2021/10/15

第3部 隠された者  11

 「サイスがナワルを使ったのは、どんなきっかけがあったんだ?」

 一番知りたいことだ。ステファンも同じだ。彼の時は生命の危機に迫られたから、無意識に変身した。純血種の様に、成年式と呼ばれる部族の儀式で呼吸を整え、年長者達の祈りの言葉の唱和を耳にしながら生まれたままの姿になって一族の者達と心を一体にして体を変化させていく・・・そんなことがミックスの”ヴェルデ・シエロ”に出来る様になるのは、最低でも2回”はずみで”変身してしまわなければ無理だ。全身の細胞が頭で思うような形に変化してくれない。ロレンシオ・サイスの身にどんなことが起きたのか、彼もテオも知りたかった。
 オルティスが躊躇った。

「パーティーをしたの・・・」

 テオとステファンは顔を見合わせた。若者のパーティーには、アレが付き物だ。ステファンが尋ねた。

「クスリをやったのか?」

 オルティスが小さく頷いた。

「ファンクラブの幹部5名とロレンシオとバンドのメンバー数人と・・・私。ロレンシオは父親がアスクラカンの出身だって知っていた。だからアスクラカン出身の私をパーティーに呼んでくれたの。私が血縁者だって知らないままに。お酒を飲んで楽器を鳴らして・・・そのうちに誰かがマリファナを吸い始めたの。」
「マリファナ? それだけか?」
「私はマリファナだけ・・・やばいものはなかったと思うけど、ロレンシオも調子に乗って何か吸ってた。」
「酒とマリファナ・・・」

 テオはステファンを見た。

「悪い組み合わせか?」
「ノ。」

とステファンが首を振った。

「生命を脅かす程の組み合わせとは言えません。合成麻薬やコカインの方が良くない。」
「量が多かったの。」

とオルティスが言った。

「ロレンシオは普段マネージャーに厳しく食事や嗜好品に制限をかけられています。でもあのパーティーはマネージャーに休暇を与えて彼自身がはめを外したかったのです。だからお酒を浴びるように飲んでいました。そしてマリファナ、それにエクスタシーもありました。」
「おいおい・・・」

 警察に知られたら逮捕されてしまう。テオは人気ピアニストも所詮は自制心の脆い若者なのだと知った。

「君は止めなかったのか?」
「クスリをやり始めた時、私は気分が悪くなって部屋を移動していました。」
「何処でパーティーをしていたんだ?」

とステファンが厳しい表情で問うた。サイスの自宅とは思えなかった。サイスはジャガーの姿で帰宅しようとしたのだ。パーティーの場は西サン・ペドロ通りより西だ。パーティーの参加者はサイスの変身を見たのか?
 オルティスが体をすくめる様に両腕で自身を抱えるポーズを取った。

「ファンクラブのメンバーの1人が自宅を提供したの。家族が旅行に出ていて留守だからって。だから家中を使って騒いでいました。」


第3部 隠された者  10

 「順を追って話してくれないかな。まず、君の出身部族はどこだい? アスクラカンの訛りがあるけど。」

 テオの言葉にオルティスはまたギクリとした。この白人はどんだけ知ってるの? と言いたげだ。ステファンは黙って彼女の顔を見ていた。少しでも彼女がテオに対して目の力を使おうものなら容赦せずに懲らしめるつもりだった。
 オルティスはスパスパとタバコを2回ふかし、それから答えた。

「サスコシ族です。よその血は入っていません。」

 確かケツァル少佐の養父フェルナンド・フアン・ミゲールもサスコシ族だったな、とテオは思った。ミゲール大使はかなり白人の血が入っているが。

「君とロレンシオ・サイスとの関係は?」
「私は彼のファンです。」

と答えてから、彼女はステファンに睨まれていることに気がついた。下手に嘘をつくと次の”心話”の時に思考を全て読み取るぞ、と言う無言の圧力だ。テオは微かだがステファンが気を放出し始めたことに気がついた。空気が固くなって来た感覚だ。サスコシ族の女性に対して圧力をかけている。それでは「腕力」で告白させるのと同じだ。相手の信頼を得られない。だから、テオはやんわりとした口調で注意した。

