2021/10/05

第3部 潜む者  6

  カルロ・ステファン大尉はテオドール・アルストの家を出ると、少し離れた場所に駐車しておいた大統領警護隊のジープに戻った。車に異常がないことを確認して乗り込み、静かに車を出した。ピアニストのロレンシオ・サイスの家の前を通り、坂道を下って次の角で西へ向かって曲がった。西サン・ペドロ通りへ走り、ビアンカ・オルティスが住んでいると思われる学生向け住宅の並びを抜け、市街地の大通りに出た。住宅地ではあまり歩行者を見かけなかったが、市街地はまだ人通りが多かった。
 大統領府に向かって走って行くと、歩道を走っている男が見えた。片方の肩に鞄を背負うようにして、大統領府の方向へ走って行く。足取りは決して重たくないが、軽快とも言い難い。ステファンは声を立てずに笑って、ジープを歩道に寄せた。速度を落として開放した窓から声をかけた。

「よう、少尉、乗って行くか?」

 赤毛のアンドレ・ギャラガ少尉が振り向いた。おうっと声を上げ、ギャラガが窓から鞄を投げ込み、走りながらドアに飛びついた。通行人達が驚いて振り返るのも気にせずに、彼は窓から車内に滑り込んで来た。
 ステファンは車のスピードを上げた。ギャラガが座席に座らぬうちに話しかけた。

「門限を忘れて仕事をしていたのか?」
「ノ、さっきオフィスに戻ったばかりです。」

 ギャラガは息を整えながら喋った。

「直帰すべきか迷いましたが、鞄を置いたままだったので、少佐にオフィス前で落としてもらいました。」
「少佐と一緒に出張したのか。」
「スィ。グラダ港のコンテナバースへ出張っていました。麻薬のガサ入れをした警察が盗掘品の密輸も発見したので、連絡して来たのです。明日、また警察へ行って美術品を調べないと・・・」

 すっかり文化保護担当部の隊員らしい口ぶりになっている後輩に、ステファン大尉はちょびっとジェラシーを覚えた。本来なら彼が港へ行って捜査すべき仕事だった筈だ。
 ギャラガが後部席をチラリと見た。

「大尉はお一人ですか?」
「今はな。相棒はまだ仕事中だ。」

 それ以上の説明はしなかった。
 文化保護担当部に転属命令が出た時、ギャラガはステファン大尉に挨拶しに来た。本来ならステファン大尉が戻るべき場所に己が配属される。なんだか申し訳ない気持ちになったのだ。しかし、大尉は彼が転属すると告げると、笑って言った。

「気を引き締めて働けよ。ケツァル少佐は仕事にはマジで厳しいからな。」

 転属した直後に、ギャラガは大尉も警備班から遊撃班へ転属になったと聞いた。本隊では最も厳しいエリート集団だ。司令部はステファン大尉を少佐か中佐に昇級させる迄手放しはしないだろう、とギャラガは予想した。
 大統領府が見えてきた。大統領警護隊はその敷地内に本部と訓練施設を置いている。通用門は大統領府とは別にあった。広い敷地の外周を半分ほど回ってから警護隊本部に入った。ステファン大尉はギャラガ少尉を先に落としてやり、官舎の門限に遅れないよう走らせた。彼自身は車を所定の場所に駐め、勤務終了のチェックをしてから大尉専用の部屋に戻った。2人部屋だが、同居人はいなかった。最初にその部屋に入った時、先住の大尉がいたのだが、外交官の試験に通って少佐になり、何処かの国の大使館付き武官として出向して行った。ステファンも警備班の少尉だった頃に、武官のファルコ少佐から引き抜かれかけたことがあった。彼の出世を妬んだ同僚の告げ口で不良少年時代の過去を暴かれ、エリート街道に乗ることを閉ざされたのだが、司令部は再び彼にもう一度チャンスを与えようとしていた。しかし、正直なところステファンは外交官になるより文化保護担当部でジャングルや砂漠を走り回っていたかった。何にも制約されずに自分を解放出来る空間に戻りたかった。
 彼は制服を脱いで、シャツ一枚でベッドに転がった。
 住宅街を徘徊したジャガーも、何かから解放されたかったのではないだろうか。もしかすると唯一度の変身だったかも知れない。世間が大騒ぎを始めたので、もうナワルを使わないかも知れない。
 彼は体を起こした。脱いだ制服を再び着ると、きちんと身だしなみを整えた。そしてテオドール・アルストからもらった血液検査結果の報告書を持って、部屋の外に出た。


