2021/10/16

第3部 隠された者  13

  ビアンカ・オルティスは大統領警護隊の大尉の言葉に顔を青ざめた。長老会がロレンシオ・サイスを野放しにすると思えなかった。海外でも活動する有名人だ。いつ何処で変身するかわからない。

「ロレンシオを助けてあげて。」

 と彼女はテオとステファンを交互に見ながら訴えた。

「もし叔父が彼を子供の時にセルバへ連れて帰っていたら、きっと彼は一族の人間として教育を受けてあんな面倒を起こさずに済んだのよ。私達の家族の責任だわ。なんとかするから、どうかもう少し報告を待って。お願い!」

 テオはステファンを見た。

「コンサートは明日だったな?」
「スィ・・・?」
「せめて明日1日待ってやろう。」

 テオはビアンカ・オルティスに向き直った。

「君は試験の準備があるだろうが、もしサイスの命が大事なら、大至急アスクラカンの親族に連絡を取って相談すべきだ。明日の夜、コンサートが終わる時点で大統領警護隊に君から家族の決定を知らせる。その内容次第で警護隊が動く。」

 オルティスが何か言おうとしたが、テオはその暇を与えずに続けた。

「”砂の民”を知っているね? 君が知らなくても君の家族の年配者達は知っている筈だ。”砂の民”がサイスの変身を知ってしまったらどうなるか、彼等は承知している。サイスの命が懸かっていることは間違いない。たった1回だけの変身だったが、彼は一般人に足跡や影を見られた。一族の力では誤魔化せないんだ。現にこうしてステファン大尉が捜査している。サイスを助けたかったら、彼のキャリアを駄目にしてしまっても守らなきゃならない。さもないと、彼1人の問題じゃなくなる。君の家族全員が責任を負うことになるだろうし、一族全体の問題に発展したら国を揺るがす事態になる。わかるかな?」

 カルロ・ステファン大尉が言いたいことをテオが簡潔に明瞭に述べた。口下手のステファン大尉は軽くテオに頭を下げた。そして彼もオルティスに向き直った。

「先刻シティホールに”砂の民”のメンバーが1人現れた。」

 えっ!とオルティスは真っ青を通り越して死者の様に白くなった。ステファンは続けた。

「幸い彼は全く別件でコンサートの座席を予約するつもりで来ていたが、少しでもサイスの気を感じたら彼のことを調べ始める筈だ。彼等は一族のリストを彼等個別に独自で作っている。リスト漏れは彼等に取って許されないことだ。私個人の意見を言わせて貰えば、明日のコンサートは中止すべきだが、聞いてもらえないだろう。事態は急を要すると理解してくれ。」

 オルティスが息を深く吸い込み、突然体の向きを変えて階段へ走った。彼女の足音が階段を駆け降り、部屋へ走り込むのをテオとステファンは聞いていた。

「非常にマズイ事態です。」

とステファンが囁いた。

「さっき彼女はこう言いました。サイスは普段理性で気を抑えていた、と。」

 テオも頷いた。

「スィ、確かにそう言った。サイスは自分が何者か知っているんだ。少なくとも、自分が超能力と呼ばれる力を持っていて使えると知っている。偶然ドラッグをやって変身してしまいました、では済まないぞ。」


2021/10/15

第3部 隠された者  12

  ビアンカ・オルティスはロレンシオ・サイスのファンクラブの幹部、バンドのメンバーと共にマリファナパーティーをしたと言った。勿論ロレンシオ・サイスも参加していた。彼の為のパーティーだった。

「私がリビングに戻ったら、皆床の上でぐったりしていました。眠っているのか、気絶しているのか、私にはわかりませんでした。ロレンシオだけが起きていて、でも様子が変でした。家に帰ると呟きながら服を脱ぎ始めました。」
「何故?」

とステファンが訊いた。己が変身すると分かっていなければ、服を脱いだりしない。暑くて堪らないと言うなら別だが。
 オルティスは肩をすくめた。

「あの時点で既に彼は正常でなかったの。彼が放出する気の強さが不安定に変化するのを感じた。彼は普段気を抑制していた。ほとんど能力がないと私は思っていた。ピアノを弾く時だけ気を放っていたのよ。だけどそれは勘違いだったわ。彼は普段理性で抑えていただけだったのよ。」
「酒と薬でタガが外れたか・・・」
「ロレンシオは裸になるとすぐにジャガーに変身した。そして家の外に飛び出して行ったので、私は慌てて追いかけた。」
「変身するところを誰かに見られたりしなかったか?」
「ないと思うけど・・・」

