2021/10/03

第3部 潜む者  4

 夕方、テオは研究室を片付け、施錠した。鍵を事務局に預けて駐車場に向かうと、数人の学生達に声をかけられた。大学ではテオが大統領警護隊文化保護担当部の隊員達と親しいことが知られている。声をかけて来た学生達は、例のジャガー出没事件を知っており、大統領警護隊遊撃班がジャガーの捜索をしている噂も耳にしていた。だから、テオに何か進展がありましたかと尋ねてきた。テオは何も聞いていないと答えた。

「俺の友人は文化保護担当部の人々だ。遊撃班は知り合いが1人いると言うだけだから、情報は入って来ない。第一、彼等は友人だからと言って気安く情報を外に流したりしないさ。」

 がっかりした様子の学生達に、彼は警察に訊いた方が早いぞと言っておいた。
 車に乗って走り、メルカドで食材を購入して帰宅した。家の中に灯りが点いていた。時計を見ると午後7時過ぎだった。なんとなく誰が家の中にいるのかわかった。彼は鞄と食材が入った紙袋を持ち、車を施錠して家の玄関のドアを開けた。鍵は開いていた。リビングでテレビが点いており、ソファに大統領警護隊遊撃班のデルガド少尉が座っていた。彼はテオが家の中に入って来ると立ち上がり、敬礼して迎えた。

「大統領警護隊遊撃班、エミリオ・デルガド少尉であります。」
「テオドール・アルストだ。テオと呼んでくれて良い。」

 テオは無断で他人の家に入って来る”ヴェルデ・シエロ”に慣れっこになっている己が少し可笑しく思えた。普通のセルバ人は絶対に慣れていない筈だ。だって、勝手に家に入って来られたら、それは泥棒じゃないか。果たして、デルガド少尉が荷物をテーブルに置いて食品を袋から出し始めたテオを不思議そうに眺めた。

「私がここにいることに驚かれないのですね?」
「君達の図々しさには慣れているから。」

と言ってから、彼はデルガドを振り返って笑いかけた。

「失礼なことを言ってごめんよ。だけど、この家にはステファンもアスルもアンドレも平気で出入りしているからね。」

 デルガド少尉は頭を掻いた。警護隊の制服を着ているが、武器は体から外してソファに置いてあった。この家は安全圏だとステファン大尉に言われたのだろう。純粋な先住民の顔つきをした若者だ。恐らくステファンより年下で20歳前後だろう。身長はあるが全体的にほっそりしていた。いかにもマーゲイに変身しそうだ。

「ステファンは何処かへ行ったのか?」
「食糧の調達に行かれました。貴方に負担をおかけする訳にいきませんので。」
「気にしなくても良いのに。」

 恐らくステファン大尉は近所の屋台かメルカドで買い物をして来るのだろう。部下に買い物をさせないのは、恐らくデルガド少尉が最近ナワルを使って疲れているからだ。テオはデルガド少尉に座ってテレビを見ているようにと言い、キッチンに入った。野菜とチキンの煮込みが出来上がる頃に、ステファン大尉が帰って来た。無断で家に入ったことを詫び、彼は買ってきたソーセージやタコスを食卓に提供した。
 1人で食事するより3人で食べた方が楽しいに決まっている。テオは彼等の捜査の進展が気になったが、向こうから言い出さないうちは黙っていた。代わりに、先日の尻尾を切られたらどうなるかの話の続きを話した。お尻の怪我の話を聞いて、デルガド少尉がいかにも痛そうな顔をしたのが愉快だった。そう言えばマーゲイは尻尾が長いんだ、とテオは思い出した。

「ナワルを使う儀式は多分広い場所で行うから心配ないと思うけど、外で捜査や戦闘で変身する時は気をつけた方が良いぞ。尻尾はピンと立てて歩けよ。」
「敵に忍び寄る時は立てられませんよ。」

とステファンが笑った。  デルガドも少し遠慮がちに会話に加わってきた。

「尻尾を立てて歩くと、出くわす相手に偉ぶっていると見なされます。」
「相手が上官だとマズイか?」
「上官ならまだマシです。長老だったらそれこそ尻尾を咬まれます。」
「俺は尻尾がなくて良かったよ。よく教授達に意見して睨まれるから。」

