2021/11/01

第3部 狩る  8

  雨季が近いので風が少し湿り気を帯びていた。降らない雨季は困るが激しく降る雨季も困る。今季は軽く済んで欲しい、とセルバ人は願う。ほろ酔い気分でテオと少佐はレストランを出て、文化・教育省の駐車場へ向かって歩いていた。少佐はショルダーバッグを肩にかけているので、両手が塞がるのを嫌ってテオと手を繋いでくれない。テオは彼女のバッグを守るように間に挟む形で並んで歩いた。

「君とカルロ、ビアンカとロレンシオ、なんだか対照的な姉弟だなぁ。」

 少佐が応えないので、彼は1人で喋り続けた。

「姉が純血種で、弟がミックスだ。姉は生まれつき自然に超能力を使えるが、弟は教わらないと使えない。カルロもロレンシオも子供時代に教えてくれる人がいなかった。ただ、カルロは自分が”シエロ”だと知っていたし、能力が強いことは周囲にもわかっていた。そして姉さんは彼が一人前の”シエロ”になると信じて積極的に教育してくれた。一方ロレンシオは本当に最近まで自分が何者か知らなかったし、能力が何かも知っていなかった。彼の姉さんは最悪だ。純血至上主義者で弟の存在を認めない。拒否するだけでなく、命を狙っている可能性すらある。姉さんに拒絶されたと知って、彼はどんなに哀しかっただろうな・・・」

 少佐が肩をすくめた。

「オルトが何を考えているのか、彼女を捕まえて訊いてみなければわかりません。彼女はサイスを殺そうと考えているのではなく、ただ能力の強さを確認しただけなのかも知れません。ピューマが必ずしも”砂の民”になるとは限らない。彼女は周囲から浮いて案外孤独に苦しんでいるのかも知れませんよ。」

 彼女の口調が淡々としていたので、本気でそう思っているように聞こえなかった。テオは苦笑した。

「君の説は俺がそうあって欲しいと願っている内容だ。だけど彼女の言動は嘘ばかりだ。彼女の師匠が誰なのか知らないが、俺には真っ当な人とは思えない。だってそうだろう? 俺が知っているピューマは・・・ピューマなのかどうか知らないけど、社会的に真面目に働いている人々ばかりだ。博物館の館長や、大学の教授や、政治家の秘書だ。弟子に嘘ばかり付かせて教育する人達じゃないと信じる。」
「”砂の民”を信用するとは、珍しい人ですね。」

 少佐が囁くように言った。

「貴方が知っている人々は、当然私も知っています。個人的にお互い知り合っているから、彼等は優しいのです。敵と見做したら、その瞬間から彼等は冷酷になれます。現にカルロはシショカを今でも警戒しています。私もシショカをマハルダとアンドレには近づかせません。純血至上主義者は実際、残酷な仕打ちをミックス達に平気でします。」
「ムリリョ博士も純血至上主義者だよな?」
「あの方は人格者ですから。」

 少佐が苦笑した。

「ミックスを殺したりしません。寄せ付けないだけです。ミックスの若者達が無防備に放出する気が煩わしいと感じていらっしゃるのです。」
「彼は今でもカルロを”黒猫”って呼んでいる。軽蔑じゃなく、愛情を籠めて呼んでいるように俺には聞こえるんだ。」

 テオの言葉に少佐がニッコリ笑った。

「カルロが生まれる前からカタリナ・ステファンを守っていた人ですからね、カタリナの子供達は特別なのでしょう。」

 テオが以前から考えていたことを、少佐も同様に感じていたのか。テオは嬉しく思った。
 文化・教育省の駐車場に着いた。少佐のベンツに近づくと、彼女が車の安全確認をした。そして彼を振り返った。

「どっちが運転します?」


第3部 狩る  7

 結局、アスルが遭遇した怪しい女の正体について論じることもなく、テオは少佐と別れて大学に戻った。スニガ准教授に大統領警護隊がGCMSの使用料金を支払う意思がないことを告げるのは気が重かったが、先延ばしするとますます事態が悪くなることは目に見えていたので、スニガの部屋に言って直接告げた。スニガは不愉快そうな顔をしたが、しかし腹は立てなかった。腹を立てても相手が悪いとわかっているのだ。大統領警護隊に不服を申し立てる勇気があるセルバ人は殆どいない。代わりにテオに向かって言った。

「答案の採点を手伝ってくれるか?」

 それでその日の午後いっぱい夕方迄テオは他人のクラスの答案を読んで過ごした。 作業が終わる頃にスニガの機嫌は直っており、これからは正式な申請をもらってから検査を行う約束をした。
 日が暮れる頃にテオが大学の駐車場へ行くと、電話がかかってきた。またケツァル少佐だ。

ーー夕食のご予定は?

