。私はちょっと心配なだけです。アスルが貴女に恋心を抱いているのでね。彼とロホが喧嘩になっても困る。」

 きっとカルロは私をリラックスさせようとして揶揄ったんだ、とアリアナは思うことにした。アスルはまだ子供じゃないの・・・。

「アスルはまだ子供よね?」
「セルバでは15になれば大人扱いです。アスルは19歳です。デネロスは18、ロホと私は21歳です。少佐はもっと年寄りですよ。」

 地獄耳の上官がチラリとこちらを見たので、ステファン大尉は急いで「マッサージは終わりました」と報告した。 
 少佐は頷くと、ロホの顔のそばに自分の顔を寄せた。

「”入り口”を見つけたら、使いなさい。真面目に歩く必要はありません。」
「承知しました。」
「シャベスかスワレを見つけても追わないように。」
「承知しました。」
「アリアナに手を出さない。」
「承知しました。」

 ロホの正面に立った少佐は一言「行け」と言った。ロホは敬礼すると、アリアナを振り返った。アリアナはステファン大尉をハグしたい衝動に駆られたが、我慢した。「またね」と言い、少佐には「必ず帰って来て」と言った。少佐は2人に向かって敬礼で応えた。
 アリアナはロホについて神殿の出口へ行った。シオドアが振り返った。

「素直に帰るんだな。もっと駄々をこねるかと思った。」

と揶揄った。ロホが真面目な顔で応えた。

「帰ることが任務ですから。」

 シオドアは彼をハグした。

「気をつけて行けよ。」
「貴方もお気をつけて。」

 アリアナは黙ってシオドアの頬にキスをした。そして2人は暗闇の中へ消えて行った。



太陽の野  24

  ケツァル少佐の存在は部下達を安心させるのだろうか、胃の中に食べ物を入れるとロホは眠たくなった様だ。ステファン大尉が見張りを交替すると言ったので、彼は柱の陰に入って休息の体勢になった。
 シオドアは少佐がご飯を残らず食べてしまったので安心した。再び地面に横になった彼女のそばに座って、アリアナにも横になるようにと言った。

「それじゃ、少佐の隣で。」

とアリアナは言い、少し距離を取って地面に寝た。するとステファン大尉が自分の上着を脱いで彼女に掛けてやった。

「汗臭いですが、我慢して下さい。」
「もう慣れっこよ。グラシャス、おやすみなさい。」

 アリアナは目を閉じた。日向ぼっこしている猫の毛皮の匂いに包まれて彼女は眠りに落ちた。
 シオドアは銃を持って神殿の階段に座ったステファン大尉の隣に行った。

「また攻撃してくるかな?」
「ここまで誘き出したのですから、我々を無事に帰すつもりはないでしょう。」

 シオドアは岩の天井を見た。真っ暗だが、ライトの光でなんとなく見えた。あれを落とされたらお終いだ、と思った。

「親の代の私怨のせいで皆んなを巻き込んでしまうヤツを許せません。」

とステファン大尉が呟いた。

「命を狙う相手は私一人で十分な筈です。それなのに、無関係な”ヴェルデ・ティエラ”を巻き込んで、カメル軍曹は不名誉な死に方をしてしまった。シャベス軍曹も無事ではないでしょう。アリアナだって同じです。もしあの時少佐が死んでいたら、私は彼女を撃ってしまっていた。」
「それなんだが・・・どうして今なんだろ? 君がもっと若い頃に襲う方が簡単だったと思うのに、大人になって相応の力を持って来た頃合いに襲って来るなんて・・・何か理由があると思うんだ。」

 ステファンは肩をすくめた。彼にとっては如何なる理由も許し難いのだ。彼はただ彼自身と愛する者達を守るだけだ。その愛する者はいくつかの範疇に分かれるだろうが、恋愛対象にアリアナが入っていないことは確実だ、とシオドアはわかっていた。

「カルロ、君もわかっていると思うが、アリアナは君のことが好きだ。シャベス軍曹を誘惑したのは、ただ欲求不満を解消しようとしただけだと思う。彼女は出来るだけ友人でいようと頑張っているが、いつか折れるんじゃないかと俺は心配なんだ。」
「冷たい様ですが・・・」

とステファン大尉は暗闇を見つめながら言った。

「私には何も出来ません。半世紀前だったら一族の間で一夫多妻や一妻多夫の風習が残っていましたが、今そんなことをしたら、却って女性を侮辱するだけです。彼女に強くなっていただくしかありません。私は彼女は友人として好きです。」
「そう言うだろうと思った。」

 君の心にはやっぱりケツァル少佐しかいないんだ、とシオドアは心の中で呟いた。同じ父親を持つ異母姉弟だとわかっても、彼は彼女を慕い続けているのだ。しかしシオドアの倫理観ではそれが納得出来なかった。アリアナの件を横に置いても、姉弟が結ばれてはいけない。ロホやアスルなら許せるが、カルロは駄目だ、と彼は思った。
 だからワザと言った。

「それにしても、君の姉さんは本当に凄いよな。銃弾を右胸に受けてまだ日が経っていない。今度は心臓に刃物を突き立てられてまだ半日も経たないうちに、もう起き上がって飯を食った。」

 姉さん と力を入れて言ったが、ステファン大尉は苦笑しただけだった。

「純血種のグラダがあんなにタフとは、私も想像したことすらありませんでした。これからは、もう少し厳しく扱ってやらないと・・・」
「否、そう言う話じゃなくて・・・」

 グラダ・シティの長老会や大統領警護隊の司令官は、ケツァル少佐のこのタフな体質を知っているのだろうか。もし知らなくて、そしてこれから知るとなったら、彼女や彼女の子孫にどんな影響が出るのだろう。少なくてもイェンテ・グラダ村で起きた悲劇を繰り返すことは避けなければいけない。
 テオ、とステファンが言った。