 オルティスは自信なさそうに言った。

「3軒ばかりの距離を追いかけて、彼を見失ったので、一旦パーティーをした家に戻った。皆まだ寝ていた。だから、もう一度ロレンシオを追いかけた。家に帰りたがっていたから、彼の家まで自転車で走ったの。そうしたら・・・」

 彼女は身震いした。

「何か凄い気を感じた。私は足がすくんでしまった。ロレンシオが発したのか、それとも他の”シエロ”がいたのか・・・」

 ケツァル少佐が放った気だ。単に犬達を黙らせようとお気楽に放ったグラダの族長の気だ。それがサスコシ族の女を怯えさせ、カイナ族出身の大巫女ママコナを驚かせ、薬物に酔ったジャガーの足を止めさせた。
 テオは微笑んだ。オルティスはロレンシオ・サイスを守りたい一心で、大統領警護隊が大学に現れたと知ると会いに行った。そしてサイスの家と逆方向へジャガーが向かったと嘘の証言をしたのだ。

「君はサイスにまた会えるのかな?」
「わかりません。言った通り、私はファンの1人なのです。」
「君と彼の関係を彼に教えてみては?」
「そんなこと、私には出来ません。家族の了承を得なければ・・・」
「それなら・・・」

とステファンが言った。

「もう君は彼に関わらないことだ。」

 テオとオルティスが彼を見た。カルロ・ステファンは大統領警護隊の隊員として彼女に言った。

「サイスは薬物使用の結果ナワルを使い、一般市民にその姿を見られた。大統領警護隊は彼を放置出来ない。長老会に彼の存在と現状を報告する。彼をどうするか、それは長老達が決める。そしていかなる決定にも、異論を唱えることは誰にも許されない。」



第3部 隠された者  11

 「サイスがナワルを使ったのは、どんなきっかけがあったんだ?」

 一番知りたいことだ。ステファンも同じだ。彼の時は生命の危機に迫られたから、無意識に変身した。純血種の様に、成年式と呼ばれる部族の儀式で呼吸を整え、年長者達の祈りの言葉の唱和を耳にしながら生まれたままの姿になって一族の者達と心を一体にして体を変化させていく・・・そんなことがミックスの”ヴェルデ・シエロ”に出来る様になるのは、最低でも2回”はずみで”変身してしまわなければ無理だ。全身の細胞が頭で思うような形に変化してくれない。ロレンシオ・サイスの身にどんなことが起きたのか、彼もテオも知りたかった。
 オルティスが躊躇った。

「パーティーをしたの・・・」

 テオとステファンは顔を見合わせた。若者のパーティーには、アレが付き物だ。ステファンが尋ねた。

「クスリをやったのか?」

 オルティスが小さく頷いた。

「ファンクラブの幹部5名とロレンシオとバンドのメンバー数人と・・・私。ロレンシオは父親がアスクラカンの出身だって知っていた。だからアスクラカン出身の私をパーティーに呼んでくれたの。私が血縁者だって知らないままに。お酒を飲んで楽器を鳴らして・・・そのうちに誰かがマリファナを吸い始めたの。」
「マリファナ? それだけか?」
「私はマリファナだけ・・・やばいものはなかったと思うけど、ロレンシオも調子に乗って何か吸ってた。」
「酒とマリファナ・・・」

 テオはステファンを見た。

「悪い組み合わせか?」
「ノ。」

とステファンが首を振った。

「生命を脅かす程の組み合わせとは言えません。合成麻薬やコカインの方が良くない。」
「量が多かったの。」

とオルティスが言った。

「ロレンシオは普段マネージャーに厳しく食事や嗜好品に制限をかけられています。でもあのパーティーはマネージャーに休暇を与えて彼自身がはめを外したかったのです。だからお酒を浴びるように飲んでいました。そしてマリファナ、それにエクスタシーもありました。」
「おいおい・・・」

