2021/09/21

第3部 夜の闇  11

  カルロ・ステファン大尉はケツァル少佐の目を見た。”心話”で報告だ。一瞬で情報を得た少佐は頷いた。

「確かに、それは怪しいですね。」

 そして彼女は前へ向き直った。

「あまりこちらが目立っても、向こうに用心されるだけです。出没が昨日だけなら放っておけば良いでしょう。では、ご機嫌よう。」

 敬礼する大尉を残して彼女は車を出した。坂道を再びゆっくりと上って行くと、後ろを振り返ったロホが呟いた。

「おやおや、デルガド少尉は用足しに行く時にナワルを使うらしい。」

 え? っとテオは驚いて後ろを見ようと体を捻った。しかし大統領警護隊のジープは既に黒いシルエットどころか夜の暗がりの中に溶け込んで見えなかった。
 少佐は角を曲がり、少し走ってテオの家の玄関前にある駐車用スペースに車を入れた。

「コーヒーでも飲んで行くかい?」

 テオが誘うと2人の”ヴェルデ・シエロ”は素直に彼について家に入って来た。室内に入るとロホが勝手に掃き出し窓を開け、風を入れた。テオはキッチンでコーヒーを淹れた。少佐は何もしないでソファで眠たそうに座っていた。
 テオがコーヒーを運んで来ると、ロホが少佐にステファン大尉の報告を教えて下さいと言った。テオも興味があった。それで少佐は口外無用と言いながら、他部署の情報をペラペラと喋ってくれた。

「遊撃班の2人は今日の午後この付近一帯で目撃情報を収集しました。住民の証言はどれも同じで、西の方から犬が騒ぎ出し、サン・ペドロ教会前を過ぎて、東へ騒ぎが移って行ったと言うものです。たまに庭土に足跡が残っている家があり、それらからも東にジャガーが向かっていたことがわかりました。
 私が怪しい気配と最接近したのは東サン・ペドロ通り2丁目と第3筋の交差する付近でした。恐らく向こうは3丁目の通りにいた筈です。犬を黙らせてから、私は第3筋を上って引き返し、1丁目を歩いて西サン・ペドロ通り第4筋のアパートへ帰りました。歩きながら犬が再び吠え始めるのを聞きました。東の方へ吠え声が伝わって行ったと記憶しています。」
「俺が今日の昼過ぎにカルロと出会ったのは東サン・ペドロ通り3丁目の第6筋と第7筋の間だった。」
「カルロはその辺りの民家の庭にも足跡があったと言っています。ジャガーは道路や庭をフラフラとぶれながら東へ進んだのでしょう。」

 ロホがカップを手にしたまま、コーヒーに口を付けずに尋ねた。

「信用出来ない証言と言うのは、どんな内容です?」
「カルロが大学にテオを訪ねた後だそうです。女子学生が彼に声をかけて来たと言っていました。」
「カルロは女性にモテるからな。」
「テオ!」

 テオはチャチャを入れてしまって、ロホに注意された。少佐の話の途中でチャチャ入れはご法度だ。果たしてケツァル少佐はコーヒーを飲んで黙り込んでしまった。彼は謝った。少佐はもう一口飲んでから、話を再開した。

「女子学生は、ジャガーを目撃したと言いました。場所は西サン・ペドロ通り3丁目と第7筋の交差点です。彼女は2丁目の交差点にいたそうです。1丁目に彼女が家庭教師として雇われている家があり、彼女は2100より少し早めに仕事を終えて帰宅する為に自転車で坂を下っていました。彼女の家と雇い主の家は坂道でまっすぐ行き来出来る位置関係だそうです。
犬が騒いだので、彼女は不審に思い、自転車を停めて下りたそうです。そして下の交差点を横切るジャガーを見ました。ジャガーは東から西へ歩いていたそうです。」

 テオとロホが同時に挙手した。少佐が最初にテオに顔を向けた。テオが確認した。

「君が怪しい気配を感じて気を放ったのは、何時だった?」
「家に到着したのが2120でしたから、東サン・ペドロ通り2丁目と第3筋の交差する付近にいたのはほぼ2100丁度でしょう。」
「それより早い時間に女子学生は西サン・ペドロ通り3丁目と第7筋の交差点でジャガーを見たって? それも東から西へ歩くところを?」

 ロホが、それは無理、と呟いた。

「何丁目かは考えなくても、西の第7筋を東から西へ向かって歩いたジャガーが、数分後に東の第3筋にいる筈がありません。全力疾走してもジャガーの足で5分はかかります。ジャガーが走れば犬はもっと騒ぎ立てたでしょう。」
「そうですね。それに東サン・ペドロ通りで見つかった足跡は全て東向きだったそうです。ジャガーは西へ戻っていない。少なくとも、ジャガーの姿では西へ向かっていないと思われます。女子学生以外の、西へ向かうジャガーを見た人はいないのです。」
「それじゃ、その女子学生は何故嘘の証言をしたのか、と言う疑問が生じます。」
「彼女は”シエロ”ではないのか?」
「カルロは彼女の気を感じていませんが・・・」

