2021/08/28

第2部 節穴  7

  アンドレ・ギャラガは所謂「普通の家」で暮らした経験がなかった。幼い頃はあったのだろうが、朧げな記憶しかない。父が死んだ後は母と2人でスラム街の掘立て小屋に住んでいた。それも1箇所ではなく、頻繁に家移りした。街娼をしていた母親が警察の摘発を逃れて場所を移動していたと知ったのは、軍隊に入ってからだ。母親の仕事が犯罪の部類に入るのだと知ったのも軍隊に入ってからだ。
 一張羅とも言える綿シャツ、ジャケットとジーンズに着替え、軍靴からスニーカーに履き替えて、ステファン大尉と共に大統領警護隊本部から外に出た。休暇はいつも一人で海岸へ行ってぼーっと過ごしていたので、目的があって外出したのは初めてだった。ステファン大尉はTシャツにジャケット、ジーンズで靴は高そうなトレッキングシューズだった。2人共拳銃は装備していた。これは休日でも持っていなければならない。大統領警護隊の義務だった。”ヴェルデ・シエロ”は超能力を持っているが、他人をその能力で傷つけることは禁止されている。敵に襲われた時に防御で用いるだけで、戦闘には普通の人間同様に武器を用いる。一度他人を超能力で傷つけると歯止めがきかなくなる。だから可能な限り使わない。それが彼等の良識だった。
 塀の外に出ると、大尉は何も言わずに歩き出した。ギャラガは大人しくついて行くだけだ。グラダ・シティに住んで長いが、街のことを何も知らない。恐らくグラダ・シティ生まれなのだろうが、地元っ子の自覚がなかった。ステファン大尉の言葉には微かに地方の訛りがある。遠くから来たと思われるが、大尉は地元っ子の様に通りをどんどん歩いて行った。土曜日の午後だ。街は賑わっていた。観光客が多い。白人も黒人も東洋人もアラブ人も歩いている。セルバ共和国の東海岸はリゾート地なのだ。
 ステファン大尉は最初に街角のATMで現金を下ろした。次に入った店でプリペイド方式の携帯電話を2つ購入して、1つをギャラガに渡した。領収伝票はギャラガに渡して、「失くすな」と命じた。

「後で必要経費で財務部からもらうからな。」

 それなら自分で保管すれば良いのに、と思ったが、ギャラガは黙っていた。ステファン大尉がしていることは、己にとっても将来の仕事の手本なのだ。それを彼は理解していた。
 大統領警護隊の中ではメスティーソは目立つ部類だったが、街中に出てしまうと自然に溶け込んでしまった。セルバ人の多くがメスティーソなのだ。
 バスに乗ったのは休暇以外で初めてだった。海ではなく市内を巡回する路線バスだった。10分ほど乗って、セルバ国立民族博物館前で降りた。観光客が屯する博物館前広場を横切り、階段を上ってチケット売り場へ行った。そこでステファン大尉はパスケースに仕舞っておいた緑の鳥の徽章を職員にチラリと見せた。

「大統領警護隊警備第2班のステファンと警備第4班のギャラガだ。ムリリョ館長はいらっしゃるか?」

 職員は徽章を見て不安そうな表情になった。大統領警護隊が博物館にやって来るなんて、どんな用事だろうと思ったのだ。文化保護担当部ならわかる。あの部署は時々遺跡の彫刻や壁画の意味を勉強しにやって来るから。しかし警備班の訪問は初めてだ。

「館長はいらっしゃいますが・・・」

 答えかけて、彼女は相手が旧知の顔であることにやっと気がついた。

「文化保護担当部の大尉?」

 ステファン大尉が頷いた。

「元、になるが、大尉のステファンだ。」
「それならそうと言って下さい。すぐ館長に連絡します。」

 セルバ共和国はコネが大事だ。

第2部 節穴  6

  テオドール・アルストが土曜日の昼にエル・ティティに帰省して、ゴンザレス署長とのんびり過ごしていると、署長に電話がかかってきた。ゴンザレスはふんふんと先方の話を聞いて、最後に「グラシャス」と挨拶した。電話を切るとテオがテレビを見ている横に戻って来た。

