2021/10/21

第3部 隠れる者  5

  昼の部が終わり、客達がぞろぞろと客席から出て来た。テオとギャラガは人の波に巻き込まれる前に建物の外に出た。車に戻ると、既にデルガドが到着しており、窓を開放した車内で少佐と2人してアイスクリームを食べていた。テオは周囲を見回し、駐車場の入り口付近にアイスのスタンドが出ているのを見つけた。少佐に断らずに彼はギャラガを引っ張ってスタンドへ走った。

「夜迄どうします?」

とギャラガがメロン味のアイスキャンデーを舐めながら尋ねた。面白がっている。以前は大統領警護隊の中で孤独だった彼は、休暇をもらっても遊ぶ友達がおらず、1人で海岸へ行って海を眺めるか、官舎のジムで体を鍛えるしか時間の過ごし方を知らなかった。しかし文化保護担当部に引き抜かれてから、毎週土曜日は「軍事訓練」と言う名の戦闘ごっこ、ボール遊び、ジャングル探検、そしてデネロス農園での畑仕事の手伝い等、することが沢山あった。日曜日の軍隊の外の世界は「安息日」なので、彼は官舎で好きなだけ眠り、目が覚めると外出許可をもらって買い物に出たり、図書館へ行った。彼の好きな様に活動出来るのだ。
 自称ビアンカ・オルティスとロレンシオ・サイスの調査や監視は、文化保護担当部の任務ではない。少佐も彼に働けと命令していない。彼は彼自身の意志で参加していた。
 駐車場から出て行く車の列を避けながら、彼とテオは車に戻った。
 日差しを浴びて熱くなっている車内に入ると、大急ぎでアイスキャンデーを食べた。少佐がデルガドに声を掛けた。

「2人に報告してやって下さい。」
「承知しました。」

 デルガドは、まず女の同室の女性から聞いた話、と前置きした。

「自称オルティスは3ヶ月前に突然あのアパートに越して来たそうです。ルームメイトが出していた同居人募集の貼り紙を見てやって来たのです。大学生と言う触れ込みでしたが、荷物に書物や学生らしい物は殆どなかったとルームメイトは言っています。日中も家にいることが多く、時々散歩に出ていたそうです。恐らくサイスの家を見張っていたのでしょう。大学に行っていた様子もなく、夜はよく外出するので、ルームメイトは彼女が夜の仕事をしているのだろうと想像していました。あのアパートは女性の学生用なので、学生以外には貸さないことがルールですが、管理人は家賃さえもらえれば目を瞑る人です。自称オルティスが犯罪者でも外国のスパイでも構わない、そんな人です。
 月曜日のジャガー騒動を聞いて、自称オルティスは火曜日の昼間に出かけ、その後暫く外出を控えていたそうです。そして昨日、2人の男性の訪問者と話をした1時間後に彼女は突然アパートを引き払ってしまいました。現在所在不明です。」

 しかし、彼の話はまだ続きがあった。

「ステファン大尉から電話がありました。アスクラカンのある伝統を重視するサスコシ族の家に男がいて、彼は妻子と同居しながら、仕事で行った北米で別の女を作りました。女との間に息子が生まれたのですが、彼は母親と子供を引き取ることをアスクラカンの両親に反対され、1人でセルバへ戻りました。彼は妻に内緒で北米へ仕送りを続けていましたが、北米の女が死んで息子が1人になったので、自分の正体を隠して息子をセルバへ移住させようと考えました。ところが彼のビジネスパートナーだったアメリカ人が、息子の音楽の才能を発見し、ピアニストとしてデビューさせました。男は息子が独り立ちする為の仕事だと思って密かに資金援助したのですが、それを妻に知られてしまいました。息子のピアノの才能が頭角を表し、メディアに出る様になった為に、父親とよく似た風貌を見て、妻が隠し子の存在に気づいてしまったのです。妻は激怒しました。何故なら、妻との間に生まれた子供の養育費は全て伝統を重んじて妻の実家が出していたからです。妻から言わせれば、北米の息子の養育費は北米の女の実家が出すべきものだったからです。夫婦は激しく対立し、心労から男は病に倒れ、死にました。4年前のことです。」