 少佐がロホの目を見た。ロホが「へえ」っと言ったので、テオは彼を見た。ロホが言い訳した。

「美人なんです。何処かの部族の純血種と思われます。」
「”シエロ”か”ティエラ”かはわからないんだな?」
「気の制御が上手ければ、”ティエラ”のふりが出来ますから。」
「怪我はしていなさそうか?」
「見えた範囲では怪我はない様です。」

  恐らく、カルロ・ステファン大尉とデルガド少尉はその女性の証言に疑いを抱き、ジャガーはまだ東の地区にいると踏んだのだろう。
 それにしても・・・テオは先刻気になったことを思い出した。

「ロホ、君はデルガド少尉がナワルを使ったって言ったよな?」
「え・・・言いましたっけ?」

 ロホはすっとぼけようとしたが、上官程には上手くなかった。当の上官に睨まれて、告白した。

「マーゲイが交差点の陰から出て来て、カルロが車のドアを開けて乗せてやるのが見えたんです。」
「それ、用足しじゃなくて偵察に行っていたんじゃないのか?」
「カルロが許可したか命令して、少尉がナワルを使ったのでしょう。短時間なら大丈夫だと思ったのですね、きっと。」

 ケツァル少佐は見逃すべきか否か考えた。遊撃班長は許可したのだろうか。
 テオは別のことが気になった。

「俺にはデルガド少尉が純血種に見えたけど、ナワルはジャガーじゃなくてマーゲイなんだ?」
「デルガドはグワマナ族です。力が弱いんですよ。」

 とロホが教えてくれた。一般に・・・”ヴェルデ・シエロ”を知っている非”ヴェルデ・シエロ”と言う意味だが・・・純血種の方がミックスより能力が強いと考えられているが、それは誤解だ。純血種は、修行をしなくても能力を生まれつき使えるが、ミックスは教えられて訓練しないと使えない、と言うのが大きな差だ。超能力のパワーは、親や先祖がどの部族かで決まる。穏やかな能力の使い手であるグワマナ族の純血種より、古代から一族の頂点に立ってきたグラダ族の血が4分の3入っているミックスの方が遥かに力が強いのだ。だから、カルロ・ステファンは黒いジャガーで、デルガド少尉は小柄なマーゲイだ。
 翌日の仕事があるので、ケツァル少佐とロホは徒歩で帰宅することにした。どちらも純血種のグラダ族とブーカ族だ。それに拳銃を常時携行している。正体不明のジャガーが襲ってきても対処出来る。
 テオは2人から戸締りを厳重にと繰り返し言われながら、彼等を送り出した。


第3部 夜の闇  10

  結局車はテオの車で、運転は一番酒に強いケツァル少佐が引き受けた。市街地から一番遠いマカレオ通りにあるテオの家迄、3人で一台の車に乗って住宅街に向かってゆっくりと走った。テオがステファン大尉がジャガーの体毛を大学の研究室に持ち込んだ時に話した「尻尾がちょん切られたらどうなるか」の話をすると、少佐もロホも大笑いした。

「切らなくても、尻尾を怪我した時のことを思えば想像がつくでしょう。」

とロホが言った。すると少佐が笑い声を必死で押さえながら、

「誰とは言いませんが、ある少佐が尻尾をドアに挟んだことがあります。」

と言い出して、男達の注意を集めた。

「ある少佐?」
「私ではありませんよ。自分のことでしたら、私ははっきりそう言います。」

と少佐は予防線を張った。

「尻尾をドアに挟んで、その少佐はどうなったんだ?」
「彼はナワルを解いた後、一週間お尻が痛くて、まともに任務に就けませんでした。お陰で、私の仕事が増えて迷惑したのです。私はその時、まだ大尉でした。」
「文化保護担当部が設置される前の話か・・・」
「スィ。大昔です。」

 せいぜい3、4年前の話だ。それなら、その尻尾をドアで挟んだドジな少佐はまだ少佐のままなのかも知れない。

「ちょん切られて残った尻尾はどうなるのか、知ってるか?」
「消えます。」
「へ?」
「本体が人間に戻る時に、切れた尻尾は小さな骨と肉片になります。」
「確かか?」
「スィ。それも実例がありました。事故でしたけど、負傷者はかなり後遺症に苦しみました。体の一部を損傷して紛失したことになりますからね。1年ほど座れなかったのです。」
「やっぱりお尻に怪我をしたのか・・・」

 想像しただけで痛い。テオはナワルを使えなくて良かった、と思った。どんなメカニズムで変身するのか知らないが、どんな姿になっても人間の肉体なのだ。人間の骨格標本を見ると尾骨がある。ナワルを使う時はそれが伸びるのか? とテオは想像した。

