2021/08/25

第2部 バナナ畑  5

  翌日、グラダ大学生物学部の発生遺伝学教室の受講生達はアルスト先生の早口の講義と難解なリポートの宿題に迷惑を被った。しかしこれが初めてと言う訳ではなかったので、アルスト先生はまた珍しい遺伝子を探す旅行に出るつもりなんだな、と諦めた。学生に宿題をさせている間にテオはしばしば2、3週間首都を留守にすることがあった。そして戻って来るとジャングルで採取した昆虫や植物を分析しているのだ。何か新しいことを探しているんだな、と学生達は思った。
 実のところテオは何も探していなかった。全くの私用で休講するのを誤魔化す為に研究しているだけだ。そしてその日はただのランチデイトだった。彼が遅れるとひどく機嫌が悪くなる大事な女性とのデイトだ。
 食べるための教職をこなして、昼食を食べる為にテオはカフェテリアに直行した。
 彼女は既に到着していて、壁に近いテーブルに席を取っていた。若い男子学生達が振り返る。年上でも知的な美人は気になるのだ。テオが歩いて行くと、プレイボーイで名高い法学部の教授が早速彼女にアタックを試みていた。ケツァル少佐はグラダ大学の卒業生だから古くからいる教職員の間では有名なのだが、この教授は新入りだ。自分のトレイをテーブルに置いて彼女の正面の席に座ろうとした。しかし彼が座ってしまう前に彼女が身分証を出した。プラスティックカードケースに入った緑色の鳥の形の徽章が陽光でキラリと輝いた。教授がギョッとして身を引いた。

「ペルドネーメ、少佐。」(失礼しました)

 教授は離れて行った。テオはニヤリと笑った。大統領警護隊、通称ロス・パハロス・ヴェルデス(緑の鳥)は少しも怖くないのに。しかしセルバ共和国のエリート部隊は国民から一目置かれているのだ。

「コモ・テ・バ? 少佐!」(元気?)

とテオは勢いよく挨拶した。さっきの法学の教授が振り向いた。ちょっとびっくりしている。テオは優越感を感じながら少佐のそばに行った。ケツァル少佐が座ったままで彼と握手した。大統領警護隊が市民と握手するなんて滅多にないことだ。先住民に握手の習慣はないし、敵味方の判断がつかない他人に素手を差し出したりしない。女性の先住民は尚更だ。親族の男性でなければ手を触れさせない。だから少佐が握手に応じてくれると、テオは己が彼女にとって特別なんだと思えて嬉しくなる。彼女が「コモ・テ・バ?」ではなく「コモ・エスタ?」(ご機嫌如何?)と堅苦しく言っても気にならない。寧ろ彼女が挨拶してくれること自体光栄だ。仕事で必要な場合を除いて、少佐は気に入らない相手には失礼な態度を平気で取る人だからだ。
 テオはテーブルにトレイを置いた。少佐の前には山盛りの料理を載せたトレイが置かれている。ケツァル少佐は美しい外観に似合わず大食漢だった。これには理由があった。少佐はグラダ族と言う”ヴェルデ・シエロ”の中でも最強と言われる部族の唯一の純血種だ。グラダ族は正に神と呼ばれるに相応しい強大な超能力を持つが、その分消費エネルギーも半端でない。特に力を使った後は極端な空腹を感じるらしい。少佐はその日午前中のオフィスワークでエネルギーを使ったのか、大きな肉団子を3個も食べた。食べ方は上品だが、スピードがあるのであっという間に皿が空になった。野菜もモリモリ食べてしまう。テオは内心「これで割り勘かよ?」と疑問を感じたが黙っていた。
 ある程度お腹が満たされると彼女は食べるスピードを緩め、最近の彼女のオフィスの話を始めた。副官のカルロ・ステファン大尉が本部に逆出向していなくなったので、大尉がしていた予算計上の仕事を中尉のロホが行っている。ロホは遺跡発掘隊の警護をする陸軍の人員や兵備の規模を考える仕事もしているので、今は多忙で遊ぶ暇がないし、好きなサッカーの練習も出来ないでいる。ケツァル少佐は、本部は大尉を取ったのだから人員を一人文化保護担当部に回して欲しい、と司令官に要求しているのだが、なかなか通らないのだと愚痴った。
 ステファン大尉が文化保護担当部からいなくなったのは、テオも寂しかった。生死を賭けた冒険を1度ならず3度も共にした仲だ。7歳年下だが対等に話が出来た。そして同じ女性を愛するライバルでもあるのだ。
 大統領警護隊本部がステファン大尉を本部に召喚したのは、ある2つの目的があったからだ。一つは大尉のグラダ族としての能力を更に開発させる為の訓練だ。ステファンは白人と普通の先住民”ヴェルデ・ティエラ”の血が混じるミックスの”ヴェルデ・シエロ”だ。しかも”ヴェルデ・シエロ”の部分もグラダ族とブーカ族が混ざっているので、純血種であるケツァル少佐みたいに生まれつき自然に能力を使いこなすことが出来ない。下手をすると感情に流されて能力を暴走させる恐れがあるので、司令官は彼を教育し直すことに決めたのだ。これはテオも無理からぬことだと納得した。ステファンは能力を使いこなせずに少年時代からずっと苦しんできたのだから、ここで修行し直して自信をつけることが重要だと思えた。
 もう一つの目的がテオには教えられていなかった。少佐は知っている様だが、他の部下達は知らないようで、テオと共にステファンが滅多に警護隊の基地から出てこない理由がわからず寂しがっていた。修行だけなら休暇をもらえそうなものだが。