 警察に知られたら逮捕されてしまう。テオは人気ピアニストも所詮は自制心の脆い若者なのだと知った。

「君は止めなかったのか?」
「クスリをやり始めた時、私は気分が悪くなって部屋を移動していました。」
「何処でパーティーをしていたんだ?」

とステファンが厳しい表情で問うた。サイスの自宅とは思えなかった。サイスはジャガーの姿で帰宅しようとしたのだ。パーティーの場は西サン・ペドロ通りより西だ。パーティーの参加者はサイスの変身を見たのか?
 オルティスが体をすくめる様に両腕で自身を抱えるポーズを取った。

「ファンクラブのメンバーの1人が自宅を提供したの。家族が旅行に出ていて留守だからって。だから家中を使って騒いでいました。」


第3部 隠された者  10

 「順を追って話してくれないかな。まず、君の出身部族はどこだい? アスクラカンの訛りがあるけど。」

 テオの言葉にオルティスはまたギクリとした。この白人はどんだけ知ってるの? と言いたげだ。ステファンは黙って彼女の顔を見ていた。少しでも彼女がテオに対して目の力を使おうものなら容赦せずに懲らしめるつもりだった。
 オルティスはスパスパとタバコを2回ふかし、それから答えた。

「サスコシ族です。よその血は入っていません。」

 確かケツァル少佐の養父フェルナンド・フアン・ミゲールもサスコシ族だったな、とテオは思った。ミゲール大使はかなり白人の血が入っているが。

「君とロレンシオ・サイスとの関係は?」
「私は彼のファンです。」

と答えてから、彼女はステファンに睨まれていることに気がついた。下手に嘘をつくと次の”心話”の時に思考を全て読み取るぞ、と言う無言の圧力だ。テオは微かだがステファンが気を放出し始めたことに気がついた。空気が固くなって来た感覚だ。サスコシ族の女性に対して圧力をかけている。それでは「腕力」で告白させるのと同じだ。相手の信頼を得られない。だから、テオはやんわりとした口調で注意した。

「カルロ、ちょっと力を入れ過ぎているぞ。」

 ステファン大尉が息を吐いた。空気がいっぺんに軽くなった感じだ。オルティスはびっくりしてテオを見つめた。テオが質問を繰り返した。

「もう一度尋ねる。君とサイスの関係は?」

 オルティスが視線を床に落とした。

「彼は私の母の母の息子の息子になります。」

 ややこしい。普通なら「従兄弟」なのだが、”ヴェルデ・シエロ”はそう簡単な家族構成でないことが往々にある。ステファンがテオの代わりに確認した。

「サイスの父親は、君の母親と父親が違うのだな?」
「スィ。」

 つまり、同じ女性を共通の祖母に持つが、祖父は違う男性である従兄弟だ。だが”ヴェルデ・シエロ”は母系社会を基礎としているので、オルティスの半分だけの叔父はオルティスの母親と同じ家で育った。この場合、100パーセントの叔父と同じ扱いになる。だが、その叔父の息子は、叔父が100パーセントでも50パーセントでも、子供を産んだ母親のものだ。”ヴェルデ・シエロ”の社会では従兄弟ではなく他人と見做される。だからオルティスは「従兄弟」とは言わずに、ややこしい言い方で表現したのだ。

「君とサイスの関係は理解した。サイスはアメリカ国籍を持っている。向こうで生まれたんだろう? いつ知り合ったんだ?」
「知り合いではありません。私は彼のファンの1人です。」

 彼女はステファンに顔を向けた。

「信じて、これは本当なの。私は彼の音楽が好きでずっと聴いてきたけど、実際に彼に会ったのは一月前なのよ。」
「するとファンクラブの集まりか何かで彼に会った?」

 テオの問いに、彼女はまた彼の方を向いた。こっくり頷いた。

「彼がセルバに移住して来てまだ1年でした。こちらに家を買って住んでも、演奏はアメリカへ行って行うので、滅多に地元のファンは彼に会えなかったんです。だからファンクラブが熱心に彼にアプローチを試みて、遂にファンクラブのメンバー限定でリサイタルを開いてくれたのが一月前でした。素晴らしかった! 皆彼の演奏に心を奪われました。彼のピアノを聴いていると、まるで天国にいるみたいな気分になって・・・」