 テオとギャラガは顔を見合わせた。夫を死に追いやるなんて、どんな怒り方をしたのだ、その妻は? デルガドは続けた。

「妻の子供は娘1人だけです。サイスの母親違いの姉になります。名前はビアンカ・オルト、既に成年式を済ませた大人ですが、彼女の家族は彼女のナワルを一族に公表していません。」

 テオが呟いた。

「ピューマだからだ・・・」

 少佐がデルガドに尋ねた。

「カルロ達はビアンカ・オルトの所在を攫みましたか?」
「ノ、ビアンカは2年程前に故郷を出て、それ以来帰っていないそうです。大尉がこの話を語ってくれた家族に”心話”で彼女の顔を確認してもらいました。オルティスとオルトは同じ女です。」
「ロレンシオ・サイスとビアンカ・オルトは異母姉弟なんだな。」

 テオは不思議な感じがした。ケツァル少佐とステファン大尉も異母姉弟だ。彼等は大人になる迄互いに相手が同じ父親を持つキョウダイだと知らなかった。ビアンカとロレンシオは、ビアンカだけが2人の関係を知っていて、弟に密かに接近を図った。彼女はロレンシオをどうしたいのだろう。一族に迎えたいのか、それとも父親の死の原因となってしまった者として排除したいのか。少佐と大尉の様に互いの命を預け合って共に戦い、一緒に喜んで笑う仲になれないだろうか。
 少佐がまたデルガドに尋ねた。

「カルロはタムードの伯父様から他に何か聞いていませんか? オルトの家族がどれだけ伝統を守ることに厳しいのか、ビアンカの母親はまだ怒っているのか、彼等家族は異種族の血を迎え入れる余裕があるのか・・・」

 デルガドは硬い表情で答えた。

「少佐の質問にお答え出来る内容の報告と思えますが、大尉はセニョール・タムードから1人でオルトの地所に立ち入るなと忠告されたそうです。どうしても1人で行かねばならない時は、グラダの証が必要だと。」

 それで十分だった。ビアンカ・オルトの家族は純血至上主義者だ。


第3部 隠れる者  4

  シティホールの駐車場は4分の3ほどの入りだった。昼の部と夜の部があって、夜の方が入りが多い。昼の部の当日チケットがまだ残っていたので、テオはギャラガの分も支払って2人の席を取った。少佐は興味がなさそうで、一緒にお昼ご飯を食べた後、車に残ってシエスタに入ってしまった。
 少佐が寝てしまうと言うことは、自称ビアンカ・オルティスの気配がないと言うことだ、とテオは判断した。
 座席は2階席の傾斜した客席の最後部で見通しは良くなかった。1階を見下ろすとステージの手前の座席を取っ払って客が踊れる様にしてあった。それでバンドやピアノがよく見えないのに1階席が完売していたのだな、とテオは納得した。2階席の客もダンシングタイムには1階に入っても良いと言うことになっていた。
 夜と違って曲目も定番の演目が多く、観客の服装もカジュアルだ。ロレンシオ・サイスはソロ演奏を2曲弾いただけで、後は全部バンドと一緒だった。確かに元気良い上手なピアノだったが、テオは惹き込まれる様な気分にならなかった。ギャラガが曲に乗って体を揺らしていたので、下で踊って来いよ、とテオは言ってやった。それで、少尉は「偵察です」と断って席を立った。
 テオはV IP席を見たが、そちらは夜の部の客だけなのか、どの席も空だった。
 ポケットの中の携帯電話が震動したのは5曲目が終わる頃だった。見るとデルガドだったので、テオは席を立ち、通路へ出た。

「オーラ、アルストだ。」
ーーデルガドです。やはり女は逃亡していました。

 と少尉が報告した。

ーー同室の女性に話を聞くと、昨日我々が彼女のアパートを離れた1時間後に、彼女は荷物をまとめて出て行ったそうです。
「出て行った? 部屋を引き払ったのか?」
ーーその様です。ルームメイトは今月の家賃をもらっていますが、オルティスが何処へ行ったのかは知りません。

