2021/11/04

第3部 狩る  15

  エミリオ・デルガド少尉がやって来たので、ステファン大尉はアパートの3階の窓を指差した。

「女はあの部屋に戻っている。文化保護担当部からの情報によれば、彼女は南部国境近くの遺跡で文化保護担当部のクワコ少尉から職質を受け、答えずに逃げたので銃で撃たれた。脇腹を負傷したらしいが、どの程度治っているのか不明だ。これから私は彼女の部屋へ行って彼女を捕まえる。逮捕容疑は違法ドラッグの使用だ。君は私の後ろでフォローしろ。彼女の目を塞がねばならん。私が彼女の目を塞いだら、彼女の手を拘束しろ。もし少しでも攻撃の気を感じたら、容赦無く撃て。相手はピューマだ。油断禁物だぞ。」
「承知。」

 デルガドはホルダーの銃の弾倉を確認した。カルロ・ステファンは知っている。大統領警護隊の隊員達は皆優秀な軍人だ。しかし実際に敵と対峙して、命の遣り取りを経験した隊員は少ない。遊撃班でさえ人を殺した経験を持つ隊員は数人しかいないのだ。デルガドはまだ20歳になったばかりだ。南部の穏やかなグワマナ族の漁村で生まれ育った。詳しい経歴を聞いたことはないが、他人の命を奪う過酷な体験はしたことがないだろう。
 ステファンとデルガドがアパートの入り口へ向かおうとした時、3階から物音が聞こえた。2人は咄嗟に隣のアパートの影に入った。3階のBの部屋の窓から人の頭が突き出された。オルトがケツァル少佐の結界が消えたことを確認しているのだ、とステファンはわかった。

「出て来るぞ。」

 彼等はアパートの出入り口に左右に別れて立った。数分後、やや足を引きずった感じの音が階段を降りて来た。右脚を動かすと脇腹が痛むのか。アパートの階段から見て右側に立っているデルガドは完全に気配を消していた。獲物が通るのを待っているマーゲイだ。ステファンも石になった。音だけを聞いていた。
 女が建物から出て来た。その横顔のシルエットを見た瞬間、ステファンはデルガドに怒鳴った。

「エミリオ、東の非常階段だ!」

 2人は建物と建物の隙間へ入った。物がごちゃごちゃ置いてあるので邪魔だった。デルガドが身軽に障害物を乗り越えて行く。ステファンは彼を先に隙間に入らせてしまったことを後悔した。しかし隙間の幅では彼を追い越せない。だから、隙間の出口に達した時、ステファンは喉の奥を鳴らした。

クッ!

 デルガドがマニュアル通りのお手本見たいに地面に身を投げ出した。ステファンは彼の体を飛び越して、裏路地に出た。風が彼に向かって吹いてきた、と感じる前に、彼はそれを押し返した。キャッと女の声が上がり、路地の向こうの非常階段の下に人間が転がった。ステファンがそちらへ走ると、女は立ち上がり、よろめきながら走り出した。

「止まれ!」

 ステファンは怒鳴った。

「止まらんと脚を砕くぞ !

 女が動きを止めた。

「”出来損ない”が私に命令するのか!」

と彼女が前を向いたままで怒鳴った。

「さっき来た女は、日没迄待つと言ったわ!」
「彼女と私の所属部署は違う。正規のお前の担当者は私だ。」

 ステファンは彼女にゆっくりと近づいて行った。後ろから命令通りデルガドが手に拳銃を射撃の構えで握り、彼と同じ歩調でついて来た。ステファンの呼吸に合わせて、女にそこにいるのはステファン1人だと思わせている。
 近づくと血の臭いがした。女の傷は治っていない。体内に弾丸が残っているのだ。

「大人しく捕縛されて手当てを受けろ。君の容疑は違法ドラッグの使用だ。素直に捕まって自供すれば罪は軽微で済む。」

 ステファンは彼女の前へ回り込んだ。デルガドが拳銃をホルダーに収め、彼女の両手を掴み、後ろで拘束しようとした。いきなり女が体を反転させた。ステファンは咄嗟に彼女の首を横から打った。
 路上にデルガドが倒れ、その上に女も倒れた。