2021/10/04

第3部 潜む者  5

  テオの遺伝子分析結果を見たステファン大尉は、捜査の進捗状況を教えてくれた。

「ジャガーは西から東へ、このマカレオ通りの中央辺りまで来ていました。そこから東へは行っていません。少なくとも目撃証言はありません。北にも南にも行っていない。ジャガーの姿で行っていないだけかも知れませんが。」

 テオはチラリとデルガド少尉を見た。

「足跡や臭いの追跡でも辿り着けないのか?」

 返事がないので、彼はさらに畳み掛けてみた。

「ロホが目撃したんだよ、マーゲイを。」

 デルガドが溜め息をつき、ステファン大尉は渋い顔をした。

「すると少佐に伝わっていますね?」
「スィ。同じ車に乗っていたからね。」
「ああ・・・あの時でしたか・・・」

 デルガド少尉はナワルを知っている白人のテオに打ち明けて良いのかと上官に目で問いかけた。ステファン大尉は頷いて許可を与えた。デルガドはテオに向き直った。

「マーゲイは家猫のでかいのとよく間違えられるので、それを利用して、民家の庭伝いにジャガーの臭いを追跡してみました。このマカレオ通り3丁目の第3筋にセレブの家があるのですが、ご存知ですか?」
「セレブ?」
「ピアニストのロレンシオ・サイスが住んでいるんです。」

 テオは頭を掻いた。

「ピアノはあまり興味がないなぁ・・・俺はフォルクローレの方が好きなんだ。ごめん、知らない。」
「そうですか・・・テレビとかにも出ている有名人です。ジャズが主なんですけどね。そのサイスの家周辺でジャガーの臭いが途絶えているんです。」

 ステファン大尉が携帯電話をいじってロレンシオ・サイスと言うピアニストの写真を検索して表示した。見せてもらっても、やはりテオは知らなかった。

「サイスは”ヴェルデ・シエロ”なのかい?」
「そんな話は聞いたことがありません。」

 写真で見るロレンシオ・サイスは純血種の顔をした先住民だ。その顔でジャズを弾けば、ちょっと異色な印象をジャズファンに与えるだろう。
 それでお願いがあります、とステファン大尉が切り出した。

「暫くこのデルガドをこちらに置かせてもらえませんか? サイスの家の周辺を見張らせたいのです。 休憩場所として使わせていただいて、食費などは支払います。ナワルは毎日使える訳ではないので昼間出かけたり、夜出かけたりと煩いかも知れませんが・・・」
「俺は構わないよ。」

 テオは”ヴェルデ・シエロ”が家にいれば蠍などの毒虫が屋内に入って来ないことを知っていた。ジャガーでもマーゲイでも、力の大小はあっても”ヴェルデ・シエロ”だ。居てくれるだけでも大いに役に立つ。

「客間を使ってくれて構わない。アリアナの部屋として空けてあるんだが、もっぱらアスルが寝泊まりに使っている。」
「アスルが?」

 ステファン大尉が驚いた顔をした。アスルがテオに対して余所余所しい態度を取っていたことが印象深いので、あのツンデレ少尉がこの家に泊まりに来ることが意外だったのだ。
 テオは頷いた。

「いつも知らない間に入り込んで寝ているよ。朝ごはんを作ってくれるから、俺は大歓迎だけどね。そうそう、以前ゲンテデマの事件で君とアンドレが捜査していた時、アンドレを客間で昼寝させたら、アスルがやって来て拗ねていたな。」
「アスルは今でも来るんですか?」
「来るけど、今はミーヤ遺跡と言う所で発掘隊の監視をしているから、暫く戻っていない。」