第2部 バナナ畑  4

  テオはグラダ・シティ郊外の平均的な庶民の住宅街に家を持っていた。亡命した当初はセルバ共和国政府が用意した高級住宅地の戸建て住宅にアリアナと2人で住んでいたが、アリアナが”ヴェルデ・シエロ”の内紛に巻き込まれて誘拐されたり、警備に人件費がかかったりで、結局彼は独り身になったのを機会に内務省に頼んで小さい家に引っ越すことを承諾してもらった。6軒の家族が長方形の建物を分割して住んでいる形で、真ん中に共有スペースとして小さな庭がある。テオは昼間働いているので、夜しかいないのだが、近所の人々は皆気さくで人懐っこい。庭にどの家族かが小さい畑を作っており、テオが月曜日の夜遅くにエル・ティティから帰宅すると中庭に面した掃き出し窓の外に瓜が1個置かれていた。テオは窓を開けて瓜を拾い上げ、大きな声で「グラシャス!」と言った。どこからか、「いいってことよ!」と返事が来た。
 テオは窓を開けたまま網戸だけ閉めた。暑くて空気を入れ替える必要があった。エアコンは昼間しか使わない。玄関も網戸だけにしておけば夜間は風が通るので、エアコンは必要なかった。近所の家々から話し声やテレビの音が聞こえてくるが、セルバでは騒音問題で諍いが起きることは滅多にない。静かな場所が必要な人は、近所が煩ければすぐ引っ越してしまう。都会の住人はそう言う文化を築いていた。農村へ行けば逆になる。五月蝿い人間は近所の住人達から放逐されてしまう。実力行使されるのだ。「出て行け」と言う通告を受けたら、即刻退去しないと、家財道具一切合切と共に村の外へ放り出されてしまう。テオはエル・ティティでその現場を見たし、学生達から話も聞いた。騒音に悩んで銃をぶっ放すどこかの国とは大違いだ、と思った。
 荷物を寝室に置いて、彼は狭いリビングの長椅子に座った。携帯電話を取り出し、ケツァル少佐のアパートに電話を掛けた。携帯には掛けない。彼は一応仕事のつもりだったから。少佐は今週オフィスにいる予定だ。発掘現場の監視はスケジュールに入っていないと言っていた。だから夜は自宅にいる筈だ。
 呼び出し音5回の後で彼女の声が聞こえた。

「ミゲール・・・」

 成熟した大人の女性らしい低い声を聞いて、テオはゾクゾクした。今夜彼女は一人だろうか? 