 ステファン大尉がまた微かに気を放った。と言うより、緊張した。テオは彼を見た。大尉が硬い声でオルティスに言った。

「サイスは演奏の時に気を放出しているのではないか?」

 テオはポカリと頭を殴られた気分になった。レコードやC Dやネット配信では音しか聞こえないが、生で演奏を聞くと心を奪われる・・・。ピアニストの能力が高いのは確かだろう。しかしロレンシオ・サイスはピアノを弾きながら彼自身気がつかずに気を放っているのだ。彼が己の演奏に酔い、聴く者も酔わせる。
 オルティスが渋々ながらステファンの言葉を認めた。

「スィ。ロレンシオは無意識に気を放っているの。ファンは皆気づかなかったけれど、私はわかった。彼が私の血縁だと言うことは知っていた。叔父が長老に問い質されて認めたから。叔父は仕事でアメリカに行った時に向こうの女性と恋に落ちたのよ。だけど、セルバにも叔父の妻子がいたから、彼は向こうの女性をこちらへ連れて来ることが出来なかった。サイスの母親は私達一族ではないから。叔父は帰国して長老に報告したらしいわ。長老は国外のことには関知しないと言って、叔父にアメリカの母親と子供のことを忘れさせようとしたの。でも叔父は仕送りだけ続けていた。だから、私の家族はロレンシオのことを知っているの。」


第3部 隠された者  9

  部屋の中でコツコツと音がした。そして足音がドアに近づいて来た。

「何方?」

と女性の声が聞こえた。テオが聞いたステファンの携帯に録音された女性の声だった。ステファン大尉が名乗った。

「大統領警護隊のステファンだ。セニョリータ・オルティス?」
「スィ。」

 女性が溜め息をついた、とテオの耳には聞こえた。遅かれ早かれアパートを発見されるのはわかっていた、そんな溜め息だ。
 鍵を外す音が聞こえた。チェーンを掛けたまま彼女はドアを少し開き、ステファン本人だと確認すると、

「チェーンを外すからドアを閉めるわ。」

と言った。そしてその通りにした。奥の方で別の女性の声がした。

「誰なの、ビアンカ?」
「エル・パハロ・ヴェルデよ。例のジャガーの件。」

 ドアが開かれ、ビアンカ・オルティスが現れた。テオは初めて彼女を見た。ロホが「美人だ」と評したが、要するにセルバ美人だ、と彼は思った。少しふっくらした顔をしている。
ステファンだけでなくテオがいたので、驚いた様子だ。ステファンが紹介した。

「グラダ大学生物学部准教授テオドール・アルスト博士だ。 ドクトル、こちらがジャガーを目撃したビアンカ・オルティスです。」

 生物学部の准教授と聞いてオルティスが怪訝な顔をした。何故大統領警護隊が白人の学者を連れて来たのだ? と言いたげだ。テオが「よろしく」と挨拶して、それから言葉を続けた。

「先日君が目撃したジャガーについてもう少し詳しく話を聞きたいんだが、お友達は勉強中かな?」
「スィ。」

 オルティスは窓の外をチラリと見て、外へ出ましょう、と言った。ルームメイトに外へ出て行くと告げて、彼女は部屋から出て来た。

「屋上で良いかしら?」
「結構。」

 3人は階段を上って屋上へ出た。屋上は物干しスペースになっており、階段を上った所にだけ屋根と壁があり、小さなコインランドリーになっていた。大判の洗濯物がロープに吊るされて風に泳いでいたが、そろそろ取り込まなければならない時刻だ。
 オルティスはコインランドリーの壁にもたれかかり、2人の男性を見比べた。

「何をお聞きになりたいのです?」

 白人のテオには一族の秘密を話せない。”ヴェルデ・シエロ”だから当然の振る舞いだった。だからテオは言った。

「ロレンシオ・サイスは今迄に何回ナワルを使ったんだ?」

 オルティスがギョッとなったのをテオもステファンも見逃さなかった。ステファンの目を見たのは、”心話”で何故白人が一族の秘密を知っているのかと尋ねたのだろう。ステファンは彼女が若くて長老会によるトゥパル・スワレの審判の話を知らないのだと確信した。だからテオにもわかるように、言葉で説明した。