「カルロは今夜この問題に悩んで眠れないんじゃないですか?」

とロホはまだ笑っていた。テオは血液を付着させて体毛を残したジャガーは、どの部分を怪我したのだろうと気になった。有刺鉄線で引っ掛けた傷なら、かなりヒリヒリ痛むだろう。

「俺は尻尾の管理まで出来る自信がないな。ドアで尻尾を挟んだ少佐も、尻尾の存在を忘れていたんだろうさ。」

 機嫌良く車を走らせていると、マカレオ通りの標識が見えた。そのそばに大統領警護隊のジープが駐車していたので、少佐が減速した。ジープの外で車体にもたれかかってタバコを吸っている男がいた。近づいて来る車を見て、誰の車かわかったらしく、片手を挙げた。少佐が後続車がいないことを確認して路肩に車を寄せて停めた。窓を開けると、カルロ・ステファン大尉が近づいて来た。

「警察ではないので、飲酒運転の取り締まりはしませんが、気をつけて下さいよ。」

と彼は元上官に注意した。テオが助手席で尋ねた。

「何故俺達が酒を飲んだってわかるんだ?」
「全員自家用車通勤なのに、1台にまとまってるじゃないですか。」

 彼は異母姉から酒の匂いを嗅ぎ取ろうと鼻をひくつかせた。少佐は卑怯にも黙りを決め込んだ。それでテオが言い訳をした。

「2件の動物の体毛分析結果について会議をしたんだよ。」
「バルでですか?」
「大尉、しつこいと嫌われるぞ。」

とロホが後部席でテオに加勢した。彼は上手に話題を転向させた。

「ここでジャガーを張っているのか?」
「そのつもりだが、昨夜の今日だ、ジャガーが誰かのナワルなら今夜は動けないだろう。しかし用心の為にここにいる。」
「相棒の少尉は何処だい?」

とテオは窓の外を見回した。ステファンは言葉を濁した。

「デルガドはちょっと・・・直ぐに戻って来ます。」

 つまり、生物の自然現象に逆らえないってことだ。遊撃班の2人はジャガーが現れないだろうと言う前提でこの場所にいる。だからステファン大尉は平気で喫煙しているのだ。
 テオは通りの名前を記した標識を見た。街灯の暗い灯りだが、普通の人間の彼にも文字は見えた。

「ジャガーは西から東へ向かっていたと聞いたが、マカレオ通りに君達がいるのはどう言う訳だい? ジャガーが家に帰ったのなら、西へ戻るだろう?」
「確かに、ジャガーが東から西へ向かったと言う証言がありましたが・・・」

 ステファン大尉は困った顔をした。あまり情報を「部外者」に言いたくないのだ。そこで初めて少佐が口を挟んだ。

「何? その証言が信用出来ないのですか?」

 大尉がビクッとした。姉ちゃんに図星をつかれる時の癖だ、とテオは心の中で思った。

2021/09/20

第3部 夜の闇  9

  食事の為に選ばれたのはイタリアンの店だった。少佐はレギュラーサイズのトマトソースとミートボールのスパゲティを2皿と特大サイズ1皿を注文した。それからビステッカの大皿とサラダ、イタリア風オムレツ、ローストした野菜の盛り合わせ等。店は少佐が常連客なので要領を得ていた。特大サイズのスパゲティを一番体格の良いテオの前に置き、取り皿も置いた。ロホと少佐はレギュラーサイズの皿で、少佐は少しずつテオの前の大皿から欲しい分だけ取っていくのだ。
 ワインを飲みながら、テオが話の続きを始めた。

「歩いて帰る件だが、ちょっと用心した方が良いな。」
「例のアレですか?」

とロホがはっきりしない物言いをした。少佐が「アレ?」とすっとぼけた表情で尋ねた。ロホが彼女に説明した。

「昨夜2100頃に東西のサン・ペドロ通りで犬が大騒ぎしていた件です。」

 ああ、と少佐は頷いた。

「吠えていましたね。」
「ジャガーを見たと言う通報が警察にあったそうだよ。」

とテオが言うと、「そう?」と驚いたふりをした。テオは彼女の見え見えの芝居に慣れていたので、無視した。

「警察は大統領警護隊に連絡した。それで、警護隊は遊撃班に捜査命令を出した。だから、今日の昼頃からステファン大尉とデルガド少尉が住宅地で聞き込み調査をしていた。俺はロホに呼ばれて文化保護担当部へ行く途中で彼等を見かけて声をかけたんだ。カルロがわかっていることを教えてくれた。民家の庭にジャガーの足跡が残っていた。見たと言う人も数人いるらしい。」

 少佐が無反応なので、彼女がジャガーの出没を知っているのかどうかわからなかった。

「俺がロホからチュパカブラの体毛を預かって大学で分析してたら、カルロがやって来たんだ。何処かの有刺鉄線にジャガーの毛が引っかかっていて、それを持って来た。毛の塊には血が付着していたから、今分析にかけている。明日の朝には結果が出るだろう。」
「ジャガーの毛?」