 3人は笑った。それからテオは思い出して鞄からジャガーの毛と血痕の分析結果を出した。

「ジャガーの毛に違いない。だけど血液は擬似ジャガーだ。間違いなく”ヴェルデ・シエロ”だ。」

 分析結果のDNA対批表を眺めたステファン大尉は、人間のゲノムと謎の血液のそれが同じ配列であることを認めた。それをデルガド少尉にも回してやった。デルガドが科学が得意かどうかわからないが、若者もそれをじっと見つめた。そして呟いた。

「やっぱり我々も人間なんですね。」
「当たり前だろ。」

 テオは微笑んで見せた。

「喜怒哀楽があるのは人間の証拠だよ。」



2021/09/25

第3部 潜む者  3

  テオはブリーフケースを引っ込めた。真っ昼間、大学でこの老人、ムリリョ博士と出会うのは初めてだ。マスケゴ族の族長で長老で”ヴェルデ・シエロ”の長老会の重鎮で、”砂の民”のリーダー的存在が真の姿だが、表の顔はグラダ大学考古学部の主任教授でセルバ国立民族博物館の館長、考古学者であり、人類学者だ。テオは彼といつも博物館や、少し意外な場所で出会うことが多かったが、職場で会うのは本当に初めてだった。ムリリョ博士は滅多に大学に来ないのだ。ただ現在のところ、セルバ国立民族博物館は老朽化を理由に建て替え工事をしており、所蔵している民具や伝統的芸術品などは各地に分散して保管されている。少しずつ地方で一般公開して、グラダ・シティに来られない国民に自国の宝物を見せて回る巡回展示が行われているが、それは本部の博物館が休館している間の学芸員達の仕事だ。ムリリョ博士は所蔵品の保管所の管理を主に行っていた。
 ムリリョ博士が大学に来る用件は何だろう?とテオは考えた。大学の考古学部と博物館は経営が別物だ。どちらも国の機関だし、文化・教育省の管轄だが、責任者は異なる。博物館の館長は大学では主任教授で、学長でも学部長でもない。それに今日は教授会議の日でもなかった。考えられるのは、ムリリョ博士はケサダ教授に面会に来たのだろうと言うことだ。フィデル・ケサダはマスケゴ族で考古学教授、ムリリョの弟子だ。そして同じく”砂の民”だろう。(テオはまだ確認出来ていない。)
 テオは声を低めて断言した。

「あのジャガーはやっぱり誰かのナワルです。」

 ムリリョが白い眉毛の下の黒い瞳を彼に向けた。テオは続けた。

「大統領警護隊が捜査中です。出来るだけ早く捕まえて正しいルールを教えなければなりません。」

 さもないと、貴方はそいつを殺してしまうだろう、と彼は心の中で言った。それが”砂の民”の仕事なのだ。”ヴェルデ・シエロ”の存在を世間に曝してしまう様な愚行を為す者を、”砂の民”は抹殺して一族を守る。
 ムリリョ博士が不機嫌な声で呟いた。

「お前が心配することではない。」

 そして彼は歩き去った。きっと、黒猫の仕事が遅いと胸中で文句を言っているだろうな、とテオは想像した。ムリリョ博士は、黒いジャガーに変身するカルロ・ステファンを「黒猫」と呼ぶ。以前は蔑みで呼んでいたが、ステファンが気のコントロールを上達させて来ると、今は愛情を込めて呼んでいる様にテオには聞こえた。カルロが生まれる前から彼の母親のカタリナ・ステファンを見守ってきた老人にとって、「黒猫」はきっと「出来が悪いが可愛い孫」みたいな存在なのだろうと容易に想像出来た。
 ステファン大尉とデルガド少尉のコンビは”砂の民”より先にジャガーを見つけなければならない。
 テオはムリリョ博士にもケサダ教授にも同胞の粛清をさせたくなかった。

2021/09/24

第3部 潜む者  2

  昼食をゆっくり食べたいセルバ人は、急ぎの用事がなければファストフード店を利用しない。職場に近いレストランでテオはロホとデネロスと3人で楽しい昼食を取った。食事中は仕事の話をしないルールだが、テオはデネロスが出席した会議がどんな様子だったのか気になった。デネロスも、恐らく初めての体験だったのだろう、役人達が堂々巡りの話し合いをして少しも議事が進まなかったことを面白おかしく語った。