「カルロ、ちょっと力を入れ過ぎているぞ。」

 ステファン大尉が息を吐いた。空気がいっぺんに軽くなった感じだ。オルティスはびっくりしてテオを見つめた。テオが質問を繰り返した。

「もう一度尋ねる。君とサイスの関係は?」

 オルティスが視線を床に落とした。

「彼は私の母の母の息子の息子になります。」

 ややこしい。普通なら「従兄弟」なのだが、”ヴェルデ・シエロ”はそう簡単な家族構成でないことが往々にある。ステファンがテオの代わりに確認した。

「サイスの父親は、君の母親と父親が違うのだな?」
「スィ。」

 つまり、同じ女性を共通の祖母に持つが、祖父は違う男性である従兄弟だ。だが”ヴェルデ・シエロ”は母系社会を基礎としているので、オルティスの半分だけの叔父はオルティスの母親と同じ家で育った。この場合、100パーセントの叔父と同じ扱いになる。だが、その叔父の息子は、叔父が100パーセントでも50パーセントでも、子供を産んだ母親のものだ。”ヴェルデ・シエロ”の社会では従兄弟ではなく他人と見做される。だからオルティスは「従兄弟」とは言わずに、ややこしい言い方で表現したのだ。

「君とサイスの関係は理解した。サイスはアメリカ国籍を持っている。向こうで生まれたんだろう? いつ知り合ったんだ?」
「知り合いではありません。私は彼のファンの1人です。」

 彼女はステファンに顔を向けた。

「信じて、これは本当なの。私は彼の音楽が好きでずっと聴いてきたけど、実際に彼に会ったのは一月前なのよ。」
「するとファンクラブの集まりか何かで彼に会った?」

 テオの問いに、彼女はまた彼の方を向いた。こっくり頷いた。

「彼がセルバに移住して来てまだ1年でした。こちらに家を買って住んでも、演奏はアメリカへ行って行うので、滅多に地元のファンは彼に会えなかったんです。だからファンクラブが熱心に彼にアプローチを試みて、遂にファンクラブのメンバー限定でリサイタルを開いてくれたのが一月前でした。素晴らしかった! 皆彼の演奏に心を奪われました。彼のピアノを聴いていると、まるで天国にいるみたいな気分になって・・・」

 ステファン大尉がまた微かに気を放った。と言うより、緊張した。テオは彼を見た。大尉が硬い声でオルティスに言った。

「サイスは演奏の時に気を放出しているのではないか?」

 テオはポカリと頭を殴られた気分になった。レコードやC Dやネット配信では音しか聞こえないが、生で演奏を聞くと心を奪われる・・・。ピアニストの能力が高いのは確かだろう。しかしロレンシオ・サイスはピアノを弾きながら彼自身気がつかずに気を放っているのだ。彼が己の演奏に酔い、聴く者も酔わせる。
 オルティスが渋々ながらステファンの言葉を認めた。

「スィ。ロレンシオは無意識に気を放っているの。ファンは皆気づかなかったけれど、私はわかった。彼が私の血縁だと言うことは知っていた。叔父が長老に問い質されて認めたから。叔父は仕事でアメリカに行った時に向こうの女性と恋に落ちたのよ。だけど、セルバにも叔父の妻子がいたから、彼は向こうの女性をこちらへ連れて来ることが出来なかった。サイスの母親は私達一族ではないから。叔父は帰国して長老に報告したらしいわ。長老は国外のことには関知しないと言って、叔父にアメリカの母親と子供のことを忘れさせようとしたの。でも叔父は仕送りだけ続けていた。だから、私の家族はロレンシオのことを知っているの。」


第3部 隠された者  9

  部屋の中でコツコツと音がした。そして足音がドアに近づいて来た。

「何方?」

と女性の声が聞こえた。テオが聞いたステファンの携帯に録音された女性の声だった。ステファン大尉が名乗った。

「大統領警護隊のステファンだ。セニョリータ・オルティス?」
「スィ。」

 女性が溜め息をついた、とテオの耳には聞こえた。遅かれ早かれアパートを発見されるのはわかっていた、そんな溜め息だ。
 鍵を外す音が聞こえた。チェーンを掛けたまま彼女はドアを少し開き、ステファン本人だと確認すると、

