2021/11/02

第3部 狩る  11

  ケツァル少佐はマカレオ通りの「筋」を南下し、途中で歩いている軍服姿の3人の若者を発見した。車を近づけて減速すると、向こうも気がついて立ち止まった。彼女が窓を開けると、3人は敬礼した。

「少佐、今お帰りですか?」
「スィ。」

 少佐が目を見たので、ロホは”心話”で報告を行った。少佐が頷いた。

「アスルが使う”入り口”の近くにあなた方は出た訳ですね。」
「恐らくミーヤ遺跡とこの近辺の”空間通路”が繋がりやすくなっているのでしょう。新月が来ればまた変化すると思いますが。アスルが撃った女はグラダ・シティに逃げ帰ったものと思われます。残念ながら、既に24時間以上経っていますから、こちらへ来てから女の匂いも痕跡も発見しておりません。」

 それを聞いてケツァル少佐は考え込んだ。それからふと顔を上げて、ロホに言った。

「これからあなたのアパートに3人は行くのですね?」

 え? とデネロスが驚いた表情をした。

「追跡はもう終了ですか?」
「南部にいれば追跡続行ですが、あなた方はここへ帰って来ました。街中でアサルトライフルをぶっ放す訳にいかないでしょう。今夜はこれで撤収して休みなさい。明日は2時間の繰り下げ出勤を認めます。」

 デネロスはまだ何か言いたそうだったが、ロホとギャラガが敬礼して承知を示したので、彼女も敬礼した。そして、少佐は「おやすみ」と言って、3人を残して走り去った。
 ロホは2人の部下を見た。

「少佐の命令だ。今夜は私のアパートで休んで、明日はオフィスに出勤だぞ。」

 デネロスは背中のリュックに着替えを入れておいて良かった、と思った。靴は泥だらけの軍靴のままだったが。
 歩き出してから、ロホがギャラガに囁いた。

「少佐は何処から帰るところだったと思う?」
「サイスの家からですか?」
「サイスの家はあっちの方角だ。」

 ロホはベンツが来た方角と反対の方を指した。

「ええっと、それじゃ、今僕達が向かっている方向から来られたと言うことは・・・」
「ドクトルの家からだろう。」

 ギャラガはコメントを避けた。そして心の中で、ステファン大尉がまたヤキモチを焼くだろうな、と思った。


第3部 狩る  10

  テオの家の来客用駐車スペースでケツァル少佐はベンツを駐めて運転席の背もたれに体を預け目を閉じていた。助手席ではテオが同様のポーズでやはり目を閉じていた。先に寝落ちしたのは彼だ。走行中に寝てしまった。自宅前に到着して、少佐が声をかけても目覚めなかった。だから彼女は彼が目を覚ます迄寝ているのだ。空にはようやく下弦の月が出て来たところだった。
 東側の通り2本南あたりで犬が突然激しく吠え始めた。犬の興奮がゆっくりと拡散する前に、少佐は背もたれから体を起こした。耳を澄まし、犬が恐怖に駆られていることを感じ取った。彼女は体を捻ってテオにキスをした。

「起きて下さい。」

 テオは寝入ったばかりだ。すぐに目覚めなかった。彼女は彼の頬を叩いた。

「起きて、テオ!」

 彼がうーんと声を上げかけた。少佐は躊躇わずに頬を平手で殴った。

「さっさと起きる!」

 テオが目を開けた。何? と呟いたので、彼女は言った。

「車から降りて家で寝なさい。」

 テオは外を見て、自宅だと気がついた。

「ごめん、寝てしまった・・・」

 彼はドアを開けた。そして犬の吠え声に気がついた。彼がまだ車内にいるにも関わらず、少佐が車のエンジンをかけた。彼は降りずにドアを閉めた。

「犬の所へ行くのか?」
「通ってみるだけです。降りないの? 今夜はもう送りませんよ。」

 テオは渋々外へ出た。
 ドアが閉まるや否や少佐のベンツは走り去った。ガソリンスタンドの方向だ、と気がついたのは、家の中に入った後だった。アスルが”入り口”があると言っていた付近だ。”入り口”があれば近くに”出口”もある。誰かが出て来たのか?
 行くべきだろうか? しかし、いつまでも相手はそこに留まっていないだろう。
 彼は寝室に入った。そしてベッドの上に体を投げ出すと、目を閉じた。