「例のバナナ畑の死体の身元がわかった様だぞ。」

と報告したので、テオは驚いた。セルバ共和国の警察にしては早かったんじゃないか? と彼は思った。尤も問い合わせてから既に11日経っていたのだが。

「死体はフェリペ・ラモスと言う男らしい。オルガ・グランデの北、国境に近いサン・ホアン村と言う所で占いなどをしていた農夫で、2ヶ月前から行方知れずになっていた。”雨を呼ぶ笛”をいつも持ち歩いていたと言うから、その男なのだろう。家族が明日こっちへ来るから、遺体を墓から掘り出さなきゃならん。」
「笛で身元確認してからの方が良いんじゃない?」

 身元確認の品が例の木片しかないと言うのは心許ないことだ。しかし、ミイラでは親が見ても分からないだろう。

「占い師ってことは、シャーマンかな?」
「どうかな・・・普通の占い師じゃないか? シャーマンって言うのは、大統領警護隊みたいな連中のことを言うんだ。直接神や心霊と話が出来る人々だ。」

 それじゃ俺がシャーマンじゃないか、とテオは心の中で苦笑した。大統領警護隊は”ヴェルデ・シエロ”なのだ。

「占い師を殺害するなんて、大罪じゃないのか? 」
「シャーマンと違って神様と入魂の間柄じゃないからな、占いが外れて頭に来た客にやられたのかも知れない。あるいは仕事と関係ない理由かもな。ここでは人の命はパンより軽いと考える連中もいる。」

 それは否定したくとも出来ない真実だった。テオが哀しい気分でテレビを消すと、ゴンザレスも昼寝の為に庭へ出ようとした。そして伝え忘れたことを思い出した。

「それから、あの死体に関係するのか分からないが、サン・ホアン村近くの古代遺跡が最近何者かに荒らされたそうだ。」

 テオは「古代」とか「遺跡」とかの単語に敏感だった。彼の大統領警護隊の友人達は古代遺跡を守る仕事をしているのだ。

「2ヶ月前に占い師が行方不明になったんだよね? 遺跡荒らしは何時のことなんだ?」
「それは分からん。ただ、ラモスは遺跡荒らしがあった後で行方不明になった。」
「遺跡で何か盗まれたのか?」
「何を盗まれたのか、誰にも分かっていない。正式調査が入っていない遺跡だそうだ。殺されたラモスはそこへ時々行っていたそうだ。」

 占い師が何のために遺跡に行ったのだ? 神託でも聞きに行っていたのか? それなら占い師ではなくシャーマンだろう、とテオは考えを巡らせた。盗掘の現場でも目撃して、消されたのか? 
 彼はゴンザレスが庭のハンモックへ行ってしまうと、携帯電話を出した。遺跡荒らしの情報は大統領警護隊文化保護担当部に連絡した方が良いだろう。もしかすると彼等は既に知っているかも知れないが、多忙なので通報を受けても直ぐに捜査に入るとも思えなかった。
 土曜日だから文化・教育省は閉庁している。ロス・パハロス・ヴェルデスの友人達はデスクワークが出来ないので、建前上「軍事訓練」をしている筈だ。畑や野原や海岸で実弾射撃を伴う隠れん坊か鬼ごっこをしているのだ。
 そんなところに電話を掛けたら危険なんじゃないか?
 テオは迷いながらもケツァル少佐の番号に掛けた。5回の呼び出し音の後、女性の声が聞こえた。

ーーミゲール少佐の電話でーーす!

 え? とテオはびっくりした。思わず声の主の名前を呼んだ。

「マハルダ?」
ーースィ! 

