2021/08/26

第2部 節穴  1

  セルバ共和国大統領警護隊、通称ロス・パハロス・ヴェルデス(緑の鳥)は一般市民にとって憧れと畏怖の対象だが、実は”ヴェルデ・シエロ”だけで構成されている軍隊であることは全く知られていない。そもそもこの種族の名前を知っているのは考古学者と人類学者、そして政府の要職についている一部の人々だけだ。5千年以上昔に絶滅したと言われている古代の神様の名前で、その後に台頭した部族が残した遺跡の彫刻や壁画で知られる伝説の部族と考えられている。「頭に翼を持つ神」として知られ、半身がジャガーの彫像もある。しかし、”ヴェルデ・シエロ”は実在した。そして今も実在する。セルバ人はその名を知っているが口に出さないだけなのだ。うっかり噂話などして神様の耳に入りご機嫌を損なうと大変だから。ロス・パハロス・ヴェルデスが畏怖の対象となっているのは、彼等が神様と会話出来ると信じられているからだ。神様そのものだなんて市民は誰も想像していない。警護隊のご機嫌を損ねて神様に告げ口されてはたまらない、と思っているのだ。
 大統領警護隊が警護するのは大統領と政府高官、国賓、セルバ共和国の精神的シンボル”曙のピラミッド”に座す巫女ママコナだ。そして市民は知らないが、国全体を彼等は守っている。小さな貧しいセルバ共和国が、飢えもせず大規模な飢饉に遭いもせず、疫病とも縁が薄いのは、彼等が守っているからだ。
 アンドレ・ギャラガは半分白人の血が流れている。他のメスティーソより肌が白く髪も赤い。”ヴェルデ・シエロ”の血は4分の1だけだ。だから”曙のピラミッド”から語りかけるママコナの声を聞けない。頭の奥で蜂がブンブン唸っている様に感じるだけだ。アメリカ人だった父親は彼が5歳の時に病死して、彼は貧しい生活の中で育った。母親も半分だけの”ヴェルデ・シエロ”で超能力をうまく使えなかった。彼女は街で体を売り、病気で彼が10歳になる前に亡くなった。ギャラガは食べる為に年齢を偽って軍隊に入った。15歳の時に陸軍の特殊部隊に入れられた。荒くれた兵士の中で揉まれて一人前に喧嘩の上手い男になった。そして1年後に大統領警護隊に採用された。
 正直なところ、何故己がそんなエリート部隊に採用されたのか、ギャラガは理解出来なかった。周囲は、”ヴェルデ・シエロ”ばかりだったのだ。彼等は目と目を見合わせるだけで一瞬にして情報交換や会話が出来る”心話”を使う。だがギャラガはそれが出来なかった。”心話”が出来ることが”ヴェルデ・シエロ”の条件である筈なのに、出来ないギャラガが大統領警護隊にいる。ギャラガ自身、己が”ヴェルデ・シエロ”だと言う自覚がなかったので、大いに当惑した。僚友達は皆”心話”を使える。”ヴェルデ・シエロ”と”ヴェルデ・ティエラ”のミックス達だ。見た目は純血先住民で白人の血が混じるギャラガとは外観が異なる。勿論、白人とのミックスであるメスティーソもいる。彼等は”出来損ない”と侮蔑の呼称を与えられているが、それでも”心話”を使えるし、ある程度の超能力を使う。そしてナワルも使えるのだ。
 ナワルはジャガーに変身する能力だ。能力の弱い者はジャガーより小さめのマーゲイやオセロットに変身する。しかしギャラガは当然それも出来ない。それより僚友がナワルを使うのを見て、仰天して気絶してしまったのだ。”出来損ない”の”落ちこぼれ”のアンドレ。気がつくと友人は出来ず、誰もが彼と組んで警備についたり訓練するのを敬遠していた。能力のない者と組めば危険だ。それが彼等の考え方だった。