ときた。テオが彼女の要請を断るとは思っていない。テオはちょっと腹が立ったが、予定はなかったし、例の女の話をしたかったので、「ない」と返事した。少佐はよく利用するバルの名を告げて、時刻は言わずに電話を切った。彼が来る迄待っていると言う意味だ。テオは少し考えてから、一旦自宅まで帰った。そして車を置くと大きな通りまで出てタクシーを拾った。
 バルには少佐が1人でいてビールを飲んでいた。テオもビールを注文して彼女の隣に立った。

「1人とは珍しいな。」

と声をかけると、彼女が微笑した。

「ロホはギャラガとデネロスを連れてミーヤ遺跡へ行きました。」
「アスルの応援かい?」
「撤収の見学です。」

 ミーヤ遺跡は小さいが、撤収段取りを規則通りに行う日本隊がいる。監視役初心者には良いお手本になるだろう。しかしテオはやはり裏の目的があると睨んだ。

「ジャングルの中で女の痕跡を追うんだろ?」

 少佐がグラスを持ったままニヤリと笑った。

「もうあの近辺にいないと思いますが、逃げた”入り口”を見つけることを期待しています。」

 真夜中にジャングルの中で追跡を行うのだ。テオはロホとギャラガには心配しなかったが、デネロスはちょっと気遣った。彼女は女性だし、ナワルも一番小さなオセロットだ。それに農村育ちでジャングルでの活動は余り経験がない。テオが知っているだけでも、彼女の現場派遣は主にグラダ・シティ近郊か西部のオルガ・グランデ近辺の砂漠地帯だ。

「まさか分散して捜索させるんじゃないだろうな?」
「ノ。標的は1人ですから、3人一緒に行動するよう、ロホに命じてあります。相手が手負いのピューマである可能性がありますからね。」

 テオは溜め息をついた。

「もしその女がビアンカ・オルトだとしたら、彼女がアンティオワカへ行った目的はなんだろう? 」
「やはりドラッグでしょう。アンティオワカの業者が捕まって、グラダ・シティへ入荷がなくなったので、こちらの売人が値を釣り上げた。それで彼女は直接買い付けに行ったのではありませんか?」
「彼女が自分で使うのか?」
「貴方が彼女に会った時、薬物使用の常習者に見えましたか?」
「ノ・・・彼女はまともだった。まともでなきゃ、あんな手が込んだ誤魔化し方は出来ないだろう。」
「彼女がサイスを変身させたドラッグをパーティーに持ち込んだと疑われますから、何か利用方法を考えているのでしょう。」
「サイスを狙って来るかな?」
「一度標的と定めた相手を必ず仕留めないと、”砂の民”の入門試験に通りませんからね。」