 デルガドが自信を持って話すので、”操心”を使って相手に自白させたのだろう、とテオは想像がついた。

ーーステファン大尉から何か連絡はありましたか?
「ノ、ロホからも何も言って来ない。話を聞き出すのに手間取っているのかも知れない。ところで君はこっちへ来るかい?」
ーー行きます。今、バスに乗ることろです。一旦切ります。

 テオがシティホールの何処にいるのかも訊かずにデルガドは電話を切った。
 テオは通路の壁に沿っておかれているベンチの一つに腰を降ろした。南国のシエスタの時間にジャズコンサートなんて、いかにもアメリカ人が考えそうなことだ、と彼は思った。
 ギャラガが階段を上がって来た。通路にいるテオを見つけてそばに来た。顔が上気していて、かなり体を動かした様だ。テオは笑った。

「かなり楽しんだみたいだな。」
「伝統舞踊と違って作法を気にせずに踊れましたからね。」

 テオは大統領警護隊の本部内での生活を知らなかったが、ギャラガと親しくなってから、時々”ヴェルデ・シエロ”の若者達の軍隊生活を知る機会が出来た。それまで文化保護担当部のメンバーは誰も本部内の様子を教えてくれたことがなかったのだ。基本的に警備班の交替制勤務が本部の生活の中心で、上層部もそれぞれ担当している班のシフトに合わせて業務に就いているとか、季節の行事はちゃんとそれぞれの出身部族の仕来りに従い、時間を与えられて部族毎に行うとか、その行事の中で若者にはちょっと恥ずかしい伝統舞踊を習わなければならないとか、そう言う類だ。メスティーソの隊員は父親か母親の出身部族の行事に参加させられるのだが、ステファン大尉は絶滅したグラダ族の父と母を持つのでどの行事も不参加だ。ギャラガは母親からブーカ族だと聞かされていたのでブーカ族に参加しているが、多種の血が入っているので本人はあまり馴染めない。大尉の様に免除して欲しいなぁと思っている訳だ。ケツァル少佐はグラダ族だ。養父はサスコシ族だがその養父は伝統的でない家で育ったので、少佐もサスコシ族には参加しないで、暦に従って祈ったり瞑想に耽ったりしているだけだと言う。

「伝統舞踊は気に入らないかい?」
「だって・・・」

 ギャラガは顔を赤らめたまま、そっと声を顰めた。

「殆ど裸になって変身する迄踊るんですよ。」

 半年前までナワルを使えなかった彼は、それ迄太鼓を叩いたり、マラカスを振る役目だった。変身出来ない”出来損ない”の役目だが、正直なところ、彼はそっちの方が良かったのに、と悔やんでいた。
 テオはちょっと意外に思った。

「君はエル・ジャガー・ネグロだろ? グラダとして少佐の祈りに参加すれば良いじゃないか。カルロだって同じだ。見物なんかしていないで、君達でグラダ族の行事をやれば良いんだ。」
「グラダ族の行事なんて誰も知りませんよ。」

とギャラガが苦笑した。

「名前を秘めた女性ですらご存知ないのですから。」


第3部 隠れる者  3

 ライブラリーのドアをサイスが開けると、マネージャーが苛々とリビングの中を歩き回っていた。彼はピアニストが出て来ると、駆け寄り、早く食事を済ませろと言った。

「今日は夜まで食べる暇がないかも知れない。早く食事を済ませて着替えろ。」

 そして客を憎々しげに見た。テオと少佐は心の中で苦笑しながら、暇を告げて家の外に出た。デルガドを連れて道に出ると、ギャラガが角の向こうに駐車していたテオの車で迎えに来た。

「シティホールへ行きましょう。」

と少佐が言ったので、テオは尋ねた。

「オルティスのアパートに行かなくて良いのか?」
「行っても意味がありません。」

と彼女は言った。

「恐らく彼女はアパートにいないでしょう。大統領警護隊が彼女の話を鵜呑みにすると思っていない筈です。昨日のうちに身を隠したと思います。」
「彼女はピアニストを狙っているのでしょうか?」

