2021/09/20

第3部 夜の闇  7

  分析結果が出たら電話で教えると約束して、テオはステファン大尉を研究室から送り出した。学生達はアルスト先生が大統領警護隊の隊員と親交を持っていることを知っているので、別れの挨拶をしている2人を尊敬と羨望の眼差しで眺めていた。ステファン大尉はあまり学校が好きでないので、通信制の受講時代も殆どキャンパスを訪れたことがない。スクーリングの日に少佐やロホにせっつかれて渋々出席したぐらいだ。周囲にいる若者達が己と同世代だと言う意識があまりなかった。何処か別世界の人々、そんな感覚で彼は学生達の間を歩いて駐車場へ向かっていた。

「大尉!」

 誰かが呼んだ。周囲に軍人らしき人間が見当たらなかったので、彼は立ち止まった。女子学生が1人、彼に近づいて来た。片手に本を数冊抱えていた。

「大統領警護隊の大尉ですね?」

 ステファンは頷いた。

「スィ。大統領警護隊のステファン大尉です。」
「私は文学部のビアンカ・オルティスと言います。あの・・・もしかして、昨夜のジャガーをお探しですか?」

 ステファンは驚いた。ジャガーの出没は公表していない。目撃者には世間を脅かすといけないからと口止めした。しかし、全ての目撃者を当たった訳でもないので、情報が既に拡散している可能性はあった。彼は用心深く尋ねた。

「サン・ペドロ教会の近くにお住まいですか?」
「スィ、西サン・ペドロ通りの一番南のブロックに住んでいます。」

 南と言うことは、その界隈では家賃が安い地域だ。学生達が好んで住みたがる新しいアパートなどが建ち並んでいた。

「何かご覧になったのですね?」
「ジャガーを・・・」

 ビアンカ・オルティスはそっと周囲を見回した。ステファン大尉は他の学生達が好奇心でこちらを見ているのに気がついた。それで彼女に丁寧に声をかけた。

「もしよろしければ、何処で何を目撃したのかお聞きしたいのですが、そこのカフェで話しませんか? お友達がいるならご一緒にどうぞ。」

 彼女は承諾し、2人はカフェの屋外席にテーブルを確保した。オルティスは連れはいないと言い、コーヒーも断った。ステファン大尉は実際には使用しないが、スマホを置いて録音すると断った。彼女はそれを了承した。

「昨日は西サン・ペドロ通り1丁目のお宅へ家庭教師の仕事で出かけていました。」

と彼女は始めた。

「自宅アパートから坂道をまっすぐ上るだけなので、行きは自転車を押して行き、帰りはそれに乗って一気に下るので、夜でも安全だと思ってました。仕事は19時から21時頃迄で、家に帰ってから晩御飯を食べます。だから寄り道はしません。昨日は少し早く終わったので、自転車に乗って・・・犬が吠え始めたのです。それも1匹や2匹ではなくて、そのブロックから西の犬が全部って感じで吠えて・・・。」

 彼女は肩をすくめた。

「犬は好きなんですけど、物凄く切羽詰まった吠え方なので怖くなって、坂道の途中で自転車を降りて立ち止まってしまいました。」
「どうしてです? 一気に家迄下った方が安心出来るでしょう?」

 ステファンが突っ込むと、彼女は首を振った。

「分かりません、どうしてそうしたのか・・・兎に角怖かったんです。自転車を下りてすぐに、坂道の1本下の交差を大きな動物が横切るのが見えました。」
「大きな動物ですか。」
「昨日は満月が近くて月が明るかったでしょう? 頭から尻尾まで見えました。虎かジャガーだと思いました。犬じゃありません。歩き方が動物園で見たジャガーそっくりでした。」

 ステファン大尉は成る程と頷いた。

「斑模様は見えましたか?」
「月明かりで、背中が光っていましたから・・・あったと思います。」
「黄色いジャガー?」
「多分・・・黒くはなかったです。縞模様でもありませんでした。」
「そのジャガーはどっちの方向からどっちの方向へ行きました?」
「ええっと・・・左から右へ・・・東から西へ・・・」
「路面を歩いていたんですね?」
「あの時はそうでした。」
「目撃した場所の正確な住所は分かりますか?」
「西サン・ペドロ通り3丁目と第7筋の交差点です。」
「貴女はその時、第7筋の2丁目あたりにいた?」
「スィ。もしあのまま立ち止まらずに下っていたら、ジャガーと鉢合わせしたかも知れません。」