 マハルダ・デネロス少尉の元気な声が応答した。

ーーテオ? ブエノス・タルデス!
「ブエノス・タルデス。 今、演習中じゃないのか?」
ーースィ、演習中ですけど、私、捕まってます。

 テオは吹き出してしまった。どんな鬼ごっこか知らないが、デネロスは捕虜になったのだ。多分、荷物置き場にいるのだろう。少佐の電話が鳴ったので彼女が出たのだ。

「演習中だったら、少佐は電話に出られないんだろうな?」
ーー無理ですね。小屋の外で私を救出にやって来る中尉を返り討ちにしようと待ち構えています。

 すると男の声が聞こえた。

ーーこっちの作戦をベラベラ喋るな、捕虜。

 アスルの声だ。テオは楽しそうな演習だと思った。実弾を使用しているから油断禁物だろうけど。デネロスが声のトーンを落とした。

ーー何か御用ですか? 伝言承りますけど。
「少佐でなくても良いんだ。オルガ・グランデの北にあるサン・ホアン村近くにある遺跡を知っているかい?」

 デネロスは知らなかった。同じ質問をアスルに訊いてくれたが、アスルも知らなかった。だからテオは簡単に告げた。

「遺跡荒らしがあったと、親父がオルガ・グランデ警察から聞いたんだ。そのサン・ホアン村の占い師が殺された可能性があって、笛の持ち主らしい、と少佐に伝えてくれ。多分、彼女はそれでわかると思う。」
ーー遺跡荒らしに殺人ですか? 承知しました。

 その時、遠くで銃声が聞こえた。デネロスが「あーあ」と呟いたので、ロホが少佐に返り討ちにされたと察しがついた。


2021/08/27

第2部 節穴  5

  昼間の西館は無警護だ。時々歩哨が回って来るだけで、大統領警護隊は建物の中で来館者の警戒の方に重点を置く。ギャラガとステファン大尉は問題の茂みに近づいた。セルバ共和国なら何処にでもある普通のハイビスカスの茂みだ。赤い花が咲き乱れていた。ギャラガが示すと大尉が周囲を一周した。ギャラガの所に戻ると彼は囁いた。

「馬鹿にしているよ、全く。」

 ギャラガはその意味を推し量った。

「何もないってことですか?」
「何もないから、異変があるのさ。」

 大尉が彼を壁の際に連れて行った。大統領夫人の部屋の一番大きな窓の真下に彼を立たせ、赤い花の中で一番大きな物を指差した。

「そこに空間の歪みがあるのが見えるか?」

 ギャラガは目を凝らして見たが、何も見えなかった。彼は正直に告白した。

「私には見えません。一族の能力は何もないのです。」
「そう思い込んでいるんだな。」

 大尉は言った。

「目で見ようとするな。」

 彼はとても簡単なように言い放って、花のそばに行った。

「これは小さい穴だが、元からここにあったとは思えない。」

 彼は片手を前へ出し、指を花に向かって突き出した。花の10センチ程手前で彼の指が空中に消えた。ギャラガはびっくりした。純血種のブーカ族の成人は時々異次元空間通路を利用して遠い場所へ出かける。大統領警護隊も遠距離へ出兵する時は空間通路を使う。純血種のブーカ族は大人になれば普通に通路の”入り口”を見つけられるのだと言うが、ギャラガは見えない。他の部族は厳しい修行をして習得すると言うが、ギャラガはその修行も出来ない。どんなことをするのかさえ分からないのだ。しかし彼と幾らも年齢に差がないステファン大尉は鼠の穴でも見つけるみたいに空間の歪みを発見した。おまけに指まで突っ込んだのだ。

「これ以上大きくならない。こっちは”出口”で向こうが”入り口”だ。」

 大尉は指を出して腰を屈めた。花を観察するみたいに空中をじっと見つめ、やがてギャラガを振り返った。

「覗いてみろ。君にも向こう側が見える筈だ。」

 立ち位置を交換した。ギャラガは半信半疑だったが、大尉の真似をして虚空を見つめた。深紅の花の真ん中にポツンと異質の物が見えた。針の穴の向こうみたいな大きさだ。目を凝らして、それが灰色の石の表面らしいと彼は思った。試しに指を入れてみると、本当に彼の指も消えた。指先に何かが触れる感触はない。