とギャラガが運転しながら尋ねた。しかし少佐はセルバ流に答えただけだった。

「彼女に訊かなければ分かりません。」

 デルガドはポケットの中の携帯電話が沈黙しているのが気になっていた。アスクラカンへ行ったステファン大尉が何かを掴んだら連絡を寄越す筈だ。時間的にはもうアスクラカンに到着して、ケツァル少佐の養父の遠縁の人に会っている頃だ。
 テオはサイスについていなくても大丈夫なのだろうかと心配していた。サイスはボディガードを雇っていない様だ。ハイメと言う男はボディガードにしては強そうに見えなかった。恐らく運転手か付き人なのだ。だが屈強なボディガードでも、相手が”ヴェルデ・シエロ”ならいないのも同じだ。

「少佐、こうも考えられないか?」
「何です?」

 少佐は眠たそうに見えた。普通日曜日は自宅でのんびり機関銃の手入れをしている人だ。休日に早朝から他人の心配をして走り回るのはくたびれるのだろう。テオは彼女を寝かせまいとして喋った。

「自称ビアンカ・オルティスは”砂の民”だとしよう。そしてロレンシオ・サイスの父親の親族が、サイスのコンサートを何処かで生で聞いて、サイスが気を放出していることに気が付く。親族はそれが一族にとってどんなに危険な行為か理解しているので、家長に報告する。 家長が身近にいた”砂の民”のオルティスにサイスの処分を命じる。オルティスはサイスを粛清する為に近づいたが、まだ若いのでなかなか要領を得ない。何度かコンサートに通ううちに、彼女はサイスのファンになってしまう。彼女は彼を守りたいと考え、大統領警護隊に嘘の証言をする。」
「守りたいのなら、どうして彼にドラッグを許したのです?」

 麻薬組織の摘発を最近したばかりのギャラガが質問した。テオは考えた。

「彼女は俺達に、彼女が席を外した間にサイスがドラッグをやってしまったと言った。」
「彼女はそのパーティーの常連なのですか?」
「いや、初めて参加した様なことを言った。サイスの父親と出身地が同じだから呼んでもらえた、と・・・」

 デルガドが「失礼」と遮った。

「自称オルティスは”操心”でパーティーに潜り込んだのではないですか? サイスの能力がどの程度のものなのか、確認する為に彼女が麻薬を持ち込み、他の人間を酔わせてサイスの心のタガが外れるのを観察していたとか・・・」

 流石に大統領警護隊遊撃班のエリートだ。発想が普通の人と違う。彼は運転しているギャラガに声を掛けた。

「向こうの角で降ろしてくれ。私は女のアパートを調べて来る。」

 彼はケツァル少佐の直属の部下ではない。だから文化保護担当部の指図は受けない。彼は少佐に顔を向けた。

「緊急の事態さえなければ、後でシティホールで合流させて下さい。連絡は携帯でよろしいですか?」
「俺の電話にかけてくれ。」

とテオが素早く言った。少佐は部下以外の電話の呼び出しをよく無視する。
 少佐は頷いてデルガドに了承を伝えた。そして彼が車から降りる時、一言注意を与えた。

「気をつけなさい、相手はピューマです。」

 しかしマーゲイの若者は怯むことなく微笑んで素早く立ち去った。


2021/10/20

第3部 隠れる者  2

  ロレンシオ・サイスの家のライブラリーは防音仕様になっていた。書斎と言うより音響を楽しむ為の部屋だ。サイスは客を中に入れるとドアを閉じて中から施錠した。
 テオは棚に収録されているレコードやC D、D V Dなどを眺めた。どれもピアノやジャズの媒体だった。サイスはこの部屋で他人の演奏を聴いて勉強しているのだろう。
 ケツァル少佐は興味なさそうだ。そう言えば彼女が何か音楽を聴いているのを見た記憶がないな、とテオは気がついた。彼女はいつも風の音や小鳥や虫の鳴き声を聴いている。聴いて敵が接近して来ないか警戒しているのだ。どんな時でも。
 サイスが客に向き直った。英語で尋ねた。