 ミーヤ遺跡にチュパカブラ騒動が起きている話を語り合おうかとも思ったが、テオは思い止まった。ジャガー騒動で働いている大統領警護隊遊撃班に、大統領警護隊文化保護担当部が抱えている問題を語っても何にもならない。

「だから、デルガド少尉は安心してこの家を使ってくれて構わない。ところで、カルロ、君はどうするんだ?」
「私は本部に戻ります。ジャガーが誰かのナワルであることは貴方の分析結果で証明されたので、上に報告します。」
「毎日通える距離だから、いつでも様子を見に来れるしな。」

 もし本部に戻らずにどこかに泊まるとステファンが言えば、テオは彼の実家に行けと言うつもりだった。任務遂行中とは言え、息子が寝泊まりすれば、カタリナ・ステファンは喜ぶだろうに。

2021/10/03

第3部 潜む者  4

 夕方、テオは研究室を片付け、施錠した。鍵を事務局に預けて駐車場に向かうと、数人の学生達に声をかけられた。大学ではテオが大統領警護隊文化保護担当部の隊員達と親しいことが知られている。声をかけて来た学生達は、例のジャガー出没事件を知っており、大統領警護隊遊撃班がジャガーの捜索をしている噂も耳にしていた。だから、テオに何か進展がありましたかと尋ねてきた。テオは何も聞いていないと答えた。

「俺の友人は文化保護担当部の人々だ。遊撃班は知り合いが1人いると言うだけだから、情報は入って来ない。第一、彼等は友人だからと言って気安く情報を外に流したりしないさ。」

 がっかりした様子の学生達に、彼は警察に訊いた方が早いぞと言っておいた。
 車に乗って走り、メルカドで食材を購入して帰宅した。家の中に灯りが点いていた。時計を見ると午後7時過ぎだった。なんとなく誰が家の中にいるのかわかった。彼は鞄と食材が入った紙袋を持ち、車を施錠して家の玄関のドアを開けた。鍵は開いていた。リビングでテレビが点いており、ソファに大統領警護隊遊撃班のデルガド少尉が座っていた。彼はテオが家の中に入って来ると立ち上がり、敬礼して迎えた。

「大統領警護隊遊撃班、エミリオ・デルガド少尉であります。」
「テオドール・アルストだ。テオと呼んでくれて良い。」

 テオは無断で他人の家に入って来る”ヴェルデ・シエロ”に慣れっこになっている己が少し可笑しく思えた。普通のセルバ人は絶対に慣れていない筈だ。だって、勝手に家に入って来られたら、それは泥棒じゃないか。果たして、デルガド少尉が荷物をテーブルに置いて食品を袋から出し始めたテオを不思議そうに眺めた。

「私がここにいることに驚かれないのですね?」
「君達の図々しさには慣れているから。」

と言ってから、彼はデルガドを振り返って笑いかけた。

「失礼なことを言ってごめんよ。だけど、この家にはステファンもアスルもアンドレも平気で出入りしているからね。」

 デルガド少尉は頭を掻いた。警護隊の制服を着ているが、武器は体から外してソファに置いてあった。この家は安全圏だとステファン大尉に言われたのだろう。純粋な先住民の顔つきをした若者だ。恐らくステファンより年下で20歳前後だろう。身長はあるが全体的にほっそりしていた。いかにもマーゲイに変身しそうだ。