「ドクトル・アルストは長老会が認めた”秘密を共有する人”だ。」

 テオは改めて右手を左胸に当てて、よろしく、と挨拶した。オルティスが深く息を吐いた。そして大尉に尋ねた。

「タバコ、吸っても良い?」
「スィ。だが先に私が検める。」

 オルティスがポケットから出したタバコにステファンが手を差し出したので、彼女は箱ごと渡した。ステファンは中身の匂いを嗅ぎ、それから彼女に返した。テオは大統領警護隊が隊員に支給する紙巻きタバコではない手製の紙巻きタバコを彼女が口に咥えるのを見ていた。ライターで火を点けて、彼女は煙を吐き出した。

「ロレンシオは自分がナワルを使えるなんて知らなかったのよ。」

と彼女は言った。

「それにヤク中でもない。」


第3部 隠された者  8

  テオの車は西サン・ペドロ通り7丁目と第7筋の交差点に差し掛かった。7丁目は新しいアパートが立ち並ぶ通りで、主に学生や地方からグラダ・シティの企業に就職した若者達が住んでいる。他の地区の学生用住宅より少し家賃が割高になるが、サン・ペドロと言う名前のブランドに釣られて住むのを希望する若者達をターゲットにしているのだ。高級住宅地の一番最下層と言う訳で、8丁目はなく、住宅と商店が入り混じった地区が道路を挟んで始まっている。学生達が家賃を稼ぐためにアルバイトをする場所が近くにあるのだ。
 ビアンカ・オルティスは最初にステファン大尉にジャガーの目撃証言をした時、1丁目の家で家庭教師をしており、その家と自宅の間は第7筋を往復するだけだと言った。7丁目と第7筋の交差点の4つの角にはそれぞれアパートらしき建物が建っていた。ただ西サン・ペドロ通り側の建物がまだ築2年以内と思われるのに対し、反対側は煤けた古い建物だった。テオはその古い建物の横の路地に車を乗り入れ、並んでいる住民の車の間に路駐した。誰かの場所かも知れないが、他にスペースがないので仕方がない。
 ステファン大尉とデルガド少尉が外に出た。テオはビアンカ・オルティスの顔を知らなかったし、大統領警護隊の様に捜査権も持っていないので、車に残ることにした。もし住民に場所を空けろと言われたら移動しなければならない。駐車違反切符を切られるのは願い下げだった。大尉が半時間の時間制限を設けて少尉と共に学生居住区へ出かけて行った。
 車外に出て車にもたれかかり、携帯電話で主任教授のメールをチェックした。主任教授は彼が昼前に送信した試験問題に目を通してくれており、返事が来ていた。

ーーいいんじゃない?

 物凄くセルバ的だ。テオは「グラシャス」と再返信した。
 問題を一つクリアしたので気が楽になった。少し歩いて歩道に立ち、西サン・ペドロ通りとこちら側の境目になる大通りを眺めた。左斜め向いのアパートからデルガドが出て来た。テオに気がつくと、首を振って見せた。そのアパートにオルティスは住んでいないのだ。デルガドは次のアパートに挑戦を始めた。
 右斜め向いのアパートはステファンの担当で、こちらも少し遅れて外に出て来た。空振りらしく、次の建物へ足早に入って行った。テオは時計を見た。まだ世間はシエスタの時間だ。学生達は週明けに各学科で試験があるのでこの週末は勉強している筈だった。遊びに行く余裕のあるヤツはいないだろう、とテオは予想した。ここに探偵の真似事をする余裕のある准教授はいるが。
 デルガドが再び歩道に出て来た。ちょっと早いな、と思ったら、携帯を出して電話をかけた。すぐにステファンが外へ出て来た。デルガドが見つけたのだ。ステファンとデルガドが同時にテオを見た。なんだ? 来て欲しいのか? テオはジェスチャーで「少し待て」と合図して車に駆け戻った。急いでリュックを取り出し、施錠して歩道に戻った。
 車の流れが途切れるのを待って通りを横断し、デルガドが立っているアパートの前へ行った。ステファンは既に到着していた。デルガドが囁いた。

「ここの3階のBにいます。」

 テオとステファンは建物を見上げた。バルコニーがあり、植木鉢が見えた。落ちないように手すりより低い位置に置かれているが、敵が来たら落とせそうだ。

「単独で住んでいるのか?」

 ステファンが尋ねると、デルガドは首を振った。

「2人でルームシェアしている様です。」

 相方が部屋にいるとなると、会話がやり辛い。取り敢えず顔見知りのステファンとテオが部屋を訪ねることにした。デルガドは外で待機だ。

「アパートに裏口はあるのか?」
「非常階段が東端にある様ですが、通りへ出るのはこの歩道へ出る路地だけです。路地には自転車が並んでいます。走り抜けるのはちょっと難しいですね。」
「グラシャス。ここで待機していろ。必要ならすぐに呼ぶ。」
「承知。」