「チェーンを外すからドアを閉めるわ。」

と言った。そしてその通りにした。奥の方で別の女性の声がした。

「誰なの、ビアンカ?」
「エル・パハロ・ヴェルデよ。例のジャガーの件。」

 ドアが開かれ、ビアンカ・オルティスが現れた。テオは初めて彼女を見た。ロホが「美人だ」と評したが、要するにセルバ美人だ、と彼は思った。少しふっくらした顔をしている。
ステファンだけでなくテオがいたので、驚いた様子だ。ステファンが紹介した。

「グラダ大学生物学部准教授テオドール・アルスト博士だ。 ドクトル、こちらがジャガーを目撃したビアンカ・オルティスです。」

 生物学部の准教授と聞いてオルティスが怪訝な顔をした。何故大統領警護隊が白人の学者を連れて来たのだ? と言いたげだ。テオが「よろしく」と挨拶して、それから言葉を続けた。

「先日君が目撃したジャガーについてもう少し詳しく話を聞きたいんだが、お友達は勉強中かな?」
「スィ。」

 オルティスは窓の外をチラリと見て、外へ出ましょう、と言った。ルームメイトに外へ出て行くと告げて、彼女は部屋から出て来た。

「屋上で良いかしら?」
「結構。」

 3人は階段を上って屋上へ出た。屋上は物干しスペースになっており、階段を上った所にだけ屋根と壁があり、小さなコインランドリーになっていた。大判の洗濯物がロープに吊るされて風に泳いでいたが、そろそろ取り込まなければならない時刻だ。
 オルティスはコインランドリーの壁にもたれかかり、2人の男性を見比べた。

「何をお聞きになりたいのです?」

 白人のテオには一族の秘密を話せない。”ヴェルデ・シエロ”だから当然の振る舞いだった。だからテオは言った。

「ロレンシオ・サイスは今迄に何回ナワルを使ったんだ?」

 オルティスがギョッとなったのをテオもステファンも見逃さなかった。ステファンの目を見たのは、”心話”で何故白人が一族の秘密を知っているのかと尋ねたのだろう。ステファンは彼女が若くて長老会によるトゥパル・スワレの審判の話を知らないのだと確信した。だからテオにもわかるように、言葉で説明した。

「ドクトル・アルストは長老会が認めた”秘密を共有する人”だ。」

 テオは改めて右手を左胸に当てて、よろしく、と挨拶した。オルティスが深く息を吐いた。そして大尉に尋ねた。

「タバコ、吸っても良い?」
「スィ。だが先に私が検める。」

 オルティスがポケットから出したタバコにステファンが手を差し出したので、彼女は箱ごと渡した。ステファンは中身の匂いを嗅ぎ、それから彼女に返した。テオは大統領警護隊が隊員に支給する紙巻きタバコではない手製の紙巻きタバコを彼女が口に咥えるのを見ていた。ライターで火を点けて、彼女は煙を吐き出した。