「あんな退屈な仕事を少佐は2日に一度はされているんですね!」
「私だって時々しているぞ。」

とロホがアピールした。

「アスルにもやらせようと思うのに、アイツはいつも肝心な時にいないんだ。」

 テオは笑った。

「大学の教授会議だって似たようなものさ。研究費のもぎ取りが懸かっている学科の先生達だけが必死なんだ。皆カツカツだけど、なんとかやっていけてる先生は黙って見ているか、居眠りしているね。」
「テオの研究室は余裕なんですか?」
「余裕がある訳ないだろ! 研究費の不足は世界的な問題なんだ。」

 満腹になって、彼等が店を出たのは午後2時前だった。大学も文化・教育省もシエスタは午後2時迄だ。しかしテオの研究室はもう誰もいないだろう。午後は授業がなかったし、学生達のレポートを読んで、来週の試験問題を考える仕事があるだけだ。
 大統領警護隊の友人達と別れて、彼は大学へ歩いて戻った。正門から入ってキャンパス内を横切り理系の学舎へ向かって歩いていると、人文学の学舎から1人の背が高い高齢男性が出て来た。髪は真っ白で、痩せた顔には鋭く光る目がある。純血種の”ヴェルデ・シエロ”だ。テオが苦手とする人物だった。
 テオは彼と目を合わせないように心がけながら、軽く頭を下げてすれ違おうとした。挨拶の言葉をかけても返事はないのだから、黙って通り過ぎようとした。それがこの人物に対するマナーなのだ。
 最接近した時、老人が囁きかけて来たので、テオは驚いた。向こうから声をかけて来たのは初めての様な気がした。

「昨日、黒猫がお前を訪ねて来たそうだな。」

 テオは肩の力を抜いた。言葉を交わすと何故か気が楽になる。彼は答えた。

「スィ。今彼が捜査中の事案について協力を求めてきたのです。」

 老人が黙って彼を見るので、テオはブリーフケースを前に出した。

「彼とデルガド少尉が採取した動物の体毛を遺伝子分析してみました。ご覧になりますか?」

 老人が無表情にブリーフケースを見た。短く「ノ」と言った。

第3部 潜む者  1

  お昼前にテオは大統領警護隊文化保護担当部に出かけた。研究室の学生達には、夕方4時迄に戻るが、もし戻らなければ鍵をかけて事務局に預けること、といつもの指示を出しておいた。未来の予定をはっきりさせないのがセルバ流だ。学生達も心得ており、恐らく彼等は昼食を終えるとシエスタに入り、そのまま次の別の教授の授業へ行く筈だから、研究室はお昼に施錠されてしまうだろう。
 文化・教育省までは徒歩10分だ。まだ昼休み前で、テオはいつもの手続きをして中に入った。朝送り届けたケツァル少佐は姿が見えず、2人の少尉もいなかった。ロホが1人でパソコン相手に仕事をしていたので、声をかけると、カウンターの中へ来いと手で合図してくれた。
 テオがそばへ行くと、質問される前にロホが説明した。

「少佐とアンドレは港へ出かけています。警察が麻薬関係のガサ入れをしたら遺跡からの盗掘品が一緒に出て来たので、連絡して来たのです。」
「それで少佐が出張ったんだな。アンドレはアッシー君か。」
「それもありますし、現場の勉強もさせる目的でしょう。」

 女性のマハルダ・デネロス少尉の時と違ってアンドレ・ギャラガ少尉はどんどん外へ出してもらっている様だ。警備班勤務の時に遊撃班と同様の仕事をさせられて荒っぽい体験をしたので、彼ならいきなり現場へ出しても大丈夫だとケツァル少佐は判断したのだろう。

「マハルダは?」
「彼女は2階で会議に出ています。」

 デネロス少尉は口が達者なので、そっちの方で鍛えられるのか、とテオは可笑しく感じた。適材適所と言えばその通りだ。

「マハルダの様な若い子が相手にしてもらえるのか?」
「どうせ予算の取り合いで学校部門と芸術推奨部門で喧嘩する会議ですから、彼女は座って聞いているだけですよ。もっとも彼女の性格だと、どこかで口出ししそうですがね。」

と言ってロホは笑った。
 テオはブリーフケースから「チュパカブラの体毛分析結果」の書類を出した。

「細胞がないので、DNAは取れなかった。成分分析だけだ。俺の分析と動物学のスニガ准教授の分析結果だ。どちらも同じ結果だから間違いはないと思う。」
「グラシャス。 直ぐにアスルに届けてやりたいのですが、アンドレが少佐のお伴で出かけてしまったので、明日になるかなぁ。」