「エミリオ! しっかりしろ!」

 ステファンは女の体を押し退け、デルガドに声をかけた。デルガドが目を開けた。顔が苦痛で歪んだ。彼が消え入りそうな声を出した。

「大尉・・・すみません、貴方が彼女の目を塞ぐ前に・・・」
「喋るな。すぐに救援を呼ぶ。」

 動かなくなった女をチラリと見て、ステファンは携帯を出した、本部へ電話をかけた。呼び出しが鳴る数秒間に、デルガドの体をサッと透視した。本部が応答した。ステファンは早口で喋った。

「遊撃班ステファン大尉だ。デルガド少尉がピューマの気の”爆裂”にやられた。肋骨が3本折れている。動かすと肺を傷つけるので、大至急救護を要請する。場所は西サン・ペドロ通り7丁目と第7筋の交差点から西へ2軒目のアパートの裏路地だ。」

 本部が、すぐにそちらへ救護へ向かうと告げた。ステファンは急いで付け足した。

「アパートの表に”操心”にかけられた”ティエラ”の女性がいる。保護をお願いする。」

 電話を終えると、ステファンはビアンカ・オルトに近づいた。オルトは死んでいた。ステファンのジャガーの一撃で頚骨が砕かれたのだ。

「お前が悪いんだ。」

とステファンは言った。

「私の部下に手を出したから。」




第3部 狩る  14

  学生アパートから道路に出たケツァル少佐は、歩道の暗がりに身を潜めている人物の気配に気がついた。

「貴方もここだと見当をつけたのですね。」

と囁くと、暗がりからカルロ・ステファンが姿を現した。彼は溜め息をついてアパートを見上げた。

「誰かさんが結界など張るから、入れなかったのですよ。」

 彼は視線を少佐に戻した。

「貴女が強いことは承知しています。しかし、1人で危険人物と対峙するのは止めて頂きたい。」

 少佐は肩をすくめて彼の目を見た。”心話”で忽ち情報共有が行われた。ステファンは少佐と交わしたビアンカ・オルトの言葉に納得しなかった。彼は腕組みして言った。

「アスクラカンでの彼女の評価は酷いものでした。人間性に欠陥があると現地では見做されていました。それに麻薬を手に入れようとした理由も明確ではない。彼女は貴女から逃げる為に虚偽の言い訳をしたとしか思えません。」
「私も彼女が素直に警護隊に出頭すると思っていません。」

 少佐は異母弟を悪戯っぽい目で見上げた。

「彼女に誰に追われているかを教えてやりました。あの女はロレンシオ・サイスを狙いつつ、貴方を警戒するでしょう。ことによると、サイスより先に貴方を片付けようと思うかも知れません。エル・ジャガー・ネグロに興味を抱いた様子でしたから。」
「故意に私を狙わせるのですか?」

 ステファン大尉が特に腹を立てた様子はなかった。ケツァル少佐は時々この手の遣り方で部下の教育を行う。部下と同等もしくは少し上の力を持った敵と戦わせる。

「今踏み込んでも構いませんよ。」

 少佐はアパートを見た。

「でも、”ティエラ”達がいることを忘れないで下さい。それから、デルガド少尉はまともに相手にさせないように。どんなに賢いマーゲイも、ピューマの一撃には耐えられません。」
「心得ています。部下を危険に曝したりしません。貴女の教えです。」

 少佐は「おやすみ」と言って、自宅に向かって歩き去った。残ったステファン大尉は暫くアパートを見上げていた。ビアンカ・オルトが眠れない夜を部屋で過ごすつもりはないだろう。彼はアスルが彼女に手傷を負わせたことを、ちょっと腹立たしく思った。撃つなら確実に仕留めろ、と実戦のプロは思った。
 カルロ・ステファンは今捜査員と言うより狩人の心境だった。ミックスの弟の存在を否定するピューマを仕留めたかった。
 あの女はゲームをしている。サイスの”シエロ”としての本能をドラッグで目覚めさせて、己と戦える状態に仕上げようとしている。彼女はジャガーと戦って、己のピューマの力を確認したいのだ。
 彼はデルガドに電話をかけた。少尉はすぐに出た。

「今、何処にいる?」
ーーエンリケ通りの、女がバイトをしていた居酒屋のそばです。
「彼女は西サン・ペドロのアパートに戻っている。すぐにこっちへ来い。」
ーー承知!