 ギャラガが配置されている大統領警護隊警備第4班は、大統領府西館の夜間警備と”曙のピラミッド”の日中警備を担当していた。火曜日の夜、ギャラガは西館の大統領夫人の部屋の外で立ち番をしていた。一人だ。”ヴェルデ・シエロ”は能力をもっているので、基本的に単独行動する。一人になると彼はホッとした。他人を気にせずにいられる。軍隊はプライバシーのない世界だし、”ヴェルデ・シエロ”同士では秘密を持つことが難しい。この立ち番の時間だけが、彼の心が自由になれる時だった。
 乾季の夕刻。短いスコールが過ぎ去って涼しい風が彼の頬を撫でた。まもなく満天の星空になるだろう。工業があまり盛んでない貧しい国だからこそ、空気が澄んでいる。ギャラガは壁にもたれかかり、抑制タバコを咥えた。強い能力を持つ純血種や気の制御が下手なミックスに軍から支給される、特殊な薬効を持つ植物から作られるタバコだ。ギャラガは能力がないので支給対象外だが、官舎の仲間がたまに分けてくれた。好意より厚意だ。ギャラガは遠慮せずにもらうことにしていた。国民の税金で作られるタバコだ。もらって何が悪い?
 安物のライターでタバコに火を点けた時、正面のハイビスカスの茂みで人の気配があった。彼はタバコを投げ捨て、アサルトライフルを構えた。

「誰だ?!」

 返事はなかった。しかし確かに誰かいる。彼は何者かの視線を浴びている感触を拭えなかった。冷たい視線がこちらを向いている。彼の能力の大きさを測るような酷く冷静な目。彼は姿が見えない相手を睨みつけた。下手に動くと攻撃されそうな気がした。侵入者なのか? 彼はもう一度声をかけてみた。

「出て来い! ここは立ち入り禁止区域だぞ!」

 やはり返事はなく、誰も出て来ない。彼は意を決して一歩前に出た。向こうは動かない。彼はもう一歩前に踏み出した。それでも反応なし。彼の胸中に疑問が湧いた。本当に茂みの中に誰かいるのだろうか。
 彼はタバコを踏み消して、隙を作って見せた。それでも相手は動かなかった。誰もいないのだ。彼は確認の為に茂みに近づいた。銃口を向けたまま茂みを覗いた。
 誰もいなかった。彼は周囲を見回した。気配は確かにあったのに、実体がなかった。

第2部 バナナ畑  9

  その夜、テオはエル・ティティのゴンザレス署長のところへ電話をかけた。笛からわかったことを報告すると署長は喜んだ。

「やっぱりお前は頼りになる息子だ!」
「まだ喜ぶのは早いぜ、父さん。死体が誰なのかわかっていないんだから。場所の見当がついたってだけのことさ。空振りかもしれないし。」
「そうだとしても、俺はがっかりせんよ。あの死体も気にしてくれる人がいて嬉しかっただろうさ。ちっとは安心出来るんじゃないかな。誰にも思い出してもらえないなんて、辛いからな。」

 それはテオが一番身に染みてわかっていた。バス事故で記憶を失って2ヶ月、誰も彼を探しに来なかったのだ。自分は何処の誰なのか、探す価値もない人間なのか。犯罪者だったのかも知れない。天涯孤独の身の上だったのか?
 結局、彼が生まれ育った国立遺伝病理学研究所は、グラダ・シティとオルガ・グランデしか探していなかったのだ。2つの都市を結ぶ田舎の幹線道路で交通事故があって、テオがそれに巻き込まれたなどと想像すらしていなかった。テオは偶々事故を起こしたバスに乗っていた可能性が考えられた犯罪者を追跡してやって来たケツァル少佐と出会い、彼女に誘導されるままオルガ・グランデに行って研究所の科学者と遭遇した。しかしバナナ畑の死体はもう動けない。

「オルガ・グランデ警察には俺から連絡を入れておく。」

とゴンザレスが言った。

「その笛を使うシャーマンがいた村がオルガ・グランデ警察の管轄なのかどうか、知らんがな。」

 テオは大統領警護隊も少し協力してくれたと言えば?と言おうとして止めた。ロス・パハロス・ヴェルデスの名を出せばオルガ・グランデ警察は動くだろうが、それではケツァル少佐に迷惑がかかるかも知れない。大統領警護隊文化保護担当部は、西部の遺跡監視の時陸軍のオルガ・グランデ基地をベースに活動するからだ。
 結局彼が出来たことはそこまでだったので、その件は終了したと終われた。