 ビアンカは身震いした。ステファン大尉はグラシャスと言って、スマホを仕舞った。

「その話はお友達に話しましたか?」
「スィ。そしたら、エル・パハロ・ヴェルデが生物学部の先生のところに来ているから、話すべきだと言われました。」

 と言ってから、彼女は慌てて「失礼しました」と謝った。大統領警護隊の隊員本人に面と向かって「緑の鳥」と呼び掛けるのは失礼に当たるのだ。しかしステファン大尉は気にしなくて結構です、と微笑して見せた。そして胸の内ではジャガーの出没情報がかなり拡散されているな、と毒づいた。


2021/09/19

第3部 夜の闇  6

  文化・教育省の終業時刻迄まだ2時間もあったので、テオは友人達を待つこともなく、大学へ行った。事務局へ行って学生が預けた鍵を受け取り、研究室へ行った。最初に冷蔵庫に牛の検体が収まっていることを確認してから、机の上のパソコンを立ち上げた。当日の作業報告を作成し、業務記録と共に生物学部主任教授のパソコンへ送信しておいた。同じ大学の施設へ出かけただけなので、出張費は出ないが、ガソリン代は出るだろう。自前の車を出した学生達の氏名も忘れずに記入しておいた。
 次にロホから預かったビニル袋を出し、中の動物の体毛と思われる物体を顕微鏡で眺めた。どう見てもイヌ科の動物の体毛にしか見えなかった。5本ばかりを別の袋に入れて、研究室から出て、野生生物の調査を主に行なっている准教授の部屋を訪ねた。相手は不在だったが助手が鑑定を引き受けてくれた。詳細な分類は必要ないから、何の動物かだけ調べて欲しいと言ったら、笑われた。

「遺伝子分析のエキスパートだから、アルスト先生の方が詳しいでしょ?」
「遺伝子分析は比較対象がないと、何なのか同定出来ないんだ。犬とか猫と言ってくれたら、それの基準表と比較出来る。」
「毛だけでは、犬と猫の違いははっきりしないのですけどね。」

 それでも助手は検体を預かってくれた。
 テオは自分の部屋に戻り、毛の1本を成分分析にかけた。毛だけではDNAが取れない。毛根の細胞が欲しかったが、それはなかった。アスルも謎の動物に噛まれた作業員の体に付着していた物を採取しただけだから、こちらから文句を言う訳にいかない。
 機械が分析結果を出すのを待っていたら、ドアをノックする音が聞こえた。彼は「開いてるよ」と答えた。先刻毛を預けた助手かと思ったら、入って来たのは軍人だった。

「相変わらず不用心な人ですね。」

とカルロ・ステファン大尉が言った。テオは振り返って笑った。

「ここに強盗が入ったなんて聞かないからね。」

 そしてカマをかけてみた。

「まさか、ジャガーの毛を持って来たんじゃないだろうな?」

 ステファン大尉が一瞬拗ねた表情を作って見せたので、図星だとわかった。

「流石ですね。」
「そうでもない。実はさっき文化保護担当部に呼ばれたのも、似たような用件だったんだ。」

 テオは分析器をペンで指した。

「アスルが動物の毛を送って来て、鑑定依頼して来たんだとさ。」
「アスルが?」

 ステファン大尉が興味を抱いて分析器の側へ立った。覗いても何も見えないのだが。テオは簡単に説明した。

「ミーヤ遺跡の発掘現場で、作業員が動物に噛まれたらしい。作業員達の間で、その噛んだ動物がチュパカブラじゃないかと噂が広まって、作業が滞っているので、普通の動物だと証明してくれと言う依頼だ。アスルがチュパカブラを信じている訳じゃない。」
「そうでしょうね。」

 大尉は勝手にその辺にあった椅子を引き寄せてテオの前に座った。

「警護隊に入隊すると民族の歴史を習いますが、そんな怪物の言い伝えなど教わりませんよ。」
「悪霊の話は教わるのかい?」
「大きな事件として残っているものは教わります。」

 それは興味深い。民族学のウリベ教授に聞かせたい。とテオは言って、少しだけ世間話のムードになったので、コーヒーを淹れた。大尉は急がないのか、コーヒーが出される迄大人しく座って世間話に付き合った。