 心なしかデルガドはホッとした様子だった。未婚の彼が未婚の一族の女と対峙しなくて済みそうだと安堵したのだろう。
 ゲバラ髭のお陰で実年齢より年長に見えるステファンはデルガドより2歳上なだけだ。ビアンカ・オルティスとも殆ど年齢は変わらない。テオは時々彼等も学生達と同じ様に遊びたい年頃だろうにと思うことがある。だが様々な事情で軍隊に入った以上、彼等はその青春をお国のために捧げているのだ。同年齢の若者達の存在は別世界の生物と同じなのだろう。
 アパートの中は清潔だった。掃除が行き届いた階段を上り、テオとステファンは3階へ到着した。窓がない廊下の両側にドアが6つずつ並んでいた。廊下の突き当たりのドアは非常階段への出口らしい。正規の階段から数えて2つ目の南側のドアがBだった。
 ステファンはドアの前に立ち、拳でノックした。

第3部 隠された者  7

  建物の外に出ると、テオはそっと後ろを振り返った。シショカが後をつけて来る気配はなかった。ステファン大尉が気掛かりな顔で囁いた。

「本当に彼は座席の位置を確認に来ただけでしょうか?」
「君がケツァル少佐の名を出したら、彼は不機嫌そうな顔になった。きっと本当のことを言ったまでだろう。」

 そして大尉を励ました。

「このホールはセルバ共和国自慢の建築物だろう? そんな場所で事故とかで人が死んだりしたらイメージダウンじゃないか。しかも標的は有名人だぜ? 大臣の秘書なら、それはやるべきじゃないってわかるさ。」

 ステファンが苦笑した。

「グラシャス、テオ。さっきは酷いことを言って申し訳ありませんでした。出る幕がなかったのは私の方でした。」
「いや、俺もエミリオからあの男が何者か教えられて、咄嗟に彼がサイスを粛清に来たのかと焦ったんだ。しかも君が近くにいたら却って彼を刺激するんじゃないかと、余計な気遣いをしてしまった。」

 車に戻るとデルガド少尉が安堵の顔で迎えた。大統領警護隊と国務大臣秘書がシティホールで喧嘩などすれば一大事だ。デルガドはステファンが本気で腹を立てた所を生で見たことはない。しかし麻薬シンジケートのロハスの要塞をステファンが1人で吹っ飛ばした動画はテレビやネットで見たことがあった。シティホールを吹っ飛ばされたらどうしよう、と若者は内心ヒヤヒヤものだったのだ。

「建設省の職員をしている旧友に電話で聞いてみたのですが、セニョール・シショカは今日も大臣から無茶振りの指示を出されて怒っていたそうです。」

 シショカは公設秘書ではなく私設秘書なのでイグレシアス大臣の個人的な用件を処理する仕事をしている。大臣がケツァル少佐とのデートを希望すれば、そのお遣いに出されるのがシショカなのだ。ケツァル少佐は大臣や秘書からの電話には出てくれないし、メールを送っても梨の礫なのだ。だからシショカ自ら文化・教育省へ出向いて少佐の説得に抵る。そして十中八九玉砕する。
 シショカの無駄な努力は、どうやらグラダ・シティの若い”ヴェルデ・シエロ”達の間ではよく知られているようだ。文化保護担当部と馴染みがないデルガド少尉さえ知っているのだ。こんなに有名な”砂の民”もいないだろう、とテオは思った。尤もデルガドは大統領警護隊なのでシショカが”砂の民”だと知っているのであって、市井の”ヴェルデ・シエロ”には「お馬鹿な大臣の秘書をしている不運なマスケゴ族の男」と言う程度の認識だろう。
 再び車に乗り込んで、テオはエンジンをかけた。

「シショカを見張らなくて良いのかい?」
「大丈夫でしょう。」

 ステファンが投げ槍気味に言った。

「彼は座席を確認したら少佐のところへ行かねばなりませんから。」



第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...