第2部 バナナ畑  8

  木材の DNA抽出は素材が小さ過ぎて無理っぽく思えた。カラカラに乾燥しており心材はくり抜かれていたので、細胞採取は不可能だった。それでテオはシエスタが終わると考古学部へ出かけた。午後は授業がない。
 正直なところ彼は考古学部の人類学教授ファルゴ・デ・ムリリョが苦手だった。気難しく白人嫌いで定評がある先住民の老人だ。セルバ国立民族博物館の館長でもあり、”ヴェルデ・シエロ”の長老会の会員だ。マスケゴ族の長老でもあり、族長でもあったが、同時に純血至上主義者で”砂の民”でもあった。”砂の民”は”ヴェルデ・シエロ”の影の仕事をしている役職で、一族の安全を脅かす存在であると長老会が認定した人間を抹殺する役目を負っていた。本当なら、テオは白人でアメリカ政府の機関の人間だったから、”ヴェルデ・シエロ”の秘密を知った時点で消された可能性があったのだ。彼が無事に今の生活を手に入れたのは、大統領警護隊文化保護担当部のメンバー全員と友人になれたからだ。そして彼自身もちょっぴりだがセルバ共和国の国家的危機を救ったお陰だ。
 純血種のセルバ先住民と話をする時は、色々と作法があって、テオはまだ全部覚えきれていない。先ず、初対面の相手とは直接会話をしてはならない。目上の方が許可する迄は、目下の人間は紹介してくれた人を介して話をするのだ。そして目上の人は、目下の人を頻繁に無視する。(とテオは感じている。確証はない。)用件に直接入る前に長々と関係なさそうな話をする。(ただの世間話に聞こえる。)相手の目を見てはいけない。これはセルバ人全体の作法でもある。他所の家の女性とその家の家族がいない場所で言葉を交わしてはいけない。等々。もっともこれらの作法は若いセルバ人も覚えきれないようで、街でも大学でも年長者に叱られている若者をたまに見かけた。この作法は”ヴェルデ・シエロ”も”ヴェルデ・ティエラ”も関係ないようだ。
 その日、幸運にもムリリョ博士は不在だった。考古学部の事務員が教授はペルーへ出張ですと教えてくれた。それでケサダ教授の都合を尋ねると、フィデル・ケサダは学部のサロンで休憩中とのことだった。早速押しかけてみると、ケサダはコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。サロンは開放空間で窓が全開になっており、テラス通路から心地よい風が入ってきていた。生物学部より環境が良さそうだ。予約なしで訪問したので機嫌を損ねはしないかと心配しながら「こんにちは」と近づくと、ケサダは新聞から顔を上げて挨拶を返してくれた。
 ケサダもマスケゴ族だ。テオは尋ねたことはなかったが、恐らくこの男も”砂の民”だろうと思っていた。ずっと以前、まだテオが”ヴェルデ・シエロ”の存在をようやく知りかけた頃に、グラダ大学考古学部で客員教授をしていたイタリア人が急死したことがあった。彼はジャングルの奥で消えた村の存在を聞きつけ、調査に乗り出して、「消された」のだ。誰が手を下したのかわからない。だがテオはムリリョとケサダでないことを願っていた。この2人には色々と世話になっている。死んだイタリア人も知り合いだった。考古学部内で「粛清」が行われたと思いたくなかった。
 ケサダ教授はムリリョ博士の弟子だ。先住民らしく愛想が良いとは言えないが優しいので学生達に人気がある。テオも彼とは話がし易かった。同席許可を求めると快く正面の席を手で指してくれた。

「少しだけお時間を頂けますか?」
「スィ。何でしょう?」

 それでテオはビニルバッグを出して笛をテーブルの上に転がした。前もって笛の出処を説明した。ケサダもケツァル少佐同様死体が身に付けていたと聞いても驚かなかった。

「古い物じゃないと思います。最近の物で何処かの村人が手作りした物でしょう。俺が知りたいのは、この笛を使用する地域が何処かと言うことです。ケツァル少佐に見せたのですが、彼女は遺跡の出土品でなければわからないと言いました。でも考古学では現代に残っている文化と古代の文化を比較して調査することもありますよね? こんな笛をご覧になられたことはありませんか?」

 ケサダは笛を手に取ることもなく、見ただけで言った。

「”雨を呼ぶ笛”ですね。」

 テオがびっくりしているのも気にせずに彼は続けた。

「オルガ・グランデの北になる乾燥地帯で見たことがあります。痩せた土地でトウモロコシを栽培して暮らしている村があります。そこのシャーマンが身に付けていました。雨乞いの笛ですが、雨は降る時は降るし、降らない時は降りません。」