 と言いつつ、ロホは横目でテオをチラッと見た。この「チラッと」は用心しなければならない。

「来週は今期の試験があるから、今日は早めに帰って試験問題を考えなきゃいけない。これでも俺は准教授だから。」

 と素早く予防線を張った。さもないと、ロホは「行ってくれませんか?」と言うに決まっている。果たして、中尉が「チェッ」と言いたそうな表情をしたので、テオは可笑しく思った。

「電話で結果を伝えてやれよ。それから書類を送れば良いさ。」
「そうします。」

 ロホは時計を見た。正午迄後10分だ。デネロス少尉がそろそろ戻って来るだろう。ランチタイムを潰してまで会議をする程の根性は、セルバ人の役人にないのだ。
 テオはもう一種の書類の存在を思い出した。

「カルロから預かった体毛の検査結果も出たんだが、どこに送れば良いかな?」
「持ち歩いていたら、そのうち出会うんじゃないですか?」

 これもセルバ的な返事だ。大統領警護隊遊撃班が探しているのは、ジャガーの居場所であって、ジャガーの遺伝子分析結果ではない。ジャガーが人間のナワルだろうが、本物のパンテラ・オンカであろうが関係ない。ジャガーの所在を突き止めて、市民に危害を加えないよう処理するのが仕事だ。
 テオは人間のナワルと動物とでは潜む場所が違うだろうと言いたかったが、黙っていた。ロホが自分の書類を片付けるのを待っていると、デネロス少尉が戻って来た。テオは歓迎の挨拶を受け、彼女が机の上を片付けてランチに出かける準備をするのを眺めた。

「友達とランチかい?」
「スィ。でも、その友達は貴方ですよ、テオ。」

と言って彼女は朗らかに笑った。ロホがパソコンを閉じながら、

「私も入れてくれよ。」

と言った。彼女が親指を上に向けてグーを出したので、和やかな雰囲気で彼等は昼食に出かけた。


2021/09/22

第3部 夜の闇  12

  翌日、テオは少し早めに家を出て、ロホとケツァル少佐を拾い、文化・教育省へ送った。その後で大学に出勤すると、最初にジャガーの血液の遺伝子分析結果をチェックした。ジャガーの血液はジャガーの血液だが、そうでない部分もあった。人間の血液と混ぜた様な感じだ。人間の姿の”ヴェルデ・シエロ”の遺伝子分析結果をテオは知っている。脳の構成を決定づける因子が通常の人間と異なっていた。しかし動物に変身する因子らしきものは発見されなかった。と言うより、当時はナワルなど考えもつかなかったのだ。その後、友人達の許可を得て彼等の遺伝子を分析したこともあったが、全員同じだった。普通の人間と殆ど差がなかったのだ。脳の働きが少し違うだけで。その違いが超能力の素だろうと思えたが、全身をジャガーやマーゲイやオセロットに変化させる仕組みがどの因子なのか、テオにはまだわからなかった。ナワル状態の”ヴェルデ・シエロ”からもっと血液を採取出来れば良いのだが、ナワルは神聖な儀式の時に使うものだから、研究の為に変身してくれとは言えなかった。
 取り敢えず、アスルに依頼された「チュパカブラ」なる生物の体毛がコヨーテの物だったと言う報告書を作成し終わったところに学生達が集まり出した。彼等に昨日採取した牛の検体の分析をさせ、テオはジャガーの分析結果も印刷し、データを消去した。
 突然男子学生達が歓声を上げた。口笛を吹いた者もいたので、何事かと振り返ると、見かけない女子学生が戸口に立っていた。すぐには誰だかわからなかった。彼女はテオが振り向いたので、微笑みかけた。

「ブエノス・ディアス、ドクトル・アルスト。」

 笑顔でやっと相手がわかった。笑うとケツァル少佐によく似ている。テオも思わず微笑んでいた。

「ブエノス・ディアス、グラシエラ。」

 彼は立ち上がり、戸口へ行った。男子学生達は文学部で評判の美人学生に見惚れている。女子学生達は呆れている様だ。グラシエラは”ヴェルデ・シエロ”らしく抱擁はしないで、握手だけで挨拶した。そして尋ねた。