「ギャラガ少尉は新しい部署に馴染んでいますか?」
「うん、心配無用だ。勉強熱心で、マハルダも良い教師だから、申請書のチェックは上手になった。専門用語も覚えたぞ。通信制は高校卒業の資格が要らないから、少佐が今度の学期からグラダ大学の通信制に入学させると言っている。」
「小学校も行っていない男がいきなり大学ですか? やるじゃないですか!」

 ステファン大尉も嬉しそうだ。この男は一応義務教育は受けたらしい。出席日数がギリギリだったと言っていたが。かっぱらいや掏摸の方が学業より忙しかったのだ。

「アンドレも他の連中同様、君が文化保護担当部に戻って来るのを待っている。一体、本部はいつまで君を捕まえておくつもりなんだ?」
「捕まっているつもりはありませんが、修行を終えたと承認してもらえる迄の辛抱です。」
「さっき一緒にいた隊員は少尉か?」
「スィ。遊撃班は手が空いている者から順番に任務を割り当てられるので、階級に関係なく組まされます。今日の相棒はデルガド少尉です。」
「彼は何処かで待っているのか?」
「車の中で寝ています。今夜、またジャガーが出没するかどうか、張り込むつもりなので。」

 テオは出来上がったコーヒーをカップに入れた。ステファンの好みを知っていたので、ミルクと砂糖も出した。ステファンはポケットからスカーフに包んだ物を出した。開くと黄色い毛の塊が入っていた。

「有刺鉄線に引っ掛けた様です。」

 テオは用心深くそれを空いたシャーレに入れた。

「確かに、ジャガーの毛に見えるな。」
「根元に少し血が付いているように見えます。」
「それは有り難い。」

 テオはじっと毛を見つめた。確かに血液の様な物が付着していた。シャーレに蓋をした。

「分析器が空き次第、これに取り掛かってみる。ところで、ちょっと不思議に思うんだが。」

と彼は言った。

「ここに毛が残っている。ジャガーが誰かのナワルだとして、その人物は人に戻った時、どこか怪我をしているのかな?」
「血が付いていますから、怪我をしていることは確かです。しかし、毛が抜けたぐらいでは人の体には影響ありません。」
「そうなのか・・・それじゃ、もし尻尾が何かでちょん切られたら、どうなるんだ? 人の体のどの部分が怪我をするんだ? 残った尻尾はそのまま尻尾として残るのか?」

 ステファン大尉は無言でテオを見つめた。テオも見つめ返した。
 やがて、ステファンが呟いた。

「想像を絶する痛さだと思いますが、怪我をするのは尻でしょうね。」
「誰も経験がないんだな?」
「聞いたこともありません。」
「それじゃ、残った尻尾の行く末は誰も知らないんだ・・・」
「知らないでしょう。」

 2人は溜め息をついた。



2021/09/18

第3部 夜の闇  5

  ロホは特に何処かへテオを連れ出すと言うことでなく、彼をカウンターを出た待合スペースの端っこに連れて行った。大きな窓から街の屋根が見えている。ピラミッドが近いので背が高い建物の建築が規制されている地区だ。4階建ては高いビルの中に数えられる。端っこのベンチが空いていたから案内したと言う感じで、ロホはそこに腰を下ろし、テオが座るのを待った。位置からすれば、職員達には聞こえても構わないが、客には聞き耳をたてて欲しくない場所だった。

「機密事項ではありません。」

とロホが前もって断りを入れた。

「ただマスコミに情報が流れると後が煩いので、若い人たちに聞かれたくないのです。」

 ロホだってカウンター前に並んでいる大学生達と同じ位十分若いのだが、年寄りじみたことを言った。テオもまだ30歳になる寸前だ。ロホが彼に預ける袋の中身がセンセーショナルな物だと見当がついたが、何なのかわからなかった。

「ミーヤ遺跡で起きている厄介ごとって何だ?」

 彼の質問に、ロホが顔を近づけて囁いた。

「チュパカブラです。」
「へ?」

 「へ?」としか言いようがなかった。チュパカブラは家畜の血を吸う化け物のことだ。但し、これは吸血鬼伝説がヨーロッパ人によって新大陸に持たらされてから出現したもので、皮膚病のコヨーテなどの誤認だろうと言われている。
 テオは当然ながら信じていない。超能力者の存在は信じても、吸血鬼は信じられなかった。