 つまり、その村は”ヴェルデ・シエロ”ではなく”ヴェルデ・ティエラ”の村なのだ。”ヴェルデ・シエロ”はちょっと狡いところがある種族で、自分達の超能力でカバー出来ない自然現象等で名声を失いたくないのだろう、雨乞いやハリケーンを防ぐような祈祷はやらない。そう言う生活に密着した呪いの類は”ティエラ”の祈祷師に押し付けてきた。農村部で見かけるシャーマンは皆”ヴェルデ・ティエラ”、つまり普通の人類なのだ。

「すると、この笛をもっていた人はシャーマンだった可能性があるのですね?」
「盗んでも価値のない物ですから、この笛を身に付けていた人が正当な持ち主なのでしょう。」

 そしてケサダは呟いた。

「シャーマンを殺すなど、罰当たりも良いところだ。」



第2部 バナナ畑  7

  テオはビニルバッグから例の笛を出した。ケツァル少佐は興味なさそうに視線を向けた。

「ケ・エス・エスト?」(何ですか?)
「笛だと言われている。」

 少佐がその汚い物体を素手で掴み上げた。色々な方向から眺めて鑑定結果を出した。

「新しい年代の物ですね。」

 勿論テオはそれが遺跡の出土物だとは考えていなかった。木製の物は腐ってしまって残らないことが多い。セルバの古代文明の遺物は石や粘土で作られた物が殆どだった。

「そいつはね、先週エル・ティティのバナナ畑で発見された身元不明の死体が身に付けていた物なんだ。」

 普通、そんなことを聞かされたら女性はキャアっとか何とか叫んで物を放り出してしまいそうだが、ケツァル少佐はテオの期待を裏切らず、笛を顔に近づけてますますじっくりと観察した。そして指摘した。

「これは半分欠けていますよ。」
「欠けているって?」

 彼女が笛の紐が付いていない方の端を示した。

「木の切り口がもう片方より不規則で鋭利でしょう。この笛はもう少し大きかった筈です。割れてしまったのでしょう。中にピーがあった筈ですが、失われています。楽器として作られたと言うより、ただのホイッスルの様な役目の笛だったと思います。」

 そしてテオの顔を見た。

「貴方がその死体の身元探しを引き受けたのですか?」

 物好きですね、と言う響きがあった。この男はどうしていつも他人の厄介ごとに首を突っ込むのだろう、と彼女は思ったに違いない。

「好きで引き受けた訳じゃない。」

とテオは言い訳した。

「エル・ティティの神父が俺に協力を求めてきた。俺もかつては身元不明者だったし、誰かに恩返しをしてみたい。それに自分の地元で見つかった身元不明の死体が誰なのか解明したいじゃないか。」

 少佐が笛を彼の方へ差し出した。

「残念ですが協力は出来ません。この笛が古代の遺物だったら私の知識も多少の役に立つでしょうが、新しい物は何もわかりません。それにこれは素人の手作りと見ました。製造者を探すのは無理です。」