 少佐の声が小さくなった。

「ピアニストは今どうしているんだい?」
「ギャラガが本部でそれとなく聞き込んで来た遊撃班の情報によりますと・・・」

 ギャラガは身内をスパイしているのだ。

「遊撃班では若い少尉達の訓練も兼ねて交替でサイスの護衛を行っているそうです。ステファンとデルガドはビアンカ・オルトの捜索に専念していると思われます。」

 大統領警護隊が本腰を上げてロレンシオ・サイスの護衛をしてくれているなら安心だ、とテオは安堵した。

「サイスはこれからどうするつもりかな?」
「これもギャラガが聞いてきた話ですが・・・」

 少佐はギャラガを上手く使っている。

「サイスは引退を言い出してマネージャーとバンドが意思撤回させようと連日話し合っているそうです。警護隊は口出し出来ません。」


2021/10/31

第3部 狩る  6

  ケツァル少佐から正式な分析依頼書を書いてもらったテオは、医学部へ行った。スルメの袋に入れてあったので、余分な調味料の成分が付着していたが、それも別に分析して血液の分析結果から引くことになる。料金が割り増しになるが、それはテオでなく大統領警護隊が払うので彼は気楽に申請書に署名した。
 それから一旦医学部を出て、彼は生物学部の彼の研究室へ行った。残りの血液をD N A分析器にセットして本業に専念した。
 ケツァル少佐から電話がかかって来た時、時計は1時になろうとしていた。昼食は終わりましたかと訊かれて、昼食を忘れていたことを思い出した。まだだと答えると、少佐はカフェ・デ・オラスで待っているから来ないかと誘いをかけて来た。断る理由がないテオは喜んで研究室を施錠して出かけた。
 カフェ・デ・オラスは文化・教育省が入居している雑居ビルの1階にあるカフェだ。文化・教育省の職員の食堂みたいになっているが、役所の昼休みが終われば普通のカフェだ。テオが入店すると、少佐は指定席みたいないつものテーブルに着いていた。来たばかりなのか、手付かずの料理を前にして携帯の画面を見ていた。テオは彼女に声をかけ、それから店のスタッフに少佐と同じ物を注文した。
 彼が椅子に座ると少佐が携帯の画面を見せた。

「生物学部の別の准教授が大統領警護隊にこんな請求をして来ていますが?」

 マルク・スニガ准教授はやはりちゃっかりと分析費用を大統領警護隊に請求していた。仕方なくテオは説明した。

「先週アスルが送って来たコヨーテの体毛の分析を依頼したんだよ。俺の研究室とスニガの研究室の分析器でも結果を出して報告しておいたんだが、スニガは自分の機械が分析仕切れなかった成分があることを気にして、医学部に詳細な分析を依頼した。それでコヨーテの体毛からエクスタシーの成分が出た。アンティオワカ遺跡で捕まえたフランス人やコロンビア人がコヨーテに麻薬を与える理由がない。奇妙だと思わないか?」
「実験に動物を使ったのでしょう。」

と少佐が腹立たしそうに呟いた。

「コヨーテが自らドラッグを口にするとは思えません。考えられるのは、薬の完成度を確認する為に動物に与えたか、或いは運搬の為に肉にドラッグを隠していたのをコヨーテが盗んで食べたか、です。」
「コヨーテとアスルが出遭った女の間に関係はないと思うが、その女はビアンカ・オルトだろうか? アスクラカン訛りがあると言うのが、俺は気になる。」
「話を逸らさないで下さい。何故正式な分析依頼をしていない分析に大統領警護隊がお金を払わなければならないのです?」

 少佐がテオを呼んだのは、お金の問題であるらしい。最初の分析をした時は料金が発生しなかった。テオはいつもの友人に対する厚意で分析を行い、スニガ准教授も暇だったからしてくれたのだ。どちらも自分達が自由に使用出来る自分達の研究室の機器を使った。しかし医学部の機械は違う。最新鋭の機器で高価だ。そして医学部の担当者は友人ではない。

「医学部の機械は高価で使用料金が発生する。医学部はスニガに料金を請求したんだ。だからスニガは文化保護担当部に請求を回した。」
「文化保護担当部がスニガに分析を依頼した覚えはありません。」

 つまり、少佐は料金発生はテオの責任だと言いたいのだ。分析結果は目下のところ、どうでも良いのだ。一つの部署の責任者として、彼女は本部から文句を言われる前に問題を解決しておきたい訳だ。

「アスルかロホが正式な分析依頼書を書いてくれていたら、俺も君が本部に言い訳しやすい様に報告書を書いたのにな・・・」

 と言いつつも、友人達に責任転嫁したくないテオは、折れた。

「料金は俺がスニガに支払っておくよ。」
「何故貴方が払うのです?」
「しかし・・・」
「スニガ准教授が勝手に医学部に分析を依頼したのでしょう?」
「そうだが・・・」
「貴方は依頼していないのでしょう?」
「していないが・・・」