第3部 狩る  9

  暗闇は”ヴェルデ・シエロ”にとって色彩がないだけで見えない世界などではない。戦闘服に身を包んだロホ、ギャラガ、そしてデネロスはアサルトライフルをいつでも撃てる体勢で森の中を歩いていた。木の葉に付着している血痕が白く光って見えた。
 国境検問所の近くにある”出口”から出た時、電話連絡を受けていたアスルが出迎えた。ロホが2人の後輩少尉を連れていたので、彼は「狩の練習か?」と尋ねた。ロホは真面目に「スィ」と答えた。アスルが出迎えたのは、同僚達が”出口”から出て来るところを無関係な”ティエラ”に目撃されない為の用心だった。”出口”から出る時、外の世界がどんな様子なのか”通路”にいる人間にはわからない。敵が待ち構えて襲って来る可能性は十分あるのだ。
 アスルはこの夜の追跡に加わらなかった。彼には彼の任務がある。遺跡発掘隊が完全に撤収する迄警護と監視をするのだ。セルバ共和国での考古学調査は発掘許可をもらうのが大変難しいが、一度認可されると帰国する迄しっかり守ってもらえる、それが諸外国の研究機関に人気がある理由だ。アスルはミーヤ遺跡の発掘隊を守る仕事をしている最中だ。だからロホは、女を撃った本人に女の捜索を手伝えと言わなかった。

「あの女は俺が声をかけたら、家長や族長を通せと、俺のマナー違反を咎めやがった。俺が守っている土地に無断で入り込む方がマナー違反だろうが!」

 アスルがぼやくのを年長のロホは聞き流し、「こちら側」で女を捕まえたら引き渡しを要求するか、と尋ねた。アスルはちょっと考えた。

「麻薬密売組織と関係があるのなら、憲兵隊に引き渡すのが筋だが、”シエロ”ならそうはいかないだろう。本部へ連行してくれないか。」
「承知した。」

 少尉のアスルが中尉のロホにタメ口で仕事の話をするのを、もし本隊の隊員達が耳にすればアスルを咎めるだろうが、文化保護担当部では誰も気にしない。ロホとアスルは兄弟同然の仲だ。そしてサッカーチームのライバル同士だ。ギャラガにはアスルはちょっと怖い先輩だが、気後れせずに言葉を挟んだ。

「捕まえたら必ず連絡を入れます。」

 アスルはチラッと彼を見て、ぶっきらぼうに言った。

「電話が通じる場所だったらな。後日報告で構わない。」

 それで、ロホ、ギャラガ、デネロスは3人で真夜中のジャングルを歩いていた。気を放出すれば虫や蛇を防げるが、逃亡者にこちらの存在を教えてしまう。いるのかいないのかわからない逃亡者に気取られぬよう、彼等は気を抑制して歩いていた。ジャングルに慣れていないデネロスは虫が煩わしいのだが、これしきのことで音を上げたりすれば次の派遣は砂漠ばかりになってしまうので我慢していた。都会育ちのギャラガにしても本格的な深夜の森の中での捜索は初めてだ。何処かで物音がする度に、ギクリとしてそちらへ銃口を向けるので、ロホに「落ち着け」と叱られた。
 1時間ほど歩いた頃、風が生臭い臭いを運んで来た。ジャガーに変身して嗅げば「美味しそうな匂い」だが、人間の鼻だと「不快極まる臭い」だ。ギャラガが真っ先に断じた。

「何かがこの先で死んでいます。」

 ロホは頷いた。静かに近づいて行くと獣の唸り声が聞こえた。イヌ科の動物の声だ。薮から出ると、そこに凄惨なシーンがあった。
 地面に無残に引き裂かれたコヨーテの死骸が転がっていた。別のコヨーテが5頭でそれを貪っていたのだが、死んだコヨーテも1頭ではなく2頭だった。コヨーテがコヨーテを襲うとは思えない。
 ロホはその場に出て行き、ジャガーの気を放った。コヨーテ達が恐れをなして逃げ去った。ギャラガが死骸のそばに行くと、ロホはしゃがみ込んで死骸の検分をしていた。