「何が見えるか私は訊かない。」

と大尉が言った。

「互いの言葉に影響されたくない。君は君が見た物をしっかり記憶しておけ。これからそれが何なのか知っていそうな人に会いに行こう。私服に着替えて半時間後に本部通用門で落ち合おう。」


第2部 節穴  4

 トーコ副司令官は中佐だ。ブーカ族とマスケゴ族のハーフで、純血の”ヴェルデ・シエロ”とも言えるが、純血のブーカ族でも純血のマスケゴ族でもないので、大統領警護隊の外の純血至上主義者と仲が悪いと言う評判だった。大統領警護隊の隊員達は司令官のエステベス大佐と会ったことがなくてもトーコ中佐とはよく顔を合わせる機会があった。怒らせると怖いが普段は優しい上官だから若者達から好かれていた。ステファン大尉がドアをノックして、ギャラガを先に入れた。ギャラガは室内に入ると直ぐに副司令官の正面の位置を大尉に譲って傍に立った。大尉が声をかけた。

「ステファン、ギャラガ、出頭しました。」

 トーコは書類に目を通していた。警備班の勤務報告書だ。

「大尉、君は東館の警備を担当しているのだな?」
「スィ。警備第2班です。」
「西館の噂を知っているか?」

 ギャラガはドキンと胸が鳴るのを感じた。今朝の報告がもう副司令に渡ったのか。ステファン大尉は「ノ」と答え、チラリとギャラガを見た。ギャラガはここで言うべきだろうかと迷った。”ヴェルデ・シエロ”ならここで大尉の目を見て、一瞬で副司令官への報告内容を大尉に伝えられるのだが。 トーコもチラリとギャラガを見た。そして言った。

「ステファンに教えてやれ、ギャラガ少尉。」

 それでギャラガは大統領夫人の部屋の外にあるハイビスカスの茂みから感じる謎の視線の話を語った。

「警備第4班の11人全員が毎晩同じ体験をしました。今朝、班長が確認したら、少なくとも16日前から始まっていた様です。」

 トーコが頷いた。報告書の通りだ。

「16夜も奇妙な視線を感じながら、初めての報告が今朝なのだな?」

 ギャラガは頬が熱くなった。責められているのは彼だけではなく残りの10人も同じなのだが、代表で叱られている気分だった。これは班長の役目ではないのか? とちょっぴり不満を感じた。班長は中尉だ。まさか格下に損な役割を押し付けたのでもあるまいが。
 ステファン大尉は宙を見て、考える素振りを見せた。

「実体のない視線ですか。」

と彼は呟いた。トーコ中佐が尋ねた。

「原因に思い当たることはないか?」
「ノ。現場へ行って見てみなければ、なんとも言えません。」

 中佐と大尉が目を見合わせた。何か会話をしたとギャラガは分かったが、どんな話し合いをしたのか彼にはわからなかった。
 大尉がちょっと悩ましげな顔をした。

「私に出来るでしょうか?」

と彼は副司令官に尋ねた。トーコ中佐は頷いて見せた。

「良いからやってみな。これも修行だ。」

 何のことだろうとギャラガが思っていると、トーコが書類に署名をした。

「正式に辞令を与える。カルロ・ステファン大尉、西館庭園の視線の謎を解き、隊員達の不安を払え。期限は5日。助手にアンドレ・ギャラガ少尉を使え。」

 ギャラガは大尉が一瞬「え?」と言う顔をしたのを見逃さなかった。きっと”心話”も使えない似非”ヴェルデ・シエロ”なんか使えない、と思ったに違いない。しかしステファン大尉は上官に一切口答えせずに敬礼して命令を承った。ギャラガはボーッとしてしまい、大尉に横から足を蹴られて、慌てて敬礼したのだった。