 少佐はスニガ准教授からのメールを削除した。

「我々は依頼した覚えのない仕事に料金を支払いません。」
「だから俺が・・・」
「貴方も払わなくてよろしい。」
「しかし・・・」
「貴方は何も見なかったのです。」

 そこへテオが注文した料理が運ばれてきた。

「貴方はスニガの為に何かしたことがありますか?」
「彼が採取した生物のサンプルのD N A分析を何度かしたが・・・」
「料金を取りましたか?」
「ノ・・・」

  少佐が自分の料理にやっと手をつけながら命令した。

「今回の請求は踏み倒しなさい。」


第3部 狩る  5

  医学部に電話をかけてG C M Sを利用出来るか尋ねると、期末試験期間なので機械は空いていると言う。利用料金を聞いて、大統領警護隊文化保護担当部のツケにしてもらうことにした。個人で払うには金額が大きかった。マルク・スニガ准教授は興味本位で依頼した様なニュアンスだったが、彼は自腹を切ったのだろうか。それともやはり大統領警護隊のツケなのか?
 約束の時間まで余裕があったので、文化・教育省に立ち寄ってケツァル少佐の了承を取っておこうと思った。
 文化・教育省の駐車場に車を置いて、入り口の無愛想な女性軍曹に入庁手続きをしてもらい、4階に上った。雨季が近づいているので文化財・遺跡課は来季の発掘申請時期が始まっていた。昨年見た顔の人が並んでいた。
 大統領警護隊文化保護担当部はそれらの申請が通って回されて来る書類の最後の「関門」だから、4、5日は少し暇なのだ。マハルダ・デネロス少尉は試験が終わったので余裕の表情で仕事をしていた。アンドレ・ギャラガ少尉は逆に雨季休暇の終盤に大学入試があるので、仕事も勉強も真剣だ。ロホは少尉達の仕事が終わらなければ彼の役目がないので、暇そうだ。それは少佐も同じで、テオがカウンターの内側に来た時、爪を研いでた。
 テオは2人の少尉と1人の中尉に挨拶してから、少佐の机の前に立った。

「ブエノス・ディアス、少佐。」
「ブエノス・ディアス、ドクトル。」

 仕事の時はテオではなくドクトルだ。少佐は爪を研ぎ終えて、道具を仕舞った。それから彼を見上げた。

「ご用件は?」

 テオは鞄からビニル袋を出した。

「今朝、アスルがうちに来て・・・」

 デネロスとギャラガが振り返った。遠い国境近くのミーヤ遺跡にいる筈のクワコ少尉がグラダ・シティに戻って来るとは只事ではない。それも備品調達ではなく、テオの家へ訪問だ。
 少佐がビニル袋を手に取った。中の血で汚れた枝葉を眺めた。そして説明を求めてテオを見たので、彼は説明した。

「昨日、ミーヤ遺跡に不審な女性が立ち入ったので、アスルが発砲したそうだ。女性はアスクラカン出身と思われ、銃創を負ったと思われるが、ジャングルの中に逃走したらしい。」

 それだけの説明で、ケツァル少佐とロホ、それにギャラガはテオが言いたいことを理解した。試験勉強でロレンシオ・サイスの一件に関わらせてもらえなかったデネロスは、無邪気に、

「ジャンキーって何処にでもいるんですねぇ。怪我をしても痛みを感じなかったんじゃ、重症ですよ。」

と言った。しかしロホと目を合わせた直後、真面目な表情になった。”心話”で先週の月曜日からの出来事を教えられたのだ。
 テオは少佐からビニル袋を返してもらい、用件を告げた。

「アスルにこれの分析を依頼されたので、これから医学部へ行ってGCMSにかけてくる。利用料金はそちらに請求を回すから、了承しておいてくれ。」
「いくらです?」

 と経理担当のロホが尋ねた。テオはここで言いたくなかったが、取り敢えず最低料金と最高料金を言った。ギャラガが思わず口笛を吹き、ロホが尋ねた。

「貴方の部屋の機械では無理なんですか?」
「無理だね。遺伝子分析じゃなくて、ドラッグの成分を調べるんだよ。遺伝子の方は俺の部屋で調べるから、例の女がドラッグをやっているかどうか、確認する。」

 ロホは少佐を見た。少佐が額に手を当てて考え込んだ。

第3部 狩る  4

  アスルは僻地で遺跡発掘監視をする間、ずっと現地にいる訳ではないと言った。

「発掘許可を出す前後に誰かが現地へ行って、遺跡の近くに”通路”があるかないか確認する。何処か一番近い”出入り口”を探すんだ。一月以内の任務なら使用することはないが、長期の場合は時々報告や必要な物の追加調達の為にグラダ・シティに帰ることがある。グラダ・シティに通じていなければ、最寄りの町や村へ行く。ミーヤ遺跡は国境に近いから、国境警備の隊員が使う”通路”を利用出来る。」

