2021/08/24

第2部 バナナ畑  2

 「多分殺されたんだろうって言うだけさ。死因も名前もわからん。性別だって男物の服を着ていたから男だとわかっただけだ。」
「検死しなかったのかい?」

 テオは時々アメリカのテレビドラマみたいなことを言う。ゴンザレスは早くこの話題を終わらせたかった。

「ドクトル・ウナヴェルトが診てくれた。」
「それでも死因はわからないのかい?」

 ドクトル・アルストはご不満らしい。エル・ティティの町医者がミイラの解剖なんて出来る筈がないじゃないか。ウナヴェルトは外科医で内科医で産科医でもあるが、法医学者ではないし、白骨同然のミイラの解剖をする程暇じゃない。

「興味があるなら、お前が調べるこったな。墓の発掘許可ぐらいなら出してやるぞ。大統領警護隊文化保護担当部に申請しなくても、俺が出してやる。」

 皮肉を言ったのは、流石にそこまでやらないだろうとたかを括ったからだ。テオは意外に繊細な男だ。死体を見るのは好きでない。ゴンザレスはそれを承知していた。果たして、義理の息子はそれ以上死体の話題に突っ込まずに、新学期の大学の話へ方向転換した。親友で大統領警護隊のカルロ・ステファン大尉が文化保護担当部から警護隊本隊へ逆出向になったこと、カルロの妹のグラシエラがグラダ大学の文学部に入学したこと、彼女が美人なので忽ち男子学生達の間で話題になっていること、テオの妹になるアリアナ・オズボーンが出向先のメキシコ、カンクンの病院で新しい研究に取り組んでいること等。それでゴンザレスは死体のことを忘れてしまった。
 翌朝日曜日の礼拝を終えた神父がテオを訪ねて来た。テオはクリスチャンではないので教会の礼拝に行ったことがない。ゴンザレスも妻子を亡くしてから教会から足が遠のいていたので、神父がゴンザレス家の分厚い木製のドアをノックした時、義理の父子はやっと起きて遅い朝食をとっているところだった。缶詰の煮豆と乾いた硬いパンとホットチョコレートの朝食だ。
 扉を開ければいきなり居間兼食堂だ。出迎えたゴンザレスと挨拶を交わし、神父がテオに少し話があるのだがと切り出した。テオは立ち上がって神父を席へ案内した。ゴンザレスが食べ終わった食器を片付け、神父にコーヒーは如何ですかと尋ねた。神父が喜んで戴きますと言った。
 テオはまだ煮豆を食べていた。缶詰の煮豆はそれなりに美味しいが、彼はもっと美味しく豆を煮込める人を知っていた。また彼女のアパートに泊まりに行きたいなぁと思った。それも寝るのは客間ではなく・・・。
 神父は暫くゴンザレスと世間話をしていた。テオの食事が終わるのを待ってくれていたのだ。喋りながら神父は室内を見回した。飾り気のなかった男鰥のゴンザレスの家が少しだけ華やいで見えた。花を飾っているとか、絵画を壁にかけているとか、そんなことではない。テオドール・アルストと言う若者が華やいだ美形の容姿を持っているのだ。下手をすると初老の男が若い同性の愛人を家に置いていると思われそうだが、ゴンザレスの人柄を知っている街の住人達はそんな失礼な想像をしたことがなかった。テオが例え若い娘であっても、絶対にそんな想像はしないだろう。それに住人達はテオが異性愛者であることも知っていた。街の若い娘達に誘われるとそれなりに鼻の下を伸ばして遊びに行くのだ。彼が現れる前のゴンザレスの寂しい生活を知っていた神父は、テオは神様が警察署長を救うために遣わした天使かも知れないと思った。その天使に、神父は生臭い話題を出した。

「バナナ畑の気の毒な男の話を聞いたかね?」

 テオが頷いた。

「身元不明だそうですね。」
「そうだ。私も彼の為に何か役立とうと、礼拝の時に信者に心当たりはないかと尋ねてみるのだが、未だに反応がない。教区の人々の知らない人間らしい。しかし家族にも会えず見知らぬ土地で葬られた男が私には哀れに思えてならない。彼の身元を探す手がかりが欲しい。」