「ステファンは何処かへ行ったのか?」
「食糧の調達に行かれました。貴方に負担をおかけする訳にいきませんので。」
「気にしなくても良いのに。」

 恐らくステファン大尉は近所の屋台かメルカドで買い物をして来るのだろう。部下に買い物をさせないのは、恐らくデルガド少尉が最近ナワルを使って疲れているからだ。テオはデルガド少尉に座ってテレビを見ているようにと言い、キッチンに入った。野菜とチキンの煮込みが出来上がる頃に、ステファン大尉が帰って来た。無断で家に入ったことを詫び、彼は買ってきたソーセージやタコスを食卓に提供した。
 1人で食事するより3人で食べた方が楽しいに決まっている。テオは彼等の捜査の進展が気になったが、向こうから言い出さないうちは黙っていた。代わりに、先日の尻尾を切られたらどうなるかの話の続きを話した。お尻の怪我の話を聞いて、デルガド少尉がいかにも痛そうな顔をしたのが愉快だった。そう言えばマーゲイは尻尾が長いんだ、とテオは思い出した。

「ナワルを使う儀式は多分広い場所で行うから心配ないと思うけど、外で捜査や戦闘で変身する時は気をつけた方が良いぞ。尻尾はピンと立てて歩けよ。」
「敵に忍び寄る時は立てられませんよ。」

とステファンが笑った。  デルガドも少し遠慮がちに会話に加わってきた。

「尻尾を立てて歩くと、出くわす相手に偉ぶっていると見なされます。」
「相手が上官だとマズイか?」
「上官ならまだマシです。長老だったらそれこそ尻尾を咬まれます。」
「俺は尻尾がなくて良かったよ。よく教授達に意見して睨まれるから。」

 3人は笑った。それからテオは思い出して鞄からジャガーの毛と血痕の分析結果を出した。

「ジャガーの毛に違いない。だけど血液は擬似ジャガーだ。間違いなく”ヴェルデ・シエロ”だ。」

 分析結果のDNA対批表を眺めたステファン大尉は、人間のゲノムと謎の血液のそれが同じ配列であることを認めた。それをデルガド少尉にも回してやった。デルガドが科学が得意かどうかわからないが、若者もそれをじっと見つめた。そして呟いた。

「やっぱり我々も人間なんですね。」
「当たり前だろ。」

 テオは微笑んで見せた。

「喜怒哀楽があるのは人間の証拠だよ。」



2021/09/25

第3部 潜む者  3

  テオはブリーフケースを引っ込めた。真っ昼間、大学でこの老人、ムリリョ博士と出会うのは初めてだ。マスケゴ族の族長で長老で”ヴェルデ・シエロ”の長老会の重鎮で、”砂の民”のリーダー的存在が真の姿だが、表の顔はグラダ大学考古学部の主任教授でセルバ国立民族博物館の館長、考古学者であり、人類学者だ。テオは彼といつも博物館や、少し意外な場所で出会うことが多かったが、職場で会うのは本当に初めてだった。ムリリョ博士は滅多に大学に来ないのだ。ただ現在のところ、セルバ国立民族博物館は老朽化を理由に建て替え工事をしており、所蔵している民具や伝統的芸術品などは各地に分散して保管されている。少しずつ地方で一般公開して、グラダ・シティに来られない国民に自国の宝物を見せて回る巡回展示が行われているが、それは本部の博物館が休館している間の学芸員達の仕事だ。ムリリョ博士は所蔵品の保管所の管理を主に行っていた。
 ムリリョ博士が大学に来る用件は何だろう?とテオは考えた。大学の考古学部と博物館は経営が別物だ。どちらも国の機関だし、文化・教育省の管轄だが、責任者は異なる。博物館の館長は大学では主任教授で、学長でも学部長でもない。それに今日は教授会議の日でもなかった。考えられるのは、ムリリョ博士はケサダ教授に面会に来たのだろうと言うことだ。フィデル・ケサダはマスケゴ族で考古学教授、ムリリョの弟子だ。そして同じく”砂の民”だろう。(テオはまだ確認出来ていない。)
 テオは声を低めて断言した。