「ブエナス・ノチェス、テオドール・アルストだ。」

 彼が名乗ると彼女は特に喜んだ様子もなく、

「何か御用ですか?」

と尋ねた。愛想がないのは相変わらずだ。無駄な世間話は絶対にしない。常に他人と距離を置きたがる様に見えるが、突然人懐っこくなったりする気まぐれな女性だ。ツンデレ度100パーセント。誇り高い性格は猫科の動物そのもの、彼女は密林の女王ジャガーだった。
 テオはいきなり死体の話を持ち出すのを避けた。そんなことをすれば、彼女は即行で電話を切ってしまう。それでなくても彼女は常に山のような業務上の難問を抱えているのだ。テオは目的を隠して話しかけた。

「久しぶりに2人で食事でもしないか?」
「そちらの奢りですか?」

 彼女は倹約家だ。実家は富豪だし、少佐の給料はそれなりに高給だが、高級アパートの家賃やメイドの給金を自腹で払っているので贅沢はそれ以上しない。養父母の財産を食い潰す親不孝もしない。彼女自身から食事しようと言い出す場合以外は自腹を切らない。
 テオは苦笑した。

「大学のカフェテリアでランチしないか?」

 テオだって高級取りと言えない。大学職員の給料は高くない。彼は教授ではないのだ。准教授だ。しかも正規職員となってまだ半年だ。

「結構。では、割り勘にしましょう。」

 めっちゃドライな女だ。時間を決めた。セルバ人は一般に時間にルーズだが、軍人は別だ。彼女は厳格に時間を守る。テオの方が時間通りに講義を終えられるか心配だった。

「要件はそれだけですか?」

 就寝時間を守りたい軍人が質問した。暗に電話を切れと催促している。テオはもっと話したかったが楽しみは明日にとっておこうと我慢した。それにあまり喋ると近所に相手の正体がバレてしまう恐れもあった。庶民は大統領警護隊を尊敬し頼りにしているが、同時に恐れてもいる。古代の神様”ヴェルデ・シエロ”と会話出来る人々、と言う認識だ。ご機嫌を損なうと神様に告げ口されると信じている。大統領警護隊そのものが”ヴェルデ・シエロ”の軍隊だとは知らないのだ。大統領警護隊と友達だと知られると、近所の人々との親密な近所付き合いに支障が出る恐れがあった。

「それだけだよ。明日が楽しみだ。アスタ・ラ・ヴィスタ。」
「ブエナス・ノチェス。」

 少佐はテオが切る前に電話を切った。

2021/08/24

第2部 バナナ畑  3

  エル・ティティ警察署には署長以下4人の巡査がいた。テオには兄貴みたいな連中だ。年下の巡査もここでは先輩なのだ。彼が身元不明の遺体の遺留品を見たいと言うと保管庫に案内してくれた。面倒な手続きはない代わりに、セキュリティ対策は皆無と言って良い程、簡単に保管用箱を見つけることが出来た。段ボール箱に遺体の発見年月日と場所、「身元不明」の文字が書かれているだけだ。テオは保管庫の入り口近くに置かれている机の上に箱を置いて、中身を出して見た。ボロボロの布の切れっ端はかつて白かったのだろう。不快な黄ばんだ色になっていた。服としての原型を留めておらず、死体の体に貼り付いていたので服だろうと考えられている。靴や帽子などはなかった。唯一テオの注意を曳いたのは木製の小さな物体で筒状になっており千切れた紐で死体の首に掛けられていたと言う。テオは箱の側面に「服と笛」と書かれている文字を発見した。ゴンザレス署長の筆跡だ。もう一度木の破片みたいなのを見ると、確かに中がくり抜かれていた。彼は案内役の巡査を振り返った。