 神父にじっと見つめられて、テオは相手が何を言わんとしているのか想像がついた。

「死体のDNAを調べろと仰るのですか?」
「スィ。」

 神父がニッコリした。テオは首を振った。

「駄目ですよ、神父さん。DNA鑑定による身元確認は、比較対象が必要です。行方不明者として届出がある人の細胞や、血縁者の細胞が手に入らないと、死体のDNAだけでは誰なのかわからないのです。」

 田舎司祭は最先端技術が決して万能ではないことを知った。がっかりした表情でコーヒーを啜った。

「先ず行方不明者の届出があるか調べなければならないのだね?」
「スィ。お役に立てなくて残念ですが・・・」

 正直なところテオは残念でもなんでもなかった。ミイラを掘り出して解剖するなんてご免だった。そんなことはムリリョ博士でもやらないだろう。
 ・・・ってか、その死体は”ヴェルデ・シエロ”じゃないだろう? ”ティエラ”のメスティーソだろうけど・・・
 確率的に考えれば、古代先住民の子孫である筈がない。”ヴェルデ・シエロ”に何か災難があればグラダ・シティに聳え立つ”曙のピラミッド”におわします偉大な巫女ママコナが察知する。或いは同じ部族の長老達が何かを感じる。そして捜査機関を水面下から動かして調査させるだろう。だが彼等は普通の人間の事件には首を突っ込まない。
 神父がコーヒーの礼を言って帰って行くと、テオはテーブルの上を片付け、食器を洗った。ゴンザレスは着替えて休日の楽しみである近所の雑貨店の親父達とのお喋りクラブに出かける準備をしていた。幼友達のオヤジ達が集まってカード遊びをしたり、ボードゲームをしたりして遊ぶのだ。テオは己も歳を取ったら飲み友達とそうやって日々を過ごすのかなと想像して可笑しくなった。オヤジになった己がちょっと想像つかない。
 バナナ畑で死んでいた男もいつかオヤジになってのんびり過ごしたかったんじゃないのか?
 テオは少しだけ死体の身元を調べて見ようと思った。ゴンザレスに声をかけた。