「あのジャガーはやっぱり誰かのナワルです。」

 ムリリョが白い眉毛の下の黒い瞳を彼に向けた。テオは続けた。

「大統領警護隊が捜査中です。出来るだけ早く捕まえて正しいルールを教えなければなりません。」

 さもないと、貴方はそいつを殺してしまうだろう、と彼は心の中で言った。それが”砂の民”の仕事なのだ。”ヴェルデ・シエロ”の存在を世間に曝してしまう様な愚行を為す者を、”砂の民”は抹殺して一族を守る。
 ムリリョ博士が不機嫌な声で呟いた。

「お前が心配することではない。」

 そして彼は歩き去った。きっと、黒猫の仕事が遅いと胸中で文句を言っているだろうな、とテオは想像した。ムリリョ博士は、黒いジャガーに変身するカルロ・ステファンを「黒猫」と呼ぶ。以前は蔑みで呼んでいたが、ステファンが気のコントロールを上達させて来ると、今は愛情を込めて呼んでいる様にテオには聞こえた。カルロが生まれる前から彼の母親のカタリナ・ステファンを見守ってきた老人にとって、「黒猫」はきっと「出来が悪いが可愛い孫」みたいな存在なのだろうと容易に想像出来た。
 ステファン大尉とデルガド少尉のコンビは”砂の民”より先にジャガーを見つけなければならない。
 テオはムリリョ博士にもケサダ教授にも同胞の粛清をさせたくなかった。

2021/09/24

第3部 潜む者  2

  昼食をゆっくり食べたいセルバ人は、急ぎの用事がなければファストフード店を利用しない。職場に近いレストランでテオはロホとデネロスと3人で楽しい昼食を取った。食事中は仕事の話をしないルールだが、テオはデネロスが出席した会議がどんな様子だったのか気になった。デネロスも、恐らく初めての体験だったのだろう、役人達が堂々巡りの話し合いをして少しも議事が進まなかったことを面白おかしく語った。

「あんな退屈な仕事を少佐は2日に一度はされているんですね!」
「私だって時々しているぞ。」

とロホがアピールした。

「アスルにもやらせようと思うのに、アイツはいつも肝心な時にいないんだ。」

 テオは笑った。

「大学の教授会議だって似たようなものさ。研究費のもぎ取りが懸かっている学科の先生達だけが必死なんだ。皆カツカツだけど、なんとかやっていけてる先生は黙って見ているか、居眠りしているね。」
「テオの研究室は余裕なんですか?」
「余裕がある訳ないだろ! 研究費の不足は世界的な問題なんだ。」

 満腹になって、彼等が店を出たのは午後2時前だった。大学も文化・教育省もシエスタは午後2時迄だ。しかしテオの研究室はもう誰もいないだろう。午後は授業がなかったし、学生達のレポートを読んで、来週の試験問題を考える仕事があるだけだ。
 大統領警護隊の友人達と別れて、彼は大学へ歩いて戻った。正門から入ってキャンパス内を横切り理系の学舎へ向かって歩いていると、人文学の学舎から1人の背が高い高齢男性が出て来た。髪は真っ白で、痩せた顔には鋭く光る目がある。純血種の”ヴェルデ・シエロ”だ。テオが苦手とする人物だった。
 テオは彼と目を合わせないように心がけながら、軽く頭を下げてすれ違おうとした。挨拶の言葉をかけても返事はないのだから、黙って通り過ぎようとした。それがこの人物に対するマナーなのだ。
 最接近した時、老人が囁きかけて来たので、テオは驚いた。向こうから声をかけて来たのは初めての様な気がした。