「これは笛なのか?」
「笛にしか見えないだろう? この保管庫は身元不明者の遺留品でいっぱいだ。これっきりにして欲しいね。」

 テオはその返答を聞いて、ちょっと複雑な気分になった。2年近く前アメリカに一時帰国していた時期があった。エル・ティティでバス事故に遭って記憶喪失になっていた時期だ。事故から2ヶ月も経ってから身元が判明して、彼は生まれ育った国立遺伝病理学研究所へ連れ戻された。しかし秘密の多い研究所に過去を失った彼はどうしても馴染めず、エル・ティティに帰りたいと強く願うようになっていった。そんな時、一人だけ彼に親切にしてくれた研究員がいた。デイヴィッド・ジョーンズと言うその研究員はテオを励まそうと地元にあった中米の考古学博物館へ連れて行ってくれた。その時ジョーンズは売店で土産物の土笛を購入したのだが、その笛はインディオの呪いがかけられた笛だった。笛を吹いたジョーンズは呪いで精神に異常を来たし、傷害事件を起こしてしまったのだ。テオは大統領警護隊の友人に助けを求め、ジョーンズにかけられた呪いを解いてもらったが、ジョーンズの研究者生命は絶たれてしまった。アメリカを逃げ出してセルバ共和国に亡命した今は、ジョーンズの消息を知る術もない。
 巡査はテオが沈黙してしまったのは、保管庫にある他の遺留品の箱のせいだと誤解した。テオが記憶を失いゴンザレス署長の家で世話になるきっかけとなったバス事故の犠牲者の遺留品だ。山道から深い谷間に転落して焼けたバスの乗員乗客達の引き取り手のない遺留品だ。犠牲者の多くは焼け焦げ、身元の判別が出来ない為に街の共同墓地にまとめて葬られた。遺族が見つからなかった者もまだいたのだ。引き取り手のない焼け焦げた鞄や靴やなんだかわからない物がまとめて箱に仕舞われていた。テオは過去の記憶が戻った今も事故当時のことだけは思い出せない。どうしても思い出せない。だから犠牲者達を思い出してやることも出来ない。

「まだ6人残っているんだ。」

 巡査が言った6人は身元が判明しない犠牲者だ。判明しても遺体がどれだかわからない人の場合は墓標に名前が書かれていたが、その6人は名前すらわからないのだ。恐らく永久にわからないだろうとテオも巡査も予感していた。
 テオはバナナ畑の死体が持っていたと言う笛を手に取った。

「これを借りて行っていいかな?」
「スィ、君なら何を持って行っても良いさ。」

 テオは預かり証に名前を書いた。その笛は呪いの笛と違ってひどく粗末でありふれた物に見えたが、死体の身元を探るにはそれしか手がかりがなかった。
 ゴンザレスはテオが笛を借りたと告げると、物好きだなぁと言いたげな顔をしたが、特にコメントはなかった。テオは笛をビニルバッグに入れて、月曜日の朝一番のバスに乗った。


第2部 バナナ畑  2

 「多分殺されたんだろうって言うだけさ。死因も名前もわからん。性別だって男物の服を着ていたから男だとわかっただけだ。」
「検死しなかったのかい?」

 テオは時々アメリカのテレビドラマみたいなことを言う。ゴンザレスは早くこの話題を終わらせたかった。

「ドクトル・ウナヴェルトが診てくれた。」
「それでも死因はわからないのかい?」

 ドクトル・アルストはご不満らしい。エル・ティティの町医者がミイラの解剖なんて出来る筈がないじゃないか。ウナヴェルトは外科医で内科医で産科医でもあるが、法医学者ではないし、白骨同然のミイラの解剖をする程暇じゃない。