 少佐が呟くと、ロホが「黄色ですか?」と訊いた。テオは頷いた。

「どんな結果が出るのか、俺にはわからない。ジャガーだと言う結果が出るか、人間だと言う結果が出るか・・・」

 ”ヴェルデ・シエロ”はユニークだがヒューマノイドだ。それは過去の血液分析結果でわかっていた。だが、ナワルで変身したジャガーはどんな血液になるのだろう。もしジャガーになっている時の”ヴェルデ・シエロ”の血液がジャガーのそれになっていたら、分析結果だけでは住宅地に現れたジャガーが”ヴェルデ・シエロ”なのか本物のジャガーなのか判定出来ない。もし人間の血液だと言う結果になれば、それはかなり興味深い。姿はジャガーでも血液は人間のままだ。

 そう言えば、ナワルのジャガーは人間の思考力を持っている。

「もし昨夜のジャガーが人間なら、どう言うことが考えられる?」
 
 テオの質問に、少佐が不愉快そうに答えた。

「自制心のない人です。初めてナワルを使って慎みを忘れたのでしょう。」
「下手をすれば、”砂の民”に知られてしまいます。」

とロホが心配した。”砂の民”は”ヴェルデ・シエロ”の存在を世間に知られてしまうような行動を取る者を許さない。気の抑制が下手なミックスの”ヴェルデ・シエロ”が純血種に嫌われるのも同じ理由だ。”砂の民”に危険分子と判断されれば殺されてしまう。
 テオはママコナが新参者のナワル使用者に警告を与えないのかと気になった。

「ママコナが・・・」

 言いかけると、ロホが「しっ!」と口の前で指をクロスして見せた。みだりに呼んではいけないのだ。テオは反省し、言葉を変えた。

「名前を秘めた女の人は、新しいジャガーに作法を教えてやらないのか?」
「作法を教えるのは部族の年長者の役目です。」

 そう言って、少佐は昨夜の出来事を思い出した。

「彼女は新しいジャガーを知りません。」

 テオとロホに注目されて、遂に彼女は昨夜の体験を白状した。

「昨晩、私は散歩に出たのです。犬が西の方角から騒ぎ出し、徐々に東へ興奮が伝わって来ました。同時に何かが西からやって来るのを感じました。それが犬を怯えさせているのだと分かりました。私の近くまで来たので、私の周囲の犬も大騒ぎを始めました。私は不快に感じたので、犬を鎮める目的で気を発したのです。」

 ああ、とロホが頷いた。

「それで、犬どもが一斉に大人しくなったのですね。」
「スィ。犬を騒がせた者は私がいた通りから1本南にいました。私の気をそいつも感じたのでしょう、そこで停まっていました。私はそこから来た道を辿って家に帰りました。その時に彼女が私に『どうかしましたか』と尋ねて来ました。私が犬を鎮めただけですと答えると、彼女は納得してそれっきりでした。」

 テオは少佐の自宅とピラミッドの位置関係を頭に思い浮かべた。

「君のアパートは西サン・ペドロ通りだったな? ピラミッドのほぼ真北だ。」
「それが何か?」
「名前を秘めた女の人が君の気を感じた理由はわかった。君の力は大きいから、ピラミッド迄十分届いたんだろう。だけど、今日の昼に俺がカルロ達と出会ったのは、東サン・ペドロ通りだった。ジャガーは君の気を感じて立ち止まったが、その後再び東へ向かって歩いたことになる。」
「そのジャガーの家は東に行ったところにあるのかも知れませんね。」

とロホが言って、テオと少佐の注目を浴びた。ロホは肩をすくめた。

「きっと今夜は現れませんよ。ナワルを使った後は疲労感が半端じゃないですから。」

 

第3部 夜の闇  8

 午後6時過ぎ、テオドール・アルストは文化・教育省が入居している雑居ビルの前の歩道で退庁して出て来る職員達を眺めていた。誰とも約束していないが、1人ぐらいは夕食に付き合ってくれるだろうと期待しつつ立っていると、マハルダ・デネロス少尉がいつもの如く他部署の女性職員達とお喋りしながら出て来た。彼女は友人達と夕食を取ってから大統領警護隊の官舎に帰るのが毎日のルーティンだった。テオを見かけても手を振るだけで立ち止まってくれない。声を掛ければ来てくれるだろうが、その時はその他大勢の女性達も一緒だ。テオは彼女達の分までは払えなかった。だからデネロスはパスだ。
 少し遅れてアンドレ・ギャラガ少尉が小難しい顔をしながら現れた。彼は勉強があるので、夕食を何処か近くで簡単に済ませて官舎へ帰ってしまう。真面目な男だ。引き抜いてくれたケツァル少佐の為にも早く一人前の文化保護担当部隊員として働きたいのだ。だからテオは邪魔しない。ギャラガも彼に気づくと、片手を挙げて「さようなら」と挨拶をしてくれただけだった。ロホとケツァル少佐が間に2人置いて出てきた。ロホがテオに気がついて向きを変えてやって来た。