第2部 節穴  3

  大統領警護隊の大統領府西館警備担当班の間で、大統領夫人の部屋の外にある茂みから視線を感じると言う噂が流れるのにそんなに時間はかからなかった。噂話をマナー違反とするセルバ人にしては珍しい現象だ。誰もいない空間から視線を浴びる。超能力を持つ”ヴェルデ・シエロ”にとって、これは酷く屈辱的な現象で薄気味悪いことだったのだ。どの隊員も茂みの中を探って見たが誰もいないのだ。臭いも残っていない。危害を加えられた報告もない。しかし立ち番をしている間中視線を浴びるのは気持ちの良いことではない。常に観光客の目に曝されている正面玄関やピラミッドの儀仗兵とは違うのだ。ギャラガは初めて同僚達からこの現象に関する質問を受け、仲間の感想に同意した。2度目の不愉快な感触を体験した後だ。初めて仲間の雑談の輪に加えられ、班代表が報告書に正式にその体験を記述することに同意した。警備第4班全員からの報告として、班長は司令部に提出した。
 翌朝、点呼とシャワーと朝食を終えて大部屋に帰ると、隣の大尉が本を読んでいる場面に再び出くわした。今度も考古学の本で、分厚い表紙で装丁された高価そうな本だった。よく見ると裏表紙に国会図書館のスタンプが押されていた。自費で購入したのではなく、借りているのだ。しかし破損すれば自腹で弁償しなければならないから、又貸しで注意するのは当たり前だ。セルバ共和国の図書館は又貸しが横行している。紛失が多いので、文化・教育省では大統領警護隊に図書館監視部を設立してくれと言っていると言う冗談まで巷で流れている。隣のベッドの大尉も平気で又貸しをする様だ。だが借りた方が本を損壊すると、とことん追求してくるだろう。
 ギャラガは同僚から初めて仲間扱いされて機嫌が良かったので、気軽な感じで大尉に声をかけた。

「考古学がお好きなんですね、大尉。」

 大尉は顔を上げずに答えた。

「私は警備第30班にいたんだ。」

 ギャラガは揶揄われたと思った。大統領警護隊警備班は15までしかない。彼が黙り込んでしまったので、大尉がやっと顔を上げた。

「外郭団体ってことだ。私は文化保護担当部にいた。」

 ギャラガにはそれがどんな部署なのかわからなかった。仲間との情報のやり取りがない悲しさだ。大尉は彼が反応しなかったので、説明する気がなくなったのか、読書に戻った。ギャラガもベッドに座った。その直後、部屋の入り口で呼び声がした。

「ステファン大尉! ギャラガ少尉!」

 ギャラガが答えるより早く大尉が怒鳴った。

「ここだ。ステファン、ギャラガ、2名共ここにいる。」

 どこかの班の少尉がやって来た。ベッドの上に横たわったままの大尉の側に立ち、敬礼した。

「トーコ副司令がお呼びです。」

 大尉が頷き、ベッドから降りた。Tシャツの上に上着を羽織りながら少尉に「5分後に出頭する」と返事をした。彼はギャラガを振り返り、「何かな?」と呟いた。ギャラガも見当が付かなかったので肩をすくめた。急いで身支度して、2人は副司令官室へ向かった。