「発掘隊のメンバーが襲われたのか?」
「アスルの報告では、2人やられたそうです。ただ、死んではいない。首を噛まれて、近くの村の診療所に運ばれたそうです。」
「ミーヤ遺跡ってどんな所だ?」
「ジャングルの中にある、”ティエラ”の遺跡です。ジャングルと言っても、そんなに深くありません。診療所がある村からも近いし、遺跡の近くに道路が通っています。ゲリラも出ないので、アスルは盗掘の警備をしています。陸軍の警備出役も5名だけです。」

 テオは先刻のビニル袋を出した。

「それで、この毛はどうしたんだ?」
「噛まれた発掘作業員の体に付着していたそうです。誰かがチュパカブラの仕業だと言い出して作業員達の間に不安が広がり、作業が思うように進まないそうです。だから、この毛を分析して頂いて、野良犬の毛だと判明すれば現場も落ち着きを取り戻すだろうとアスルは言っています。」
「成程、そう言うことか。」

 テオはビニル袋をポケットに仕舞った。

「それじゃ引き受けよう。犬かコヨーテの毛だと確定出来れば、現場も納得するんだな。」
「スィ。チュパカブラが本当に化け物なら、ロス・パハロス・ヴェルデスの面目が立ちませんからね。」

 そう言ってロホは笑った。笑いながら彼はチラリとカウンターの奥の上官の席を見た。そしてさらに声を低くして尋ねた。

「昨夜、何か感じませんでしたか?」
「何かって?」
「空気がビーンと・・・2100頃に。」

 テオはちょっと考えた。テオが現在住んでいるマカレオ通りはジャガーの足跡をステファン大尉が調べていた東サン・ペドロ通りの東端に近い。そしてロホのアパートもマカレオ通りの北側の地区にあった。2100、つまり午後9時頃だ。その時刻、テオは夕食を終えて自宅でテレビを見ていた。空気がビーンと・・・?

「何も感じなかったが・・・君は感じたのか?」
「ノ、でも犬が騒いでいたのに、急に静かになったのはわかりました。」
「犬が騒いでいた?」
「私のアパートから南西方向でしたから、サン・ペドロ教会の界隈です。酔っ払いでも歩いて犬を脅かして回っているのかと思っていたのですが、いきなり静かになりました。」

 ロホはまたケツァル少佐をそっと伺うかの様に見た。テオも彼女を見た。少佐は一枚の書類に拘ってしかめっ面で書面を睨みつけていた。

「彼女が犬を脅かしたなんてことはないよな。」
「彼女はそんなことをしません。戦略的に必要な場合は別ですが。」
「それじゃ、犬が騒いだので、彼女が鎮めた?」

 テオとロホは顔を見合わせた。少佐は昨夜出没したジャガーについて何か知っているのだろうか?

第3部 夜の闇  4

  テオは文化・教育省の駐車場に車を置いた。本当は職員専用なので来庁者は徒歩5分の距離にある市営駐車場に車を置かねばならないのだが、常に空いているスペースがあって、そこは頻繁に来る人だけが知っている秘密の場所だった。その日も幸い空いていたので、テオはそこに駐車した。ケツァル少佐のベンツとロホのビートルが駐車しているのを確認した。
 どんなに顔馴染みになっても絶対に妥協しない入り口の番をしている陸軍の女性軍曹に身分証を提示し、リストに記名して入庁パスをもらった。
 階段を上って4階に到達すると、賑やかな声が聞こえた。文化財・遺跡担当課の前で数人の若者達が並んでいた。雨季が終わる後に始まるどこかの遺跡発掘に参加する学生やアルバイトの人々だ。文化財・遺跡担当課でパスを発行してもらわないと発掘隊のバスに乗せてもらえないので、パスの申請に来ているのだ。窓口の職員が申請書と身分証を見比べ、不備な点がないかチェックしていた。テオが大学で偶に見かける顔が数人いたが、知り合いではないので無視して、彼はカウンターの中に入った。職員ではないので勝手に入ってはいけない筈だが、そこはセルバ共和国だ、顔パスで自由に出入り出来る。中にいた職員と挨拶を交わし、彼は奥の大統領警護隊文化保護担当部に向かった。
 カウンターの前に座っている赤毛で色白の男は、アンドレ・ギャラガ少尉だ。数ヶ月前迄大統領警護隊本隊で警備兵として勤務していたのだが、ケツァル少佐に引き抜かれて、今は事務仕事をしている。高等教育どころか義務教育も満足に受けていなかったギャラガ少尉が、外国から提出された申請書をチェックして、提出者に記入漏れを指摘しているところだった。短期間で彼をそこ迄仕込んだ指導者のマハルダ・デネロス少尉は大したものだ。そのデネロス少尉は申請が通った書類を見ながら、陸軍の警備担当者に警備兵の派遣指示を電話で出しているところだ。彼女もこの仕事を任されてまだ日が浅い。しかし書類通りに指示を出すだけなので、強気で年嵩の陸軍少将相手に熱弁を振るっていた。
 テオは2人の少尉に目で挨拶して、ケツァル少佐の机に行った。少佐はいつもの様に書類を読んで署名をする承認業務に取り組んでいた。遺跡の規模と調査隊の規模、それに当たる警備兵の人数と兵力、その警備に係る予算が適当か否か判断して発掘調査計画を承認するか却下するか、彼女が決めるのだ。彼女が署名しなければ、警備隊の規模と予算を算定した副官のロホが再検討する。そして彼がどうしてもそれ以下の変更を見込めないと判断すると、その発掘申請は「却下」されるのだ。