「ジャガーを追跡されているのですね?」

 と彼が尋ねたので、テオは正直に言った。

「追跡は大統領警護隊遊撃班の仕事で、俺達は遊撃班の手伝いをしている。申し遅れたが、俺はグラダ大学生物学部で遺伝子分析の研究をしている。遊撃班が採取したジャガーの体毛と血痕を分析した。」
「血痕の分析・・・」
「何処か怪我をしたんじゃないか? 有刺鉄線で引っ掛けただろう?」

 サイスが不安でいっぱいの暗い目で彼を見た。

「僕がジャガーだと考えていらっしゃるのですか?」
「違うのかい?」

 テオに見つめ返されて、サイスは目を逸らし、ケツァル少佐を見た。少佐は彼の目を見たが、感じたのは恐怖と不安感と孤独感だけだった。彼女も英語で尋ねた。

「変身したのはあの月曜日の夜が初めてだったのですか?」
「僕は・・・」

 サイスが床の上に座り込んだ。

「何が起こったのか、わからないんです。バンド仲間やファンクラブの人達とパーティーをして、調子に乗ってドラッグに手を出しました。クスリをやったのは初めてです。本当です、信じて下さい。」
「私達は貴方の薬物使用を咎めに来たのではありません。私の質問に答えて下さい。変身を何回経験しましたか?」

 サイスが震える声で答えた。

「1回です。あの時が初めてです。」
「あれから変身していませんね?」
「していません。どうやって変身したのかも覚えていません。本当に変身したのか、自分の記憶も混乱しているんです。でも、家に帰った時、僕は裸で何も身につけていませんでした。脇腹に引っ掻き傷があって、鏡を見たら、僕の目が・・・」
「ジャガーの目だった?」

とテオが声を掛けた。

「金色の目をしていたんだね?」
「はい・・・ドラッグのせいで幻覚を見ているのだと思いました。だけど、家に帰って来る時の身軽さと爽快感は覚えていて・・・」
「ナワルを知っているかい?」

 サイスがこっくり頷いた。

「ファンクラブの人がパーティーの時に話していました。古代の神官や魔法使いが動物に化けるのだと・・・」
「ファンクラブの人がね・・・」

 テオと少佐は顔を見合わせた。ドラッグパーティーにナワルの話など出すか、普通? とテオが心の中で呟くと、少佐がまるで彼と”心話”が通じたかの様に言った。

「不自然な話題の出し方ですね。その話をしたのは女性ですか?」

 サイスがちょっと考えた。そして再び頷いた。

「そうです、生粋のセルバ人で、綺麗な人でした。コンサートの客席で何度か見かけましたが、話をしたのはあの夜が初めてでした。」
「ビアンカ・オルティス、彼女はそう名乗りませんでしたか?」
「名乗ったかも知れませんが、覚えていません。正直なところ、僕は自分の身に起きたことで混乱して、あの夜のパーティーのことは漠然としか思い出せないのです。」
「記憶が曖昧なのはドラッグの影響でしょう。」

 少佐が時計を見た。

「貴方のマネージャーが苛ついています。私達はここで切り上げます。」
「あの・・・」

 サイスが立ち上がってテオの腕に手を掛けた。

「僕に何が起きたのか、ご存知なのでしょう? 助けて下さい。誰にも相談出来ないんです。大統領警護隊がジャガーを探していると言う噂を家政婦から聞いて、捕まるんじゃないかと恐ろしくて堪らないのです。」
「それで昨日まで家に閉じこもっていた?」
「はい・・・」

 勿論、サイスをこのまま放置しておくつもりはないテオと少佐だ。少佐が名刺を出した。

「私の連絡先です。平日は文化・教育省にいます。いつでもいると言う訳ではありませんが、職員に伝言を残して下されば、こちらから接触します。それから、今日のコンサートですが・・・」