 彼は玄関のドアを開ける前に振り返った。

「分析結果は電話で構わない。」
「ちょっと待ってくれ・・・」

 テオはテーブルから離れ、アスルのそばに行った。まだ何かあるのか、とアスルは己の用件が済んでいるので面倒臭そうな顔をした。

「君が今から使う”入り口”はこの家から近いのか?」
「マカレオ通りの下の方にあるガソリンスタンドの裏にある。」
「”出口”もその近所か?」
「スィ。」

 アスルは時計を見た。遺跡の監視に戻りたいのだ。

「サスコシ族もその”入り口”や”出口”を見つけられるんだな?」
「ブーカ族ほどではないが、俺達オクターリャ族と同程度には見つけるだろう。もう帰って良いか?」

 テオは急いで頭の中を探った。まだ何か要件が残っている筈だ。

「この家に君が住む件・・・」

 アスルが黙って見返したので、彼は言った。

「やっぱり家賃はもらいたい。部屋代だけで良い、君の言い値で構わないから、払ってくれ。だから、この家にいつでも来てくれ。」

 アスルはプイッと前へ向き直った。そして振り返らずに言った。

「考えておく。」

 ドアを開けて出て行った。


2021/10/30

第3部 狩る  3

  水曜日の朝、テオは朝寝坊した。グラダ大学の期末試験はまだ続いており、彼が所属する生物学部は木曜日まで試験がある。テオは監督官の仕事を木曜日にするが、水曜日は空いていた。学生達が提出した答案用紙は研究室の金庫に入れてあるので、自宅では見ることが出来ない。だから、水曜日は試験当日に大学に来られないとあらかじめ判明していた学生5名がメールで送って来た論文を読むことにしていた。期限迄にメールが届かない学生は当然単位を与えられない。
 寝室から出ると、良い匂いが家の中に漂っていた。不審に思ってキッチンへ行くと、アスルがいて、朝食の支度が整ったところだった。先週の金曜日に別れたばかりなのに、すごく久しぶりの様な気がして、テオは思わず、「ブエノス・ディアス!」と叫んで彼に抱きついた。当然アスルは嫌がって避けようとした。

「なんでいつも抱きついてくるんだ?!」

 軍服のままのアスルは、キッチンが狭かったので結局捕まってハグの挨拶を受け容れた。

「いや、随分長い間会っていなかったから・・・」
「6日前に会っただろうが!」

 アスルがご機嫌斜めなのは平素のことで、これが機嫌良ければ逆に何か企んでいるのかと疑ってしまう。テオは早速テーブルに着いてアスル特製美味しい朝食を堪能することにした。

「ミーヤ遺跡の撤収は終わったのかい?」
「まだだ・・・」

 向かいに座ったアスルがポケットからビニル袋を出してテオの前に突き出した。テオはフォークを置いて袋を受け取った。袋の中は木の小枝と葉っぱだった。それに赤黒い物が付着していた。

「血液か?」
「スィ。」
「まさか、チュパカブラ?」
「ノ、女だ。」

 テオが怪訝な目で見たので、アスルは言い添えた。

「”シエロ”だ。封鎖されたアンティオワカ遺跡へ立ち入ろうとしたので、職質をかけたら逃げた。規程に従って不審者へ発砲したら、どこかに当たった。女はジャングルの中へ逃走した。」

 官憲に声をかけられ逃げ出したら発砲される、それはこの辺りの国々では珍しいことではなかった。それにアンティオワカ遺跡は麻薬密売組織に密輸した麻薬を一時保管する場所として利用されていたのだ。そこに無断で立ち入ろうとすれば当然官憲は犯罪に関与する者と疑いをかける。アスルの発砲は決して行き過ぎた行為ではなかった。

「撃たれたのにジャングルの中に逃げたのか・・・かなり強靭な体力の持ち主だな。それで、これはその女の血液か?」
「スィ。DNAを分析して欲しい。次にあの女に出遭った時に同一人物か確認する為の記録を頼む。」
「顔を見ていないのか?」
「後ろ姿だけだ。俺が彼女に振り向くのを許さなかった。」