「私は、今回の犯人は本当にトゥパル・スワレなのかと疑っています。」

 シオドアは彼の顔を見た。ステファンはまだ暗闇を見ていた。

「カメル軍曹にしても、アリアナにしても、掛けられた”操心”が複雑過ぎます。ブーカ族も”操心”は得意ですが、あんなややこしい掛け方はしない。出来てもしないと思うのです。スワレ家は”ヴェルデ・シエロ”の中では一二を争う実力者の家系です。高度な技を用いれば、疑われるのは位の高い長老です。地位や名誉を傷つけることは、名家が一番恐れることではありませんか? ましてやスワレ家は、私の様な”出来損ない”がどんなに父親の死の疑惑を訴えても簡単に揉み消せる力を持っているのです。ややこしい技を使って私を派手に殺す必要はないのです。寧ろ軍務で私に失敗させて除隊させてしまえば、私をまたスラム街に追い払えて、そこで喧嘩でも何でもさせて死なせることが出来ます。」
「だがアリアナを操ったヤツは、シュカワラスキ・マナの息子を殺したと言ったぞ?」
「シュカワラスキ・マナを恨んでいたのは、スワレだけでしょうか?」

 ステファンはポツンと呟いた。

「父はエルネンツォ・スワレ以外にも4人殺しているんですよ・・・」

 シオドアはムリリョ博士がイェンテ・グラダ村の殺戮から救い出された3人の子供達の身の上を語った時のことを思い出そうと努めた。

「殺された4人は”砂の民”だったな。”砂の民”って言うのは、家族にも身分を明かさないんじゃないのか? トゥパルがエルネンツォが殺されたことを知っていたのは、長老会にシュカワラスキ・マナの護送を命じられたからだ。他の4人の家族は、彼等が何処でどんな亡くなり方をしたのか真相を知らないと思う。多分、今も知らない筈だ。ムリリョ博士が俺達に語ってくれたのは、聞き手がケツァル少佐だったからだ。他の人なら・・・多分君一人だったら、或いは俺だけだったら、あの爺様は何も教えてくれなかっただろう。
 ムリリョ博士も、後から殺害された4人の遺族を君を狙う犯人から除外して考えている。だから、トゥパル・スワレを疑うのは筋が通っていると俺は思う。わからないのは、何故今なのか、と言うことだ。」
「それはですね・・・」

 いきなり後ろで声がして、シオドアとステファン大尉は同時に弾かれた様に立ち上がった。拳銃とアサルトライフルを向けられて、ケツァル少佐が両手を肩まで挙げた。

「勘弁して下さい、今は2発同時に避けられません。」

 ステファン大尉がへなへなとその場にしゃがみ込んだ。シオドアは拳銃を構えたままフリーズしてしまった。目の前に眩しい2つの・・・ガーゼを貼り付けた乳房が・・・

「何か着て下さい、少佐・・・」

とステファン大尉は地面を睨みつけて要求した。

「貴女はいつもそうやって私を苦しめる・・・」

 シオドアはまだ固まっていた。できればもっと長く鑑賞していたい。少佐が片手に掴んでいたTシャツをヒラヒラさせた。

「着るのを手伝って、と言うつもりでした。」

 シオドアはやっと首を動かして、ステファン大尉を見た。ステファンも彼を見て、それから両者共に武器を地面に置いて彼女に飛びついた。彼女の胸の筋肉に負担を掛けないように、協力しあってTシャツを着せた。
 服を着ると、いつものシャキッとした少佐の姿があった。重傷者に見えないが、心臓を刃物で貫通されていた人に違いない。階段に座るのにシオドアの支えがまだ必要だった。

「君は部下達が若い男だってことを忘れている様だから、言っておく。」

とシオドアは彼女に説教を試みた。

「慎み深いロホも、英雄のアスルも、忠実なカルロも、みんな雄のジャガーなんだ。目の前で君が魅力的な胸を披露したら、絶対に興奮してしまう。不用意に露わな姿で彼等の前に出るな。」

 すると少佐が想定外の質問で返してきた。

「貴方は? 貴方は私を見て何も感じないのですか、テオ?」
「俺は・・・さっきフリーズしちまっただろ!」

 シオドアの返答に、彼女はフフンと言った。

「カルロはすぐに銃口を下へ向けましたが、貴方は遅れたので、フィンガーオフの状態でフリーズさせました。危ないですからね。」
「その状態で”連結”を使わないで下さい。」

 ステファンが本気で怒鳴った。

「せめて後2時間、大人しく寝ていられないのですか、貴女は!」
「静かに! ロホが起きてしまいます。」

 少佐はいつも通りにワンテンポ相手からずらして応対した。ステファン大尉はもう相手にするのも嫌だ、と言いたげにアリアナの方へ歩いて行った。

「彼は怒ったぞ。」

とシオドアは心配になった。こんな危険な場所で姉弟喧嘩などして欲しくなかった。少佐は「ほっときなさい」と言った。

「怒りましたが、気を放っていません。上手く制御出来ています。」

 シオドアは彼女を振り返った。ワザとステファンを怒らせたと言うのか?
 しかし少佐は既に先刻の話題に戻っていた。

「今更ながらトゥパル・スワレがカルロを狙い始めた訳は、それ迄技を使えなかったからだと思います。」
「使えなかった? だって、彼はブーカ族の長老なんだろう?」
「理由はわかりませんが、何か制約があって、使いたくても使えない技があったのでしょう。それがあのややこしい”操心”です。単純なものなら、誰にも怪しまれずに普通に使えますが、ややこしい技は、使える者が限られますから、操者が誰か見破られないように使わなければなりません。何らかの縛りがあったのが、突然なくなったのだと思います。」

 そして少佐はシオドアに囁いた。

「カルロと私はこれからトゥパル・スワレを誘き出そうと思います。大変危険な賭けです。ですから、ロホとアリアナを地上へ帰しておきたいのです。貴方も帰りますか?」
「ノ!」

とシオドアは断言した。

「俺は君達と一緒に行く。ロホとアリアナを帰すことは反対しない。アリアナは足手まといになるし、これ以上彼女を危険に巻き込めない。ロホは疲れているし、アリアナの護衛に彼は必要だ。俺じゃ、この坑道の中で敵と戦えない。2人を説得するなら、君の味方をするよ。」