「興味があるなら、お前が調べるこったな。墓の発掘許可ぐらいなら出してやるぞ。大統領警護隊文化保護担当部に申請しなくても、俺が出してやる。」

 皮肉を言ったのは、流石にそこまでやらないだろうとたかを括ったからだ。テオは意外に繊細な男だ。死体を見るのは好きでない。ゴンザレスはそれを承知していた。果たして、義理の息子はそれ以上死体の話題に突っ込まずに、新学期の大学の話へ方向転換した。親友で大統領警護隊のカルロ・ステファン大尉が文化保護担当部から警護隊本隊へ逆出向になったこと、カルロの妹のグラシエラがグラダ大学の文学部に入学したこと、彼女が美人なので忽ち男子学生達の間で話題になっていること、テオの妹になるアリアナ・オズボーンが出向先のメキシコ、カンクンの病院で新しい研究に取り組んでいること等。それでゴンザレスは死体のことを忘れてしまった。
 翌朝日曜日の礼拝を終えた神父がテオを訪ねて来た。テオはクリスチャンではないので教会の礼拝に行ったことがない。ゴンザレスも妻子を亡くしてから教会から足が遠のいていたので、神父がゴンザレス家の分厚い木製のドアをノックした時、義理の父子はやっと起きて遅い朝食をとっているところだった。缶詰の煮豆と乾いた硬いパンとホットチョコレートの朝食だ。
 扉を開ければいきなり居間兼食堂だ。出迎えたゴンザレスと挨拶を交わし、神父がテオに少し話があるのだがと切り出した。テオは立ち上がって神父を席へ案内した。ゴンザレスが食べ終わった食器を片付け、神父にコーヒーは如何ですかと尋ねた。神父が喜んで戴きますと言った。
 テオはまだ煮豆を食べていた。缶詰の煮豆はそれなりに美味しいが、彼はもっと美味しく豆を煮込める人を知っていた。また彼女のアパートに泊まりに行きたいなぁと思った。それも寝るのは客間ではなく・・・。
 神父は暫くゴンザレスと世間話をしていた。テオの食事が終わるのを待ってくれていたのだ。喋りながら神父は室内を見回した。飾り気のなかった男鰥のゴンザレスの家が少しだけ華やいで見えた。花を飾っているとか、絵画を壁にかけているとか、そんなことではない。テオドール・アルストと言う若者が華やいだ美形の容姿を持っているのだ。下手をすると初老の男が若い同性の愛人を家に置いていると思われそうだが、ゴンザレスの人柄を知っている街の住人達はそんな失礼な想像をしたことがなかった。テオが例え若い娘であっても、絶対にそんな想像はしないだろう。それに住人達はテオが異性愛者であることも知っていた。街の若い娘達に誘われるとそれなりに鼻の下を伸ばして遊びに行くのだ。彼が現れる前のゴンザレスの寂しい生活を知っていた神父は、テオは神様が警察署長を救うために遣わした天使かも知れないと思った。その天使に、神父は生臭い話題を出した。

「バナナ畑の気の毒な男の話を聞いたかね?」

 テオが頷いた。

「身元不明だそうですね。」
「そうだ。私も彼の為に何か役立とうと、礼拝の時に信者に心当たりはないかと尋ねてみるのだが、未だに反応がない。教区の人々の知らない人間らしい。しかし家族にも会えず見知らぬ土地で葬られた男が私には哀れに思えてならない。彼の身元を探す手がかりが欲しい。」

 神父にじっと見つめられて、テオは相手が何を言わんとしているのか想像がついた。

「死体のDNAを調べろと仰るのですか?」
「スィ。」

 神父がニッコリした。テオは首を振った。

「駄目ですよ、神父さん。DNA鑑定による身元確認は、比較対象が必要です。行方不明者として届出がある人の細胞や、血縁者の細胞が手に入らないと、死体のDNAだけでは誰なのかわからないのです。」

 田舎司祭は最先端技術が決して万能ではないことを知った。がっかりした表情でコーヒーを啜った。

「先ず行方不明者の届出があるか調べなければならないのだね?」
「スィ。お役に立てなくて残念ですが・・・」

 正直なところテオは残念でもなんでもなかった。ミイラを掘り出して解剖するなんてご免だった。そんなことはムリリョ博士でもやらないだろう。
 ・・・ってか、その死体は”ヴェルデ・シエロ”じゃないだろう? ”ティエラ”のメスティーソだろうけど・・・
 確率的に考えれば、古代先住民の子孫である筈がない。”ヴェルデ・シエロ”に何か災難があればグラダ・シティに聳え立つ”曙のピラミッド”におわします偉大な巫女ママコナが察知する。或いは同じ部族の長老達が何かを感じる。そして捜査機関を水面下から動かして調査させるだろう。だが彼等は普通の人間の事件には首を突っ込まない。
 神父がコーヒーの礼を言って帰って行くと、テオはテーブルの上を片付け、食器を洗った。ゴンザレスは着替えて休日の楽しみである近所の雑貨店の親父達とのお喋りクラブに出かける準備をしていた。幼友達のオヤジ達が集まってカード遊びをしたり、ボードゲームをしたりして遊ぶのだ。テオは己も歳を取ったら飲み友達とそうやって日々を過ごすのかなと想像して可笑しくなった。オヤジになった己がちょっと想像つかない。
 バナナ畑で死んでいた男もいつかオヤジになってのんびり過ごしたかったんじゃないのか?
 テオは少しだけ死体の身元を調べて見ようと思った。ゴンザレスに声をかけた。