「少しお時間いただけます?」
「スィ。中に入るかい?」
「廊下で結構です。」

 つまり、そんなに重要ではない用件だ。テオはドアを開いたままで廊下に出た。

「どんな用件?」

 グラシエラ・ステファンはカルロ・ステファンの実妹で、ケツァル少佐の異母妹だ。兄の方針で、大統領警護隊とは距離を置いて生活しているので、テオとも滅多に出会わない。出会う時は、大概彼女が異母姉のケツァル少佐を誘って遊びに行く時だ。少佐は貴重な休日が潰れると文句を言いつつも、妹の誘いを断らない。そして何故か必ずテオを誘うのだ。アッシー君として。
 グラシエラは廊下の前後を見てから、彼に確認した。

「昨日、ここを訪問したエル・パハロ・ヴェルデはカルロですね?」
「スィ。」

 カルロ・ステファンは本隊に戻ってから滅多に実家に戻らないので、グラシエラは寂しがっている。テオは、昨日カルロが大学に来た時に妹に会ってやれと言うべきだったな、と悔やんだ。

「彼は任務で手に入れた物の遺伝子分析が必要として、俺に鑑定を依頼しに来たんだよ。君のところに顔を出すようにアドバイスすれば良かったな。」
「それは良いんです。」

 グラシエラは兄が「任務」を理由に滅多に実家に顔を出さないことで、兄に甘えることを諦めていた。彼女は声を潜めた。

「彼が女子学生と会っていたって本当ですか?」

 テオは彼女を見つめた。そして吹き出しそうになった。グラシエラは兄がガールフレンドを作ったと思ったのか?

「本当だよ。だけど、その女性は彼が捜査中の事案に関する目撃証言を伝えに来たそうだ。彼女の方から声をかけたらしい。」

 ステファン大尉がその学生の証言の信憑性を疑っていることは言わなかった。その代わりに、グラシエラにちょっと待ってもらって、ロホに電話をかけた。仕事の邪魔をしては悪いので挨拶をするとすぐに用件に入った。

「昨日、カルロが証言を取った女子学生の名前、わかるかな?」
ーースィ。顔と一緒に氏名も伝えてもらいました。

 ステファン大尉からケツァル少佐、少佐からロホへ”心話”での伝言だ。ロホから女子大生の名前を聞いて、礼を言って電話を終えた。グラシエラが興味津々で彼を見ていた。彼女はロホの名前に反応したのだ。無理もないだろう。彼女とロホは年齢が近いし、ロホはかなりのイケメンなのだ。数回しか会ったことがなくても、彼女の心に彼の印象が残っているのだ。
テオは2人を結びつけてやろうかと思いつつ、彼女に質問した。

「文学部のビアンカ・オルティスって女性を知っているかい?」
「ビアンカ・オルティスですか?」

 グラシエラは少し考えた。文学部の学生は人数が多い。義務教育の教員免許が取れるので専攻希望者がいつも定員をオーバーして他学部の教授達を羨ましがらせるのだ。グラシエラもその教員志望者の1人だった。

「何科ですか?」
「それは聞いていないなぁ。」
「調査をご希望ですか?」

 ちょっと面白がっているので、テオは彼女を巻き込みたくないと思った。下手に巻き込んで面倒なことになれば、ステファン大尉やケツァル少佐に怒られる。2人共、末っ子の妹には平穏な人生を送って欲しいと願っているのだ。

「否、調べなくて良い。必要だったらカルロが自分で調べるだろう。」
「何かの容疑者なんですか?」
「そうじゃないが・・・」

 このまま会話を続けると泥沼に陥りそうだ。テオは残念だが彼女との会話を終わらせることにした。

「一昨日の夜にサン・ペドロ教会近辺でジャガーが目撃されたって噂を聞いているかい?」
「スィ。ちょっと話題になってました。でも何かの見間違いじゃないんですか?」

 グラシエラは生まれて直ぐに祖父によって超能力を封印された。普通の人間の女の子として生きるようにと言う大人達の願いだ。”心話”は出来るが、それ以外は夜目が効くだけだ。ナワルを使えない”ヴェルデ・シエロ”だ。だから母親も兄も彼女にナワルのことを教えていない。
 テオは囁いた。

「ビアンカはジャガーを見たと証言したんだが、時間と場所を考えたら他の証言と矛盾するんだ。だからカルロは彼女が犬を見間違えたんだろうって考えている。」
「そうなんですね。」