「昨日、黒猫がお前を訪ねて来たそうだな。」

 テオは肩の力を抜いた。言葉を交わすと何故か気が楽になる。彼は答えた。

「スィ。今彼が捜査中の事案について協力を求めてきたのです。」

 老人が黙って彼を見るので、テオはブリーフケースを前に出した。

「彼とデルガド少尉が採取した動物の体毛を遺伝子分析してみました。ご覧になりますか?」

 老人が無表情にブリーフケースを見た。短く「ノ」と言った。

第3部 潜む者  1

  お昼前にテオは大統領警護隊文化保護担当部に出かけた。研究室の学生達には、夕方4時迄に戻るが、もし戻らなければ鍵をかけて事務局に預けること、といつもの指示を出しておいた。未来の予定をはっきりさせないのがセルバ流だ。学生達も心得ており、恐らく彼等は昼食を終えるとシエスタに入り、そのまま次の別の教授の授業へ行く筈だから、研究室はお昼に施錠されてしまうだろう。
 文化・教育省までは徒歩10分だ。まだ昼休み前で、テオはいつもの手続きをして中に入った。朝送り届けたケツァル少佐は姿が見えず、2人の少尉もいなかった。ロホが1人でパソコン相手に仕事をしていたので、声をかけると、カウンターの中へ来いと手で合図してくれた。
 テオがそばへ行くと、質問される前にロホが説明した。

「少佐とアンドレは港へ出かけています。警察が麻薬関係のガサ入れをしたら遺跡からの盗掘品が一緒に出て来たので、連絡して来たのです。」
「それで少佐が出張ったんだな。アンドレはアッシー君か。」
「それもありますし、現場の勉強もさせる目的でしょう。」

 女性のマハルダ・デネロス少尉の時と違ってアンドレ・ギャラガ少尉はどんどん外へ出してもらっている様だ。警備班勤務の時に遊撃班と同様の仕事をさせられて荒っぽい体験をしたので、彼ならいきなり現場へ出しても大丈夫だとケツァル少佐は判断したのだろう。

「マハルダは?」
「彼女は2階で会議に出ています。」

 デネロス少尉は口が達者なので、そっちの方で鍛えられるのか、とテオは可笑しく感じた。適材適所と言えばその通りだ。

「マハルダの様な若い子が相手にしてもらえるのか?」
「どうせ予算の取り合いで学校部門と芸術推奨部門で喧嘩する会議ですから、彼女は座って聞いているだけですよ。もっとも彼女の性格だと、どこかで口出ししそうですがね。」

と言ってロホは笑った。
 テオはブリーフケースから「チュパカブラの体毛分析結果」の書類を出した。

「細胞がないので、DNAは取れなかった。成分分析だけだ。俺の分析と動物学のスニガ准教授の分析結果だ。どちらも同じ結果だから間違いはないと思う。」
「グラシャス。 直ぐにアスルに届けてやりたいのですが、アンドレが少佐のお伴で出かけてしまったので、明日になるかなぁ。」

 と言いつつ、ロホは横目でテオをチラッと見た。この「チラッと」は用心しなければならない。

「来週は今期の試験があるから、今日は早めに帰って試験問題を考えなきゃいけない。これでも俺は准教授だから。」

 と素早く予防線を張った。さもないと、ロホは「行ってくれませんか?」と言うに決まっている。果たして、中尉が「チェッ」と言いたそうな表情をしたので、テオは可笑しく思った。

「電話で結果を伝えてやれよ。それから書類を送れば良いさ。」
「そうします。」

 ロホは時計を見た。正午迄後10分だ。デネロス少尉がそろそろ戻って来るだろう。ランチタイムを潰してまで会議をする程の根性は、セルバ人の役人にないのだ。
 テオはもう一種の書類の存在を思い出した。

「カルロから預かった体毛の検査結果も出たんだが、どこに送れば良いかな?」
「持ち歩いていたら、そのうち出会うんじゃないですか?」

 これもセルバ的な返事だ。大統領警護隊遊撃班が探しているのは、ジャガーの居場所であって、ジャガーの遺伝子分析結果ではない。ジャガーが人間のナワルだろうが、本物のパンテラ・オンカであろうが関係ない。ジャガーの所在を突き止めて、市民に危害を加えないよう処理するのが仕事だ。
 テオは人間のナワルと動物とでは潜む場所が違うだろうと言いたかったが、黙っていた。ロホが自分の書類を片付けるのを待っていると、デネロス少尉が戻って来た。テオは歓迎の挨拶を受け、彼女が机の上を片付けてランチに出かける準備をするのを眺めた。