「ちょっと警察署に行ってくる。例の身元不明者の遺留品はまだ保管されているよね?」

第2部 バナナ畑  1

  その死体は長い間誰にも気づかれずにそこにあった。

 バナナ畑の所有者がもう少し畑を拡張しようと、東の藪を刈っていて見つけたのだ。エル・ティティ警察の署長アントニオ・ゴンザレスが通報を受けて駆けつけた時、死体は半ばミイラ化していた。ゴンザレスは物盗りの犯行だろうと思った。エル・ティティで住民の誰かが行方不明になったと言う届出は絶えて久しく無く、死体は他所者だろうと警察は考えた。物盗りならこの小さな寂れた田舎町にだっていくらでもいたし、乱暴な奴もいた。ゴンザレスは死体は男だろうと見当をつけた。街の唯一の医者ドクトル・ウナヴェルトも同意見だった。何故なら死体は男物の衣服を身につけていたからだ。身分証はなかった。財布ごと盗られたのだろう。死体は近隣の農民と思われ、そうなら普段身分証など持ち歩かなかったかも知れない。身元が判明しない死体はすぐに忘れ去られる。事件は未解決のまま有耶無耶になろうとしていた。エル・ティティでは・・・否、このセルバ共和国では珍しいことではなかった。警察は泥棒や交通違反の取り締まりに忙しく、身元不明者の捜査などしている暇はない。それに他人の過去を詮索しないと言うこの国に古くからある習慣も捜査のネックになった。市民は警察に期待しないし、警察だって期待されるのは迷惑だ。だから死体が街の共同墓地に埋葬されてしまうと、ゴンザレスはそいつのことをすぐに忘れかけた。
 死体が発見されて5日後に、首都グラダ・シティからゴンザレスの息子のテオドール・アルスト・ゴンザレスが週末の帰省をした。テオはゴンザレスの養子だ。本来はアメリカ合衆国の人間だった。DNAの研究をしていた偉い科学者だったのだ。それなのに田舎警察のウダツの上がらぬ署長の養子になってくれた。これには複雑な事情があって、ゴンザレスは今でも時々夢を見ているような気分になる。家族と死別した初老の警察官と、生まれた時から家族がいなかった若者、孤独な魂同士が惹かれあって親子になったのだ。正式に養子縁組をして家族になってからまだ半年だった。
 テオは国立グラダ大学生物学部で遺伝子の研究をしている。発生遺伝学とか進化発生遺伝学とか、ゴンザレスには理解出来ない難しい学問だ。テオは研究をしながら学生の講義も担当している。立派な大学の先生なのだ。まだ教授じゃないよ、と彼は言うが、ゴンザレスは他人に自慢する時は息子は教授だと言っていた。
 自慢の息子が土曜日のお昼にバスに乗って帰って来た。前日金曜日の深夜に夜行バスに乗ってグラダ・シティを出発して、昼前にエル・ティティに到着だ。エル・ティティの平均的庶民の家と同じ、土煉瓦に漆喰を塗ったゴンザレスの家に入り、男所帯の家の掃除をして溜まった汚れ物を洗濯して彼は午後を過ごす。夕方ゴンザレスが帰宅すると夕食が出来上がっていて、2人でビールを飲みながらのんびりと楽しい夜を迎えるのだ。週末に休日を入れるのは署長の特権だ。ゴンザレスはセルバ的な習慣を遠慮なく使って、数年ぶりの家族団欒を楽しんだ。
 テオは留守の間にエル・ティティで起きたことを知りたがる。養父の職務が危険と隣り合わせであることを十分承知していたからだ。警察官はどこの国でも危険で厳しい仕事だ。セルバ共和国は決して極貧ではないが、裕福でもない。富と繁栄は東海岸の首都グラダ・シティと西の高地の鉱山街オルガ・グランデに集中し、国民の多くは昔ながらの農耕や漁で暮らしている。或いは鉱山で危険な採掘現場の労働をして稼ぐのだ。この国の不満分子は反政府ゲリラか強盗団になる。ゴンザレスの仕事はそいつらがエル・ティティの住民に危害を加えぬよう警戒することだ。悪党と戦うのは政府軍の憲兵隊や陸軍特殊部隊の仕事だが、警察は権力者の「手先」なので、見せしめに狙われたりすることも往々にある。だからテオは不安なのだ。治安の良いグラダ・シティに養父を呼び寄せて暮らしたいのだが、ゴンザレスは故郷を離れたがらない。失った家族の墓も守らねばならない。だからテオは街の出来事を彼なりに分析して、ゴンザレスに危険が近づいていないか確かめようとしていた。