「ドクトル、何か分かりましたか?」

 仕事関連の時はテオではなくドクトルと呼ぶのが彼の習慣だった。彼の声を耳にして、少佐もやって来た。

「アスルの毛のことですか?」

 まるでアスル自身の体毛の話みたいに聞こえる。テオは苦笑した。

「晩飯に付き合ってくれるなら、結果を教えるよ。」

 少佐とロホがほぼ同時に「スィ」と答えた。
 店はいつもと同様に少佐が選んだ。高い店も安い店も少佐が選べば間違いなく美味しい物が食べられる。その晩は賑やかな方が内緒話にふさわしいと言うことで、立食バルから始まった。

「まず結果から言えば、あれはコヨーテの毛だった。」

とテオは報告した。

「ただ、伝染性の病気を持っている。狂犬病でなかったのが不幸中の幸いだ。被害が広がらないうちにコヨーテを捕まえた方が良い。周囲の村の家畜や犬、健康なコヨーテに病気が広がると面倒なことになる。」

 少佐が頷いた。

「内務省に勧告します。病気のコヨーテは1頭だけだと思いますか?」
「もらったサンプルだけでは複数か単数かわからない。だが発掘調査隊は十分用心しないといけないな。」
「チュパカブラの噂が出てから作業は停滞しているそうですから、作業員を分散させないようアスルに見張らせましょう。」
「問題はアスルが作業員達を納得させられるかどうか、ですね。」

とロホがビールの泡を鼻の下にくっつけて言った。少佐が紙ナプキンで拭き取ってやったので、彼はちょっと赤面した。それを誤魔化すために彼は言葉を続けた。

「彼は最初っからコヨーテだと言い張っていたのに、作業員達がチュパカブラだと騒いでいました。」
「発掘作業の妨害じゃないか?」

とテオが言ったので、少佐とロホが彼を見た。

「何故そう思うのです?」
「だって、そのミーヤ遺跡周辺で今までチュパカブラが出たって話があったのかい? 何もなかった土地でいきなり吸血鬼の話が出てくるなんて、おかしいぞ。」
「発掘を妨害して誰かが得をするのですか?」
「それは・・・」

 テオは言い淀んだ。 

「日当はどうなるんだ? 掘らなきゃもらえないのか?」
「それは調査隊サイドの問題で、当局は関知しません。」
「国はどうなんだ? 許可が下りた日程が過ぎてしまえば、国は発掘作業があろうがなかろうが、発掘を打ち切らせるんだろ?」
「スィ。」
「調査隊が収めた費用は国がそのままもらっちまう・・・」
「協力金は勿論返金しません。だからと言って、国が得をする訳ではありません。寧ろマイナスイメージになります。」

 そこで考えが尽きて、3人は暫く黙ってお酒とつまみを楽しんだ。2杯目のビールのグラスを手にして、テオは言った。

「兎に角、明日検査結果の報告書を作成する。アスルに直接送った方が良いか? それともそっちのオフィスに持って行こうか?」
「郵便では何時届くか分かりません。」

 少佐が赤ワインを飲みながら言った。

「アンドレを遣いに出しましょう。一度彼を出張させてみたかったのです。あまりグラダ・シティから出た経験がないので、他所の地方へ出かけることに慣れさせないといけません。」
「それじゃ、報告書はオフィスに持って行く。多分、お昼迄には提出出来る。」

 ロホがふと手に持ったビールのグラスを見た。

「今日は3人共車で来たのに、3人共飲んでますね。」
「歩いて帰れば良いさ。」

 テオはまだ酔っていなかった。これからディナーだ。少佐が携帯を出した。食事をする店に電話をして席を確保すると、男達を促した。

「食事に行きますよ。早く飲んで!」


第3部 夜の闇  7

  分析結果が出たら電話で教えると約束して、テオはステファン大尉を研究室から送り出した。学生達はアルスト先生が大統領警護隊の隊員と親交を持っていることを知っているので、別れの挨拶をしている2人を尊敬と羨望の眼差しで眺めていた。ステファン大尉はあまり学校が好きでないので、通信制の受講時代も殆どキャンパスを訪れたことがない。スクーリングの日に少佐やロホにせっつかれて渋々出席したぐらいだ。周囲にいる若者達が己と同世代だと言う意識があまりなかった。何処か別世界の人々、そんな感覚で彼は学生達の間を歩いて駐車場へ向かっていた。

「大尉!」

 誰かが呼んだ。周囲に軍人らしき人間が見当たらなかったので、彼は立ち止まった。女子学生が1人、彼に近づいて来た。片手に本を数冊抱えていた。

「大統領警護隊の大尉ですね?」

 ステファンは頷いた。

「スィ。大統領警護隊のステファン大尉です。」
「私は文学部のビアンカ・オルティスと言います。あの・・・もしかして、昨夜のジャガーをお探しですか?」

 ステファンは驚いた。ジャガーの出没は公表していない。目撃者には世間を脅かすといけないからと口止めした。しかし、全ての目撃者を当たった訳でもないので、情報が既に拡散している可能性はあった。彼は用心深く尋ねた。