「ロレンシオは自分がナワルを使えるなんて知らなかったのよ。」

と彼女は言った。

「それにヤク中でもない。」


第3部 隠された者  8

  テオの車は西サン・ペドロ通り7丁目と第7筋の交差点に差し掛かった。7丁目は新しいアパートが立ち並ぶ通りで、主に学生や地方からグラダ・シティの企業に就職した若者達が住んでいる。他の地区の学生用住宅より少し家賃が割高になるが、サン・ペドロと言う名前のブランドに釣られて住むのを希望する若者達をターゲットにしているのだ。高級住宅地の一番最下層と言う訳で、8丁目はなく、住宅と商店が入り混じった地区が道路を挟んで始まっている。学生達が家賃を稼ぐためにアルバイトをする場所が近くにあるのだ。
 ビアンカ・オルティスは最初にステファン大尉にジャガーの目撃証言をした時、1丁目の家で家庭教師をしており、その家と自宅の間は第7筋を往復するだけだと言った。7丁目と第7筋の交差点の4つの角にはそれぞれアパートらしき建物が建っていた。ただ西サン・ペドロ通り側の建物がまだ築2年以内と思われるのに対し、反対側は煤けた古い建物だった。テオはその古い建物の横の路地に車を乗り入れ、並んでいる住民の車の間に路駐した。誰かの場所かも知れないが、他にスペースがないので仕方がない。
 ステファン大尉とデルガド少尉が外に出た。テオはビアンカ・オルティスの顔を知らなかったし、大統領警護隊の様に捜査権も持っていないので、車に残ることにした。もし住民に場所を空けろと言われたら移動しなければならない。駐車違反切符を切られるのは願い下げだった。大尉が半時間の時間制限を設けて少尉と共に学生居住区へ出かけて行った。
 車外に出て車にもたれかかり、携帯電話で主任教授のメールをチェックした。主任教授は彼が昼前に送信した試験問題に目を通してくれており、返事が来ていた。

ーーいいんじゃない?

 物凄くセルバ的だ。テオは「グラシャス」と再返信した。
 問題を一つクリアしたので気が楽になった。少し歩いて歩道に立ち、西サン・ペドロ通りとこちら側の境目になる大通りを眺めた。左斜め向いのアパートからデルガドが出て来た。テオに気がつくと、首を振って見せた。そのアパートにオルティスは住んでいないのだ。デルガドは次のアパートに挑戦を始めた。
 右斜め向いのアパートはステファンの担当で、こちらも少し遅れて外に出て来た。空振りらしく、次の建物へ足早に入って行った。テオは時計を見た。まだ世間はシエスタの時間だ。学生達は週明けに各学科で試験があるのでこの週末は勉強している筈だった。遊びに行く余裕のあるヤツはいないだろう、とテオは予想した。ここに探偵の真似事をする余裕のある准教授はいるが。
 デルガドが再び歩道に出て来た。ちょっと早いな、と思ったら、携帯を出して電話をかけた。すぐにステファンが外へ出て来た。デルガドが見つけたのだ。ステファンとデルガドが同時にテオを見た。なんだ? 来て欲しいのか? テオはジェスチャーで「少し待て」と合図して車に駆け戻った。急いでリュックを取り出し、施錠して歩道に戻った。
 車の流れが途切れるのを待って通りを横断し、デルガドが立っているアパートの前へ行った。ステファンは既に到着していた。デルガドが囁いた。

「ここの3階のBにいます。」

 テオとステファンは建物を見上げた。バルコニーがあり、植木鉢が見えた。落ちないように手すりより低い位置に置かれているが、敵が来たら落とせそうだ。

「単独で住んでいるのか?」

 ステファンが尋ねると、デルガドは首を振った。

「2人でルームシェアしている様です。」

 相方が部屋にいるとなると、会話がやり辛い。取り敢えず顔見知りのステファンとテオが部屋を訪ねることにした。デルガドは外で待機だ。

「アパートに裏口はあるのか?」
「非常階段が東端にある様ですが、通りへ出るのはこの歩道へ出る路地だけです。路地には自転車が並んでいます。走り抜けるのはちょっと難しいですね。」
「グラシャス。ここで待機していろ。必要ならすぐに呼ぶ。」
「承知。」

 心なしかデルガドはホッとした様子だった。未婚の彼が未婚の一族の女と対峙しなくて済みそうだと安堵したのだろう。
 ゲバラ髭のお陰で実年齢より年長に見えるステファンはデルガドより2歳上なだけだ。ビアンカ・オルティスとも殆ど年齢は変わらない。テオは時々彼等も学生達と同じ様に遊びたい年頃だろうにと思うことがある。だが様々な事情で軍隊に入った以上、彼等はその青春をお国のために捧げているのだ。同年齢の若者達の存在は別世界の生物と同じなのだろう。
 アパートの中は清潔だった。掃除が行き届いた階段を上り、テオとステファンは3階へ到着した。窓がない廊下の両側にドアが6つずつ並んでいた。廊下の突き当たりのドアは非常階段への出口らしい。正規の階段から数えて2つ目の南側のドアがBだった。
 ステファンはドアの前に立ち、拳でノックした。