「ちょっと警察署に行ってくる。例の身元不明者の遺留品はまだ保管されているよね?」

第2部 バナナ畑  1

  その死体は長い間誰にも気づかれずにそこにあった。

 バナナ畑の所有者がもう少し畑を拡張しようと、東の藪を刈っていて見つけたのだ。エル・ティティ警察の署長アントニオ・ゴンザレスが通報を受けて駆けつけた時、死体は半ばミイラ化していた。ゴンザレスは物盗りの犯行だろうと思った。エル・ティティで住民の誰かが行方不明になったと言う届出は絶えて久しく無く、死体は他所者だろうと警察は考えた。物盗りならこの小さな寂れた田舎町にだっていくらでもいたし、乱暴な奴もいた。ゴンザレスは死体は男だろうと見当をつけた。街の唯一の医者ドクトル・ウナヴェルトも同意見だった。何故なら死体は男物の衣服を身につけていたからだ。身分証はなかった。財布ごと盗られたのだろう。死体は近隣の農民と思われ、そうなら普段身分証など持ち歩かなかったかも知れない。身元が判明しない死体はすぐに忘れ去られる。事件は未解決のまま有耶無耶になろうとしていた。エル・ティティでは・・・否、このセルバ共和国では珍しいことではなかった。警察は泥棒や交通違反の取り締まりに忙しく、身元不明者の捜査などしている暇はない。それに他人の過去を詮索しないと言うこの国に古くからある習慣も捜査のネックになった。市民は警察に期待しないし、警察だって期待されるのは迷惑だ。だから死体が街の共同墓地に埋葬されてしまうと、ゴンザレスはそいつのことをすぐに忘れかけた。
 死体が発見されて5日後に、首都グラダ・シティからゴンザレスの息子のテオドール・アルスト・ゴンザレスが週末の帰省をした。テオはゴンザレスの養子だ。本来はアメリカ合衆国の人間だった。DNAの研究をしていた偉い科学者だったのだ。それなのに田舎警察のウダツの上がらぬ署長の養子になってくれた。これには複雑な事情があって、ゴンザレスは今でも時々夢を見ているような気分になる。家族と死別した初老の警察官と、生まれた時から家族がいなかった若者、孤独な魂同士が惹かれあって親子になったのだ。正式に養子縁組をして家族になってからまだ半年だった。
 テオは国立グラダ大学生物学部で遺伝子の研究をしている。発生遺伝学とか進化発生遺伝学とか、ゴンザレスには理解出来ない難しい学問だ。テオは研究をしながら学生の講義も担当している。立派な大学の先生なのだ。まだ教授じゃないよ、と彼は言うが、ゴンザレスは他人に自慢する時は息子は教授だと言っていた。
 自慢の息子が土曜日のお昼にバスに乗って帰って来た。前日金曜日の深夜に夜行バスに乗ってグラダ・シティを出発して、昼前にエル・ティティに到着だ。エル・ティティの平均的庶民の家と同じ、土煉瓦に漆喰を塗ったゴンザレスの家に入り、男所帯の家の掃除をして溜まった汚れ物を洗濯して彼は午後を過ごす。夕方ゴンザレスが帰宅すると夕食が出来上がっていて、2人でビールを飲みながらのんびりと楽しい夜を迎えるのだ。週末に休日を入れるのは署長の特権だ。ゴンザレスはセルバ的な習慣を遠慮なく使って、数年ぶりの家族団欒を楽しんだ。
 テオは留守の間にエル・ティティで起きたことを知りたがる。養父の職務が危険と隣り合わせであることを十分承知していたからだ。警察官はどこの国でも危険で厳しい仕事だ。セルバ共和国は決して極貧ではないが、裕福でもない。富と繁栄は東海岸の首都グラダ・シティと西の高地の鉱山街オルガ・グランデに集中し、国民の多くは昔ながらの農耕や漁で暮らしている。或いは鉱山で危険な採掘現場の労働をして稼ぐのだ。この国の不満分子は反政府ゲリラか強盗団になる。ゴンザレスの仕事はそいつらがエル・ティティの住民に危害を加えぬよう警戒することだ。悪党と戦うのは政府軍の憲兵隊や陸軍特殊部隊の仕事だが、警察は権力者の「手先」なので、見せしめに狙われたりすることも往々にある。だからテオは不安なのだ。治安の良いグラダ・シティに養父を呼び寄せて暮らしたいのだが、ゴンザレスは故郷を離れたがらない。失った家族の墓も守らねばならない。だからテオは街の出来事を彼なりに分析して、ゴンザレスに危険が近づいていないか確かめようとしていた。

「殺人事件があったそうだね?」

 テオは流暢にセルバ共和国公用スペイン語を話す。恐らくネイティヴのゴンザレスより正しい文法と発音で話せる筈だ。しかしゴンザレスの前ではティティ方言と呼ばれるティティオワ山周辺で話されている方言を使う。まるでここで生まれ育ったかのように自然に喋る。それが彼の才能の一つだ。彼は一度耳にした言語を3日もあれば覚えてしまう。彼のDNAがそうなっているのだ。彼、テオドール・アルスト、英語名シオドア・ハーストは、遺伝子操作されて生まれた人間だった。

「殺人事件だなんて、誰が言ったんだ?」

 ゴンザレスは不機嫌な顔で尋ねた。家で仕事の話をしたくなかった。退屈な街の警察業務なんて退屈でしかないし、食事時に死体の話は全く相応しくない。彼はグラダ・シティの噂話の方が面白そうだと思った。しかしテオは反対の意見を持っていた。