太陽の野  23

  時間感覚がなくなる暗闇の世界だったが、シオドアが気が遠くなる前にロホが目覚めた。きっかり1時間経っていた。少佐がいなければ絶対に寝坊しない男だ。シオドアは交替で1時間眠るつもりだったが、柱にもたれかかって目を閉じた途端に寝落ちしてしまった。目が覚めると2時間経っていた。慌てて立ち上がると、ロホは階段に座って暗闇の中を警戒していた。

「起こしてくれても良かったんじゃないか?」

と寝坊した気まずさを誤魔化す為に文句を言うと、ロホはイケメンの微笑を浮かべただけだった。アリアナは・・・と後ろを振り返ると、彼女は神殿の床で携行食のパックを並べて水を入れていた。米を使った水だけで食べられる食事だ。シオドアは彼女に近づいた。

「君も休めよ。」
「これを食べたらね。」

 アリアナはパックを眺めた。全部種類が違った。

「少佐はどれが好きなのかしら?」

すると背後で囁き声が答えた。

「カレー味。」

 シオドアとアリアナはびっくりして振り返った。少佐が寝たままでリュックを指差した。

「木のスプーンが入っている筈です。それを使って食べて・・・」

 アリアナが水筒を持って彼女ににじり寄った。

「まだ喋らない方が良いわ。お水はいかが?」

 少佐は小さく頷いた。アリアナが振り返ったので、シオドアも少佐の側に行き、肩を支えて少しだけ上体を起こした。アリアナが用心深く少佐の口に水筒の口を当てた。思ったより元気よく少佐は水を飲んだ。アリアナが止めなければ全部飲み干したかも知れない。
 シオドアは静かに彼女の頭を枕代わりに丸めた彼自身の上着の上に戻した。それからカレー味のご飯のパックを枕元にキープしてやった。アリアナがロホにどれを持って行こうかと迷っていたので、黒豆入りのご飯を選んでやった。すると彼女は自分用に白い豆入りのご飯を選び、2つを持ってロホの方へ行ってしまった。
 残ったのはケチャップ味のご飯と赤い豆入りのご飯だった。シオドアは少佐の足元を回ってステファン大尉の側へ行った。ステファン大尉は死んだ猫みたいに四肢を伸ばして地面にべったり寝ていたが、顔の近くにケチャップ味のパックを置くと、鼻をヒクヒクさせて目を開けた。シオドアは笑った。

「飯の誘惑には睡魔も勝てないのかな?」

 ステファン大尉が気怠そうに体を起こした。最初に少佐の様子を伺った。彼女が穏やかに寝ている様子だったので安心して、地面に座り直した。

「私は何時間寝てました?」
「3時間程かな。まだ疲れているんだろ? 無理するなよ。」
「しかし、貴方とロホに警戒させっ放しで申し訳ないです。」
「2人で交替で寝たから気にするな。それに、少佐もさっき目を覚まして水分補給してくれた。」
「良かった・・・」

 シオドアが差し出した2つのパックから彼はケチャップ味を迷わずに選んだ。木のスプーンで食べながら、シオドアは先刻考えたことを言ってみた。

「アリアナがやって来た方角に、俺達が通って来たのとは別の坑道がある筈だ。トゥパル・スワレはそっちにいるんじゃないかな。或いは、シャベス軍曹もそこにいるかも知れない。」
「私もそんな気がします。しかし、もう少し休息してから行動した方が良いでしょう。我々全員が疲れていますから。」

 ステファン大尉が神殿の入り口を見たので、シオドアもそちらへ目を向けた。ロホとアリアナが少し距離を空けて座って食事を取っていた。ステファンが尋ねた。

「ロホは何時間寝ました?」
「1時間。俺も1時間で起こせと言ったのに、2時間も寝かせてくれたよ。」
「それでは、恐らくこの中で彼が一番疲れていますね。」

 ステファンはぐるりと周囲を見回した。

「彼は結界を張りっぱなしです。だが、私が寝落ちする前より結界が弱くなっている。早く休ませないと。」

 彼はご飯のパックを持って立ち上がり、神殿の入り口へ歩いて行った。

「折角のデートの邪魔をして悪いが、」

と彼は声をかけ、ロホにケチャップ味のご飯を差し出した。

「肉を食え、ロホ。豆だけじゃ地上迄保たないぞ。」

 それでシオドアは、少佐とステファン大尉がカレーやケチャップ味のご飯を選んだ理由を悟った。この2種類には肉が入っていたのだ。ロホは黒豆が好きなんだと文句を言ったが、結局肉入りのご飯のパックを受け取った。ステファンはアリアナに話しかけた。

「白豆は甘過ぎませんか?」
「確かに、甘いわね。」
「塩があればましなんですが。」
「でも疲れた時は甘いのも良いのよ。」

 カルロ、とロホが割り込んだ。

「白豆が好きだからって、他人のものを欲しがるなよ。」
「誰がいつ欲しがった?」

 子供同士の言い合いみたいで、アリアナが笑うと、2人は照れ臭そうに黙り込んだ。沈黙が辛いアリアナが質問した。

「後どのくらいで地上へ上がるの? ここは暗闇で息苦しいし、少佐をちゃんとお医者さんに診せないと・・・」
「それは・・・」

 ステファン大尉が背後をチラリと見た。

「少佐が歩ける様になってからです。」
「まさか!」

 アリアナがびっくりした声を出したので、シオドアが「どうした」とやって来た。彼女は彼に言った。

「少佐が歩ける様になる迄ここにいるって・・・何日かかると思っているの?」
「後、2、3時間・・・」

 答えたのはケツァル少佐本人だった。一同が彼女を振り返った。少佐が上体を起こしたので、シオドアは慌てて駆け戻った。急いで彼女の背中を支えた。

「まだ寝ていろ!」
「大丈夫・・・ご飯を食べたくて。」

 少佐の上体にかけられていたロホの上着がずり落ちて、彼女の胸が露わになった。大きなガーゼが貼り付けられていたが、血が滲んだ様子はなかった。無傷の方の乳房が眩しくて、シオドアは目のやり場に困った。手の位置もこれで良いのだろうか? しかし少佐は一向に気にせずにご飯のパックを手に取った。
 アリアナはふと横にいるステファンとロホが少佐に見惚れていることに気がついた。彼女は咄嗟に少佐の口真似をした。