「食い荒らされているから断言は出来ないが、このコヨーテは骨を砕かれて死んだ。」

 首の辺りを銃の先で指して、彼は言った。

「銃や刃物ではなく?」
「一撃だ。だが撲殺ではない。」

 もう1頭の死骸も検めて、ロホは立ち上がった。

「こっちは背骨を砕かれている。」

 ギャラガはそんな方法でコヨーテを殺した犯人に当たりがついた。

「”シエロ”の仕業ですね。」
「スィ。」

 ロホはデネロスの姿が見えないことに気がついた。一瞬焦ったが、すぐに彼女が薮から姿を現したので安堵した。

「私達が追跡していた血痕がここまで続いていました。」

とデネロスは、男達が死臭を嗅ぎ取ってから観察し忘れたことを指摘した。

「きっと血の臭いを嗅いでコヨーテが女を襲ったのだと思います。彼女が返り討ちにしたのでしょう。」

 ギャラガは死骸を眺めた。

「腐敗の進行状況から判断して、24時間以上経っていると思います。」
「まるで検視官ね。」

 ロホが周囲を見回した。そして自分達が来た道筋から90度左へ曲がった方角を指した。

「向こうに血痕がある。」


2021/11/01

第3部 狩る  8

  雨季が近いので風が少し湿り気を帯びていた。降らない雨季は困るが激しく降る雨季も困る。今季は軽く済んで欲しい、とセルバ人は願う。ほろ酔い気分でテオと少佐はレストランを出て、文化・教育省の駐車場へ向かって歩いていた。少佐はショルダーバッグを肩にかけているので、両手が塞がるのを嫌ってテオと手を繋いでくれない。テオは彼女のバッグを守るように間に挟む形で並んで歩いた。

「君とカルロ、ビアンカとロレンシオ、なんだか対照的な姉弟だなぁ。」

 少佐が応えないので、彼は1人で喋り続けた。

「姉が純血種で、弟がミックスだ。姉は生まれつき自然に超能力を使えるが、弟は教わらないと使えない。カルロもロレンシオも子供時代に教えてくれる人がいなかった。ただ、カルロは自分が”シエロ”だと知っていたし、能力が強いことは周囲にもわかっていた。そして姉さんは彼が一人前の”シエロ”になると信じて積極的に教育してくれた。一方ロレンシオは本当に最近まで自分が何者か知らなかったし、能力が何かも知っていなかった。彼の姉さんは最悪だ。純血至上主義者で弟の存在を認めない。拒否するだけでなく、命を狙っている可能性すらある。姉さんに拒絶されたと知って、彼はどんなに哀しかっただろうな・・・」

 少佐が肩をすくめた。

「オルトが何を考えているのか、彼女を捕まえて訊いてみなければわかりません。彼女はサイスを殺そうと考えているのではなく、ただ能力の強さを確認しただけなのかも知れません。ピューマが必ずしも”砂の民”になるとは限らない。彼女は周囲から浮いて案外孤独に苦しんでいるのかも知れませんよ。」

 彼女の口調が淡々としていたので、本気でそう思っているように聞こえなかった。テオは苦笑した。

「君の説は俺がそうあって欲しいと願っている内容だ。だけど彼女の言動は嘘ばかりだ。彼女の師匠が誰なのか知らないが、俺には真っ当な人とは思えない。だってそうだろう? 俺が知っているピューマは・・・ピューマなのかどうか知らないけど、社会的に真面目に働いている人々ばかりだ。博物館の館長や、大学の教授や、政治家の秘書だ。弟子に嘘ばかり付かせて教育する人達じゃないと信じる。」
「”砂の民”を信用するとは、珍しい人ですね。」

 少佐が囁くように言った。

「貴方が知っている人々は、当然私も知っています。個人的にお互い知り合っているから、彼等は優しいのです。敵と見做したら、その瞬間から彼等は冷酷になれます。現にカルロはシショカを今でも警戒しています。私もシショカをマハルダとアンドレには近づかせません。純血至上主義者は実際、残酷な仕打ちをミックス達に平気でします。」
「ムリリョ博士も純血至上主義者だよな?」
「あの方は人格者ですから。」

 少佐が苦笑した。

「ミックスを殺したりしません。寄せ付けないだけです。ミックスの若者達が無防備に放出する気が煩わしいと感じていらっしゃるのです。」
「彼は今でもカルロを”黒猫”って呼んでいる。軽蔑じゃなく、愛情を籠めて呼んでいるように俺には聞こえるんだ。」

 テオの言葉に少佐がニッコリ笑った。

「カルロが生まれる前からカタリナ・ステファンを守っていた人ですからね、カタリナの子供達は特別なのでしょう。」

 テオが以前から考えていたことを、少佐も同様に感じていたのか。テオは嬉しく思った。
 文化・教育省の駐車場に着いた。少佐のベンツに近づくと、彼女が車の安全確認をした。そして彼を振り返った。