「友達とランチかい?」
「スィ。でも、その友達は貴方ですよ、テオ。」

と言って彼女は朗らかに笑った。ロホがパソコンを閉じながら、

「私も入れてくれよ。」

と言った。彼女が親指を上に向けてグーを出したので、和やかな雰囲気で彼等は昼食に出かけた。


2021/09/22

第3部 夜の闇  12

  翌日、テオは少し早めに家を出て、ロホとケツァル少佐を拾い、文化・教育省へ送った。その後で大学に出勤すると、最初にジャガーの血液の遺伝子分析結果をチェックした。ジャガーの血液はジャガーの血液だが、そうでない部分もあった。人間の血液と混ぜた様な感じだ。人間の姿の”ヴェルデ・シエロ”の遺伝子分析結果をテオは知っている。脳の構成を決定づける因子が通常の人間と異なっていた。しかし動物に変身する因子らしきものは発見されなかった。と言うより、当時はナワルなど考えもつかなかったのだ。その後、友人達の許可を得て彼等の遺伝子を分析したこともあったが、全員同じだった。普通の人間と殆ど差がなかったのだ。脳の働きが少し違うだけで。その違いが超能力の素だろうと思えたが、全身をジャガーやマーゲイやオセロットに変化させる仕組みがどの因子なのか、テオにはまだわからなかった。ナワル状態の”ヴェルデ・シエロ”からもっと血液を採取出来れば良いのだが、ナワルは神聖な儀式の時に使うものだから、研究の為に変身してくれとは言えなかった。
 取り敢えず、アスルに依頼された「チュパカブラ」なる生物の体毛がコヨーテの物だったと言う報告書を作成し終わったところに学生達が集まり出した。彼等に昨日採取した牛の検体の分析をさせ、テオはジャガーの分析結果も印刷し、データを消去した。
 突然男子学生達が歓声を上げた。口笛を吹いた者もいたので、何事かと振り返ると、見かけない女子学生が戸口に立っていた。すぐには誰だかわからなかった。彼女はテオが振り向いたので、微笑みかけた。

「ブエノス・ディアス、ドクトル・アルスト。」

 笑顔でやっと相手がわかった。笑うとケツァル少佐によく似ている。テオも思わず微笑んでいた。

「ブエノス・ディアス、グラシエラ。」

 彼は立ち上がり、戸口へ行った。男子学生達は文学部で評判の美人学生に見惚れている。女子学生達は呆れている様だ。グラシエラは”ヴェルデ・シエロ”らしく抱擁はしないで、握手だけで挨拶した。そして尋ねた。

「少しお時間いただけます?」
「スィ。中に入るかい?」
「廊下で結構です。」

 つまり、そんなに重要ではない用件だ。テオはドアを開いたままで廊下に出た。

「どんな用件?」

 グラシエラ・ステファンはカルロ・ステファンの実妹で、ケツァル少佐の異母妹だ。兄の方針で、大統領警護隊とは距離を置いて生活しているので、テオとも滅多に出会わない。出会う時は、大概彼女が異母姉のケツァル少佐を誘って遊びに行く時だ。少佐は貴重な休日が潰れると文句を言いつつも、妹の誘いを断らない。そして何故か必ずテオを誘うのだ。アッシー君として。
 グラシエラは廊下の前後を見てから、彼に確認した。

「昨日、ここを訪問したエル・パハロ・ヴェルデはカルロですね?」
「スィ。」

 カルロ・ステファンは本隊に戻ってから滅多に実家に戻らないので、グラシエラは寂しがっている。テオは、昨日カルロが大学に来た時に妹に会ってやれと言うべきだったな、と悔やんだ。

「彼は任務で手に入れた物の遺伝子分析が必要として、俺に鑑定を依頼しに来たんだよ。君のところに顔を出すようにアドバイスすれば良かったな。」
「それは良いんです。」

 グラシエラは兄が「任務」を理由に滅多に実家に顔を出さないことで、兄に甘えることを諦めていた。彼女は声を潜めた。

「彼が女子学生と会っていたって本当ですか?」

 テオは彼女を見つめた。そして吹き出しそうになった。グラシエラは兄がガールフレンドを作ったと思ったのか?