 しかし、彼女はいつも他人を突き放してから、一言助言をくれる。

「材質のDNAを調べてみては? 或いはムリリョ博士にお見せするとか?」

 今回は二言くれた。


第2部 バナナ畑  6

  カルロ・ステファン大尉は本部に召喚される少し前に、故郷オルガ・グランデから母親と妹を呼び寄せた。小さな家を買って3人で住むつもりだったのだが、実際に親子3人水入らずで住んだのはほんの一月程で、今は警護隊の官舎に入っている。母親と妹はがっかりしただろうが、慣れない都会暮らしをケツァル少佐と文化保護担当部の仲間達が助けているので、大尉が出向の任務が明けて戻って来る迄我慢しているのだ。カルロが入隊して彼女達をグラダ・シティに呼び寄せる迄一度も帰郷したことがなかったことを思えば、ほんの1年や2年我慢出来ると母親のカタリナは言った。
 カルロが戸建ての家に引っ越す迄住んでいたアパートと中古のビートルはロホが受け継いだ。官舎に住んでいた彼はカルロと交替で外に出たのだ。カルロの分も仕事が増えて残業する日が増えたこともあったが、相変わらず根無草の様に友人宅を泊まり歩く部下のアスルを引き留める目的もあった。アスルは少尉のままが良いのか、安定した住所を持って中尉になろうと言う気配がない。普段の態度を見ていると彼はテオを嫌っている風にも見えるのだが、時々テオの家にも泊まりにやって来る。テオが、アリアナが戻ってきた時の為に空けてある寝室の一つに半分住み着いているのだ。汚さないし、住み着いている痕跡もないので、テオは好きにさせている。もしかすると、アスルは「通い猫」の気があるジャガーなのかも知れない。
 マハルダ・デネロス少尉は文化保護担当部の「兄貴」が一人減ってしまったので、当初沈んでいた。しかしカルロの妹グラシエラがグラダ大学の入試を受けると聞くと張り切って家庭教師を買って出た。デネロスの方が1歳年下だが、大学生としては立派な先輩だ。但し彼女は通信制だったので、考古学部以外の教授のことはそれほど知らなかった。だからセルバ流にコネを使って情報収集を行い、試験の傾向と対策を練ってグラシエラを無事に合格させた。
 多分、カルロがいなくなって一番寂しい思いをしているのはケツァル少佐だ、とテオは確信していた。少佐はカルロとロホと3人で文化保護担当部を創り上げたのだ。少佐の左右にいつもいた2人のうちの一人がいなくなってしまった。カルロが使っていた机はまだそのままで、書類や備品の物置になっている。つまり、少佐は誰にもその机を使わせたくない訳だ。カルロは彼女の頼れる副官で、大事な部下で、(彼女は否定するだろうが)可愛い弟なのだ。そして、遺伝子学者としてテオはどうしても許せないが、彼女はカルロを男性として愛している。口に出して言わないが、態度で出ている。やはり男性として、テオはそれも許せない。
 テオに対する少佐の態度が変化したことを彼は気づいていたが、言葉に出して言わなかった。以前の少佐は彼に愚痴をこぼしたり不要な世間話をしなかった。しかしこの日は違った。前夜の電話では渋々承諾したかの様なランチデイトだったのに、当日になると彼女が一方的に喋って彼は聞き役に回っていた。ストレス解消の相手だったカルロの代わりだとわかっていたが、それでも彼女が胸の内を明かしてくれるのが嬉しかった。
 やがて一通り喋り尽くすと、ケツァル少佐は突然いつもの彼女に戻った。文字通り「豹変」した。

「で? 用件とは? 用があるから私を呼んだのでしょう?」

 テオは笑いが込み上げてきて我慢した。人間の膝の上でゴロゴロ喉を鳴らして甘えていた猫が突然不機嫌になって噛みつく、そんな感じだ。仕方がない、彼女達”ヴェルデ・シエロ”はジャガーなのだから。
 彼は空になった皿を脇に押しやって、ビニルバッグを取り出した。

「君に見てもらいたい物がある。」


 

2021/08/25

第2部 バナナ畑  5

  翌日、グラダ大学生物学部の発生遺伝学教室の受講生達はアルスト先生の早口の講義と難解なリポートの宿題に迷惑を被った。しかしこれが初めてと言う訳ではなかったので、アルスト先生はまた珍しい遺伝子を探す旅行に出るつもりなんだな、と諦めた。学生に宿題をさせている間にテオはしばしば2、3週間首都を留守にすることがあった。そして戻って来るとジャングルで採取した昆虫や植物を分析しているのだ。何か新しいことを探しているんだな、と学生達は思った。
 実のところテオは何も探していなかった。全くの私用で休講するのを誤魔化す為に研究しているだけだ。そしてその日はただのランチデイトだった。彼が遅れるとひどく機嫌が悪くなる大事な女性とのデイトだ。
 食べるための教職をこなして、昼食を食べる為にテオはカフェテリアに直行した。
 彼女は既に到着していて、壁に近いテーブルに席を取っていた。若い男子学生達が振り返る。年上でも知的な美人は気になるのだ。テオが歩いて行くと、プレイボーイで名高い法学部の教授が早速彼女にアタックを試みていた。ケツァル少佐はグラダ大学の卒業生だから古くからいる教職員の間では有名なのだが、この教授は新入りだ。自分のトレイをテーブルに置いて彼女の正面の席に座ろうとした。しかし彼が座ってしまう前に彼女が身分証を出した。プラスティックカードケースに入った緑色の鳥の形の徽章が陽光でキラリと輝いた。教授がギョッとして身を引いた。

「ペルドネーメ、少佐。」(失礼しました)

 教授は離れて行った。テオはニヤリと笑った。大統領警護隊、通称ロス・パハロス・ヴェルデス(緑の鳥)は少しも怖くないのに。しかしセルバ共和国のエリート部隊は国民から一目置かれているのだ。

「コモ・テ・バ? 少佐!」(元気?)