 目が武器になる”ヴェルデ・シエロ”として、同族に対して警戒するのは当然だ。アスルは怪しい女と出会った時、1人だったのだろう、とテオには予想がついた。

「それじゃ、どんな女なのかわからないのか・・・」
「言葉に特徴があった。彼女はサスコシ族だ、アスクラカンの・・・」
「何?!」

 テオは思わずアスルの目をぐいっと見つめてしまった。そんな風に目を見られることは攻撃されるのと等しい”ヴェルデ・シエロ”のアスルは目を逸らした。

「サスコシの女がどうかしたのか?」

 それでテオは先週の月曜日の夜から始まったサン・ペドロ教会付近のジャガー騒動を語った。ジャガーが人気のジャズピアニスト、ロレンシオ・サイスで、彼が半分だけの”ヴェルデ・シエロ”であること、北米で育ったので自身の出自に全く無知だったこと、彼の父親の実家が純血至上主義者でサイスの存在を認めていないこと、彼の腹違いの姉ビアンカ・オルトが彼の命を狙っているらしいことを語った。
 アスルはロレンシオ・サイスの身の上に関して興味を抱かなかった。クールに聞き流しただけだ。彼が興味を示したのは、サイスの最初の変身が合成麻薬の摂取が原因だったことだ。

「昔は儀式にコカを使ってナワル使用を誘発させたと聞いている。儀式に参加する者全員が変身する必要があったからだ。体調不良で1人だけ変身し損なっては神様のご機嫌を損なうからな。」
「だけど、今は使わないんだろう?」

 アスルはセルバ流に答えた。

「コカ以外は使わない。」

 彼はジャンキーの”ヴェルデ・シエロ”なんて恐ろしいと吐き捨てる様に言った。テオは50年以上前に行われたイェンテ・グラダ村の殲滅事件を思い出した。太古に絶滅した純血のグラダ族を復活させようと、グラダの血を引くミックスだけで作った村がイェンテ・グラダだった。近親婚を繰り返して血の割合を純血種に近づけていった彼等は、ミックス故に超能力の制御が上手くいかず、それを抑えるために麻薬に溺れた。そして一族を危険に曝す存在として中央の長老会から村ごと「死」を与えられてしまったのだ。麻薬は”ティエラ”にも”シエロ”にも害になるだけのものだ。
 ミーヤ遺跡に現れた女はビアンカ・オルトだったのだろうか。彼女は麻薬を必要としているのか。アスルに撃たれて傷を負っているのか。
 アスルが立ち上がった。

「分析を頼む。俺は遺跡に戻る。」

 テオは我に帰った。

「夜通し運転して来たんじゃないのか? もう少し休んでいけよ。」

 アスルがニヤリとした。

「あんたは、俺が車でここへ来たと思っているのか?」
「え? しかし・・・」
「俺達が遺跡監視で何ヶ月もジャングルや砂漠に籠っているなんて、本気で思っているんじゃないだろうな?」

 

 

第3部 狩る  2

  ミーヤ遺跡は近づく雨季に備えて撤収作業が始まっていた。アスルは遺跡の外れにある大樹の上に登って作業を監視していた。ミーヤ遺跡には盗む価値のある遺物はほとんど皆無と言える。考古学的価値ならそれなりにある土器の破片や民具の欠片ばかり出土した。それらをきちんとリストに載せて文化保護担当部に提出すると約束した日本人の考古学者達は、作業員達と一緒に遺跡に丁寧に覆いを被せる仕事をしていた。石の壁などは野ざらしにして良さそうなものなのに、彼等は来年戻って来る時のために、プレハブで覆ってしまうのだ。地面はシートを被せ、可能な限り水が入らないように厳重に封をする。アスルに言わせれば、プレハブもシートもハリケーンが来れば簡単に吹き飛んでしまうし、泥棒がお気軽に失敬してしまう。大統領警護隊も陸軍も来年迄警備するつもりなど毛頭ない。
 ポケットからスルメの袋を出してアスルは齧った。日本人は結構気軽に物をくれる。殆どスナック類だが、文房具なども現地の人間には人気があった。アスルは恐竜の形の消しゴムが気に入ってしまった。いつも顰めっ面している彼が、消しゴムを掌に載っけて嬉しそうに微笑むのを見て、向こうも嬉しかったのだろう、日本人は3個もくれた。ティラノサウルスとステゴサウルスとアンキロサウルスだ。