「サン・ペドロ教会の近くにお住まいですか?」
「スィ、西サン・ペドロ通りの一番南のブロックに住んでいます。」

 南と言うことは、その界隈では家賃が安い地域だ。学生達が好んで住みたがる新しいアパートなどが建ち並んでいた。

「何かご覧になったのですね?」
「ジャガーを・・・」

 ビアンカ・オルティスはそっと周囲を見回した。ステファン大尉は他の学生達が好奇心でこちらを見ているのに気がついた。それで彼女に丁寧に声をかけた。

「もしよろしければ、何処で何を目撃したのかお聞きしたいのですが、そこのカフェで話しませんか? お友達がいるならご一緒にどうぞ。」

 彼女は承諾し、2人はカフェの屋外席にテーブルを確保した。オルティスは連れはいないと言い、コーヒーも断った。ステファン大尉は実際には使用しないが、スマホを置いて録音すると断った。彼女はそれを了承した。

「昨日は西サン・ペドロ通り1丁目のお宅へ家庭教師の仕事で出かけていました。」

と彼女は始めた。

「自宅アパートから坂道をまっすぐ上るだけなので、行きは自転車を押して行き、帰りはそれに乗って一気に下るので、夜でも安全だと思ってました。仕事は19時から21時頃迄で、家に帰ってから晩御飯を食べます。だから寄り道はしません。昨日は少し早く終わったので、自転車に乗って・・・犬が吠え始めたのです。それも1匹や2匹ではなくて、そのブロックから西の犬が全部って感じで吠えて・・・。」

 彼女は肩をすくめた。

「犬は好きなんですけど、物凄く切羽詰まった吠え方なので怖くなって、坂道の途中で自転車を降りて立ち止まってしまいました。」
「どうしてです? 一気に家迄下った方が安心出来るでしょう?」

 ステファンが突っ込むと、彼女は首を振った。

「分かりません、どうしてそうしたのか・・・兎に角怖かったんです。自転車を下りてすぐに、坂道の1本下の交差を大きな動物が横切るのが見えました。」
「大きな動物ですか。」
「昨日は満月が近くて月が明るかったでしょう? 頭から尻尾まで見えました。虎かジャガーだと思いました。犬じゃありません。歩き方が動物園で見たジャガーそっくりでした。」

 ステファン大尉は成る程と頷いた。

「斑模様は見えましたか?」
「月明かりで、背中が光っていましたから・・・あったと思います。」
「黄色いジャガー?」
「多分・・・黒くはなかったです。縞模様でもありませんでした。」
「そのジャガーはどっちの方向からどっちの方向へ行きました?」
「ええっと・・・左から右へ・・・東から西へ・・・」
「路面を歩いていたんですね?」
「あの時はそうでした。」
「目撃した場所の正確な住所は分かりますか?」
「西サン・ペドロ通り3丁目と第7筋の交差点です。」
「貴女はその時、第7筋の2丁目あたりにいた?」
「スィ。もしあのまま立ち止まらずに下っていたら、ジャガーと鉢合わせしたかも知れません。」

 ビアンカは身震いした。ステファン大尉はグラシャスと言って、スマホを仕舞った。

「その話はお友達に話しましたか?」
「スィ。そしたら、エル・パハロ・ヴェルデが生物学部の先生のところに来ているから、話すべきだと言われました。」

 と言ってから、彼女は慌てて「失礼しました」と謝った。大統領警護隊の隊員本人に面と向かって「緑の鳥」と呼び掛けるのは失礼に当たるのだ。しかしステファン大尉は気にしなくて結構です、と微笑して見せた。そして胸の内ではジャガーの出没情報がかなり拡散されているな、と毒づいた。


2021/09/19

第3部 夜の闇  6

  文化・教育省の終業時刻迄まだ2時間もあったので、テオは友人達を待つこともなく、大学へ行った。事務局へ行って学生が預けた鍵を受け取り、研究室へ行った。最初に冷蔵庫に牛の検体が収まっていることを確認してから、机の上のパソコンを立ち上げた。当日の作業報告を作成し、業務記録と共に生物学部主任教授のパソコンへ送信しておいた。同じ大学の施設へ出かけただけなので、出張費は出ないが、ガソリン代は出るだろう。自前の車を出した学生達の氏名も忘れずに記入しておいた。
 次にロホから預かったビニル袋を出し、中の動物の体毛と思われる物体を顕微鏡で眺めた。どう見てもイヌ科の動物の体毛にしか見えなかった。5本ばかりを別の袋に入れて、研究室から出て、野生生物の調査を主に行なっている准教授の部屋を訪ねた。相手は不在だったが助手が鑑定を引き受けてくれた。詳細な分類は必要ないから、何の動物かだけ調べて欲しいと言ったら、笑われた。