とテオは勢いよく挨拶した。さっきの法学の教授が振り向いた。ちょっとびっくりしている。テオは優越感を感じながら少佐のそばに行った。ケツァル少佐が座ったままで彼と握手した。大統領警護隊が市民と握手するなんて滅多にないことだ。先住民に握手の習慣はないし、敵味方の判断がつかない他人に素手を差し出したりしない。女性の先住民は尚更だ。親族の男性でなければ手を触れさせない。だから少佐が握手に応じてくれると、テオは己が彼女にとって特別なんだと思えて嬉しくなる。彼女が「コモ・テ・バ?」ではなく「コモ・エスタ?」(ご機嫌如何?)と堅苦しく言っても気にならない。寧ろ彼女が挨拶してくれること自体光栄だ。仕事で必要な場合を除いて、少佐は気に入らない相手には失礼な態度を平気で取る人だからだ。
 テオはテーブルにトレイを置いた。少佐の前には山盛りの料理を載せたトレイが置かれている。ケツァル少佐は美しい外観に似合わず大食漢だった。これには理由があった。少佐はグラダ族と言う”ヴェルデ・シエロ”の中でも最強と言われる部族の唯一の純血種だ。グラダ族は正に神と呼ばれるに相応しい強大な超能力を持つが、その分消費エネルギーも半端でない。特に力を使った後は極端な空腹を感じるらしい。少佐はその日午前中のオフィスワークでエネルギーを使ったのか、大きな肉団子を3個も食べた。食べ方は上品だが、スピードがあるのであっという間に皿が空になった。野菜もモリモリ食べてしまう。テオは内心「これで割り勘かよ?」と疑問を感じたが黙っていた。
 ある程度お腹が満たされると彼女は食べるスピードを緩め、最近の彼女のオフィスの話を始めた。副官のカルロ・ステファン大尉が本部に逆出向していなくなったので、大尉がしていた予算計上の仕事を中尉のロホが行っている。ロホは遺跡発掘隊の警護をする陸軍の人員や兵備の規模を考える仕事もしているので、今は多忙で遊ぶ暇がないし、好きなサッカーの練習も出来ないでいる。ケツァル少佐は、本部は大尉を取ったのだから人員を一人文化保護担当部に回して欲しい、と司令官に要求しているのだが、なかなか通らないのだと愚痴った。
 ステファン大尉が文化保護担当部からいなくなったのは、テオも寂しかった。生死を賭けた冒険を1度ならず3度も共にした仲だ。7歳年下だが対等に話が出来た。そして同じ女性を愛するライバルでもあるのだ。
 大統領警護隊本部がステファン大尉を本部に召喚したのは、ある2つの目的があったからだ。一つは大尉のグラダ族としての能力を更に開発させる為の訓練だ。ステファンは白人と普通の先住民”ヴェルデ・ティエラ”の血が混じるミックスの”ヴェルデ・シエロ”だ。しかも”ヴェルデ・シエロ”の部分もグラダ族とブーカ族が混ざっているので、純血種であるケツァル少佐みたいに生まれつき自然に能力を使いこなすことが出来ない。下手をすると感情に流されて能力を暴走させる恐れがあるので、司令官は彼を教育し直すことに決めたのだ。これはテオも無理からぬことだと納得した。ステファンは能力を使いこなせずに少年時代からずっと苦しんできたのだから、ここで修行し直して自信をつけることが重要だと思えた。
 もう一つの目的がテオには教えられていなかった。少佐は知っている様だが、他の部下達は知らないようで、テオと共にステファンが滅多に警護隊の基地から出てこない理由がわからず寂しがっていた。修行だけなら休暇をもらえそうなものだが。