「男が物盗りに殺されたって聞いたけど?」

 きっとバスの中で誰かが喋ったのだ。話題が少ないから、身元不明の死体の話を誰かがいかにも自分が見てきたかのように喋ったのだろう。
 

番外編 1 雨の日 3

  ケツァル少佐はロビーの窓から外に駐機しているプロペラ機を見た。

「無事に降りたので、私は用がないですね。では仕事に戻ります・・・」
「待って下さい。」

 ステファンは慌てて彼女を引き留めようとした。

「母が貴女に会いたがっています。」

 ケツァル少佐は手に視線を落とした。ステファンはうっかり彼女の手を掴んでしまっていた。慌てて手を離した。

「失礼しました。」

 少佐は小さな溜め息をついた。彼女も落ち着かないのだろう、と彼は思った。
 カタリナ・ステファンとグラシエラがトイレの方角から歩いて戻って来るのが見えた。精一杯おめかししているが、お上りさん感は誤魔化せない。母親は伝統的な民族衣装に似せた他所行きの服を着て、妹は新しいカットソーのチュニックとジーンズだ。オルガ・グランデでは普通に見られるファッションだが、グラダ・シティでは浮いて見える。もっとも国内線空港ロビーはお上りさんでいっぱいだから、ここではまだマシだ。カルロは休暇をとっているので私服だった。襟付きのシャツにジャケット(勿論拳銃ホルダーを隠すためだ)、ジーンズだ。 そしてケツァル少佐は仕事中に抜けて来た。但し、いつもの軽装ではなく正装と言うか、平時の軍服だった。ファッションは関係ないので、お上りさんの父の家族に気まずい思いをさせないで済む。しかし、目立っていた。市民は軍人だと気がついても普通は気にしないのだが、胸に緑色の徽章が輝いているとなると別物だ。しかも少佐はカタリナ母娘がすぐに息子を見つけられるように、緑色のベレー帽を出して被った。

 ラ・パハロ・ヴェルデ以外の何者でもない!

 果たしてグラシエラが先に彼女を見つけて、母を促し足早に戻って来た。兄に似て少し丸みがかった輪郭、キラキラ輝く目のセルバ美人だ。一瞬ステファンは思った。

 (少佐 + マハルダ) ÷ 2

 彼の耳にだけ聞こえる声で少佐が囁いた。

「紹介しなさい。」

 ステファンは母が正面に来たので、素早く紹介した。

「母のカタリナ・ステファンと妹のグラシエラ・ステファンです。」

 そして母達にも言った。

「大統領警護隊文化保護担当部指揮官シータ・ケツァル・ミゲール少佐であられる。」

 改まった言い方に少佐が吹き出しそうになるのを耐え、それからカタリナの額に視線を向けて、姿勢を正し敬礼して見せた。

「ミゲールです。グラダ・シティにようこそ。」

 グラシエラが目を見張った。

「本物のラ・パハロ・ヴェルデなんですね!」
「失礼ですよ、グラシエラ。」

 カタリナが控えめな声で娘を叱った。ケツァル少佐は微笑んで異母妹を見た。

「貴女のお兄さんも本物のエル・パハロ・ヴェルデでしょ?」

 グラシエラは頬を赤く染めて頷いた。少佐に初めましてと挨拶してから、兄に飛びついた。

「カルロ! 大きくなっちゃったね!」

 まるで母親の台詞だ。カルロが妹のキス攻撃に苦戦している間に、カタリナ・ステファンが少佐の前に来た。

「初めまして。」

と彼女が挨拶した。少佐も彼女に向き直った。右手を左胸に当てて「初めまして」と一族の伝統的な作法で挨拶した。一瞬目と目が合った。少佐の目に涙が浮かび、彼女は慌ててベレー帽を脱いで目に当てた。カタリナが優しく彼女を見つめた。