2021/08/26

第2部 節穴  2

  アンドレ・ギャラガは勤務を終え、官舎に戻った。まだ少尉だから大部屋だ。20人が広い大きな部屋で寝起きしている。所属班がバラバラなので常時半数は不在だ。ギャラガは冷たい水のシャワーを浴びて、食堂へ行った。決まった時間に一斉に食べるのではなく、勤務が終わる順番に食べるのだ。煮豆にトーストに野菜スープ、コーヒーのシンプルな食事だ。肉が出るのは勤務の途中の中食だけだ。食事は階級に関係なく同じだ。だからたまに食堂で少佐や中佐級の偉いさんを見かけるが、その日上級将校はいなかった。質素だが量だけはしっかりある食事を終えると、大部屋に戻って寝るだけだ。
 ギャラガは友人がいないので、仲間が集まってカード遊びをしたり、運動施設へ出かけたりするのに加わらなかった。個人のスペースはベッドだけだ。そこに座って棚からラジオを出した。私物は少なく、置けるスペースも狭いので、彼の全財産はそこにある物だけだった。故郷もないし、実家もない。兵士としての自信はあるが、”ヴェルデ・シエロ”ではない落ちこぼれがこのままここにいて良いのだろうか。
 イヤフォンを付けようとして、隣のベッドの男が目に入った。警備2班の大尉だ。向こうは東館の担当で、2時間前に勤務が終わった。寛いでいるらしい。大尉は読書中だった。ギャラガは彼と話をしたことがない。勤務時間が微妙にずれているので、彼が戻ると大概向こうは寝てしまっていた。彼が起きれば既に勤務に就いていた。この日は珍しく起きていて読書をしていたのだ。
 普通中尉になれば大部屋を出て5人部屋へ移る。大尉は2人部屋の筈だ。しかし半年前に転属して来たその大尉は何故か大部屋で寝起きしていた。ってか、転属って何処からだ? 大統領警護隊は必ず少尉から始めるのだ。将校の中途採用はない。階級が高いので、他の少尉達は遠慮して彼に話しかけない。彼も別に誰かと仲良くしようと言う気はないらしい。
 ギャラガがその大尉の存在を気にしたのは、向こうも白人の血を引いていたからだ。明らかにヨーロッパ系の血が入った顔立ちで、ゲバラ髭を生やしている。軍人は髭を剃るのが決まりだが司令部は彼に対して何も言わないようだ。抑制タバコを火を点けずに咥えて、彼はセルバ考古学の論文集を読んでいた。山賊の様なワイルドな雰囲気の風貌なのに、インテリジェントな趣味を持っている様だ。
 ギャラガが考古学の本が珍しくて表紙を眺めていると、視線を感じて大尉が目線を上げた。

「何かな、少尉?」
「あ、いや・・・何もないです。」

 上官に絡まれると碌なことがない。ギャラガは慌てた。大尉は彼をジロジロ眺め、不思議なことを言った。

「私を監視するなら、もう少し上手くやれよ。」
「?」

 ギャラガが彼の言葉の意味を理解できずに見返すと、大尉は目線を再び本に戻した。どう言うことだ? 売られた喧嘩は買う主義だった子供時代の気分が蘇った。ギャラガはベッドを降りて相手のそばへ行った。

「私が貴方を監視しているなんて、どうして思われるのです、大尉?」

 大尉が本を見たまま答えた。

「私を見ていたからさ。」
「私は貴方の本を見ていたのです。貴方を見たのではありません。」

 すると大尉はパタンと本を閉じた。そしてギャラガに差し出した。

「貸してやろう。読んだら必ず返してくれ。安くないんだから。」

 ギャラガは本を見つめた。これは新手の嫌がらせだろうか? 自分がこの大尉に何をしたと言うのだ? 彼は言った。

「考古学が珍しくて本の表紙を見ていたのです。読みたい訳ではありません。読んでも私には難しくて理解出来ないでしょう。」
「考古学は難しい学問じゃない。私にだって少しはわかるんだから。」