「殺人事件があったそうだね?」

 テオは流暢にセルバ共和国公用スペイン語を話す。恐らくネイティヴのゴンザレスより正しい文法と発音で話せる筈だ。しかしゴンザレスの前ではティティ方言と呼ばれるティティオワ山周辺で話されている方言を使う。まるでここで生まれ育ったかのように自然に喋る。それが彼の才能の一つだ。彼は一度耳にした言語を3日もあれば覚えてしまう。彼のDNAがそうなっているのだ。彼、テオドール・アルスト、英語名シオドア・ハーストは、遺伝子操作されて生まれた人間だった。

「殺人事件だなんて、誰が言ったんだ?」

 ゴンザレスは不機嫌な顔で尋ねた。家で仕事の話をしたくなかった。退屈な街の警察業務なんて退屈でしかないし、食事時に死体の話は全く相応しくない。彼はグラダ・シティの噂話の方が面白そうだと思った。しかしテオは反対の意見を持っていた。

「男が物盗りに殺されたって聞いたけど?」

 きっとバスの中で誰かが喋ったのだ。話題が少ないから、身元不明の死体の話を誰かがいかにも自分が見てきたかのように喋ったのだろう。
 

番外編 1 雨の日 3

  ケツァル少佐はロビーの窓から外に駐機しているプロペラ機を見た。

「無事に降りたので、私は用がないですね。では仕事に戻ります・・・」
「待って下さい。」

 ステファンは慌てて彼女を引き留めようとした。

「母が貴女に会いたがっています。」

 ケツァル少佐は手に視線を落とした。ステファンはうっかり彼女の手を掴んでしまっていた。慌てて手を離した。

「失礼しました。」

 少佐は小さな溜め息をついた。彼女も落ち着かないのだろう、と彼は思った。
 カタリナ・ステファンとグラシエラがトイレの方角から歩いて戻って来るのが見えた。精一杯おめかししているが、お上りさん感は誤魔化せない。母親は伝統的な民族衣装に似せた他所行きの服を着て、妹は新しいカットソーのチュニックとジーンズだ。オルガ・グランデでは普通に見られるファッションだが、グラダ・シティでは浮いて見える。もっとも国内線空港ロビーはお上りさんでいっぱいだから、ここではまだマシだ。カルロは休暇をとっているので私服だった。襟付きのシャツにジャケット(勿論拳銃ホルダーを隠すためだ)、ジーンズだ。 そしてケツァル少佐は仕事中に抜けて来た。但し、いつもの軽装ではなく正装と言うか、平時の軍服だった。ファッションは関係ないので、お上りさんの父の家族に気まずい思いをさせないで済む。しかし、目立っていた。市民は軍人だと気がついても普通は気にしないのだが、胸に緑色の徽章が輝いているとなると別物だ。しかも少佐はカタリナ母娘がすぐに息子を見つけられるように、緑色のベレー帽を出して被った。

 ラ・パハロ・ヴェルデ以外の何者でもない!