 少佐はサイスの目をグッと見つめた。サイスがその眼力にたじろぐのをテオは感じた。少佐が微笑んだ。

「頑張って下さい。成功を祈ります。」



第3部 隠れる者  1

  グラダ・シティのマカレオ通りにあるロレンシオ・サイスの家の前でケツァル少佐とテオドール・アルストは散歩をしているかの様な軽装で立っていた。日曜日の朝なので敬虔なクリスチャンは教会に出かけるだろう。サイスは出かける様子を見せなかった。塀の中の庭に車が2台駐まっていた。1台はサイスのイタリア車で、もう1台はマネージャーの物と思われる中古のドイツ車だった。ドイツ車は昨夜遅くサイスと前後してその家に来たのだ。マネージャーはサイスの家に泊まったと思われる。1人だけなのか、他に連れがいるのかわからない。
 門の内側に先に忍び込んでいたエミリオ・デルガド少尉が近づいた。彼は門扉を内側から解錠し、少佐とテオを中に入れた。少佐は塀の内側に入る直前に通りの向こうの角を振り返った。そこにアンドレ・ギャラガ少尉が立っていて、上官に頷いて見せた。彼は見張りだ。
 中に入ってしまうとデルガドが門扉を閉じた。彼はそのまま車のそばに残り、少佐とテオが玄関のドアの前に立った。

「中の人の気配は感じるかい?」

とテオが小声で尋ねた。少佐が頷いた。

「3人です。全員男性。 起きて活動しています。コンサートに向けて出かける準備中でしょう。」

 テオは頷き、それからドアをノックした。サイスもマネージャーもアメリカ人だが、北米のセレブの様なセキュリティは付けていない様だ。庭の監視カメラも2つしかなかった。デルガドはそれらを無力化してしまっている。
 ドアが少しばかり開いて、中年の男が外を覗いた。メスティーソだ。門扉を施錠した筈なのにドアをノックされて驚いていた。

「どなた?」
「大統領警護隊の者です。」

と少佐がストレートに名乗り、緑の鳥の徽章とI Dカードを提示した。セルバ共和国に住むなら、既に4年も住んでいるなら、大統領警護隊が軍隊であり警察の様なものでもある組織だと言う程度の知識は持っている。逆らってはいけないと周囲のセルバ人から聞かされている筈だ。男は渋々ながら、そして不審気にドアを開いた。

「何の御用でしょう?」

 少佐が彼の目を見た。男も彼女の目を見た。少佐が言った。

「ロレンシオ・サイスに会わせて下さい。」

 男が頷いた。

「こちらへどうぞ。」

 少佐がテオを振り向いて、ウィンクした。テオも微笑した。
 男はテオと少佐をグランドピアノが中央に鎮座している広いリビングに案内した。リビングの片隅でロレンシオ・サイスと30代後半と思える男が向かい合って朝食を取りながらその日の仕事の打ち合わせをしていた。突然の訪問者に2人は驚いて振り返った。
 サイスはミックスだが母親は北米先住民とのことで、顔は純血のセルバ人とそんなに違いはなかった。マネージャーらしき男は白人だ。白人が立ち上がった。

「ハイメ、この人達は何だ?」

 ハイメと呼ばれた最初の男は困惑していた。何故訪問者をリビングに案内したのか彼はわからないのだ。
 少佐が微笑んだ。

「ブエノス・ディアス。」

 白人は彼女を見て、彼女の目を見ずに尋ねた。

「誰なんだ?」

 セルバ人の目を見て話してはいけないと言うマナーを守っている。テオが名乗った。

「こちらは大統領警護隊文化保護担当部のミゲール少佐です。私はグラダ大学の准教授テオドール・アルストです。」

 少佐が身分証を提示した。

「突然の早朝の訪問をお許し下さい。セニョール・サイスに大至急お話ししなければならない用件があります。」
「何ですか? 彼との話は私を通して頂かないと・・・」

 マネージャーが頑固にピアニストを守ろうとした。テオは彼の注意が少佐に向けられている間に、サイスを見た。サイスが不安げにこちらを見ており、テオと目が合った。テオは英語で言った。