「どっちが運転します?」


第3部 狩る  7

 結局、アスルが遭遇した怪しい女の正体について論じることもなく、テオは少佐と別れて大学に戻った。スニガ准教授に大統領警護隊がGCMSの使用料金を支払う意思がないことを告げるのは気が重かったが、先延ばしするとますます事態が悪くなることは目に見えていたので、スニガの部屋に言って直接告げた。スニガは不愉快そうな顔をしたが、しかし腹は立てなかった。腹を立てても相手が悪いとわかっているのだ。大統領警護隊に不服を申し立てる勇気があるセルバ人は殆どいない。代わりにテオに向かって言った。

「答案の採点を手伝ってくれるか?」

 それでその日の午後いっぱい夕方迄テオは他人のクラスの答案を読んで過ごした。 作業が終わる頃にスニガの機嫌は直っており、これからは正式な申請をもらってから検査を行う約束をした。
 日が暮れる頃にテオが大学の駐車場へ行くと、電話がかかってきた。またケツァル少佐だ。

ーー夕食のご予定は?

ときた。テオが彼女の要請を断るとは思っていない。テオはちょっと腹が立ったが、予定はなかったし、例の女の話をしたかったので、「ない」と返事した。少佐はよく利用するバルの名を告げて、時刻は言わずに電話を切った。彼が来る迄待っていると言う意味だ。テオは少し考えてから、一旦自宅まで帰った。そして車を置くと大きな通りまで出てタクシーを拾った。
 バルには少佐が1人でいてビールを飲んでいた。テオもビールを注文して彼女の隣に立った。

「1人とは珍しいな。」

と声をかけると、彼女が微笑した。

「ロホはギャラガとデネロスを連れてミーヤ遺跡へ行きました。」
「アスルの応援かい?」
「撤収の見学です。」

 ミーヤ遺跡は小さいが、撤収段取りを規則通りに行う日本隊がいる。監視役初心者には良いお手本になるだろう。しかしテオはやはり裏の目的があると睨んだ。

「ジャングルの中で女の痕跡を追うんだろ?」

 少佐がグラスを持ったままニヤリと笑った。

「もうあの近辺にいないと思いますが、逃げた”入り口”を見つけることを期待しています。」

 真夜中にジャングルの中で追跡を行うのだ。テオはロホとギャラガには心配しなかったが、デネロスはちょっと気遣った。彼女は女性だし、ナワルも一番小さなオセロットだ。それに農村育ちでジャングルでの活動は余り経験がない。テオが知っているだけでも、彼女の現場派遣は主にグラダ・シティ近郊か西部のオルガ・グランデ近辺の砂漠地帯だ。

「まさか分散して捜索させるんじゃないだろうな?」
「ノ。標的は1人ですから、3人一緒に行動するよう、ロホに命じてあります。相手が手負いのピューマである可能性がありますからね。」

 テオは溜め息をついた。

「もしその女がビアンカ・オルトだとしたら、彼女がアンティオワカへ行った目的はなんだろう? 」
「やはりドラッグでしょう。アンティオワカの業者が捕まって、グラダ・シティへ入荷がなくなったので、こちらの売人が値を釣り上げた。それで彼女は直接買い付けに行ったのではありませんか?」
「彼女が自分で使うのか?」
「貴方が彼女に会った時、薬物使用の常習者に見えましたか?」
「ノ・・・彼女はまともだった。まともでなきゃ、あんな手が込んだ誤魔化し方は出来ないだろう。」
「彼女がサイスを変身させたドラッグをパーティーに持ち込んだと疑われますから、何か利用方法を考えているのでしょう。」
「サイスを狙って来るかな?」
「一度標的と定めた相手を必ず仕留めないと、”砂の民”の入門試験に通りませんからね。」