「ブエノス・タルデス、少佐。」

と挨拶すると、ケツァル少佐は書類を眺めたまま、返事をしてくれた。顔を上げないのは、忙しいから話しかけてくれるなと言うメッセージだ。
 テオは彼女の机の前に2つ並んでいる机の一つに移動した。ロホがパソコンと書類を眺めながら、挨拶してくれた。

「お呼びだてして済みません。」

 彼は作業途中の書類を保存して閉じた。情報を画面に出したまま別のことに取り掛かったりしない。テオに空いている席の椅子を勧めた。テオが座ると、彼は机の引き出しからビニル袋を取り出した。

「アスルが送って来たのですが、何の毛だかわかりますか?」

 テオは袋を受け取った。茶色と灰色が混ざった様な動物の体毛らしいものが10数本入っていた。長さは1本3、4センチメートルか? テオは動物学者ではない。遺伝子分析の研究者だ。
 毛を眺め、それから空いている机を見た。

「アスルは発掘隊の護衛かい?」
「スィ。南部のミーヤ遺跡に行っています。そこでちょっと厄介事が起きているらしくて。」

 ロホは立ち上がり、テオに場所を移動しましょうと言った。少佐に断りを入れて、カウンターの向こうに出ようとしたので、テオは忘れないうちに彼女に質問しておくことにした。ロホにちょっと待ってと断ってから、少佐の机の前に戻った。

「ここへ来る途中の東サン・ペドロ通りで、ロス・パハロス・ヴェルデスと出会ったんだ。」

 少佐は聞こえていないふりをして、書類をめくった。テオは伝言を告げた。

「ステファン大尉から君に聞いておいてくれと頼まれた。昨夜は夜歩きしてないよな?」

 奇妙な質問に聞こえたのだろう、ロホが立ち止まって振り返った。デネロス少尉も電話を切ったばかりで、テオを見たし、ギャラガ少尉もカウンターの上の書類から顔を上げて後ろを振り返った。ケツァル少佐が最後に顔を上げてテオを見上げた。

「質問の意図が不明です。」

 テオは苦笑した。文化財・遺跡担当課の職員に聞かれても支障のない程度で説明した。

「今朝早く住民から警察にネコ科の大きな動物を目撃したと言う通報があって、警察が大統領警護隊に連絡したそうだ。それでステファン大尉が部下を連れて住宅街を捜査している。もし夜中に散歩して獣に出会したら危険だから、当分夜間は出歩かないように。」

 彼は一般職員達にも微笑みながら言った。カウンターの前で並んでいた発掘隊のアルバイト希望者達がざわついた。東サン・ペドロ通りから西サン・ペドロ通り迄の間に住んでいそうな富裕層の子供達には見えないが、その周辺に住んでいる人はいるだろう。
 ジャガーが誰かのナワルなら人を襲う可能性は低い、と思いたい。しかし用心するに越したことはない。
 ケツァル少佐が猫を被った顔で言った。