 エンリケ通りは人間の足で走って10分足らずの距離だ。ステファンは物陰に隠れてタバコを咥えた。火を点けずに気分を落ち着かせる為に香りを吸い込んだ。高揚すると相手に気取られる。オルトはケツァル少佐が本当に帰ったと確信する迄部屋から出ない筈だ。
 少佐がオルトの部屋ではなくアパート全体を結界で包んだ理由を彼はわかっていた。少佐はオルトとの面会の間、ステファンが介入してくるのを拒否したのだ。”出来損ない”の弟が来れば純血至上主義のオルトを刺激するからだ。少佐がミックス達を”出来損ない”などと考えていないことは、彼が一番よく知っている。彼女がオルトとの面会でその言葉を使ったのは、オルトの心を揺らすためだ。”出来損ない”でも一人前になり得る。”出来損ない”でも愛し合える。少佐はそう訴えたかった。それがオルトの心にどう響いたのか、それはこれから彼が彼女に対峙すればわかる。

 

2021/11/03

第3部 狩る  13

 右の寝室は静かなままだった。ケツァル少佐は静かに待っていた。待つのは慣れている。遺跡発掘隊の監視はひたすら作業行程を眺めているだけの仕事だ。ドアの向こうの気配が動いたのは6分後だった。瞬間に彼女はアパート全体の結界を張った。物音が響き、続いて「キャッ」と声がした。少佐は寝室のドアを開いた。
 窓の近くにベッドがあり、その上で若い女性が蹲っていた。Tシャツとコットンパンツ姿だ。頭を抱えているのは、窓から外に出ようとして、少佐の結界にぶつかったせいだ。”ティエラ”なら問題なく通り抜けられる結界は、同族の”ヴェルデ・シエロ”にはガラスの壁の様に硬い。無理に突破しようとすれば脳にダメージを受ける。

「話があると言った筈です。何故逃げるのです?」

 少佐は後ろ手で寝室のドアを閉めた。女が右脇腹に片手を当てた。

「大統領警護隊は私を撃った。殺されるかも知れないのだから、逃げるのは当たり前でしょう。」

 成る程、と少佐は頷いて見せた。

「何故、貴女は撃たれたのでしょう?」
「知らないわ。いきなり向こうが撃って来たのよ。それも後ろから!」

 暗がりの中で女の目が光った。少佐は”心話”を拒否した。信用出来る相手としか”心話”はしない。それが常識だ。

「貴女を撃った男は、オクターリャ族です。私達を連れて過去に飛んで銃撃現場を見せることが出来ます。検証を望みますか?」

 ”操心”が効かない相手だと悟った女は、脱力した。

「わかった・・・正直に言うわ。アンティオワカ遺跡にコロンビアから密輸した麻薬やドラッグを隠している組織がいると聞いたのよ。それで確かめに行ったの。もし本当にそんな悪いことをしているヤツがいるなら、粛清しなきゃ。この国の害になるからね。」
「貴女1人で麻薬組織を撲滅出来ると思って行ったのですか?」
「操れるでしょ? 1人を操れば、そいつが連中の輪を乱す。自滅させるのよ。」
「それが目的なら、大統領警護隊が職質をかけた時に、そう言えば良かったのです。」
「信じてくれたかしら?」
「彼は言いませんでしたか? 遺跡は警察が封鎖している、と。」
「覚えていないわ。」
「貴女はこう答えました。クスリを分けてくれるって聞いたから、買いに行こうとしていた、と。それも忘れましたか?」

 女が微笑んだ。

「私はジャンキーなんかじゃない。でも、クスリが必要だったのよ。」

 彼女は少佐を見上げた。

「ねぇ、もし突然、貴女に弟がいて、その弟が”ティエラ”が産んだ”出来損ない”で、それなのに父親が貴女よりその子を可愛がっていたと知ったら、貴女、我慢出来る?」

 少佐はニコリともせずに答えた。

「私は、突然弟の存在を知らされたことがありますよ。」
「え・・・?」
「その弟は”出来損ない”の女から生まれた”出来損ない”です。そして私は父と全く接点がありませんでしたが、弟は父に名前をもらい、愛されました。」
「それで?」