 少佐の声が小さくなった。

「ピアニストは今どうしているんだい?」
「ギャラガが本部でそれとなく聞き込んで来た遊撃班の情報によりますと・・・」

 ギャラガは身内をスパイしているのだ。

「遊撃班では若い少尉達の訓練も兼ねて交替でサイスの護衛を行っているそうです。ステファンとデルガドはビアンカ・オルトの捜索に専念していると思われます。」

 大統領警護隊が本腰を上げてロレンシオ・サイスの護衛をしてくれているなら安心だ、とテオは安堵した。

「サイスはこれからどうするつもりかな?」
「これもギャラガが聞いてきた話ですが・・・」

 少佐はギャラガを上手く使っている。

「サイスは引退を言い出してマネージャーとバンドが意思撤回させようと連日話し合っているそうです。警護隊は口出し出来ません。」


2021/10/31

第3部 狩る  6

  ケツァル少佐から正式な分析依頼書を書いてもらったテオは、医学部へ行った。スルメの袋に入れてあったので、余分な調味料の成分が付着していたが、それも別に分析して血液の分析結果から引くことになる。料金が割り増しになるが、それはテオでなく大統領警護隊が払うので彼は気楽に申請書に署名した。
 それから一旦医学部を出て、彼は生物学部の彼の研究室へ行った。残りの血液をD N A分析器にセットして本業に専念した。
 ケツァル少佐から電話がかかって来た時、時計は1時になろうとしていた。昼食は終わりましたかと訊かれて、昼食を忘れていたことを思い出した。まだだと答えると、少佐はカフェ・デ・オラスで待っているから来ないかと誘いをかけて来た。断る理由がないテオは喜んで研究室を施錠して出かけた。
 カフェ・デ・オラスは文化・教育省が入居している雑居ビルの1階にあるカフェだ。文化・教育省の職員の食堂みたいになっているが、役所の昼休みが終われば普通のカフェだ。テオが入店すると、少佐は指定席みたいないつものテーブルに着いていた。来たばかりなのか、手付かずの料理を前にして携帯の画面を見ていた。テオは彼女に声をかけ、それから店のスタッフに少佐と同じ物を注文した。
 彼が椅子に座ると少佐が携帯の画面を見せた。

「生物学部の別の准教授が大統領警護隊にこんな請求をして来ていますが?」

 マルク・スニガ准教授はやはりちゃっかりと分析費用を大統領警護隊に請求していた。仕方なくテオは説明した。

「先週アスルが送って来たコヨーテの体毛の分析を依頼したんだよ。俺の研究室とスニガの研究室の分析器でも結果を出して報告しておいたんだが、スニガは自分の機械が分析仕切れなかった成分があることを気にして、医学部に詳細な分析を依頼した。それでコヨーテの体毛からエクスタシーの成分が出た。アンティオワカ遺跡で捕まえたフランス人やコロンビア人がコヨーテに麻薬を与える理由がない。奇妙だと思わないか?」
「実験に動物を使ったのでしょう。」

と少佐が腹立たしそうに呟いた。

「コヨーテが自らドラッグを口にするとは思えません。考えられるのは、薬の完成度を確認する為に動物に与えたか、或いは運搬の為に肉にドラッグを隠していたのをコヨーテが盗んで食べたか、です。」
「コヨーテとアスルが出遭った女の間に関係はないと思うが、その女はビアンカ・オルトだろうか? アスクラカン訛りがあると言うのが、俺は気になる。」
「話を逸らさないで下さい。何故正式な分析依頼をしていない分析に大統領警護隊がお金を払わなければならないのです?」

 少佐がテオを呼んだのは、お金の問題であるらしい。最初の分析をした時は料金が発生しなかった。テオはいつもの友人に対する厚意で分析を行い、スニガ准教授も暇だったからしてくれたのだ。どちらも自分達が自由に使用出来る自分達の研究室の機器を使った。しかし医学部の機械は違う。最新鋭の機器で高価だ。そして医学部の担当者は友人ではない。

「医学部の機械は高価で使用料金が発生する。医学部はスニガに料金を請求したんだ。だからスニガは文化保護担当部に請求を回した。」
「文化保護担当部がスニガに分析を依頼した覚えはありません。」

 つまり、少佐は料金発生はテオの責任だと言いたいのだ。分析結果は目下のところ、どうでも良いのだ。一つの部署の責任者として、彼女は本部から文句を言われる前に問題を解決しておきたい訳だ。

「アスルかロホが正式な分析依頼書を書いてくれていたら、俺も君が本部に言い訳しやすい様に報告書を書いたのにな・・・」

 と言いつつも、友人達に責任転嫁したくないテオは、折れた。

「料金は俺がスニガに支払っておくよ。」
「何故貴方が払うのです?」
「しかし・・・」
「スニガ准教授が勝手に医学部に分析を依頼したのでしょう?」
「そうだが・・・」
「貴方は依頼していないのでしょう?」
「していないが・・・」