第3部 隠された者  7

  建物の外に出ると、テオはそっと後ろを振り返った。シショカが後をつけて来る気配はなかった。ステファン大尉が気掛かりな顔で囁いた。

「本当に彼は座席の位置を確認に来ただけでしょうか?」
「君がケツァル少佐の名を出したら、彼は不機嫌そうな顔になった。きっと本当のことを言ったまでだろう。」

 そして大尉を励ました。

「このホールはセルバ共和国自慢の建築物だろう? そんな場所で事故とかで人が死んだりしたらイメージダウンじゃないか。しかも標的は有名人だぜ? 大臣の秘書なら、それはやるべきじゃないってわかるさ。」

 ステファンが苦笑した。

「グラシャス、テオ。さっきは酷いことを言って申し訳ありませんでした。出る幕がなかったのは私の方でした。」
「いや、俺もエミリオからあの男が何者か教えられて、咄嗟に彼がサイスを粛清に来たのかと焦ったんだ。しかも君が近くにいたら却って彼を刺激するんじゃないかと、余計な気遣いをしてしまった。」

 車に戻るとデルガド少尉が安堵の顔で迎えた。大統領警護隊と国務大臣秘書がシティホールで喧嘩などすれば一大事だ。デルガドはステファンが本気で腹を立てた所を生で見たことはない。しかし麻薬シンジケートのロハスの要塞をステファンが1人で吹っ飛ばした動画はテレビやネットで見たことがあった。シティホールを吹っ飛ばされたらどうしよう、と若者は内心ヒヤヒヤものだったのだ。

「建設省の職員をしている旧友に電話で聞いてみたのですが、セニョール・シショカは今日も大臣から無茶振りの指示を出されて怒っていたそうです。」

 シショカは公設秘書ではなく私設秘書なのでイグレシアス大臣の個人的な用件を処理する仕事をしている。大臣がケツァル少佐とのデートを希望すれば、そのお遣いに出されるのがシショカなのだ。ケツァル少佐は大臣や秘書からの電話には出てくれないし、メールを送っても梨の礫なのだ。だからシショカ自ら文化・教育省へ出向いて少佐の説得に抵る。そして十中八九玉砕する。
 シショカの無駄な努力は、どうやらグラダ・シティの若い”ヴェルデ・シエロ”達の間ではよく知られているようだ。文化保護担当部と馴染みがないデルガド少尉さえ知っているのだ。こんなに有名な”砂の民”もいないだろう、とテオは思った。尤もデルガドは大統領警護隊なのでシショカが”砂の民”だと知っているのであって、市井の”ヴェルデ・シエロ”には「お馬鹿な大臣の秘書をしている不運なマスケゴ族の男」と言う程度の認識だろう。
 再び車に乗り込んで、テオはエンジンをかけた。

「シショカを見張らなくて良いのかい?」
「大丈夫でしょう。」

 ステファンが投げ槍気味に言った。

「彼は座席を確認したら少佐のところへ行かねばなりませんから。」



2021/10/14

第3部 隠された者  6

  ステファン大尉が車のドアを開いた。 デルガドも続こうとすると、彼は命令した。

「車の中にいろ。」

 そして劇場に向かって歩き始めた。テオはエンジンを切った。

「あの黒い車の男がどうかしたのか、エミリオ?」

 デルガド少尉が硬い表情で答えた。

「”砂の民”です。」
「えっ?!」

 テオは劇場を見た。白いスーツの男は既にホールの入り口に達していた。ステファン大尉はその後ろへ足早に近づいて行くところだった。”砂の民”は滅多に正体を他人に教えない。仲間同士でも知らないことが多い。ステファン大尉とデルガド少尉が知っていると言うことは、有名な”砂の民”だと言うことだ。テオは名前だけ知っている有名な”砂の民”を1人思い出した。