 女の声が微かに震えた。

「貴女はその弟をどうしたの?」

 少佐は彼女の目を見つめて言った。

「”シエロ”として生きる為に手を貸してやっています。彼は努力の人です。私は彼を愛しています。」
「貴女のお父さんは・・・」
「父は弟が2歳の時に死にました。私は一度も父に会ったことはありませんが、弟は微かに記憶があるそうです。」
「貴女のお母さんは、その”出来損ない”の弟のことをどう思っているの?」
「母は私を産んですぐに死にました。父の妻は弟の母親で、私の母ではありませんでした。」

 女が沈黙した。
 少佐がドアを手を触れずに開いた。

「私は帰ります。貴女が大統領警護隊の本部へ出頭してミーヤ遺跡での出来事を説明すれば、我々は貴女を追いません。貴女はロレンシオ・サイスのことを忘れて故郷に帰るとよろしい。」

 ハッと女が目を見張った。

「ロレンシオのことを知っているの?」
「我々は知っています。」

 少佐は「我々」と言う単語に力を込めた。ロレンシオ・サイスがミックスの”ヴェルデ・シエロ”であることを、大統領警護隊は承知していると言う意味だ。つまり、サイスが不審な死を遂げれば、お前を真っ先に疑うぞ、と言う警告だった。
 女が独り言のように言った。

「あの”出来損ない”の隊員が報告したのね。」
「あの”出来損ない”の隊員は、貴女より能力が強く、優秀ですよ。エル・ジャガー・ネグロですからね。」

 女が息を呑んだ。黒いジャガーは、グラダ族の男性だけが使えるナワルだ。グラダ族はどの部族よりも強く、使える能力の種類も多い。サスコシ族がまともに戦って勝てる相手でないことを、女は知っていた。

「そんなに強いヤツに見えなかった・・・」

 おやおや、と少佐は心の中で呟いた。カルロも見くびられたものだ。

「彼は気を上手く抑制しているだけです。純血種並みに。貴女が能力の使い方に自信があるなら、”出来損ない”の弟を上手に指導してあげることです。」
「出来ません。」

 と女は俯いた。

「父の愛を奪った男を弟と認めることも、指導することも、私には出来ません。」
「それなら、ロレンシオのことは忘れるのです。血族と思わなければ、彼が存在していても気にならないでしょう。」