「グラシャス、セニョーラ・ステファン」

と少佐が囁いた。

「初めて父を見ました。」

 カタリナ・ステファンがケツァル少佐を抱きしめたので、カルロは妹を抱きしめたままびっくりして2人の女性を見つめた。




2021/08/23

番外編 1 雨の日 2

 「どっちが良いと思います?」

 ケツァル少佐が2つのチョコレートの箱を掲げて尋ねた。アーモンドチョコレートとマカデミアナッツチョコレートだ。どっちでも良いと思ったカルロ・ステファンは答えた。

「どっちも彼女は好きですよ。」

 少佐が怪訝な顔をした。

「彼女?」

 一瞬気まずい空気が空港ロビーに流れた様な気がした。カルロはしくじったと悟った。少佐は誰かにあげるのではなく、己のおやつを買っていたのだ。少佐も彼の勘違いに気がついた。低く「ああ・・・」と呟いて、2つの箱を眺め、両方をレジへ持って行った。
 余計な金を使わせてしまった、と彼は反省した。少佐は金持ちだが無駄遣いは決してしない。
 セルバ航空の緑色にペイントされたプロペラ機が降りて来た。セルバは「森」と言う意味だ。国の色も緑だ。国土の4分の3は森林だが、カルロの故郷オルガ・グランデは砂漠の入り口にある乾燥した台地だった。そこから母と妹がやって来た。2人共オルガ・グランデを出たのは初めてだ。飛行機も初めてだ。大きな荷物を載せたカートを引きずって2人がゲートから出て来た。国内線は搭乗する時は荷物の検査が厳しいが、降りる時は自由だ。カルロは懐かしい家族の顔が見えた瞬間、足早にそちらへ向かった。少佐を売店に置いて来てしまったが、迷子になったりしないだろう。

「カルロ!」

 母親が名を叫んだ。彼は最後はダッシュで母と妹に駆け寄った。母がカートを彼の方へ押した。

「ちょっと見張ってて!」

 ハグする間もなく、母と妹は空港のトイレにダッシュした。彼が呆気に取られてカートの取っ手を握って立っているところへ少佐がやって来た。トイレに駆け込んでいく母と娘をチラリと見て、呟いた。

「気の毒に、ずっと我慢していたのですね。」

 セルバ航空国内線の揺れはハンパではない。


番外編 1 雨の日 1

  小雨が降っていた。国内線の到着フロアの窓から外を眺めているカルロ・ステファン大尉は落ち着かなかった。雨は穏やかで風も吹いていない。セルバ航空の国内線旅客機がどんなにオンボロでも飛行に支障はない。彼が落ち着かないのは、フライト状況が心配なのではなく、これからやって来る人々と近くの売店でお菓子を物色している上官との対面の方が無事に済むか否か不安だったからだ。正直なところ、彼女を連れて来たのが正しい判断だったのか、彼は今迷っていた。
 この日、彼の母親カタリナと妹のグラシエラがグラダ・シティにやって来る。彼が貯金をはたいて購入した小さな家に引っ越して来るのだ。彼と友人達で考え抜いて選んだ家だ。きっと気に入ってもらえると自信はあった。オルガ・グランデの貧しい家から持ち出して来る物は殆どなくて、母も妹もそれぞれ鞄一つずつに詰め込めるだけ詰め込んだ衣料品だけが、引っ越し荷物なのだ。家具は購入した中古物件に付いている。もし気に入らなければ少しずつ買い替えていけば良い。交通費はステファンが出した。母親は旅費が安く済むバスで行くと言ったが、彼は飛行機の方が安全だと主張して、航空券を送ったのだ。セルバ航空は定刻に飛んだ試しがなかったが、今のところ無事故なのだ。パイロットが”ヴェルデ・シエロ”の守護を受けているのだと言う都市伝説があるが、多分それは真実なのだろうとカルロは思った。
 グラダ・シティに家を買ったから引っ越して来いと言ったら、母親は躊躇った。都会で暮らしたことがないと電話口で尻込みした。オルガ・グランデだってセルバ第二の都市だ、貧民街だって田舎の農村より垢抜けしていると言って説得した。妹に大学教育を受けさせたい、母を一人にしたくない、だからグラダ・シティに越して来て欲しいと訴えたのだ。結局、グラシエラが兄と同じ家に住んで大学へ行きたいと言ったので、母親は折れた。そして、カタリナは息子をドキリとさせることを言った。