「月曜日の夜の散歩はいかがでしたか?」

 テオはサイスがビクッとするのを見た。ピアニストはマネージャーに声をかけた。

「ボブ、お2人をライブラリーにお通しして。」

 マネージャーが彼を振り返った。

「ロー、今はそんな暇は・・・」
「いいから、早く!」

 サイスが立ち上がった。

「出来るだけ早く終わらせるから、僕が良いと言う迄、邪魔しないでくれ。」


2021/10/19

第3部 隠された者  21

  ドロテオ・タムードの次男は話を続けた。

「川向こうの家は我が家と違って伝統を重んじます。ですから男の妻と子は男と同居していましたが、子供の養育費は妻の実家から出ていました。それなのに男は北米の女には自分で養育費を送っていたのです。妻の怒りはお金の問題でした。男と妻の仲は拗れてしまい、男は心の病で亡くなりました。」

 ロレンシオ・サイスの父親は死んでいた? ロホとステファンは再び顔を見合わせた。サイスはそれを知っているのだろうか。ロホが「失礼します」と断ってから質問した。

「その男が亡くなったのは何時ごろのことでしょうか?」
「4年前です。」

 即答だった。サイスがセルバ共和国へ移住して来たのも4年前だ。父親が亡くなって養育費の送金が止まったので、こちらへ来たのだろうか。彼は父親に会えたのだろうか。
 ロホが再度確認の質問をした。

「ロレンシオ・サイスはアスクラカンへ来たことがありますか?」
「ノ。」

 これも即答だった。ドロテオ・タムードが息子の代わりに言った。

「私は今日初めてその話を知ったが、もし川向こうの家の北米の息子がこの街へ来たら、男の妻が大騒ぎした筈だ。私はあの女を知っている。気性の激しい女だ。」
「その川向こうの家に娘はいませんか? サイスと同じ様な年齢の・・・」

 すると後ろにいた三男が答えた。

「男の娘が1人います。妻の子供はその娘1人だけです。」
「純血種ですか?」
「スィ。」

 ステファンはタムードと長男、次男に「失礼」と断って、後ろを振り返った。

「教えて下さい、その娘はこんな顔ですか?」

と言って三男の目を見た。三男も彼の目を見た。そして頷いた。

「ビアンカ・オルトです。」
「グラシャス。」

 ステファンはロホを見た。主人一家に失礼がないように声を出して言った。

「ビアンカ・オルティスはビアンカ・オルトだ。そしてロレンシオ・サイスの腹違いの姉だ。」
「ビアンカは名前と身分を偽ってサイスに近づいたのだな。目的は何だ?」

 するとタムードの次男の方から質問して来た。

「ビアンカ・オルトがロレンシオ・サイスのそばにいるのですか?」

 ステファンとロホは彼等に向き直った。ステファンは今回の訪問の理由を最初から説明することを決心した。

第3部 隠された者  20

 アスクラカンに向かって早朝グラダ・シティを出発したのはステファン大尉とロホだった。2人で大統領警護隊のジープに乗ってルート43を西に向かって走った。ルート43はグラダ・シティからアスクラカン迄は中央分離帯がある立派なハイウェイだ。都会と農業地帯を結ぶ産業道路も兼ねているので、バスやトラックが頻繁に行き来している。ジャングルは開墾され、コーヒーやバナナの畑が続いているし、少し小高い農地では野菜も作られている。つまり、そこに住んでいるサスコシ族は決して田舎者ではないのだ。メスティーソの起業家達に混ざって裕福な農園経営者として成功している”ヴェルデ・シエロ”だ。後進の純血種の”ヴェルデ・ティエラ”達が労働者として働いているのと違って、古代から住み着いていた”シエロ”の方が経営者として栄えている。他の土地に住んでいる他部族がひっそりと慎ましやかに暮らしているのに、アスクラカンのサスコシ族は豊かだった。