 彼女が涙を流すのを少佐は感じた。この女は、ロレンシオ・サイスを愛してしまったのだ、と少佐は気がついた。弟としてではなく、男性として。

「夜が明けたら、出頭なさい。」

と少佐は言った。

「今日の日暮れ迄に出頭しなければ、”砂の民”が貴女を追いますよ。麻薬組織に近づこうとした、それだけで彼等は貴女を不穏分子と見做します。」



2021/11/02

第3部 狩る  12

  一方通行の道路が交互に東西に伸びているマカレオ通りから東サン・ペドロ通りを通り、西サン・ペドロ通りの筋を北上して、ケツァル少佐は自宅の高級アパートの駐車場に車を入れた。厳重なセキュリティーのドアを2か所通り、エレベーターで自室があるフロア迄上がった。自宅に入ると、彼女はバッグをソファの上に投げ出し、バルコニーに出た。高台の一等地だ。グラダ・シティの市街地が一望出来る。雨季が近いので商店街は消灯が乾季より早い。それに平日だから日付が変わる頃になるとポツポツと灯りが消えていくのが見えた。
 少佐は目を閉じて暫く風を感じていた。それから室内に戻ると、足首の拳銃とは別に肩から吊るすホルダーを装着した。こちらの拳銃は標準サイズで大きめだ。弾倉に弾が込められていることを確認して、彼女は携帯電話以外何も持たずに外へ出た。
 少佐は西サン・ペドロ通り第7筋を南下して、7丁目との交差点まで歩いた。学生用アパートが並んでいる通りだ。彼女は通りをゆっくりと歩き出した。ステファン大尉とデルガド少尉の報告にあった建物の前に立つと3階の窓を見上げた。どの部屋も照明は消えている。グラダ大学だけでなく、どの学校も今は期末試験の期間で試験で実力を出し切った学生達は疲れて眠っているのだ。
 通りを走って来た車が遠ざかる迄待って、少佐はそのアパートの中に入った。階段の壁に微かに血の臭いが残っていた。撃たれた傷の傷口は塞がったかも知れないが、アスルが撃った弾丸がもし体内に残っていれば、サスコシ族の能力では自力で弾丸を体外に出せない。女は手術を必要とした筈だ。自分で摘出出来るか、それとも誰かにやらせるか? 女は先週の土曜日迄、つまり5日前迄このアパートに住んでいた。土曜日の午後にテオとステファンに住まいを突き止められて逃げたが、火曜日に撃たれていきなり傷の手当てをする場所を確保出来たと思えなかった。隠れるなら、ここだ。
 3階まで上がって、少佐はBのドアの前に立った。血痕はそこで終わっていた。少佐はドアに耳を当てて中の気配を伺った。2人いる、と彼女の本能が告げた。1人はオルトのルームメイトだろう。ここで踏み込んでオルトを捕まえるのは難しい。ルームメイトの女性は”ティエラ”の筈だ。人質に取られる恐れがある。一番簡単なのは、中に踏み込むと同時に気を爆発させてオルトを叩きのめす方法だ。しかし、それでは他の部屋の住民に損害を与える。ルームメイトにも怪我をさせる恐れがある。何よりもオルトを審判にかける前に死なせてしまう。
 少佐はドアノブに手を翳した。鍵が開いた。カチッと言う音がして、彼女は暫く動きを止めた。部屋の中は静かだ。中の人間は眠っている。しかし銃創を負った人が熟睡出来るだろうか。ケツァル少佐は撃たれた経験があった。右胸を撃たれた。すぐに軍医による手術を受けたが、その夜は傷が疼いてよく眠れなかった。”ヴェルデ・シエロ”は傷を負うと眠って治癒を促す。それでも体にメスを入れられると、自然の治癒より早くなる分痛みが酷くなる。
 オルトは今動ける状態なのだろうか。
 少佐はドアを静かに開いた。入ってすぐに狭いキッチンとバスルームがあり、奥に狭いリビングルームがあった。寝室は左右にドアが一つずつ。彼女はキッチンのシンクの縁に懸かっていた布巾を取り、ドアの下にストッパーの代わりに挟んだ。音を立てずにドアを閉め、最後に布巾を抜き取って施錠した。その動作の後、再び静かに動きを止めて様子を伺った。5分も待ってから中へ移動した。バスルームの前を通った時、血の臭いを嗅いだ。傷の手当てをした痕跡だ。少佐はリビングの中央に立った。左右のドアを見比べた。
 右のドア・・・彼女は当たりをつけた。低い声で呼びかけた。

「サスコシのビアンカ・オルト、話がある。私は大統領警護隊シータ・ケツァル・ミゲールだ。」



第3部 狩る  11

  ケツァル少佐はマカレオ通りの「筋」を南下し、途中で歩いている軍服姿の3人の若者を発見した。車を近づけて減速すると、向こうも気がついて立ち止まった。彼女が窓を開けると、3人は敬礼した。

「少佐、今お帰りですか?」
「スィ。」

 少佐が目を見たので、ロホは”心話”で報告を行った。少佐が頷いた。

「アスルが使う”入り口”の近くにあなた方は出た訳ですね。」
「恐らくミーヤ遺跡とこの近辺の”空間通路”が繋がりやすくなっているのでしょう。新月が来ればまた変化すると思いますが。アスルが撃った女はグラダ・シティに逃げ帰ったものと思われます。残念ながら、既に24時間以上経っていますから、こちらへ来てから女の匂いも痕跡も発見しておりません。」

 それを聞いてケツァル少佐は考え込んだ。それからふと顔を上げて、ロホに言った。

「これからあなたのアパートに3人は行くのですね?」

 え? とデネロスが驚いた表情をした。

「追跡はもう終了ですか?」
「南部にいれば追跡続行ですが、あなた方はここへ帰って来ました。街中でアサルトライフルをぶっ放す訳にいかないでしょう。今夜はこれで撤収して休みなさい。明日は2時間の繰り下げ出勤を認めます。」