 目撃者が見間違えたのなら、ステファン大尉はもうビアンカ・オルティスに興味を持たないだろう。グラシエラはそう考えた。兄の意中の人は知っている。兄は異母姉に恋をしている。シータの心の中は彼女には読めないのだが、彼女はセルバ共和国の家族法を知っていた。「先住民に限り」と言う文言付きだが、異母兄弟姉妹は婚姻出来る。つまり、シータさえ承諾すれば、兄は彼女を娶ることが出来る。グラシエラは異母姉が大好きで尊敬していた。ただ、兄と姉が婚姻可能と言う法律にはちょっと引っかかっていた。とは言うものの、兄を悲しませたくなかったし、同時に兄に他の女を好きになって欲しくもなかった。
 兄がビアンカ・オルティスと何も関係がないのだったら、それで良い。
 グラシエラは、テオの仕事の邪魔をしたことを謝罪し、次の授業のために人文学の学舎へ戻って行った。 

2021/09/21

第3部 夜の闇  11

  カルロ・ステファン大尉はケツァル少佐の目を見た。”心話”で報告だ。一瞬で情報を得た少佐は頷いた。

「確かに、それは怪しいですね。」

 そして彼女は前へ向き直った。

「あまりこちらが目立っても、向こうに用心されるだけです。出没が昨日だけなら放っておけば良いでしょう。では、ご機嫌よう。」

 敬礼する大尉を残して彼女は車を出した。坂道を再びゆっくりと上って行くと、後ろを振り返ったロホが呟いた。

「おやおや、デルガド少尉は用足しに行く時にナワルを使うらしい。」

 え? っとテオは驚いて後ろを見ようと体を捻った。しかし大統領警護隊のジープは既に黒いシルエットどころか夜の暗がりの中に溶け込んで見えなかった。
 少佐は角を曲がり、少し走ってテオの家の玄関前にある駐車用スペースに車を入れた。

「コーヒーでも飲んで行くかい?」

 テオが誘うと2人の”ヴェルデ・シエロ”は素直に彼について家に入って来た。室内に入るとロホが勝手に掃き出し窓を開け、風を入れた。テオはキッチンでコーヒーを淹れた。少佐は何もしないでソファで眠たそうに座っていた。
 テオがコーヒーを運んで来ると、ロホが少佐にステファン大尉の報告を教えて下さいと言った。テオも興味があった。それで少佐は口外無用と言いながら、他部署の情報をペラペラと喋ってくれた。

「遊撃班の2人は今日の午後この付近一帯で目撃情報を収集しました。住民の証言はどれも同じで、西の方から犬が騒ぎ出し、サン・ペドロ教会前を過ぎて、東へ騒ぎが移って行ったと言うものです。たまに庭土に足跡が残っている家があり、それらからも東にジャガーが向かっていたことがわかりました。
 私が怪しい気配と最接近したのは東サン・ペドロ通り2丁目と第3筋の交差する付近でした。恐らく向こうは3丁目の通りにいた筈です。犬を黙らせてから、私は第3筋を上って引き返し、1丁目を歩いて西サン・ペドロ通り第4筋のアパートへ帰りました。歩きながら犬が再び吠え始めるのを聞きました。東の方へ吠え声が伝わって行ったと記憶しています。」
「俺が今日の昼過ぎにカルロと出会ったのは東サン・ペドロ通り3丁目の第6筋と第7筋の間だった。」
「カルロはその辺りの民家の庭にも足跡があったと言っています。ジャガーは道路や庭をフラフラとぶれながら東へ進んだのでしょう。」

 ロホがカップを手にしたまま、コーヒーに口を付けずに尋ねた。

「信用出来ない証言と言うのは、どんな内容です?」
「カルロが大学にテオを訪ねた後だそうです。女子学生が彼に声をかけて来たと言っていました。」
「カルロは女性にモテるからな。」
「テオ!」

 テオはチャチャを入れてしまって、ロホに注意された。少佐の話の途中でチャチャ入れはご法度だ。果たしてケツァル少佐はコーヒーを飲んで黙り込んでしまった。彼は謝った。少佐はもう一口飲んでから、話を再開した。

「女子学生は、ジャガーを目撃したと言いました。場所は西サン・ペドロ通り3丁目と第7筋の交差点です。彼女は2丁目の交差点にいたそうです。1丁目に彼女が家庭教師として雇われている家があり、彼女は2100より少し早めに仕事を終えて帰宅する為に自転車で坂を下っていました。彼女の家と雇い主の家は坂道でまっすぐ行き来出来る位置関係だそうです。
犬が騒いだので、彼女は不審に思い、自転車を停めて下りたそうです。そして下の交差点を横切るジャガーを見ました。ジャガーは東から西へ歩いていたそうです。」