「夜間は出歩かないよう、気をつけます。」


第3部 夜の闇  3

  テオは自宅に帰ってシャワーを浴び、服を着替えた。すぐに文化・教育省へ行くつもりで車に乗り込み、住宅街の道を走り出した。信号がない道路を低速で走っていると、見覚えのあるジープが道端に停車していた。車体に緑色の鳥の絵が描かれている。道幅の余裕があまりないので、徐行して横を通ると、軍服姿の大統領警護隊隊員が民家の塀の前に立って、空を見上げていた。庭の中にも1人いて、住民と話をしていた。塀の外の隊員に見覚えがあったので、テオは少し進んで路肩がわずかに広がった場所に停車した。
 車から降りて、大統領警護隊のジープに近づいた。

「オーラ、カルロ!」

と声をかけると、塀の外の隊員がサッと振り返った。軍人には珍しいゲバラ髭を生やすことを認められている数少ない若い隊員が、テオを認めると微笑した。

「オーラ、テオ! ああ、ご近所だったんですね。」
「スィ、2ブロック向こうの角を曲がった先だよ。」

 久しぶりの再会だったのでハグしたかったが、自重した。カルロ・ステファン大尉は同性とのハグ自体は嫌いでないのだが、相手の方から抱きつかれると固まってしまう癖がある。過去の不愉快な体験のトラウマだ。だからテオはステファンの方からハグして来ない限り、握手で我慢する。尤も大統領警護隊の隊員達は滅多に他人に体を触らせないのだが。
 テオは塀の中を見た。中にいる隊員は住民の指差す地面を見ていた。珍しくスマホで写真を撮っていた。

「何をしているんだ?」
「捜査です。」

 カルロ・ステファン大尉は警備班から独立して活動する遊撃班に転属していた。ルーティンに縛られず、他の班で欠員が出たら代理で任務に就いたり、上官の命令で本隊の外で短期間任務に就いたりする部署で、勿論エリート中のエリートが集まるグループだ。
 ステファンは捜査内容を住民に喋るつもりはなかったのだが、テオは別格だ。”ヴェルデ・シエロ”の秘密を知っている数少ない白人で、科学者だ。そしてステファンの親友だった。それに捜査している理由を知らせた方がテオの安全にも繋がると判断したので、彼は囁いた。

「昨夜、この辺りでジャガーを目撃したと言う通報があったのです。」
「ええ?!」

 テオは再び塀の中を見た。中にいる若い隊員が撮影していたのは、獣の足跡だったのだ。
彼は周辺を見渡した。普通の住宅地だ。緑地が多いが、それでもセルバ共和国の首都グラダ・シティの中心地からそんなに距離はない。所謂都会の中の住宅地だ。野生のジャガーが出没する訳がない。ジャガーの生息地は他国同様セルバ共和国でも年々開発で狭まって来ていた。本物のジャガーを見たければ、ティティオワ山の南に広がるジャングル地帯に入らなければならない。運が良ければ見られる、そんな希少動物だ。もし都会の真ん中でジャガーが現れるとしたら、それは動物のパンテラ・オンカではない。
 テオはステファンに囁き返した。

「誰かのナワルか?」
「それ以外に考えられません。」

 ステファンは通りの南を指差した。

「昨晩、あの辺りで犬達が騒いでいたそうです。どこかにジャガーが現れて、怯えた犬の感情が吠え声で伝染して行ったのでしょう。実際に何処までジャガーが出現したのか、定かではありません。今朝になって、この家の住民が庭に大きな足跡を見つけ、警察に通報しました。警察が大統領警護隊に連絡して来たので、我々が出動して来た訳です。」
「ナワルは無許可で使えないよな?」
「別に許可制ではありませんが、重要な儀式や特別な時に使うものです。深夜の徘徊に使用されては困ります。」