 デネロスはまだ何か言いたそうだったが、ロホとギャラガが敬礼して承知を示したので、彼女も敬礼した。そして、少佐は「おやすみ」と言って、3人を残して走り去った。
 ロホは2人の部下を見た。

「少佐の命令だ。今夜は私のアパートで休んで、明日はオフィスに出勤だぞ。」

 デネロスは背中のリュックに着替えを入れておいて良かった、と思った。靴は泥だらけの軍靴のままだったが。
 歩き出してから、ロホがギャラガに囁いた。

「少佐は何処から帰るところだったと思う?」
「サイスの家からですか?」
「サイスの家はあっちの方角だ。」

 ロホはベンツが来た方角と反対の方を指した。

「ええっと、それじゃ、今僕達が向かっている方向から来られたと言うことは・・・」
「ドクトルの家からだろう。」

 ギャラガはコメントを避けた。そして心の中で、ステファン大尉がまたヤキモチを焼くだろうな、と思った。


第3部 狩る  10

  テオの家の来客用駐車スペースでケツァル少佐はベンツを駐めて運転席の背もたれに体を預け目を閉じていた。助手席ではテオが同様のポーズでやはり目を閉じていた。先に寝落ちしたのは彼だ。走行中に寝てしまった。自宅前に到着して、少佐が声をかけても目覚めなかった。だから彼女は彼が目を覚ます迄寝ているのだ。空にはようやく下弦の月が出て来たところだった。
 東側の通り2本南あたりで犬が突然激しく吠え始めた。犬の興奮がゆっくりと拡散する前に、少佐は背もたれから体を起こした。耳を澄まし、犬が恐怖に駆られていることを感じ取った。彼女は体を捻ってテオにキスをした。

「起きて下さい。」

 テオは寝入ったばかりだ。すぐに目覚めなかった。彼女は彼の頬を叩いた。

「起きて、テオ!」

 彼がうーんと声を上げかけた。少佐は躊躇わずに頬を平手で殴った。

「さっさと起きる!」

 テオが目を開けた。何? と呟いたので、彼女は言った。

「車から降りて家で寝なさい。」

 テオは外を見て、自宅だと気がついた。

「ごめん、寝てしまった・・・」

 彼はドアを開けた。そして犬の吠え声に気がついた。彼がまだ車内にいるにも関わらず、少佐が車のエンジンをかけた。彼は降りずにドアを閉めた。

「犬の所へ行くのか?」
「通ってみるだけです。降りないの? 今夜はもう送りませんよ。」

 テオは渋々外へ出た。
 ドアが閉まるや否や少佐のベンツは走り去った。ガソリンスタンドの方向だ、と気がついたのは、家の中に入った後だった。アスルが”入り口”があると言っていた付近だ。”入り口”があれば近くに”出口”もある。誰かが出て来たのか?
 行くべきだろうか? しかし、いつまでも相手はそこに留まっていないだろう。
 彼は寝室に入った。そしてベッドの上に体を投げ出すと、目を閉じた。


第3部 狩る  9

  暗闇は”ヴェルデ・シエロ”にとって色彩がないだけで見えない世界などではない。戦闘服に身を包んだロホ、ギャラガ、そしてデネロスはアサルトライフルをいつでも撃てる体勢で森の中を歩いていた。木の葉に付着している血痕が白く光って見えた。
 国境検問所の近くにある”出口”から出た時、電話連絡を受けていたアスルが出迎えた。ロホが2人の後輩少尉を連れていたので、彼は「狩の練習か?」と尋ねた。ロホは真面目に「スィ」と答えた。アスルが出迎えたのは、同僚達が”出口”から出て来るところを無関係な”ティエラ”に目撃されない為の用心だった。”出口”から出る時、外の世界がどんな様子なのか”通路”にいる人間にはわからない。敵が待ち構えて襲って来る可能性は十分あるのだ。
 アスルはこの夜の追跡に加わらなかった。彼には彼の任務がある。遺跡発掘隊が完全に撤収する迄警護と監視をするのだ。セルバ共和国での考古学調査は発掘許可をもらうのが大変難しいが、一度認可されると帰国する迄しっかり守ってもらえる、それが諸外国の研究機関に人気がある理由だ。アスルはミーヤ遺跡の発掘隊を守る仕事をしている最中だ。だからロホは、女を撃った本人に女の捜索を手伝えと言わなかった。