 テオとロホが同時に挙手した。少佐が最初にテオに顔を向けた。テオが確認した。

「君が怪しい気配を感じて気を放ったのは、何時だった?」
「家に到着したのが2120でしたから、東サン・ペドロ通り2丁目と第3筋の交差する付近にいたのはほぼ2100丁度でしょう。」
「それより早い時間に女子学生は西サン・ペドロ通り3丁目と第7筋の交差点でジャガーを見たって? それも東から西へ歩くところを?」

 ロホが、それは無理、と呟いた。

「何丁目かは考えなくても、西の第7筋を東から西へ向かって歩いたジャガーが、数分後に東の第3筋にいる筈がありません。全力疾走してもジャガーの足で5分はかかります。ジャガーが走れば犬はもっと騒ぎ立てたでしょう。」
「そうですね。それに東サン・ペドロ通りで見つかった足跡は全て東向きだったそうです。ジャガーは西へ戻っていない。少なくとも、ジャガーの姿では西へ向かっていないと思われます。女子学生以外の、西へ向かうジャガーを見た人はいないのです。」
「それじゃ、その女子学生は何故嘘の証言をしたのか、と言う疑問が生じます。」
「彼女は”シエロ”ではないのか?」
「カルロは彼女の気を感じていませんが・・・」

 少佐がロホの目を見た。ロホが「へえ」っと言ったので、テオは彼を見た。ロホが言い訳した。

「美人なんです。何処かの部族の純血種と思われます。」
「”シエロ”か”ティエラ”かはわからないんだな?」
「気の制御が上手ければ、”ティエラ”のふりが出来ますから。」
「怪我はしていなさそうか?」
「見えた範囲では怪我はない様です。」

  恐らく、カルロ・ステファン大尉とデルガド少尉はその女性の証言に疑いを抱き、ジャガーはまだ東の地区にいると踏んだのだろう。
 それにしても・・・テオは先刻気になったことを思い出した。

「ロホ、君はデルガド少尉がナワルを使ったって言ったよな?」
「え・・・言いましたっけ?」

 ロホはすっとぼけようとしたが、上官程には上手くなかった。当の上官に睨まれて、告白した。

「マーゲイが交差点の陰から出て来て、カルロが車のドアを開けて乗せてやるのが見えたんです。」
「それ、用足しじゃなくて偵察に行っていたんじゃないのか?」
「カルロが許可したか命令して、少尉がナワルを使ったのでしょう。短時間なら大丈夫だと思ったのですね、きっと。」

 ケツァル少佐は見逃すべきか否か考えた。遊撃班長は許可したのだろうか。
 テオは別のことが気になった。

「俺にはデルガド少尉が純血種に見えたけど、ナワルはジャガーじゃなくてマーゲイなんだ?」
「デルガドはグワマナ族です。力が弱いんですよ。」

 とロホが教えてくれた。一般に・・・”ヴェルデ・シエロ”を知っている非”ヴェルデ・シエロ”と言う意味だが・・・純血種の方がミックスより能力が強いと考えられているが、それは誤解だ。純血種は、修行をしなくても能力を生まれつき使えるが、ミックスは教えられて訓練しないと使えない、と言うのが大きな差だ。超能力のパワーは、親や先祖がどの部族かで決まる。穏やかな能力の使い手であるグワマナ族の純血種より、古代から一族の頂点に立ってきたグラダ族の血が4分の3入っているミックスの方が遥かに力が強いのだ。だから、カルロ・ステファンは黒いジャガーで、デルガド少尉は小柄なマーゲイだ。
 翌日の仕事があるので、ケツァル少佐とロホは徒歩で帰宅することにした。どちらも純血種のグラダ族とブーカ族だ。それに拳銃を常時携行している。正体不明のジャガーが襲ってきても対処出来る。
 テオは2人から戸締りを厳重にと繰り返し言われながら、彼等を送り出した。


第3部 夜の闇  10

  結局車はテオの車で、運転は一番酒に強いケツァル少佐が引き受けた。市街地から一番遠いマカレオ通りにあるテオの家迄、3人で一台の車に乗って住宅街に向かってゆっくりと走った。テオがステファン大尉がジャガーの体毛を大学の研究室に持ち込んだ時に話した「尻尾がちょん切られたらどうなるか」の話をすると、少佐もロホも大笑いした。