 少佐はスニガ准教授からのメールを削除した。

「我々は依頼した覚えのない仕事に料金を支払いません。」
「だから俺が・・・」
「貴方も払わなくてよろしい。」
「しかし・・・」
「貴方は何も見なかったのです。」

 そこへテオが注文した料理が運ばれてきた。

「貴方はスニガの為に何かしたことがありますか?」
「彼が採取した生物のサンプルのD N A分析を何度かしたが・・・」
「料金を取りましたか?」
「ノ・・・」

  少佐が自分の料理にやっと手をつけながら命令した。

「今回の請求は踏み倒しなさい。」


第3部 狩る  5

  医学部に電話をかけてG C M Sを利用出来るか尋ねると、期末試験期間なので機械は空いていると言う。利用料金を聞いて、大統領警護隊文化保護担当部のツケにしてもらうことにした。個人で払うには金額が大きかった。マルク・スニガ准教授は興味本位で依頼した様なニュアンスだったが、彼は自腹を切ったのだろうか。それともやはり大統領警護隊のツケなのか?
 約束の時間まで余裕があったので、文化・教育省に立ち寄ってケツァル少佐の了承を取っておこうと思った。
 文化・教育省の駐車場に車を置いて、入り口の無愛想な女性軍曹に入庁手続きをしてもらい、4階に上った。雨季が近づいているので文化財・遺跡課は来季の発掘申請時期が始まっていた。昨年見た顔の人が並んでいた。
 大統領警護隊文化保護担当部はそれらの申請が通って回されて来る書類の最後の「関門」だから、4、5日は少し暇なのだ。マハルダ・デネロス少尉は試験が終わったので余裕の表情で仕事をしていた。アンドレ・ギャラガ少尉は逆に雨季休暇の終盤に大学入試があるので、仕事も勉強も真剣だ。ロホは少尉達の仕事が終わらなければ彼の役目がないので、暇そうだ。それは少佐も同じで、テオがカウンターの内側に来た時、爪を研いでた。
 テオは2人の少尉と1人の中尉に挨拶してから、少佐の机の前に立った。

「ブエノス・ディアス、少佐。」
「ブエノス・ディアス、ドクトル。」

 仕事の時はテオではなくドクトルだ。少佐は爪を研ぎ終えて、道具を仕舞った。それから彼を見上げた。

「ご用件は?」

 テオは鞄からビニル袋を出した。

「今朝、アスルがうちに来て・・・」

 デネロスとギャラガが振り返った。遠い国境近くのミーヤ遺跡にいる筈のクワコ少尉がグラダ・シティに戻って来るとは只事ではない。それも備品調達ではなく、テオの家へ訪問だ。
 少佐がビニル袋を手に取った。中の血で汚れた枝葉を眺めた。そして説明を求めてテオを見たので、彼は説明した。

「昨日、ミーヤ遺跡に不審な女性が立ち入ったので、アスルが発砲したそうだ。女性はアスクラカン出身と思われ、銃創を負ったと思われるが、ジャングルの中に逃走したらしい。」

 それだけの説明で、ケツァル少佐とロホ、それにギャラガはテオが言いたいことを理解した。試験勉強でロレンシオ・サイスの一件に関わらせてもらえなかったデネロスは、無邪気に、

「ジャンキーって何処にでもいるんですねぇ。怪我をしても痛みを感じなかったんじゃ、重症ですよ。」

と言った。しかしロホと目を合わせた直後、真面目な表情になった。”心話”で先週の月曜日からの出来事を教えられたのだ。
 テオは少佐からビニル袋を返してもらい、用件を告げた。

「アスルにこれの分析を依頼されたので、これから医学部へ行ってGCMSにかけてくる。利用料金はそちらに請求を回すから、了承しておいてくれ。」
「いくらです?」

 と経理担当のロホが尋ねた。テオはここで言いたくなかったが、取り敢えず最低料金と最高料金を言った。ギャラガが思わず口笛を吹き、ロホが尋ねた。

「貴方の部屋の機械では無理なんですか?」
「無理だね。遺伝子分析じゃなくて、ドラッグの成分を調べるんだよ。遺伝子の方は俺の部屋で調べるから、例の女がドラッグをやっているかどうか、確認する。」

 ロホは少佐を見た。少佐が額に手を当てて考え込んだ。

第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...