「あの女は俺が声をかけたら、家長や族長を通せと、俺のマナー違反を咎めやがった。俺が守っている土地に無断で入り込む方がマナー違反だろうが!」

 アスルがぼやくのを年長のロホは聞き流し、「こちら側」で女を捕まえたら引き渡しを要求するか、と尋ねた。アスルはちょっと考えた。

「麻薬密売組織と関係があるのなら、憲兵隊に引き渡すのが筋だが、”シエロ”ならそうはいかないだろう。本部へ連行してくれないか。」
「承知した。」

 少尉のアスルが中尉のロホにタメ口で仕事の話をするのを、もし本隊の隊員達が耳にすればアスルを咎めるだろうが、文化保護担当部では誰も気にしない。ロホとアスルは兄弟同然の仲だ。そしてサッカーチームのライバル同士だ。ギャラガにはアスルはちょっと怖い先輩だが、気後れせずに言葉を挟んだ。

「捕まえたら必ず連絡を入れます。」

 アスルはチラッと彼を見て、ぶっきらぼうに言った。

「電話が通じる場所だったらな。後日報告で構わない。」

 それで、ロホ、ギャラガ、デネロスは3人で真夜中のジャングルを歩いていた。気を放出すれば虫や蛇を防げるが、逃亡者にこちらの存在を教えてしまう。いるのかいないのかわからない逃亡者に気取られぬよう、彼等は気を抑制して歩いていた。ジャングルに慣れていないデネロスは虫が煩わしいのだが、これしきのことで音を上げたりすれば次の派遣は砂漠ばかりになってしまうので我慢していた。都会育ちのギャラガにしても本格的な深夜の森の中での捜索は初めてだ。何処かで物音がする度に、ギクリとしてそちらへ銃口を向けるので、ロホに「落ち着け」と叱られた。
 1時間ほど歩いた頃、風が生臭い臭いを運んで来た。ジャガーに変身して嗅げば「美味しそうな匂い」だが、人間の鼻だと「不快極まる臭い」だ。ギャラガが真っ先に断じた。

「何かがこの先で死んでいます。」

 ロホは頷いた。静かに近づいて行くと獣の唸り声が聞こえた。イヌ科の動物の声だ。薮から出ると、そこに凄惨なシーンがあった。
 地面に無残に引き裂かれたコヨーテの死骸が転がっていた。別のコヨーテが5頭でそれを貪っていたのだが、死んだコヨーテも1頭ではなく2頭だった。コヨーテがコヨーテを襲うとは思えない。
 ロホはその場に出て行き、ジャガーの気を放った。コヨーテ達が恐れをなして逃げ去った。ギャラガが死骸のそばに行くと、ロホはしゃがみ込んで死骸の検分をしていた。

「食い荒らされているから断言は出来ないが、このコヨーテは骨を砕かれて死んだ。」

 首の辺りを銃の先で指して、彼は言った。

「銃や刃物ではなく?」
「一撃だ。だが撲殺ではない。」

 もう1頭の死骸も検めて、ロホは立ち上がった。

「こっちは背骨を砕かれている。」

 ギャラガはそんな方法でコヨーテを殺した犯人に当たりがついた。

「”シエロ”の仕業ですね。」
「スィ。」

 ロホはデネロスの姿が見えないことに気がついた。一瞬焦ったが、すぐに彼女が薮から姿を現したので安堵した。

「私達が追跡していた血痕がここまで続いていました。」

とデネロスは、男達が死臭を嗅ぎ取ってから観察し忘れたことを指摘した。

「きっと血の臭いを嗅いでコヨーテが女を襲ったのだと思います。彼女が返り討ちにしたのでしょう。」

 ギャラガは死骸を眺めた。

「腐敗の進行状況から判断して、24時間以上経っていると思います。」
「まるで検視官ね。」

 ロホが周囲を見回した。そして自分達が来た道筋から90度左へ曲がった方角を指した。

「向こうに血痕がある。」


第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...