「気をつけ!」

 2人の若い”ヴェルデ・シエロ”は慌てて座った姿勢で正面に向き直った。

  

2021/08/09

太陽の野  22

  少佐の胸からナイフが抜けたのは5時間も後のことだった。その間にアリアナが目を覚まし、シオドアとロホに励まされて落ち着きを取り戻した。
 彼女は誘拐された時のことを覚えていた。シャベス軍曹と寝室で個人的な関係になって(と彼女は表現した)彼の任務を妨害してしまったことを彼女は後悔した。ロホが、襲撃者が”ヴェルデ・シエロ”ならシャベスがどんなに優秀でも侵入を防げなかった、と慰めた。シャベスは玄関の方角で物音を聞いて、夜間の当番が来たのかと慌てた。彼は急いで服を着て寝室から出て行った。アリアナはそれっきり彼に関する記憶がなかった。寝室のドアが開き、シャベスが戻って来たと思って振り返ると、見知らぬ男性が戸口に立っていた。

「お年寄りだった・・・それ以上は思い出せないの・・・」

 男の目を見てしまって、それからこの地下神殿で目覚める迄の記憶が全くなかったのだ。だから彼女はケツァル少佐の状態を見て、酷く怯えた。

「もしかして、シャベス軍曹がやったの? それとも・・・私が?」

 ロホが彼女をしっかりと見据えて言った。

「刺したのは、トゥパル・スワレです。貴女とシャベスを襲った人物です。」

 暗いので彼女の衣服に付着した飛沫血痕が彼女には見えていなかった。シャベス軍曹の行方が不明なのが気がかりだったが、シオドアはアリアナに手伝いをさせることにした。

「君は医学者だから、少佐のそばについてやって欲しい。カルロが要求したら水を飲ませてやってくれ。彼の指図に従うこと。一切反論したり意見を言ったりしては駄目だ。彼の気が散るからね。もし対応しきれなかったら、ロホか俺を呼んでくれ。」

 アリアナは頷いて、ケツァル少佐とステファン大尉の側に行って膝をついた。少佐の顔を湿らせた布でそっと拭ったり、唇に水分を垂らしたりして世話をしたが、ステファン大尉には触れなかった。彼の集中する様を間近に見て、指一本触れられないと感じたに違いない。
 シオドアはロホの許可を得て、水汲みに出た。ロホが記憶している地図に従えば、神殿の右手を真っ直ぐ歩き、坂を下って突き当たった壁を今度は右に折れて壁沿いに歩くと地下の水流に行き当たる筈だった。

「水面と地面の落差が地図には書かれていないので、もし高さがあれば無理をせずに戻って下さい。必ず来た道を歩くこと。落ちたり迷ったりしないで下さいね。」

 子供に言い聞かせるみたいに言われて、シオドアは苦笑した。少佐のアサルトライフルを借りて肩から担ぐと想像したより重量があった。伸縮バケツと全員の水筒を持って、ヘッドライトと携帯ライトで出かけた。途中で岩に傷をつけて帰りの道標にした。
 言われた通りに歩いて行くと、ずっと聞こえていた水音が少しずつ大きくなってきた。想像したより大きな地下水流がある様だ。水汲み出来る規模だろうか? 少し心配になった。
 いきなり目の前の空間が開けた。透明な水、しかし深度があるのか下の方は青く見えた。流れがある。右から左へ流れていた。左側は天井がどんどん低くなり、水流は岩盤の向こうに吸い込まれていた。右側はライトの光の奥に滝があった。ライトを上へ移動すると、上流にも空間がある様に思えた。闇の中で何かがキラキラと光った。一瞬空の星かと思った。そして鉱物だろうと思い直した。
 無事に水を汲んで戻ると、ロホが珍しくホッと安堵の表情で迎えてくれた。シオドアが戻る迄心配で堪らなかったのだろう。シオドアが彼の水筒を渡すと、すぐに水を飲んだ。そして言った。

「少佐の胸からもうすぐナイフが抜けます。火を焚きましょう。針を消毒して縫合しなくては。」

 少佐達のそばへ行くと、アリアナが少佐の軍服の前身頃を切り開いて、縫合の準備に取り掛かっていた。少佐を刺した本人にその作業を許しているステファン大尉は最後の最大の緊張感の中にいた。彼の邪魔をしないように、アリアナは彼女自身の位置を何度も変えて服を切断していたのだ。
 アリアナがシオドアに囁いた。

「彼女の肩を抑えて。彼女の傷をライトで照らして。」

 シオドアはステファン大尉と向かい合う形で膝を突き、少佐の両肩に手を置いた。ロホが固形燃料に火を点け、針を炙り、糸を通した。アリアナがナイフの側にガーゼの塊を当てて、ステファンの顔を見た。

「抜いて!」

と彼女が医者の顔で命令した。ステファンが躊躇うことなくナイフを掴んで引き上げた。既に重力に逆らって立った状態だったナイフはその刃先を1センチ少佐の胸に残すのみになっていた。抜けた瞬間に少佐の体がビクンと跳ねかけてシオドアは両肩を押さえつけた。ステファンも体重を少佐の腰に落とした。さらに少佐の両手首を自分の手で地面に押さえつけた。アリアナが傷口をガーゼで抑えた。

「次のガーゼ!」

 彼女の叫び声にロホが応じた。新しいガーゼで傷口を抑えたアリアナが少佐に向かって怒鳴った。

「出血を止めて下さい! 血を止めて、少佐!」

 シオドアは空気の温度が5度ばかり一気に落ちた気がした。物凄く寒い。ケツァル少佐が眉間に皺を寄せた。全身に力が入った・・・と思ったら、突然抵抗がなくなった。

「少佐?」

 思わず声をかけると、アリアナは落ち着いて傷口を拭った。新しい血は出て来なかった。

「グラシャス、少佐。」

と彼女は呟き、ロホに針と糸を要求した。 シオドアは訳が分からなかった。ロホを見ると、ロホが囁いた。

「アリアナは今、少佐と”連結”しています。」
「え?」

 アリアナは外科医ではない。遺伝子を分析して病気の治療法を考える研究医だ。しかし彼女は今、針と糸を使って少佐の胸の傷を縫合していた。

「”操心”ではなく、”連結”?」
「スィ。少佐がアリアナの腕に教えているのです。アリアナは少佐の手当てをしたいと思い、その方法を少佐が彼女の腕を使って教えているのです。でもアリアナにはその自覚はありません。」