「もしや、建設大臣の秘書か?」
「スィ。」

 ”砂の民”であり、ミックスの”ヴェルデ・シエロ”の存在を否定する純血至上主義者だ。そんな男にミックスのステファンを近づかせてはいけない。テオは車外に出た。

「ドクトル、駄目だ!」

 デルガドも出ようとしたので、テオは止めた。

「君はそこにいろ。ステファンも命令しただろ?」

 命令と言われて、デルガドは動きを止めた。
 テオは走ってステファン大尉に追いついた。ステファンが歩きながら抗議した。

「貴方が出る幕ではありません。」
「そうかな? 君が喧嘩しに行くなら、俺は立ち会う。公正な喧嘩かどうか判定してやる。」

 ステファン大尉は足を止めて彼を睨みつけた。しかし、結局何も言わずに再び歩き出した。ホールの中に入ると、白いスーツの男が階段を上りかけていた。ステファン大尉が声をかけた。

「セニョール・シショカ!」

 そうだ、そんな名前だった、とテオは思い出した。
 白いスーツの男が立ち止まり、振り返った。白いスーツの下に来ているシャツは黒かった。濃いグレーのネクタイをしているのは、いかにも大臣の秘書らしい。顔は正に純血種の先住民のもので精悍な細い輪郭に鋭い眼光を放つ目をしていた。
 ミックスの大統領警護隊隊員と白人の男が近づいて来るのを見て、純血至上主義者の男は嫌そうな顔をした。

「エル・パハロ・ヴェルデ、何か用かな?」

 恐らく”出来損ない”と口を利くのも嫌だろうに、シショカは周囲の一般市民を視野に置きながらステファン大尉の呼びかけに応えた。ステファンも相手の正体を公然と口に出したりしなかった。

「こんな所でお目にかかるのは珍しいと思いましてね。今日はどんな御用です?」

 テオはシショカが微かにたじろぐのを感じ取った。以前ケツァル少佐やロホがこの男を警戒していた。ミックスの仲間、ステファンやデネロスに危害を加えられるのではないかと用心していた。特に女性で能力の威力が強くないデネロスを絶対に1人で建設省に行かせなかった程だ。恐らくシショカもミックスの隊員の前で優位に立った態度でいた筈だ。しかし、人間は成長する。デネロスは元から能力の使い方が上手だったので、パワーでは負けても技では純血種と同等だ。ステファンにおいては、一人前のグラダ族として日々その能力の威力が増していっている。まともに戦えばマスケゴ族のシショカはひとたまりもないだろう、とテオはロホから聞かされていた。
 ステファンはシショカが彼を追って来たとは思っていない。”砂の民”が世間を騒がせているジャガーを突き止めたのかと心配しているのだ。
 シショカはステファンを見て、テオを見た。この白人とは初対面だが誰だか知っている、そんな顔だった。テオは彼自身は知らないが、”ヴェルデ・シエロ”界では有名なのだ。トゥパル・スワレの事件でシュカワラスキ・マナの子供達を守った白人、と言う評価が与えられていた。そして今もその白人はシュカワラスキ・マナの息子の横に立っている。
 シショカは顔を階段の上に向けた。

「大臣が明日のコンサートの鑑賞をご希望なのだ。VIP席の空きがあると聞いたので、どの位置になるか確認に来た。大統領警護隊が関与するような用事ではない。」

 テオはステファンが相手の言葉の真偽を推測っているのを感じた。
 シショカが逆に尋ねて来た。

「そちらこそ、何の用事があってここにいるのだ?」
 
 ステファンが答える前にテオが素早く口を挟んだ。

「俺がロレンシオ・サイスを知らないと言ったんで、カルロが連れて来てくれたんだ。俺はあいにくジャズよりフォルクローレの方が好きなんで、アメリカ生まれのピアニストに興味なかったんだ。しかし、このシティホールは大した建造物だなぁ。」