 そう言って大尉が微笑した。意外に人懐っこい笑顔だった。ギャラガも釣られて笑ってしまった。

「私は学がないので読み書きが苦手なんです。」
「私だってまともな教育を受けていない。警護隊に入って初めて教育らしい教育を受けた。」

 大尉は本をベッドの枕元の小さな棚に置いた。

「白人の血が入っている様だな。部族は何だい?」
「ブーカです。4分の1だけですが・・・警護隊に入隊して初めて自分が何族なのか知りました。」

 大尉が小さく頷いた。”ヴェルデ・シエロ”の多くがブーカ族の血筋だ。”ヴェルデ・シエロ”に分類される先住民は7部族あるが、ブーカ族はその中で最多の人口を持っている。そして大統領警護隊の徽章をもらえる能力を持っているのもブーカ族が殆どだ。他の部族は人口が極端に少ないか、能力が長い時間の中で弱まってしまった。しかし”出来損ない”で落ちこぼれのギャラガは胸を張ってブーカだと言えなかった。

「ブーカですが、ナワルを使えません。”心話”も出来ません。」

 彼は大尉が驚くのがわかった。”心話”が出来ない”ヴェルデ・シエロ”なんて存在しない。ギャラガは大尉に目を覗かれたが、何も伝えられなかった。大尉が呟いた。

「まだ目覚めていないだけだろう。」

 ギャラガは同意することが出来なかった。大尉はタバコをゴミ箱に投げ入れた。

「私だって1年前に目覚めたばかりだ。」

 しかし大尉の髪は真っ黒で肌もメスティーソらしく浅黒い。”ヴェルデ・シエロ”の血が優っている様だ。”心話”は生まれつき使えただろう。

「貴方もブーカですか、大尉?」

 何となく相手の気に違和感を覚えて、ギャラガは訊いてみた。この大尉から漂ってくる気配は他の隊員達と違う。大尉が寝るために姿勢を変えながら答えた。

「ブーカの血も流れているが、半分はグラダだ。」

 
 

第2部 節穴  1

  セルバ共和国大統領警護隊、通称ロス・パハロス・ヴェルデス(緑の鳥)は一般市民にとって憧れと畏怖の対象だが、実は”ヴェルデ・シエロ”だけで構成されている軍隊であることは全く知られていない。そもそもこの種族の名前を知っているのは考古学者と人類学者、そして政府の要職についている一部の人々だけだ。5千年以上昔に絶滅したと言われている古代の神様の名前で、その後に台頭した部族が残した遺跡の彫刻や壁画で知られる伝説の部族と考えられている。「頭に翼を持つ神」として知られ、半身がジャガーの彫像もある。しかし、”ヴェルデ・シエロ”は実在した。そして今も実在する。セルバ人はその名を知っているが口に出さないだけなのだ。うっかり噂話などして神様の耳に入りご機嫌を損なうと大変だから。ロス・パハロス・ヴェルデスが畏怖の対象となっているのは、彼等が神様と会話出来ると信じられているからだ。神様そのものだなんて市民は誰も想像していない。警護隊のご機嫌を損ねて神様に告げ口されてはたまらない、と思っているのだ。
 大統領警護隊が警護するのは大統領と政府高官、国賓、セルバ共和国の精神的シンボル”曙のピラミッド”に座す巫女ママコナだ。そして市民は知らないが、国全体を彼等は守っている。小さな貧しいセルバ共和国が、飢えもせず大規模な飢饉に遭いもせず、疫病とも縁が薄いのは、彼等が守っているからだ。
 アンドレ・ギャラガは半分白人の血が流れている。他のメスティーソより肌が白く髪も赤い。”ヴェルデ・シエロ”の血は4分の1だけだ。だから”曙のピラミッド”から語りかけるママコナの声を聞けない。頭の奥で蜂がブンブン唸っている様に感じるだけだ。アメリカ人だった父親は彼が5歳の時に病死して、彼は貧しい生活の中で育った。母親も半分だけの”ヴェルデ・シエロ”で超能力をうまく使えなかった。彼女は街で体を売り、病気で彼が10歳になる前に亡くなった。ギャラガは食べる為に年齢を偽って軍隊に入った。15歳の時に陸軍の特殊部隊に入れられた。荒くれた兵士の中で揉まれて一人前に喧嘩の上手い男になった。そして1年後に大統領警護隊に採用された。
 正直なところ、何故己がそんなエリート部隊に採用されたのか、ギャラガは理解出来なかった。周囲は、”ヴェルデ・シエロ”ばかりだったのだ。彼等は目と目を見合わせるだけで一瞬にして情報交換や会話が出来る”心話”を使う。だがギャラガはそれが出来なかった。”心話”が出来ることが”ヴェルデ・シエロ”の条件である筈なのに、出来ないギャラガが大統領警護隊にいる。ギャラガ自身、己が”ヴェルデ・シエロ”だと言う自覚がなかったので、大いに当惑した。僚友達は皆”心話”を使える。”ヴェルデ・シエロ”と”ヴェルデ・ティエラ”のミックス達だ。見た目は純血先住民で白人の血が混じるギャラガとは外観が異なる。勿論、白人とのミックスであるメスティーソもいる。彼等は”出来損ない”と侮蔑の呼称を与えられているが、それでも”心話”を使えるし、ある程度の超能力を使う。そしてナワルも使えるのだ。
 ナワルはジャガーに変身する能力だ。能力の弱い者はジャガーより小さめのマーゲイやオセロットに変身する。しかしギャラガは当然それも出来ない。それより僚友がナワルを使うのを見て、仰天して気絶してしまったのだ。”出来損ない”の”落ちこぼれ”のアンドレ。気がつくと友人は出来ず、誰もが彼と組んで警備についたり訓練するのを敬遠していた。能力のない者と組めば危険だ。それが彼等の考え方だった。