「本当だよ。だけど、その女性は彼が捜査中の事案に関する目撃証言を伝えに来たそうだ。彼女の方から声をかけたらしい。」

 ステファン大尉がその学生の証言の信憑性を疑っていることは言わなかった。その代わりに、グラシエラにちょっと待ってもらって、ロホに電話をかけた。仕事の邪魔をしては悪いので挨拶をするとすぐに用件に入った。

「昨日、カルロが証言を取った女子学生の名前、わかるかな?」
ーースィ。顔と一緒に氏名も伝えてもらいました。

 ステファン大尉からケツァル少佐、少佐からロホへ”心話”での伝言だ。ロホから女子大生の名前を聞いて、礼を言って電話を終えた。グラシエラが興味津々で彼を見ていた。彼女はロホの名前に反応したのだ。無理もないだろう。彼女とロホは年齢が近いし、ロホはかなりのイケメンなのだ。数回しか会ったことがなくても、彼女の心に彼の印象が残っているのだ。
テオは2人を結びつけてやろうかと思いつつ、彼女に質問した。

「文学部のビアンカ・オルティスって女性を知っているかい?」
「ビアンカ・オルティスですか?」

 グラシエラは少し考えた。文学部の学生は人数が多い。義務教育の教員免許が取れるので専攻希望者がいつも定員をオーバーして他学部の教授達を羨ましがらせるのだ。グラシエラもその教員志望者の1人だった。

「何科ですか?」
「それは聞いていないなぁ。」
「調査をご希望ですか?」

 ちょっと面白がっているので、テオは彼女を巻き込みたくないと思った。下手に巻き込んで面倒なことになれば、ステファン大尉やケツァル少佐に怒られる。2人共、末っ子の妹には平穏な人生を送って欲しいと願っているのだ。

「否、調べなくて良い。必要だったらカルロが自分で調べるだろう。」
「何かの容疑者なんですか?」
「そうじゃないが・・・」

 このまま会話を続けると泥沼に陥りそうだ。テオは残念だが彼女との会話を終わらせることにした。

「一昨日の夜にサン・ペドロ教会近辺でジャガーが目撃されたって噂を聞いているかい?」
「スィ。ちょっと話題になってました。でも何かの見間違いじゃないんですか?」

 グラシエラは生まれて直ぐに祖父によって超能力を封印された。普通の人間の女の子として生きるようにと言う大人達の願いだ。”心話”は出来るが、それ以外は夜目が効くだけだ。ナワルを使えない”ヴェルデ・シエロ”だ。だから母親も兄も彼女にナワルのことを教えていない。
 テオは囁いた。

「ビアンカはジャガーを見たと証言したんだが、時間と場所を考えたら他の証言と矛盾するんだ。だからカルロは彼女が犬を見間違えたんだろうって考えている。」
「そうなんですね。」

 目撃者が見間違えたのなら、ステファン大尉はもうビアンカ・オルティスに興味を持たないだろう。グラシエラはそう考えた。兄の意中の人は知っている。兄は異母姉に恋をしている。シータの心の中は彼女には読めないのだが、彼女はセルバ共和国の家族法を知っていた。「先住民に限り」と言う文言付きだが、異母兄弟姉妹は婚姻出来る。つまり、シータさえ承諾すれば、兄は彼女を娶ることが出来る。グラシエラは異母姉が大好きで尊敬していた。ただ、兄と姉が婚姻可能と言う法律にはちょっと引っかかっていた。とは言うものの、兄を悲しませたくなかったし、同時に兄に他の女を好きになって欲しくもなかった。
 兄がビアンカ・オルティスと何も関係がないのだったら、それで良い。
 グラシエラは、テオの仕事の邪魔をしたことを謝罪し、次の授業のために人文学の学舎へ戻って行った。 

第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...