 ”ヴェルデ・シエロ”と呼ばれるセルバ共和国の古代の神様は、儀式の時にジャガーやネコ科の動物に変身した。それは国内にある遺跡の壁画や彫像に残されているし、”ヴェルデ・ティエラ”と呼ばれる現代の先住民の神話や言い伝えの中でも言及されている。そして”ヴェルデ・シエロ”は実在して、今も存在している。市民の中に混ざってひっそりと生きているのだ。大統領警護隊は”ヴェルデ・シエロ”だけで構成されている軍隊だ。彼等は古代からセルバ共和国を周辺国の侵略から守り、植民地時代は庶民の心の支えとなり、現代も土着信仰の形で敬われているが、実際は「ちょっと強力な超能力を持つ普通の人間」なのだ。
 動物に変身するナワルは、儀式や特殊な戦闘の時以外に使ってはならないとされている。無闇に使うと正体が他の種族にばれてしまうし、ナワルを解いて人間に戻ると極端な疲労で1、2日は動けなくなるので、敵の攻撃をかわせない。大統領警護隊では上官の許可無しに変身すると罰を与えられる。市井の”ヴェルデ・シエロ”は他人種とのミックスが多く、ナワルを使えない人が多い。偶に純血種や使えるミックスもいるが、そう言う人々は属する部族から厳しい掟を教え込まれており、ルールを守って暮らしているのだ。ナワルを使う儀式は滅多に行われないし、長老の認可の元で行われるべきものだった。
 ステファン大尉が出張って来たのは、無届けのナワル使用が疑われるので、調査が目的だった。彼が空を見上げていたのは、ナワルを使える”ヴェルデ・シエロ”の気の波動を感じ取ろうとしていたのだ。

「この近辺で”シエロ”がいるのかな?」
「私が知る限りでは・・・」

 ステファン大尉は北西方向を見た。

「あっちにグラダの女が1人住んでいるだけです。」

 テオは吹き出した。「グラダの女」とは、彼の大親友で愛しい女性、ケツァル少佐のことだ。そして彼女はステファン大尉の元上官で、彼の腹違いの姉だった。少佐は唯一人の純血種のグラダ族だが、ステファンはミックスだ。グラダの血を4分の3近く持っている筈だが、彼自身は「半分」と言う。母方の曽祖父であろう白人の血が彼の”ヴェルデ・シエロ”の能力の開発に障害となるので、彼はいつも謙遜していた。人から尋ねられない限り、彼の方からグラダ族を名乗ることはない。

「少佐がナワルを使って夜歩きする筈がないしな・・・」
「そんなことを彼女がしたら、エステベス大佐が見逃しません。」

 車が通りの向こうからやって来るのを見て、テオは用事を思い出した。

「実はロホからオフィスに来いと呼び出しがかかっているので、これから行くところなんだ。何か言付けはないか?」
「ノ」

と言ってから、大尉はニヤッと笑って言った。

「少佐に夜歩きしなかったか、確認だけして下さい。」


 

2021/09/17

第3部 夜の闇  2

  テオドール・アルストは大統領警護隊文化保護担当部から要請を受けて、文化・教育省へ向かっていた。グラダ大学と文化・教育省は徒歩で10分の距離なのだが、お呼びがかかる日に限って彼は離れた場所にいた。大学の農業学部が経営する牧場で、牛達のDNAサンプル採取を行っていたのだ。ゼミの学生達と一緒に新しく生まれた仔牛の細胞をちょこっと頂く。最近、遺伝子操作された仔牛をある大手の食肉業者が購入しているのではないかと、市民団体の一つが騒ぎ出し、農業省からグラダ大学農業学部に調査依頼が来た。農業学部は遺伝子分析のエキスパートである生物学部の准教授テオドール・アルスト・ゴンザレスに仕事を丸投げしてきた。いかにもセルバ的なお役所仕事だ。それでテオは比較検査のためのサンプルを大学の牧場から採取する必要があったのだ。その月に生まれた仔牛10頭からサンプルを採取し終わった直後に、大統領警護隊文化保護担当部の副指揮官アルフォンソ・マルティネス中尉、通称ロホから電話がかかってきた。

ーーブエノス・ディアス、ご機嫌いかがですか?

 テオは額から流れる汗を拭きたかったが、手が牛の臭いで顔を拭ける状態ではなかった。目に汗が滲みて痛い。

「ブエノス・ディアス。ご機嫌良いとは言えないなぁ。牛臭くて・・・」

 牛の鳴き声がBGMになっていたので、ロホが尋ねた。

ーー大学に電話したら牧場におられると教えられたので、携帯にかけたのですが、本当だったのですね。乳搾りでもなさってるのですか?
「仕事だよ、ロホ。知ってるくせに、変なことを言うな。」

 ロホは真面目なイメージがあるイケメン軍人だが、時々ドキッとする冗談を言うので、油断ならない。セルバ人の男達の間で「乳搾り」と言えば、女性と遊んでいると言う暗語だ。女性との会話では使わない。職場で暗語を堂々と使っているのだから、恐らくロホの上官は席を外しているのだ。