 ギャラガが配置されている大統領警護隊警備第4班は、大統領府西館の夜間警備と”曙のピラミッド”の日中警備を担当していた。火曜日の夜、ギャラガは西館の大統領夫人の部屋の外で立ち番をしていた。一人だ。”ヴェルデ・シエロ”は能力をもっているので、基本的に単独行動する。一人になると彼はホッとした。他人を気にせずにいられる。軍隊はプライバシーのない世界だし、”ヴェルデ・シエロ”同士では秘密を持つことが難しい。この立ち番の時間だけが、彼の心が自由になれる時だった。
 乾季の夕刻。短いスコールが過ぎ去って涼しい風が彼の頬を撫でた。まもなく満天の星空になるだろう。工業があまり盛んでない貧しい国だからこそ、空気が澄んでいる。ギャラガは壁にもたれかかり、抑制タバコを咥えた。強い能力を持つ純血種や気の制御が下手なミックスに軍から支給される、特殊な薬効を持つ植物から作られるタバコだ。ギャラガは能力がないので支給対象外だが、官舎の仲間がたまに分けてくれた。好意より厚意だ。ギャラガは遠慮せずにもらうことにしていた。国民の税金で作られるタバコだ。もらって何が悪い?
 安物のライターでタバコに火を点けた時、正面のハイビスカスの茂みで人の気配があった。彼はタバコを投げ捨て、アサルトライフルを構えた。

「誰だ?!」

 返事はなかった。しかし確かに誰かいる。彼は何者かの視線を浴びている感触を拭えなかった。冷たい視線がこちらを向いている。彼の能力の大きさを測るような酷く冷静な目。彼は姿が見えない相手を睨みつけた。下手に動くと攻撃されそうな気がした。侵入者なのか? 彼はもう一度声をかけてみた。

「出て来い! ここは立ち入り禁止区域だぞ!」

 やはり返事はなく、誰も出て来ない。彼は意を決して一歩前に出た。向こうは動かない。彼はもう一歩前に踏み出した。それでも反応なし。彼の胸中に疑問が湧いた。本当に茂みの中に誰かいるのだろうか。
 彼はタバコを踏み消して、隙を作って見せた。それでも相手は動かなかった。誰もいないのだ。彼は確認の為に茂みに近づいた。銃口を向けたまま茂みを覗いた。
 誰もいなかった。彼は周囲を見回した。気配は確かにあったのに、実体がなかった。

第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...