「切らなくても、尻尾を怪我した時のことを思えば想像がつくでしょう。」

とロホが言った。すると少佐が笑い声を必死で押さえながら、

「誰とは言いませんが、ある少佐が尻尾をドアに挟んだことがあります。」

と言い出して、男達の注意を集めた。

「ある少佐?」
「私ではありませんよ。自分のことでしたら、私ははっきりそう言います。」

と少佐は予防線を張った。

「尻尾をドアに挟んで、その少佐はどうなったんだ?」
「彼はナワルを解いた後、一週間お尻が痛くて、まともに任務に就けませんでした。お陰で、私の仕事が増えて迷惑したのです。私はその時、まだ大尉でした。」
「文化保護担当部が設置される前の話か・・・」
「スィ。大昔です。」

 せいぜい3、4年前の話だ。それなら、その尻尾をドアで挟んだドジな少佐はまだ少佐のままなのかも知れない。

「ちょん切られて残った尻尾はどうなるのか、知ってるか?」
「消えます。」
「へ?」
「本体が人間に戻る時に、切れた尻尾は小さな骨と肉片になります。」
「確かか?」
「スィ。それも実例がありました。事故でしたけど、負傷者はかなり後遺症に苦しみました。体の一部を損傷して紛失したことになりますからね。1年ほど座れなかったのです。」
「やっぱりお尻に怪我をしたのか・・・」

 想像しただけで痛い。テオはナワルを使えなくて良かった、と思った。どんなメカニズムで変身するのか知らないが、どんな姿になっても人間の肉体なのだ。人間の骨格標本を見ると尾骨がある。ナワルを使う時はそれが伸びるのか? とテオは想像した。

「カルロは今夜この問題に悩んで眠れないんじゃないですか?」

とロホはまだ笑っていた。テオは血液を付着させて体毛を残したジャガーは、どの部分を怪我したのだろうと気になった。有刺鉄線で引っ掛けた傷なら、かなりヒリヒリ痛むだろう。

「俺は尻尾の管理まで出来る自信がないな。ドアで尻尾を挟んだ少佐も、尻尾の存在を忘れていたんだろうさ。」

 機嫌良く車を走らせていると、マカレオ通りの標識が見えた。そのそばに大統領警護隊のジープが駐車していたので、少佐が減速した。ジープの外で車体にもたれかかってタバコを吸っている男がいた。近づいて来る車を見て、誰の車かわかったらしく、片手を挙げた。少佐が後続車がいないことを確認して路肩に車を寄せて停めた。窓を開けると、カルロ・ステファン大尉が近づいて来た。

「警察ではないので、飲酒運転の取り締まりはしませんが、気をつけて下さいよ。」

と彼は元上官に注意した。テオが助手席で尋ねた。

「何故俺達が酒を飲んだってわかるんだ?」
「全員自家用車通勤なのに、1台にまとまってるじゃないですか。」

 彼は異母姉から酒の匂いを嗅ぎ取ろうと鼻をひくつかせた。少佐は卑怯にも黙りを決め込んだ。それでテオが言い訳をした。

「2件の動物の体毛分析結果について会議をしたんだよ。」
「バルでですか?」
「大尉、しつこいと嫌われるぞ。」

とロホが後部席でテオに加勢した。彼は上手に話題を転向させた。

「ここでジャガーを張っているのか?」
「そのつもりだが、昨夜の今日だ、ジャガーが誰かのナワルなら今夜は動けないだろう。しかし用心の為にここにいる。」
「相棒の少尉は何処だい?」

とテオは窓の外を見回した。ステファンは言葉を濁した。

「デルガドはちょっと・・・直ぐに戻って来ます。」

 つまり、生物の自然現象に逆らえないってことだ。遊撃班の2人はジャガーが現れないだろうと言う前提でこの場所にいる。だからステファン大尉は平気で喫煙しているのだ。
 テオは通りの名前を記した標識を見た。街灯の暗い灯りだが、普通の人間の彼にも文字は見えた。

「ジャガーは西から東へ向かっていたと聞いたが、マカレオ通りに君達がいるのはどう言う訳だい? ジャガーが家に帰ったのなら、西へ戻るだろう?」
「確かに、ジャガーが東から西へ向かったと言う証言がありましたが・・・」

 ステファン大尉は困った顔をした。あまり情報を「部外者」に言いたくないのだ。そこで初めて少佐が口を挟んだ。

「何? その証言が信用出来ないのですか?」

 大尉がビクッとした。姉ちゃんに図星をつかれる時の癖だ、とテオは心の中で思った。

第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...