 彼は感心した風に天井や壁を見回した。ステファンが彼の嘘に付き合って、わざとシショカの気に触ることを言った。

「少佐とのデートにジャズコンサートは止して下さい、ドクトル。彼女はクラシックが好きなんです。」

 多分、イグレシアス建設大臣はケツァル少佐をジャズコンサートに誘うつもりなのだ。果たしてステファンの勘は当たった。シショカがムッとした表情を見せた。彼は大臣が少佐を射止めることは100パーセント無理だと知っていながら、2人の仲を取り持つ役目を担っている。少佐にせめて一回だけでも良いから大臣の誘いを受けて欲しいと思いつつ、大臣が振られるのを楽しんでもいるのだ。しかし、だからと言って少佐が白人とデートして良い筈がない、と純血至上主義者は考える。

「クラシックか・・・それじゃどこかのオーケストラの演奏会を検索してみようか。」

 テオはステファンの腕を突いた。さっさと引き揚げよう、と言う合図だ。衆人環視の中でシショカがサイスを襲うことはないだろう。


 

第3部 隠された者  5

  デルガドが客席にやって来たのは半時間も経ってからだった。ロレンシオ・サイスはステージの上でピアノを少々弾いて音合わせをしていた。夕方までに本格的なリハーサルを行うのか否か判断がつかなかったので、テオ達は劇場を出た。
 駐車場に出ると、デルガドがマネージャーの男はアメリカ人だと言った。サイスの健康管理に煩い男で、ピアニストに薬物を与えるとは到底思えないと言う。事実デルガドはマネージャーが楽屋裏で劇場側スタッフが用意した軽食の中身が健康的でないと苦情を言い立てていたのを耳にした。彼はファンからの贈り物なども厳しくチェックしており、スタッフさえ気軽に声をかけられないと不評だった。
 
 「ロレンシオ・サイスの経歴ってどんなものなんだ?」

 テオの質問にデルガドが劇場で手に入れたパンフレットを広げた。生年月日は見たまんまの年齢を裏切らないもので、生まれはグラダ・シティではなくマイアミだった。

「ちょっと待て・・・サイスはアメリカ合衆国の市民権を持っているのか?」
「北米生まれですから、そうですね。」
「母子家庭だよな?」
「スィ。母親がアメリカ合衆国の市民権を持っています。あちらの先住民です。」
「すると父親がセルバ人・・・」
「”シエロ”です。純血種か”ティエラ”とのミックスかわかりませんが、長老がツィンルだと言っていました。」

 ステファンは、サイスの出生の秘密を知っているらしい女性の長老が詳細を教えてくれなかったことが悔やまれた。サイスの父親は変身出来たのだ。だが息子の養育に関わらなかったので、ロレンシオは己の能力を何も知らずに成長したのだ。生活の場にアメリカではなくセルバを選んだのは何故だろう。母親と暮らしていたのだからアメリカで育ったのではないのか。己が周囲の人々と何か違うと感じて父親の故国へ来たのか?
 サイスはアメリカの高校を卒業してからセルバ共和国に移住していた。そして現在のマネージャーに「発見」されてピアニストとしての才能を開花させた、とパンフレットに書かれていた。主に活動の場はアメリカだが、メキシコやセルバでも演奏会を開いて大好評だと言う。
 経歴におかしな点はなかった。勿論”ヴェルデ・シエロ”であろうと無かろうとナワルのことなんて書かないだろう。

「父親は彼のことを知っているのかなぁ・・・」

 テオは車に乗り込んだ。ステファンとデルガドも乗ったので、エンジンをかけると一台の黒塗りの乗用車が駐車場に入って来た。突然車内の空気がビリッと帯電した感じに震え、テオはびっくりして思わずサイドブレーキをかけた。

「なんだ?」

 ステファン大尉も驚いた表情で後部席を振り返った。さっきの空気の震動はデルガドか? テオも後ろを見た。デルガド少尉が決まり悪そうな顔をした。

「申し訳ありません。あの黒い車の運転手の顔を見て、思わず緊張してしまいました。」
「運転手?」

  テオとステファンは黒い車の行方を目で追った。黒い車は劇場の入り口近くに駐車した。そこから降りてきた男を見て、ステファン大尉が緊張したのがテオにわかった。あの白い麻のスーツを着た男がどうかしたのか?

 

第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...