「お前の上官に会わせてくれるのよね?」

 そうだ、大統領警護隊にスカウトされ、文化保護担当部に配属された時、カルロは嬉しくて母に電話で伝えた。新しい上官の名前はシータ・ケツァルだと。女性の少佐なんだよ、と。無邪気に電話の向こうで喋る息子の言葉を、母親はどんな気持ちで聞いていたのだろう、とカルロは今思っていた。母は父の正妻だ。しかし父には母と出会う前に愛した女性がいた。母はそれを父から聞いた。”心話”は嘘をつけないから、全て教えられた筈だ。父を夫として選ばなかったにも関わらず、父の子だけを望んだウナガン・ケツァルが、命と引き換えにこの世に残した娘の名がシータなのだと。あの時カルロはまだ父の本当の人生を知らなかった。父がどう言う生まれでどんな育ち方をして母とどうやって知り合って、どうして死んだのか。
 カルロは電話口で、母にやっとの思いで言った。

「彼女も最近迄何も知らなかったんだ。」

 母はそれ以上何も言わなかった。
 母と妹が引っ越して来るので空港へ向かえに行きたいと休暇を願い出ると、ケツァル少佐は平素の顔で許可をくれた。カルロは、母と妹が新居で落ち着いてから対面させようと思った。ところが、前日の夜になって雨が降り出したので、少佐が言ったのだ。

「天候が良くないので、私も空港へ行きましょう。パイロットの腕を疑う訳ではありませんが、着陸を見たいのです。」

 つまり、飛行機を守護したいと言ったのだ。少佐にとっては、最近迄名前すら知らなかった父親の、正妻と異母妹がやって来るのだ。それとも、ドライに部下の家族を出迎えてくれるだけのつもりなのか? 
 カルロは売店を振り返った。ケツァル少佐はアーモンドのチョコレートとマカデミアナッツのチョコレートを手に取って迷っていた。
 彼女は食べ物以外に悩むことがあるのだろうか・・・?


2021/08/22

星の鯨  16

  翌朝、シオドアはケツァル少佐の「起床!」と言う声で起こされた。バスルームへ行くと、彼の服は乾燥機の中で皺だらけになっていた。仕方がないので、少佐が豆を煮込んだり果物を切ったりしている間にアイロン掛けをした。そしてロホを虜にした煮豆をたっぷり食べて、少佐のベンツで大学迄送ってもらった。
 午前中の授業が終わり、彼が研究室に戻ると、客がいた。ステファン大尉だ。彼と大学で会うのは初めてだったので、ちょっと驚いた。

「いつ来たんだい?」
「8分前です。」
「生物学に興味でもあるのかな? それとも任務?」

 ステファンは躊躇した。シオドアはコーヒーを淹れる準備を始めた。客の為と言うより己の為だ。砂糖壺とミルクを先に机の上に置いた。ステファンはTシャツの上にジャケット、下はジーンズだ。多分、いつも通り拳銃を装備している。シオドアは彼が昨晩アリアナを病院職員寮へ送って行ったことを思い出した。彼女と何かあったのだろうか? と思った時、ステファンがやっと言った。

「昨日、アリアナから言われたのです。その・・・少佐との・・・ことを応援すると・・・」

 ひどく言いにくそうに打ち明けた。シオドアは黙ってカップにコーヒーを注ぎ、彼の前に置いた。ステファンがハッとして彼を見上げた。

「昨晩、少佐のアパートに泊まったのですか?」

 後ろめたいことは何もしていないので、シオドアは素直に認めた。

「スィ。帰ろうにも足がなかったし、少佐は運転する気分じゃなかったから、泊まって行けと言ってくれた。」
「それだけ?」
「それだけじゃないな・・・客間でぐっすり寝かせてもらった。朝飯をご馳走になった。車で大学迄送ってもらった。」