「遺伝子分析のエキスパートだから、アルスト先生の方が詳しいでしょ?」
「遺伝子分析は比較対象がないと、何なのか同定出来ないんだ。犬とか猫と言ってくれたら、それの基準表と比較出来る。」
「毛だけでは、犬と猫の違いははっきりしないのですけどね。」

 それでも助手は検体を預かってくれた。
 テオは自分の部屋に戻り、毛の1本を成分分析にかけた。毛だけではDNAが取れない。毛根の細胞が欲しかったが、それはなかった。アスルも謎の動物に噛まれた作業員の体に付着していた物を採取しただけだから、こちらから文句を言う訳にいかない。
 機械が分析結果を出すのを待っていたら、ドアをノックする音が聞こえた。彼は「開いてるよ」と答えた。先刻毛を預けた助手かと思ったら、入って来たのは軍人だった。

「相変わらず不用心な人ですね。」

とカルロ・ステファン大尉が言った。テオは振り返って笑った。

「ここに強盗が入ったなんて聞かないからね。」

 そしてカマをかけてみた。

「まさか、ジャガーの毛を持って来たんじゃないだろうな?」

 ステファン大尉が一瞬拗ねた表情を作って見せたので、図星だとわかった。

「流石ですね。」
「そうでもない。実はさっき文化保護担当部に呼ばれたのも、似たような用件だったんだ。」

 テオは分析器をペンで指した。

「アスルが動物の毛を送って来て、鑑定依頼して来たんだとさ。」
「アスルが?」

 ステファン大尉が興味を抱いて分析器の側へ立った。覗いても何も見えないのだが。テオは簡単に説明した。

「ミーヤ遺跡の発掘現場で、作業員が動物に噛まれたらしい。作業員達の間で、その噛んだ動物がチュパカブラじゃないかと噂が広まって、作業が滞っているので、普通の動物だと証明してくれと言う依頼だ。アスルがチュパカブラを信じている訳じゃない。」
「そうでしょうね。」

 大尉は勝手にその辺にあった椅子を引き寄せてテオの前に座った。

「警護隊に入隊すると民族の歴史を習いますが、そんな怪物の言い伝えなど教わりませんよ。」
「悪霊の話は教わるのかい?」
「大きな事件として残っているものは教わります。」

 それは興味深い。民族学のウリベ教授に聞かせたい。とテオは言って、少しだけ世間話のムードになったので、コーヒーを淹れた。大尉は急がないのか、コーヒーが出される迄大人しく座って世間話に付き合った。

「ギャラガ少尉は新しい部署に馴染んでいますか?」
「うん、心配無用だ。勉強熱心で、マハルダも良い教師だから、申請書のチェックは上手になった。専門用語も覚えたぞ。通信制は高校卒業の資格が要らないから、少佐が今度の学期からグラダ大学の通信制に入学させると言っている。」
「小学校も行っていない男がいきなり大学ですか? やるじゃないですか!」

 ステファン大尉も嬉しそうだ。この男は一応義務教育は受けたらしい。出席日数がギリギリだったと言っていたが。かっぱらいや掏摸の方が学業より忙しかったのだ。

「アンドレも他の連中同様、君が文化保護担当部に戻って来るのを待っている。一体、本部はいつまで君を捕まえておくつもりなんだ?」
「捕まっているつもりはありませんが、修行を終えたと承認してもらえる迄の辛抱です。」
「さっき一緒にいた隊員は少尉か?」
「スィ。遊撃班は手が空いている者から順番に任務を割り当てられるので、階級に関係なく組まされます。今日の相棒はデルガド少尉です。」
「彼は何処かで待っているのか?」
「車の中で寝ています。今夜、またジャガーが出没するかどうか、張り込むつもりなので。」

 テオは出来上がったコーヒーをカップに入れた。ステファンの好みを知っていたので、ミルクと砂糖も出した。ステファンはポケットからスカーフに包んだ物を出した。開くと黄色い毛の塊が入っていた。

「有刺鉄線に引っ掛けた様です。」

 テオは用心深くそれを空いたシャーレに入れた。

「確かに、ジャガーの毛に見えるな。」
「根元に少し血が付いているように見えます。」
「それは有り難い。」

 テオはじっと毛を見つめた。確かに血液の様な物が付着していた。シャーレに蓋をした。

「分析器が空き次第、これに取り掛かってみる。ところで、ちょっと不思議に思うんだが。」

と彼は言った。

「ここに毛が残っている。ジャガーが誰かのナワルだとして、その人物は人に戻った時、どこか怪我をしているのかな?」
「血が付いていますから、怪我をしていることは確かです。しかし、毛が抜けたぐらいでは人の体には影響ありません。」
「そうなのか・・・それじゃ、もし尻尾が何かでちょん切られたら、どうなるんだ? 人の体のどの部分が怪我をするんだ? 残った尻尾はそのまま尻尾として残るのか?」