「来年もお会いできたら、また新しいのを持ってきます。」

と言ってくれた。だから今アスルは彼等が北米の大学に引き上げて、それから地球の反対側へ帰ってしまうのが寂しいと思っていた。
 スルメの塊を口に入れた時、木の下の薮を何かが通り過ぎた。人間だ。アスルは遺跡の中で作業する人間の数を把握している。全員作業中だ。警備の陸軍兵も姿が見えている。つまり、木の下を通ったのは部外者だ。奥地のアンティオワカ遺跡へ行くなら、遺跡の反対側の道路を使う。まともなヤツならば、と言うことだ。
 アスルは木の下の動くものを目で追った。木や草を動かさずに移動して行く。動物でなければ、森の住人か。彼は相手に気取られぬよう、静かに素早く木から降りた。追跡を始めると、向こうは気づかずにやがて道へ出た。森と道の境目を歩いて奥へ向かっている。アスルは木の隙間から覗いて見た。
 後ろ姿は帽子を被った作業員に見えたが、彼はその人物の体型から女性だとわかった。遺跡発掘作業員の身なりをして、発掘中の遺跡ではなく、発掘が中止されて閉鎖されている奥地の遺跡へ1人で、しかも徒歩で行くとはどんな理由があるのだ。それに武器らしき物を所持している様にも見えない。丸腰で無防備で森を歩くなど現地の人間でもやらない。森の住人なら尚更だ。森が危険な場所であることは常識だ。何も持たずに森を歩くのは・・・

 ”シエロ”か?

 何故こんな民家のない場所に? アスルは声掛け代わりに軽く気を出してみた。女が立ち止まった。アスルはアサルトライフルを構えて言った。

「その先は警察が封鎖している。何処へ行くつもりだ?」

 女が振り返ろうとしたので、彼は「ノ」と言った。故意にライフルの音を立てて聴かせた。

「こっちを向くな。お前が何者かはわかっている。」
「一族の人ね?」

 女の声は若かった。

「この先の遺跡で発掘している人に知り合いがいるの。そこへ行くのよ。」
「残念だが、君の知り合いはもういない。遺跡は封鎖されている。さっきそう言った筈だ。」
「封鎖? 何があったの?」
「何があったのかな。君の用事に関係することかな。」

 アスルの意地悪な物言いに、女が大袈裟に溜め息をついて見せた。

「わかった・・・クスリを分けてくれるって聞いたから、買いに行こうとしていたのよ。まだ買ってないわ。」
「ジャンキーか?」
「そこまで堕ちてない。」

 アスルは相手の言葉に訛りがないか聞き取ろうと務めた。セルバ標準スペイン語はグラダ・シティとその周辺地域の言葉だ。南部、中央部、西部で微妙にアクセントが異なるし、先住民なら”シエロ”だろうが”ティエラ”だろうが出身部族の村の訛りもある。女は綺麗な標準語で話していたが、アスルは大統領警護隊だ、訓練でほんの少しの発音の違いも聞き分けられた。彼は尋ねた。

「君はアスクラカンから来たのか? サスコシ族か?」

 女がまた溜め息をついた。

「男性の貴方が私の家族の家長に断りもなく私に話しかけるのはマナー違反よ。」

 アスルは彼女の訴えを無視した。

「俺の質問に答えろ。これは大統領警護隊の職務質問だ。」

 女が放つ気が微かに揺れた。

「あなた方、何処にでも現れるのね。」

 アスルはアサルトライフルを発砲した。女が森へ飛び込んだからだ。アスルは彼女が立っていた位置へ走ると、そこから森を見た。風が駆け抜けるような音が遠ざかって行くのが聞こえた。女が逃げた辺りの樹木の葉に血が付着していた。アスルは少し考え、ポケットからスルメの袋を出した。可能な限りスルメを口に入れると、残りは捨てた。そして空袋に血液が付着した枝葉を入れた。
 ミーヤ遺跡に戻りかけると、警備兵が車でやって来た。

「少尉、銃声が聞こえましたが、何かありましたか?」

 

第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...