 シオドアはステファンの嫉妬を感じて、ちょっぴり愉快な気分になった。だけど、どうしてバレたんだ? 彼は後学の為に質問した。

「どうしてわかった? 新しい能力を開発したのか?」

 ステファンがぶすっとした顔で答えた。

「貴方から少佐と同じ石鹸の香りがします。」

 シオドアは思わず声を立てて笑ってしまった。

「彼女に石鹸のブランドを訊いておこう。寮でも使ってみる。」
「揶揄わないで下さい。」

 ステファンが拗ねた顔でコーヒーに砂糖を入れてやや乱暴にかき混ぜた。

「私は貴方に宣戦布告に来たのです。」
「宣戦布告?」
「スィ。私は、まだ彼女を諦めていません。」

 シオドアは溜め息をついた。彼は前日考古学のケサダ教授に同父異母兄弟姉妹の婚姻について質問したばかりだった。ケサダは、セルバ共和国の法律では全血半血に限らず兄弟姉妹間の婚姻は禁止だと答えた。但し、と彼は言った。

「先住民に限り、同父異母兄弟姉妹間の婚姻は認められています。この場合の先住民は”ティエラ”も”シエロ”も一緒です。法律を作った人間が何者か考えれば、不思議ではありませんがね。」

 カルロ・ステファンは純血種ではないし、白人の血が入っているが、メスティーソが先住民でないとは言い切れない。父親は正真正銘の純血の先住民だったのだ。

「法律がどうあれ、俺は遺伝子学者として君の主張を認めたくないな。」

とシオドアは言った。

「それに、俺も彼女が好きだ。」

 遂に言ってしまった。勿論、大統領警護隊文化保護担当部の隊員達は全員承知のことだろうけど。
 ステファン大尉は彼をじっと見つめた。しかし怒っていない、とシオドアは気がついた。

「俺と闘うつもりかい?」
「貴方が望むなら・・・」

 ステファンが微かに微笑んだ。

「我々はハンデがあります。私は彼女の”出来損ない”の弟だし、貴方は白人だ。双方とも一族の頭の硬い連中には、彼女に相応しくないと断じられるでしょう。」
「そうだな。ロホやアスルの方が遥かに彼女に相応しいだろうし。」
「ロホは最強のライバルですが、アスルは考えなくて良いです。アイツは彼女を慕っていますが、我々とは少しレベルが違います。」
「姉さんの様に慕っている?」
「スィ。」

 シオドアは吹き出した。

「昨夜、少佐が言ったんだ。複数の女性達が、君と俺を取り合っていると。」
「え?」
「争奪戦の参加者を訊いたが教えてくれなかった。彼女は恋人争奪戦のゲームだと言った。」
「アリアナは私に恋愛ゲームを仕掛けないと言いました。」
「それは君を忘れたいと言う意味だ。」

 シオドアはコーヒーを飲んだ。

「君達の恋愛観はよくわからない。と言うより、俺自身がまともな恋愛の経験がないだけで、大人の恋愛がどんなものかわかっていないのかも知れないな。本当に好きなら、血の濃さも関係なくなるのかも知れない。」

 その時、ステファンの携帯電話が鳴った。彼がポケットから出して見ると、かけてきたのはケツァル少佐だった。彼が出るなり、不機嫌な声が聞こえた。

ーー何処をほっつき歩いているのです? 4階から2階へ行くのに1時間もかかるのですか?

 ステファン大尉が情けない顔をした。

「申し訳ありません、ちょっと野暮用で外出しています・・・」
ーー早く戻って来なさい! さっさと報告書を上げる!

 シオドアは声を立てずに笑うと言う困難な技を習得する必要がある、と思った。


星の鯨  15

  部下達とアリアナが去って、ケツァル少佐のアパートは静かになった。食器洗いは部下達がやってくれたし、椅子やテーブルも元に戻して帰ったので、少佐はのんびりソファに座って、シオドアが掃除機を床にかけるのを眺めていた。家事はあまりやらない主義だ。実家も自宅もメイドがいるし、家事らしきことをしたのは大統領警護隊の訓練生だった時くらいだ。金持ちが家事をやらないのは、メイドの仕事を取ってしまわないための心得だ。少佐が怠け者なのではない。それにその日は長い話を語ったので、彼女は疲れていた。元気な時ならワインかブランデーでも一杯やって寝るのだが、心臓の傷を気遣って彼女は我慢していた。だがシオドアには礼を言いたかったので、彼が掃除機を片付けてリビングに戻るとテーブルの上にブランデーの瓶とグラスを用意していた。