 ステファン大尉は無言でテオを見つめた。テオも見つめ返した。
 やがて、ステファンが呟いた。

「想像を絶する痛さだと思いますが、怪我をするのは尻でしょうね。」
「誰も経験がないんだな?」
「聞いたこともありません。」
「それじゃ、残った尻尾の行く末は誰も知らないんだ・・・」
「知らないでしょう。」

 2人は溜め息をついた。



2021/09/18

第3部 夜の闇  5

  ロホは特に何処かへテオを連れ出すと言うことでなく、彼をカウンターを出た待合スペースの端っこに連れて行った。大きな窓から街の屋根が見えている。ピラミッドが近いので背が高い建物の建築が規制されている地区だ。4階建ては高いビルの中に数えられる。端っこのベンチが空いていたから案内したと言う感じで、ロホはそこに腰を下ろし、テオが座るのを待った。位置からすれば、職員達には聞こえても構わないが、客には聞き耳をたてて欲しくない場所だった。

「機密事項ではありません。」

とロホが前もって断りを入れた。

「ただマスコミに情報が流れると後が煩いので、若い人たちに聞かれたくないのです。」

 ロホだってカウンター前に並んでいる大学生達と同じ位十分若いのだが、年寄りじみたことを言った。テオもまだ30歳になる寸前だ。ロホが彼に預ける袋の中身がセンセーショナルな物だと見当がついたが、何なのかわからなかった。

「ミーヤ遺跡で起きている厄介ごとって何だ?」

 彼の質問に、ロホが顔を近づけて囁いた。

「チュパカブラです。」
「へ?」

 「へ?」としか言いようがなかった。チュパカブラは家畜の血を吸う化け物のことだ。但し、これは吸血鬼伝説がヨーロッパ人によって新大陸に持たらされてから出現したもので、皮膚病のコヨーテなどの誤認だろうと言われている。
 テオは当然ながら信じていない。超能力者の存在は信じても、吸血鬼は信じられなかった。

「発掘隊のメンバーが襲われたのか?」
「アスルの報告では、2人やられたそうです。ただ、死んではいない。首を噛まれて、近くの村の診療所に運ばれたそうです。」
「ミーヤ遺跡ってどんな所だ?」
「ジャングルの中にある、”ティエラ”の遺跡です。ジャングルと言っても、そんなに深くありません。診療所がある村からも近いし、遺跡の近くに道路が通っています。ゲリラも出ないので、アスルは盗掘の警備をしています。陸軍の警備出役も5名だけです。」

 テオは先刻のビニル袋を出した。

「それで、この毛はどうしたんだ?」
「噛まれた発掘作業員の体に付着していたそうです。誰かがチュパカブラの仕業だと言い出して作業員達の間に不安が広がり、作業が思うように進まないそうです。だから、この毛を分析して頂いて、野良犬の毛だと判明すれば現場も落ち着きを取り戻すだろうとアスルは言っています。」
「成程、そう言うことか。」

 テオはビニル袋をポケットに仕舞った。

「それじゃ引き受けよう。犬かコヨーテの毛だと確定出来れば、現場も納得するんだな。」
「スィ。チュパカブラが本当に化け物なら、ロス・パハロス・ヴェルデスの面目が立ちませんからね。」

 そう言ってロホは笑った。笑いながら彼はチラリとカウンターの奥の上官の席を見た。そしてさらに声を低くして尋ねた。

「昨夜、何か感じませんでしたか?」
「何かって?」
「空気がビーンと・・・2100頃に。」

 テオはちょっと考えた。テオが現在住んでいるマカレオ通りはジャガーの足跡をステファン大尉が調べていた東サン・ペドロ通りの東端に近い。そしてロホのアパートもマカレオ通りの北側の地区にあった。2100、つまり午後9時頃だ。その時刻、テオは夕食を終えて自宅でテレビを見ていた。空気がビーンと・・・?

「何も感じなかったが・・・君は感じたのか?」
「ノ、でも犬が騒いでいたのに、急に静かになったのはわかりました。」
「犬が騒いでいた?」
「私のアパートから南西方向でしたから、サン・ペドロ教会の界隈です。酔っ払いでも歩いて犬を脅かして回っているのかと思っていたのですが、いきなり静かになりました。」

 ロホはまたケツァル少佐をそっと伺うかの様に見た。テオも彼女を見た。少佐は一枚の書類に拘ってしかめっ面で書面を睨みつけていた。

「彼女が犬を脅かしたなんてことはないよな。」
「彼女はそんなことをしません。戦略的に必要な場合は別ですが。」
「それじゃ、犬が騒いだので、彼女が鎮めた?」

 テオとロホは顔を見合わせた。少佐は昨夜出没したジャガーについて何か知っているのだろうか?

第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...