 人間の皮膚を縫うところを見るのは、いつも苦手だ。シオドアは目を瞑りたくなった。しかしアリアナの作業から目を逸らすのも不安だった。医者と言っても外科手術には素人なのだ、彼女は。彼女が遂に最後の一針を結び終えた途端、彼は思わず天井を見上げて神への感謝の言葉を口にしていた。
 アリアナが大きく息を吐いた。ロホが新しいガーゼで少佐の傷口を拭い、別のガーゼで覆ってテープを貼った。心臓の手術にしては安易過ぎる処置だ。ステファン大尉がまだ少佐の体を抑えたまま、シオドアに声をかけた。

「テオ、アリアナの手を洗ってあげて下さい。」

 シオドアは言われた通り、アリアナを少し離れた所へ誘導し、バケツの冷たい水で手を洗ってやった。良くやった、と声をかけてやると、彼女は涙を流していた。

「私、少しは償えたかしら・・・」
「アリアナ・・・」
「記憶にはないの。でも私が彼女を刺したんだわ。だって他に誰もいないもの。」

 シオドアは”妹”を抱き締めた。

「俺が君を放ったらかしにしたから、恐い目に遭わせてしまった。ごめんよ。誰も君を責めたりしない。君は”ヴェルデ・シエロ”の私怨に巻き込まれただけなんだ。皆んなはわかってくれている。」

 視線を少佐の方へ向けた。地面に置いた携帯ライトで寝ている少佐がぼんやりと照らされていた。まだステファンが彼女の腰の上に体重をかけた姿勢で、少佐の体を洗浄しているロホを見ていた。ロホは入念に少佐の皮膚に流れた血液を拭き取っていた。それがなんだかエロティックな光景に見えたので、不謹慎だと思いつつ、シオドアはつい品のない冗談を言ってしまった。

「君達、まるで少佐に悪いことをしている不良軍人に見えるぞ。」

 ロホが顔をあげてステファンを見た。ステファンもぎくりとして視線を少佐からロホに向けた。

  コイツら、本当に楽しんでやがったのか?

 ステファンがそそくさと少佐から下りた。ロホも手早く作業を終わらせ、己の上着を脱いで少佐の上半身にかけた。
 ステファン大尉が少佐の側に腰を下ろし、水筒の水をガブガブ飲んだ。ロホは汚れたガーゼや布切れを集めると、神殿の外に持ち出した。ジャングルでは汚物を地面に埋めたが、洞窟内に土はなかった。どこも岩だらけだ。彼は階段から2メートルばかり離れた位置に汚物を入れた袋を置いた。結界の内側だ。仲間の血を敵に渡す訳にいかないのだ。
 シオドアはアリアナを導いて少佐の側に戻った。少佐は目を閉じていたがその顔は穏やかに見えた。ステファン大尉も姿勢を崩して地面に横になった。消耗し尽くしていたのだ。
 シオドアは眠る気分ではなかった。主力の3人のうち2人が眠ってしまっているのだ。彼はロホにも休憩してくれと言った。

「ライフルなら俺にも扱える。耳を研ぎ澄まして敵が立てる音を聞いているよ。」

 ロホは逆らわなかった。

「では1時間だけ休ませてもらいます。」

 彼は神殿の床ではなく、入り口の柱の陰に入った。シオドアはアリアナを振り返った。彼女は少佐から抜け落ちたナイフを見ていた。そっと手を伸ばし、しかし指先が刃に触れると電流にでも触れたかの様にパッと手を引っ込めた。汚らわしい物を見るのも嫌とばかりにナイフから離れてシオドアの体に身を寄せた。シオドアは少佐から渡されていた拳銃を出した。

「使えるか?」
「ええ。」
「これで身を守れ。真っ暗な世界だから、俺は全員を守り切れる自信がない。」

 彼は彼女に拳銃を預けた。

「ライトを消した方が良くない? 敵に見られるわ。」
「向こうは闇の中でも見えるんだ。君も操られていた時は、灯なしで歩いて来たんだよ。」

と言ってから、シオドアは初めて気がついた。アリアナは何処からやって来たんだ? どの坑道を歩いて来た? ”ヴェルデ・シエロ”の友人達は彼女がやって来るのを見ていた。彼女が通ってきた方角を辿れば坑道の入り口がわかる筈では? 



2021/08/08

太陽の野  21

 それは世にも恐ろしい光景だった。シオドアは己の目が信じられなかった。ロホに支えられたケツァル少佐の左胸にナイフが突き刺さっていた。ステファン大尉がアリアナに銃口を向けた理由がわかった。それでも・・・

「カルロ、銃を下せ! 頼む!」

 その時、アリアナが両手を地面に突いて上体を起こした。彼女の唇が動き言葉を発したが、その声はその場の人間全員を戦慄させた。

「俺はやったか? シュカワラスキ、貴様の息子を俺は殺せたか?」

 男の声だった。聞いたこともない男性の声だった。シオドアは彼女の両肩を掴んで激しく揺すった。

「アリアナ、目を覚ませ! 戻って来い!」

 その時、少佐を支えているロホが叫んだ。

「カルロ・ステファンが死んだ! シュカワラスキ・マナの息子が殺されたぞ!」

 シオドアとステファンは彼を振り返った。シオドアの腕の中で急にアリアナの全身から力が抜け、ぐにゃりとなった。シオドアは慌てて彼女を抱き寄せた。幸いアリアナは息をしていた。
 ロホが彼に怒鳴った。