「メイドの仕事を取ってしまったお仕置きに、一杯召し上がって下さい。」
「そんな罰があるかい?」

 シオドアは笑いながら彼女の隣に座った。少佐が彼の前にブランデーを、彼女自身には水を入れたグラスを置いた。

「本当にアリアナがカンクンに行くことを知らなかったのですか?」
「知らなかった。」

 シオドアはグラスに酒を注ぎ入れた。少佐がつまらなそうな顔をした。

「やっと心が繋がりかけたのに・・・」
「そこで切れたりしないさ。電話でもメールでもしてやってくれよ。きっと喜ぶさ。」
「近くにいてくれた方が嬉しいのですけど・・・シーロも意地悪です。」

 少佐は同僚の愚痴をこぼした。シオドアは何となくロペス少佐がアリアナを国外へ行かせる理由に心当たりがあった。

「アリアナは少し異性関係にだらしないところがあった。カルロにもシャベス軍曹にも簡単に手を出した。今度の事件でスワレにそれを利用され付け込まれた。ロペス少佐はわかっていた様だ。放置しておいたら、”砂の民”を動かすことになってしまう。ロペス少佐は彼女を守るために、メキシコ行きを勧めてくれた。俺はそう信じる。」

 ケツァル少佐が水を一口飲んだ。

「ことは恋愛問題だけに収まらないと言うことなのですね。そう・・・”砂の民”が介入してきたら、ゲームも何もあったものではありませんから。」
「ゲーム?」

 シオドアが怪訝な顔をしたので、彼女はけろりとした顔で言った。

「恋人の争奪戦です。誰がカルロを取って、誰が貴方を取るか。」
「はぁ?」

 シオドアは彼女に向き直った。

「誰と誰が、カルロと俺を取り合っているんだ?」
「気になります?」
「気になる。」
「教えません。」

 少佐は立ち上がった。

「選択肢はもっと多いです。参加者も増えていきますからね。」

 訳のわからないことを言って、彼女はバスルームに向かって歩き出した。

「今夜は泊まって行かれます?」
「いや・・・寮に戻らないと、またロペスに叱られる。」
「でも、カルロは自宅に直帰です。私は今夜車を運転したくありません。帰りの足はありませんよ。」
「歩いて帰るさ。」

 少佐が足を止めて振り返った。見つめられてシオドアはドキドキした。

「ここから寮迄の距離を歩いて行かれるのですか?」
「・・・」
「路上強盗と言う言葉をご存知?」
「・・・」
「タクシーもこの時間はありませんよ。」
「少佐・・・」
「何です?」
「俺に泊まって欲しいのか?」

 暫く彼は少佐と目を見つめ合った。”心話”は通じなかった。彼は普通の男として、女の気持ちを考えなければならなかった。少佐は先住民で、先住民は単刀直入な物言いをしない。しかし、彼女はちゃんと意思表示をしたのだ。「今夜は泊まって行かれます?」と。
 シオドアは折れた。

「わかった・・・申し訳ないが、泊めてくれないかな・・・」

 入浴の支度をしてもらって、シオドアは風呂に入った。着替えはなかったが、乾燥機付き洗濯機があったので、そこに服を入れて洗濯した。バスローブだけ身につけてリビングに戻ると、少佐が客間を準備してくれていた。彼女の寝室ではないのだ。思い起こせば、以前泊まった時も彼は客間でロホはリビングだった。アメリカのセルバ大使館、ミゲール大使の私邸でも、彼女はステファンを彼女の部屋に入れたが、ステファンは彼女のベッドで彼女自身はハンモックだったのだ。
 少佐はアリアナではない。 シオドアは己の心に言い聞かせた。
 ベッドに入り、目を閉じた。アリアナとステファンは何事もなくそれぞれ帰宅したのだろうか。アリアナは己がメキシコへ行くことになった原因を理解した様だった。それなら今夜は何事もなく別れただろう。ステファンも彼女の誘惑に負けることはない筈だ。今以上に事態をややこしくしたくないだろうから。
 ブランデーが効いて彼は眠りに落ちた。 

第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...