「だからミゲール大使は金持ちなんだ。」

とステファン大尉が呟いた。ちょっとやっかみが入っていた。彼は鉱山町のスラム出身だ。イェンテ・グラダ村出身の祖父が出稼ぎに出たのがオルガ・グランデでなくアスクラカンだったら、グラダ・シティから逃げ出した父が逃げ込んだのもオルガ・グランデなくアスクラカンだったら・・・と考えて、すぐに彼は馬鹿馬鹿しい妄想だと気がついた。祖父は故郷より遠く離れた鉱山で働いていたからイェンテ・グラダ村殲滅を逃れられたのだ。アスクラカンはイェンテ・グラダ村があったオクタカスに近い。父もオルガ・グランデに逃げたから母と出会い4人も子供をもうけることが出来た。アスクラカンにいたらすぐに追っ手に見つかってグラダ・シティに連れ戻されただろう。そしてカルロとグラシエラは生まれていなかった。
 フェルナンド・フアン・ミゲール大使の遠縁の農園主の家はハイウェイから横道に入り半時間走った所にあった。民家と畑が混在する平たい土地の中に建てられた大きめの家だった。大地主と言うより何処かの会社の重役と言った感じだ。門扉は開放されたままで、運転しているステファンは停止することなくジープを敷地内に乗り入れた。
 グラダ・シティを出る前にステファン大尉はその家の当主ドロテオ・タムードに電話をかけ、訪問することを告げていた。用件は言っていない。だから家から出て来たタムードは不審そうな表情でジープから降りてくる2人の男を眺めた。タムードは60代前半の純血種だったが、彼の後ろに立っている3人の息子はメスティーソだった。つまり妻もメスティーソだ、とステファンは思った。純血種と白人がいきなり婚姻することは滅多にない。特に地方では。
 ステファンもロホも私服だったが、緑の鳥の徽章は持っていたし、規則に従って拳銃も装備していた。2人は右手を左胸に当ててきちんと挨拶をして、日曜日の朝に訪問したことを詫びた。タムードは若者達が礼儀を守ったので機嫌を直し、客を家に入れた。明るい陽光が入るリビングは窓も開放されていて風通しが良かった。タムードの長男が父親の後ろに立ち、客がその向かいに座ると次男と三男がその後ろに立つと言う伝統的な迎え方だった。つまり客が突然敵意を剥き出しにすると直ぐに応戦出来る態勢だ。
 メイドがコーヒーを運んで来てテーブルに置いて去る迄、室内は静かだった。主人も客も相手の目を見ないで、しかし相手の様子を伺っていた。やがて、タムードが口を開いた。

「ミゲールの娘からの紹介だと言うことだが、どんな用件かな?」

 ステファン大尉が答えた。

「最近グラダ・シティで音楽活動をしているアメリカ合衆国国籍のピアニスト、ロレンシオ・サイスはアスクラカンの一族の人を父親に持つと聞きましたが、ご存知でしょうか。」

 タムードが後ろの長男を振り返った。30代半ばと思しき長男が首を傾げ、それから次男へ目を向けた。次男が答えた。

「ジャズピアニストのサイスのことですね。私が聞いた話で良ければお話しします。」

 父親が頷いて許可したので、次男は立ち位置を父親の後ろへ移動し、長男と並んで立った。

「川向こうの家族に、23年前に北米へ行って現地の女性との間に子供をもうけた男がいました。男はこちらに妻と子供がおり、北米の女と子供をこちらへ呼びたいと希望しましたが、当時まだ元気だった両親に反対され、希望は叶えられませんでした。男は北米での仕事が終わり、アスクラカンに戻って来ましたが、北米に残した女と子供に申し訳なく思い、養育費を送り続けました。彼の妻と子供はそれを知りませんでしたが、北米の子供がピアニストとしてメディアに出て来る様になると、男が隠していた秘密が明らかにされてしまいました。ピアニストは父親にそっくりだったからです。妻は夫が隠れて子供を作っていたことや、養育費を送り続けていたことに腹を立て、家族の家長に訴えました。」

 ロホとステファンは顔を見合わせた。自称ビアンカ・オルティスの話と一致している、と2人は頷き合った。

第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...