「ドクトラを神殿に入れて!」

 彼はステファンにも怒鳴った。

「カルロ、少佐の脚を持て! 神殿に運ぶ。」

 シオドアはアリアナを抱き上げ、神殿に向かった。膝が震えたが、頭の中は真っ白だった。ロホとステファン大尉はケツァル少佐の体を慎重に運んだ。2人の女性を、少々距離を開けて寝かせた。少佐が目を開いたままだったので、ロホが彼女の耳元で囁いた。

「目を閉じて下さい。」

 少佐が瞼を閉じたので、シオドアとステファンはほんの少しホッと息を吐いた。ロホがステファンに声をかけた。

「指示を頼む、大尉。」

 シオドアはステファンが一瞬たじろぐのを感じた。この緊急事態に、大事な女性の災難に、怖気付くのか? シオドアはロホに加勢した。

「俺たちは君の命令に従うよ、エル・ジャガー・ネグロ。」

 ステファン大尉はロホとシオドアを交互に見比べ、それから少佐を見た。彼女の胸にナイフが突き立ったままの姿は恐ろしかった。
 ステファン大尉はちょっと全身をブルっと震わせた。そしてロホに言った。

「少佐の傷がどんな状態か報告出来るか?」

 ロホがじっと少佐を見つめた。

「ナイフの刃が心臓を貫いている。しかし・・・」

 彼は顔を上げてステファンを見た。

「出血はない。」

 後は”心話”での報告だった。恐らく、ロホは透視した内容を伝えたのだ。ステファンが首を振った。

「私に出来るとは思えない。」
「君は出来る。」

 ロホはもう一度言った。

「君はグラダだ。出来る。私には無理だ。」

 何を話し合っているのか、シオドアにはわからない。だが時間が経てば少佐の命が危ないことはわかっていた。
 その時、アリアナが動いた。体を起こしかけ、シオドアが声を掛ける間もなく、彼女は隣に寝ている人の状態に気がついた。胸にナイフが刺さっているのを見たのだ。
 いきなり金切声を上げられて、2人の”ヴェルデ・シエロ”の男達が仰天した。彼等がライフルを掴んだので、シオドアはアリアナの口を塞いだ。

「大丈夫だ、アリアナ、落ち着け・・・」

 ロホが「アリアナ!」と名前を呼んだ。彼女が顔を向けると素早く目を合わせた。アリアナがまたシオドアの腕の中でぐったりとなった。ロホがシオドアに説明した。

「眠らせただけです。安心して下さい。」
「グラシャス、ロホ。アリアナは俺が見張っているから、早く少佐を助けてやってくれ。」

 ロホは頷き、ステファンに向き直った。ステファン大尉はライフルを地面に置いた。

「わかった、やってみる。否、やってみせる。」

 彼は神殿の外にさっと視線を走らせ、それからロホに命令を下した。

「神殿の周囲に結界を張れ、中尉。私には出来ないから、君にやってもらうしかない。外で動く者がいたら、躊躇なく撃て。」
「承知した。」

 ロホはアサルトライフルを掴んで神殿の出入り口へ行った。
 ステファンは次にシオドアを見た。シオドアは己に何が出来るだろうと考えていたところだった。テオ、とステファンが言った。

「これから私は少佐の体からナイフを抜きます。」

え? とシオドアは驚いた。心臓を貫いている刃物をここで抜くと言うのか? ステファンはそれ以上の説明はせずにシオドアがすべきことを言った。

「皆んなのサポートをお願います。水分補給や体を温める工夫や・・・照明は我々のヘッドライトを使って下さい。予備の電池も遠慮なく使って、それから、ナイフが抜けたら傷口を縫合するので、タイミングを見計らって固形燃料に点火して下さい。難しければロホの力を借りて・・・」
「手術の手伝いはロホが怪我をした時に経験している。少佐の体を押さえて欲しい時は声をかけてくれ。」
「グラシャス。」

 シオドアがリュックの中から医療キットを出そうとゴソゴソしていると、ステファンがまた「テオ」と呼んだ。振り返ると、大尉が言った。

「さっきはアリアナに銃を向けて申し訳ありませんでした。」
「ああ・・・いや、気にするな。」
「気にします。もし少佐と私の立場が逆なら彼女は絶対にあんなことをしない。」
「そうかな? 彼女だって、愛する者を傷つけられたらブチ切れるさ。」

 ケツァル少佐はロホを刺した反政府ゲリラのカンパロに銃弾を山ほど撃ち込んだのだ。
 シオドアは医療キットを出し、大判の保温シートを出して少佐の下半身に被せた。彼が少佐から離れると、ステファンが少佐の腰の部分に跨る様に乗った。彼女に体重をかけない様に腰を浮かせた。その不安定な姿勢で彼は少佐の胸に突き立っているナイフに両手をかざした。但しナイフそのものには触れなかった。ナイフを見つめてじっとしている彼を見て、シオドアは何をしているのだろうと思った。だが声をかけて彼の精神集中を邪魔したくなかった。
 シオドアは水筒を持って神殿の出口で座っているロホのそばへ行った。ロホは結界を張った様だが、シオドアには何も見えなかった。もっとも結界と言うものがどんなものか、彼は知らなかった。ロホはアサルトライフルを抱えて外を眺めていた。余裕がありそうに見えたので、シオドアは水筒を持ってきた、と声をかけてみた。ロホが外を見たまま、「グラシャス」と応えた。シオドアは彼の斜め後ろに腰を下ろした。

「話せるかな?」
「構いませんよ。」
「少佐の傷だけど・・・」
「両刃のナイフで心臓を一突きされています。」
「普通の人間だったら死んでいる。」
「我々も不用意にナイフを引き抜かれたら死にます。アリアナは少佐を刺した後すぐナイフから手を離しました。ナイフを動かさなかったので、少佐は助かったのです。」
「それじゃ、本当に危なかった・・・」
「今も危険なことに変わりありませんが・・・」