「急ぎの用事かい? 急がなければ、一旦切って、手を洗って、こちらからかけ直すが・・・」
ーーノ、用件は短いです。

 ロホは本当に短く言った。

ーーお帰りの時で結構ですから、オフィスに立ち寄って下さい。

 そして「さようなら」と言って切った。テオの仕事の邪魔をしない配慮なのか、それとも彼自身の上官が戻って来たか、どちらかだろう。ロホの上官は部下が電話で長話をするのを好まない。
 テオは学生達に機材を片付けるように指図すると、手洗いに行った。石鹸でゴシゴシ洗ったが、牛の臭いは服にも染み込んだ様に臭った。これは時間をかけて取るより、自宅に帰って着替えた方が良さそうだ、と思えた。
 学生達に集合をかけ、現地解散を告げた。

「但し、サンプルを研究室に持って帰る人が必要だ。誰か引き受けてくれるか?」

 すぐに学生達が輪になって話し合いを始めた。数分後に学生寮に住んでいる男子学生が挙手したので、彼に研究室の鍵を預けた。サンプルを冷蔵庫に入れたら施錠して事務局に鍵を預けること、と言いつけた。そして一同には、

「今日の作業のレポートを明日提出すること。分析は明日の朝から始める。それじゃ、今日はお疲れ!」

と挨拶すると、学生達は午後から自由になったので大喜びで解散した。

第3部 夜の闇  1

  夜空に大きな月が浮かんでいた。満月にはまだ2日ほど足りなかったが、月明かりは外を歩くのに十分だ。ケツァル少佐は月明かりを必要としないが、アパートのバルコニーでビールを飲みながら外を眺めているうちに散歩をしたい衝動に駆られ、外に出た。私用外出だが、一応拳銃は携行していた。規則を守ることは部下を統率する者にとって重要だ。指揮官が規則を無視すると部下も無視する。
 家並みの向こうは明るかった。繁華街は夜明けまで明るい。平日でも活動している区画があるのだ。セルバ共和国には夜目が効く国民が多いので、昼間働けない場所の工事を夜間にやってしまう業者が少なくない。当局はあまり良い顔をしないのだが、そう言う労働者の夜勤明けの食事や寛ぎの場が夜も賑わっているのだ。
 少佐はアパートを出ると住宅街の道を目的もなく歩いて行った。坂道を上ったり下りたり、特に風景を楽しむこともなく、ただ月を追いかけて歩いている、そんな感じだった。時々民家の庭で犬が吠えた。人の気配で吠えただけだろう。少佐は気を完全に抑制していた。動物達に”ヴェルデ・シエロ”が歩いていると気取られる筈がなかった。
 1本向こうの筋の犬達が盛んに吠え始めた。何か怪しい気配が通っているのだ。少佐は足を止めた。犬の騒ぎは西から東へ移動して来る。先に吠えた犬の感情が伝わって、まだ怪しい気配が到達していない地区の犬も吠え始めたので、少し収拾が付かなくなってきた。その怯えた様な鋭い声に、少佐は一瞬気を放った。

ーー落ち着け

 犬達が静かになった。だが彼等は安心した訳ではない。犬達の緊張が伝わってきた。少佐が立っている通りの犬達も落ち着きを失っている気配だ。
 少佐が放った気は、犬達を怯えさせたモノにも伝わった筈だ。家並みを間に置いて、何者かと少佐が互いの出方を伺う、そんな状態が数分間続いた。

ーーどうしました?

 不意に少佐の脳にママコナが話しかけてきた。少佐が放った気をピラミッドの巫女が受信したのだ。少佐は簡単に答えた。

ーー犬が騒いだので鎮めただけです。
ーー満月が近いせいでしょう。

 ママコナはそれっきり何も言ってこなかった。
 怪しい気配の主はピラミッドには影響を及ぼしていない様だ。だが動かない。少佐が放った気を感じて警戒しているのだ。
 少佐は時計を見た。散歩に出てから1時間経っていた。そろそろ帰ろう。彼女は向きを変え、やって来た道を逆に辿り始めた。当初はぐるりと町内を一周するつもりだったが、犬を騒がせた気配と出くわすのを避けたかった。相手が悪意ある者かただの無心の者なのか判断がつかない。彼女は無用な争いを好まなかった。
 再び背後で犬の吠え声が始まった。怪しい気配は遠ざかって行く。誰かが犬に向かって「黙れ!」と怒鳴る声が聞こえた。
 

第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...