 果たしてグラシエラが先に彼女を見つけて、母を促し足早に戻って来た。兄に似て少し丸みがかった輪郭、キラキラ輝く目のセルバ美人だ。一瞬ステファンは思った。

 (少佐 + マハルダ) ÷ 2

 彼の耳にだけ聞こえる声で少佐が囁いた。

「紹介しなさい。」

 ステファンは母が正面に来たので、素早く紹介した。

「母のカタリナ・ステファンと妹のグラシエラ・ステファンです。」

 そして母達にも言った。

「大統領警護隊文化保護担当部指揮官シータ・ケツァル・ミゲール少佐であられる。」

 改まった言い方に少佐が吹き出しそうになるのを耐え、それからカタリナの額に視線を向けて、姿勢を正し敬礼して見せた。

「ミゲールです。グラダ・シティにようこそ。」

 グラシエラが目を見張った。

「本物のラ・パハロ・ヴェルデなんですね!」
「失礼ですよ、グラシエラ。」

 カタリナが控えめな声で娘を叱った。ケツァル少佐は微笑んで異母妹を見た。

「貴女のお兄さんも本物のエル・パハロ・ヴェルデでしょ?」

 グラシエラは頬を赤く染めて頷いた。少佐に初めましてと挨拶してから、兄に飛びついた。

「カルロ! 大きくなっちゃったね!」

 まるで母親の台詞だ。カルロが妹のキス攻撃に苦戦している間に、カタリナ・ステファンが少佐の前に来た。

「初めまして。」

と彼女が挨拶した。少佐も彼女に向き直った。右手を左胸に当てて「初めまして」と一族の伝統的な作法で挨拶した。一瞬目と目が合った。少佐の目に涙が浮かび、彼女は慌ててベレー帽を脱いで目に当てた。カタリナが優しく彼女を見つめた。

「グラシャス、セニョーラ・ステファン」

と少佐が囁いた。

「初めて父を見ました。」

 カタリナ・ステファンがケツァル少佐を抱きしめたので、カルロは妹を抱きしめたままびっくりして2人の女性を見つめた。




2021/08/23

番外編 1 雨の日 2

 「どっちが良いと思います?」

 ケツァル少佐が2つのチョコレートの箱を掲げて尋ねた。アーモンドチョコレートとマカデミアナッツチョコレートだ。どっちでも良いと思ったカルロ・ステファンは答えた。

「どっちも彼女は好きですよ。」

 少佐が怪訝な顔をした。

「彼女?」

 一瞬気まずい空気が空港ロビーに流れた様な気がした。カルロはしくじったと悟った。少佐は誰かにあげるのではなく、己のおやつを買っていたのだ。少佐も彼の勘違いに気がついた。低く「ああ・・・」と呟いて、2つの箱を眺め、両方をレジへ持って行った。
 余計な金を使わせてしまった、と彼は反省した。少佐は金持ちだが無駄遣いは決してしない。
 セルバ航空の緑色にペイントされたプロペラ機が降りて来た。セルバは「森」と言う意味だ。国の色も緑だ。国土の4分の3は森林だが、カルロの故郷オルガ・グランデは砂漠の入り口にある乾燥した台地だった。そこから母と妹がやって来た。2人共オルガ・グランデを出たのは初めてだ。飛行機も初めてだ。大きな荷物を載せたカートを引きずって2人がゲートから出て来た。国内線は搭乗する時は荷物の検査が厳しいが、降りる時は自由だ。カルロは懐かしい家族の顔が見えた瞬間、足早にそちらへ向かった。少佐を売店に置いて来てしまったが、迷子になったりしないだろう。

「カルロ!」

 母親が名を叫んだ。彼は最後はダッシュで母と妹に駆け寄った。母がカートを彼の方へ押した。

「ちょっと見張ってて!」

 ハグする間もなく、母と妹は空港のトイレにダッシュした。彼が呆気に取られてカートの取っ手を握って立っているところへ少佐がやって来た。トイレに駆け込んでいく母と娘をチラリと見て、呟いた。

「気の毒に、ずっと我慢していたのですね。」

 セルバ航空国内線の揺れはハンパではない。


第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...