 ロホはチラリと背後のステファン達を見て、また前方へ向き直った。

「少佐は刺されて固まったでしょう? 自分で体の中の傷を抑えたんです。」
「それは・・・ええっと?」
「テオ、貴方は普通の人より怪我の治りが早いですよね。」
「スィ。」
「我々も同じです。怪我をしたら細胞がすぐに自己修復を始めるんです。カンパロに刺された時、私はずっと気絶していましたが、その間に神経組織や腱や血管を修復していました。だから少佐は手術の時、傷口の縫合だけして下さった。後で軍医がまた傷を広げて余計なことをしてくれましたがね。」
「それじゃ、少佐は今自分で怪我の治療中なのか?」
「ナイフを抜く必要があります。心臓ですから流石に自分では無理です。だから、今カルロが気で少しずつナイフを少佐の体の外へ引き出しているところです。刃が1ミリ動いたら少佐が1ミリ修復する、その繰り返しをしているのです。一度に抜くと少佐が追いつけないので、カルロは彼女の反応を見ながら慎重に抜いています。大変消耗する作業です。」
「交代で出来ないのか?」
「ブーカの力では無理です。半分も抜かないうちに私がばててしまいます。そうなると結界を守れなくなります。」
「カルロはまだ結界を張れないんだな。」
「張り方を学習していませんから。」
「体内の透視や、操られている人間を目覚めさせるのも、彼には無理なんだな?」
「無理と言うより、未学習なのです。最近迄気を抑制出来なかった男ですから。ですが、今彼は物凄い集中力で気をコントロールしているでしょう? あれなら他の技もどんどん上達していきますよ。」

 ロホはシオドアが置いた水筒を目で見ずに掴み取り、喉を潤した。シオドアは彼に言うべきことがあったと思い出した。

「アリアナにかけられた”操心”を解いてくれて有り難う。」
「あれは・・・」

 ロホが苦笑した。

「トゥパル・スワレが自ら解き方を教えてくれたから出来たのです。」
「スワレは少佐がかけた”幻視”に惑わされたんだな。」
「”操心”をかけられている人に”幻視”をかけるなんて、普通は不可能なのですが・・・」

 ロホが溜め息をついた。

「グラダ族の力は本当に凄いです。少佐は”操心”の目的を探ろうと”幻視”をかけたのです。成功しましたが、我が身を犠牲にしてしまうところでした。」


太陽の野  20

 それから一行は2時間歩き1時間休憩すると言うパターンを3回繰り返した。地上では日付が変わって日が高く昇る頃に、奇妙な大岩の前に到着した。大きな庇が左右一列に並んだ太い柱で支えられている。奥は洞窟になっているが入ってすぐに行き止まりになっているらしく、ライトの光で壁が白く光った。奥の壁は太陽に似た円形の紋様が彫られている。太陽には顔があった。笑っている様にも威嚇している様にも見えた。太陽の周囲は星か花が散らすように掘り込まれ、両側の壁にも彫刻がある様だ。入り口は4段の階段になっていて、蛇の鱗に似た紋様が列柱に彫られていた。庇の表面にもレリーフがあった。それを指差してロホが読んだ。

「太陽の野に星の鯨が眠っている」

 シオドアは少佐を振り返った。

「暗がりの神殿に着いたんだね?」
「スィ。」

 少佐は用心深く神殿の周囲を見回した。シオドアもヘッドライトで照らして見た。神殿の前は広い空間だった。何処かに水流があるのか、水音がこだましていた。シオドアは洞窟の天井を見た。鍾乳洞ではないと思われるが、岩が天然のままで不規則な表面だ。神殿以外の洞窟の壁も自然石に見えた。ひどく場違いな場所に遺跡が眠っている。誰が何の為にこんな地中深くに神様を祀ったのだろう。
 シオドアに階段の前から動かないよう指図して、大統領警護隊の3人は広場を探索したが、アリアナ・オズボーンもシャベス軍曹もいなかった。彼等はここへ来なかったのか? それともまだ来ていないだけなのか? シオドアは不安に襲われた。自分達は時間をかけて危険な場所に降りて来て、無駄な努力をしただけなのか?
 少佐が戻って来た。シオドアはどうすると尋ねようとした。彼女が静かに、と指を唇に当てた。彼に身を寄せて立つと、無言で周囲を見回した。アサルトライフルを水平方向に構えて、何時でも撃てる体勢になった。彼女は何かを感じたのだ。シオドアは己の頭のヘッドライトを消すべきかと迷った。しかし彼女から指図はなかった。ただ動くなと手で合図されただけだ。ヘッドライトの光が暗闇の中に吸い込まれて行く、その先に何かが動いた様な気がした。
 右手の暗闇の中から音もなくロホが現れた。少佐と同じ方向にアサルトライフルを向けていた。左手、やや後方にステファン大尉がぼんやりと見えた。彼は片膝を地面に突いて、やはり仲間と同じ方向に銃口を向けていた。シオドアは目だけ動かして仲間の方を向かないように努力した。
 石を蹴る音が聞こえた。土の上を誰かが足を引き摺って近づいて来る、そんな感じの音が聞こえた。ヘッドライトの光の外を誰かが歩いて来る、とシオドアは聞き取った。闇で見えないが、多分射程距離内に入った。しかし少佐は発砲許可を出さなかった。
 光の中にぼうっと人の姿が現れた。くしゃくしゃの長いブロンド、汚れたロングコート、傷だらけの素足、生気のない目が闇の中を泳ぎ、両手でものを探るように空気をかいて、アリアナ・オズボーンが歩いて来た。

「アリアナ!」

 シオドアは思わず駆け出した。しかし数メートルも行かないうちにステファン大尉に腕を掴まれた。

「ノ! テオ、駄目だ!」
「離せ、あれは間違いなくアリアナだ!」
「そうです、アリアナです。でも、何かおかしい!」

 シオドアはアリアナを振り返った。彼女はシオドアとステファンの騒ぎが聞こえている筈なのに、無視した。真っ直ぐ神殿に向かって歩いて来るのだ。
 その時、少佐がライフルを地面に置いた。背中の荷物も置いて、ゆっくりとアリアナに向かって歩き始めた。シオドアのヘッドライトが交互に2人の女性を照らした。アリアナはまだ無反応のまま歩き続け、少佐は何かをしようとしていたが、それが何なのかシオドアにはわからなかった。
 洞窟内の気温が2度程下がった様な感覚があった。少佐の向こう側にいるロホの姿は闇に隠れて全く見えなかった。シオドアは彼の腕を掴んでいるステファン大尉の手に力が籠るのを感じた。まるで爪を立てられた感じだ。彼はステファンの手をもう片方の手で叩いた。もう大丈夫だから、と伝えた。ステファンが手を離した。チラリと見ると、彼の目が緑色に輝いていた。ここでナワルを使うな、とシオドアは心の中で念じた。まだ黒幕が姿を現していない。空気が冷たい。ケツァル少佐が気を放っているのだ。それにステファンが反応してしまっている。異母姉の桁違いな気の大きさに引きずられているのだ。ロホは平気だろうか?
 ヘッドライトの光の中で、2人の女性が向かい合って立った。アリアナが初めて反応した。