第2部 バナナ畑  4

  テオはグラダ・シティ郊外の平均的な庶民の住宅街に家を持っていた。亡命した当初はセルバ共和国政府が用意した高級住宅地の戸建て住宅にアリアナと2人で住んでいたが、アリアナが”ヴェルデ・シエロ”の内紛に巻き込まれて誘拐されたり、警備に人件費がかかったりで、結局彼は独り身になったのを機会に内務省に頼んで小さい家に引っ越すことを承諾してもらった。6軒の家族が長方形の建物を分割して住んでいる形で、真ん中に共有スペースとして小さな庭がある。テオは昼間働いているので、夜しかいないのだが、近所の人々は皆気さくで人懐っこい。庭にどの家族かが小さい畑を作っており、テオが月曜日の夜遅くにエル・ティティから帰宅すると中庭に面した掃き出し窓の外に瓜が1個置かれていた。テオは窓を開けて瓜を拾い上げ、大きな声で「グラシャス!」と言った。どこからか、「いいってことよ!」と返事が来た。
 テオは窓を開けたまま網戸だけ閉めた。暑くて空気を入れ替える必要があった。エアコンは昼間しか使わない。玄関も網戸だけにしておけば夜間は風が通るので、エアコンは必要なかった。近所の家々から話し声やテレビの音が聞こえてくるが、セルバでは騒音問題で諍いが起きることは滅多にない。静かな場所が必要な人は、近所が煩ければすぐ引っ越してしまう。都会の住人はそう言う文化を築いていた。農村へ行けば逆になる。五月蝿い人間は近所の住人達から放逐されてしまう。実力行使されるのだ。「出て行け」と言う通告を受けたら、即刻退去しないと、家財道具一切合切と共に村の外へ放り出されてしまう。テオはエル・ティティでその現場を見たし、学生達から話も聞いた。騒音に悩んで銃をぶっ放すどこかの国とは大違いだ、と思った。
 荷物を寝室に置いて、彼は狭いリビングの長椅子に座った。携帯電話を取り出し、ケツァル少佐のアパートに電話を掛けた。携帯には掛けない。彼は一応仕事のつもりだったから。少佐は今週オフィスにいる予定だ。発掘現場の監視はスケジュールに入っていないと言っていた。だから夜は自宅にいる筈だ。
 呼び出し音5回の後で彼女の声が聞こえた。

「ミゲール・・・」

 成熟した大人の女性らしい低い声を聞いて、テオはゾクゾクした。今夜彼女は一人だろうか? 

「ブエナス・ノチェス、テオドール・アルストだ。」

 彼が名乗ると彼女は特に喜んだ様子もなく、

「何か御用ですか?」

と尋ねた。愛想がないのは相変わらずだ。無駄な世間話は絶対にしない。常に他人と距離を置きたがる様に見えるが、突然人懐っこくなったりする気まぐれな女性だ。ツンデレ度100パーセント。誇り高い性格は猫科の動物そのもの、彼女は密林の女王ジャガーだった。
 テオはいきなり死体の話を持ち出すのを避けた。そんなことをすれば、彼女は即行で電話を切ってしまう。それでなくても彼女は常に山のような業務上の難問を抱えているのだ。テオは目的を隠して話しかけた。

「久しぶりに2人で食事でもしないか?」
「そちらの奢りですか?」

 彼女は倹約家だ。実家は富豪だし、少佐の給料はそれなりに高給だが、高級アパートの家賃やメイドの給金を自腹で払っているので贅沢はそれ以上しない。養父母の財産を食い潰す親不孝もしない。彼女自身から食事しようと言い出す場合以外は自腹を切らない。
 テオは苦笑した。

「大学のカフェテリアでランチしないか?」

 テオだって高級取りと言えない。大学職員の給料は高くない。彼は教授ではないのだ。准教授だ。しかも正規職員となってまだ半年だ。

「結構。では、割り勘にしましょう。」

 めっちゃドライな女だ。時間を決めた。セルバ人は一般に時間にルーズだが、軍人は別だ。彼女は厳格に時間を守る。テオの方が時間通りに講義を終えられるか心配だった。

「要件はそれだけですか?」

 就寝時間を守りたい軍人が質問した。暗に電話を切れと催促している。テオはもっと話したかったが楽しみは明日にとっておこうと我慢した。それにあまり喋ると近所に相手の正体がバレてしまう恐れもあった。庶民は大統領警護隊を尊敬し頼りにしているが、同時に恐れてもいる。古代の神様”ヴェルデ・シエロ”と会話出来る人々、と言う認識だ。ご機嫌を損なうと神様に告げ口されると信じている。大統領警護隊そのものが”ヴェルデ・シエロ”の軍隊だとは知らないのだ。大統領警護隊と友達だと知られると、近所の人々との親密な近所付き合いに支障が出る恐れがあった。

「それだけだよ。明日が楽しみだ。アスタ・ラ・ヴィスタ。」
「ブエナス・ノチェス。」

 少佐はテオが切る前に電話を切った。

第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...