「カルロ?」

と彼女は少佐に呼びかけた。彼女にはケツァル少佐がステファン大尉に見えているのだ。少佐が声をかけた。

「お一人ですか?」

 シオドアには少佐の声にしか聞こえなかったが、アリアナの耳には片想いの男の声に聞こえたようだ。少佐が彼女に”幻視”をかけているのだ。彼女が微笑した。口元だけの微笑だ。

「ええ、一人よ。誰も邪魔は入らないわ。」

 シオドアとステファン大尉からは少佐の後ろ姿でアリアナの全体像が見えなかった。

「シャベス軍曹は何処です?」
「何処か向こう・・・」

 アリアナはゆっくりと斜め後方を振り返ったが、誰もいないのかステファン大尉はその動きに反応しなかった。彼女がまたゆっくりと少佐に向き直った。

「貴方が来て下さって嬉しいわ。私が欲しいのは貴方一人だけ・・・」

 アリアナが少佐に抱きついた。クッと少佐が微かに警戒音を出した。

「ノー!」

 ロホが暗闇から跳び出した。ステファン大尉も夢から醒めた様に動き、アリアナを突き飛ばした。シオドアには何が起きたのか、すぐに理解出来なかった。
 ロホが少佐を両腕で支えた。シオドアはステファン大尉が地面に倒れたアリアナに銃口を向けるのを見て、やっと体が動いた。

「撃つな、カルロ、止めてくれ!」

 銃口とアリアナの間に入って、初めて何が起きたのか、彼は知った。思わず叫んだ。

「少佐! 死ぬな!」

太陽の野  19

 坑道の路面は歩きやすいと言い難かった。トロッコを通したインクライン跡などはレールに足を取られそうになった。 上りになったり下りになったり、水が溜まって迂回路を探したりと時間ばかりかかってなかなか進めない。

「もう6時間歩いたかなぁ・・・」

 思わずシオドアが呟くと、少佐が「ノ」と言った。

「竪穴から出発して3時間12分です。」

 ステファン大尉も言った。

「今、2043です。」

 腕時計を見ると確かに午後8時43分だった。先頭のロホが提案した。

「休憩して夕食にしませんか?」

 彼が「あそこ」と言ったが、シオドアには見えなかった。

「あそこに乾いた岩棚があります。そこで休憩しましょう。」
「ブエノ。」

 少佐が同意したので彼等はさらに10分程歩いて、岩棚に到着した。シオドアは荷物を下ろし、食糧と水を出した。バルデスは上等の携行食を準備してくれていたので、陸軍配給の食物より美味しく食べることが出来た。

「ジャングルだったら食い物になる生き物がいくらでもいるのに、ここは何もいない。」

とステファン大尉がぼやいた。

「よくこんな所で親父は2年も籠城出来たもんだ。」
「君のお母さんが援助したんだろ? すごく助かったと思うな。」

 シオドアは降りてきた竪穴を思い出した。カタリナ・ステファンは一人で井戸を降りて夫の援助を続けたのだ。

「何処の井戸を使って彼女は援助したんだい?」
「知りません。」

とステファンは素っ気なく答えた。

「ムリリョ博士に教えられる迄、私は何も知らなかったのですから。」
「お母さんに訊いてみなかったのか? 否、ご免、そんなこと、訊けないよな。」
「実家の近所の井戸じゃなかったのか?」

とロホも尋ねた。さて、とステファンは首を傾げた。

「スラム街だったから、井戸は共同だった。そんな所にお袋が上り下り出来た筈がない。」

 ケツァル少佐がロホが持ってきた地図を広げた。シオドアのヘッドライトがぼんやりと紙面を照らし出した。

「神殿がここ・・・」

 彼女が地図の下の方を指した。

「私達の現在地は、恐らくここ・・・」

 かなり神殿から距離がある。まだ上の方だ。

「スラム街はこの周辺、そこから車で5分程の所に昔の鉱夫町がある。多分、空き家が並んでいると思われます。ここの土地柄を考えれば、石造の家でしょう。この土地で生まれ育った人にとっては歩いて行ける普通の距離だと思いますが?」
「スィ、この高低差は住民にとって問題ではありません。その空き家町は記憶にあります。隠れん坊に丁度いい場所なのです。不良どもの溜まり場にもなっていました。そう言えば、祖父に枯れ井戸に落ちるといけないから遊ぶなと注意されたことがありました。」

 空き家町はシオドア達の現在地の地上からそんなに遠くない位置にあった。

「俺たちが現在いる深度まで井戸が掘られているとは思えないから、もっと浅い場所でシュカワラスキ・マナとカタリナは会っていたんだろうな。」
「井戸がこのあたりにあったとすると、やはりマナは”暗がりの神殿”の近くにいたのでしょう。トゥパル・スワレが私達を誘き寄せる理由が神殿にあるのかも知れません。」

 少佐は手にしていた携行食をふと眺めた。

「このチキン入りのパテは美味しいですね。」
「メーカーを覚えておいて、次の発掘隊警護の時に発注しましょう。」

 ステファンが包み紙をじっくり見つめた。シオドアは笑いたくなった。この2人、いつも発想が同じと言うか、同じタイミングで話題を変えると言うか・・・

「似てるなぁ、君達・・・」

 誰が? と少佐と大尉が彼を見た。ロホはシオドアと同じ感想を持ったらしい。

「姉と弟が、ですよ。」

と彼は言って、横を向いた。笑いたくなって堪えたのだ。

第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...