2021/11/18

第4部 嵐の後で     1

  ハリケーンが近づいていた。今年で4つ目のハリケーンだ。先の3つは東へ行ってくれたのでセルバ共和国に被害をもたらさなかったが、今回は来なくても良いのに西へ迂回してやって来る。グラダ・シティは商店街も官公庁も商社も教育機関も全て閉じられ、公共交通機関も運休となった。
 テオはハリケーンが上陸する前に急いで大学の研究室へ行き、窓の戸締りを確認した。万が一窓ガラスが割れた時の用心に濡れて困る物は全部窓から遠ざけた。作業は2時間ばかりかかった。平時なら学生に手伝わせるが、外出に危険を伴う天候だ。学生達に出て来いと言えなかった。学舎ではいくつかの部屋で職員達が対策を講じているらしく、照明が点いていた。もしかすると自宅より学舎の方が安全だと考えて泊まり込んでいる人もいるのかも知れない。
 テオは強風と叩きつけるような雨の中を走って駐車場へ辿り着き、運転席に飛び込んだ。すっかり衣服がびしょ濡れになった。レインコートも役に立たない。
 テオの自宅は古い住宅だ。風に吹き飛ばされるのではないかと心配したが、隣人達は意外に呑気だった。

「マリア様と”ヴェルデ・シエロ”が守ってくるよ。」

とキリスト教の聖母と古代の神様の名前を言った。
 実際、気象の歴史を見ると、セルバ共和国は毎年ハリケーンの被害を受けているが、近隣諸国に比べると軽度で済んでいる。洪水に悩まされることも、高潮の被害を受けることも、強風で家屋が飛ばされることも、土砂崩れで集落が飲み込まれることもなかった。風で物が飛んできて当たって怪我をしたとか、増水した川に落ちて流されたとか、そう言う人間の不注意と自然の猛威がぶつかり合った結果の損害は多かったが、所謂国土が暴風雨の被害を受けたと言う記録はないのだ。
 テオは車を駐車場から出した。がらんとした幹線道路を低速で走った。スピードを出すと風に煽られて車が転覆しそうだ。洪水とはいかないまでも路面は冠水している。水飛沫を上げながら彼は車を進めた。
 中央バスターミナルに差し掛かると、バス停に人影が見えた。こんな天候でバスが運行している筈がない。だがその人は強風で破れそうなテント張りのバス停で立っていた。男性だ。ほっそりした、若い・・・
 見覚えがある様な気がして、テオは車を近づけた。向こうも近づくヘッドライトに気がついてこちらを見た。雨の中で見えづらかったが、テオは知り合いだと認識した。だからターミナルの中に入り、バス停の前に車を停めた。窓を開けると忽ち雨が降り込みかけた。

「エミリオ、エミリオじゃないか!」

 大声で怒鳴ったのは、風で声をかき消されそうになったからだ。男が近づいてきた。車内を覗き込み、精悍な顎の細い顔に笑みを浮かべた。

「ドクトル・アルスト、こんな天気にどこへお出かけです?」
「それはこっちの台詞だ。バスは運休しているぞ。兎に角、車の中に入れ!」

 一瞬雨風が止んだ。否、テオの車の周囲だけ、エミリオ・デルガド少尉が風雨を追い払ったのだ。そして、助手席のドアが開き、デルガドが入ってきた。彼がドアを閉め、窓を閉じると、忽ち車は暴風雨に襲われた。

「ハリケーンの最中に、バス停で何をしているんだ?」

 すると若い少尉が頭を掻いた。

「正直に報告しますと、バスに乗り遅れました。」
「乗り遅れた?」
「任務と休暇を兼ねて、プンタ・マナへ帰ろうとしたのですが・・・」

と言いかけて、彼はテオを見た。

「ドクトルはどちらへ?」
「家に帰るんだよ。君をうちに連れて帰って良いかな? プンタ・マナ迄は無理だから。」
「どうぞ・・・助かります。」

 あれほどの悪天候の中にいたにも関わらず、エミリオ・デルガドは濡れていなかった。軍服もリュックサックも靴も乾いていた。

「任務と休暇って?」

 と尋ねてから、テオは別のことを思い出して、デルガドを見た。

「もう怪我は治ったんだね? 体調は良いのかい?」
「グラシャス、すっかり治りました。」

 デルガドは前を向いて、ヘッドライトに照らされていない前方を見通そうとしていた。

「角に看板が落ちています。気をつけて。」
「グラシャス。」

 結局、世間話はお預けにして、テオはデルガドの助けを借りながら自宅まで運転した。一度などは、道路脇の木の枝が折れてフロントガラス目掛けて飛んできたが、デルガドが気で弾き飛ばしてくれた。
 普段なら10分ほどで帰れる道のりを、彼等は30分かけてテオの自宅に辿り着いたのだった。


2021/11/14

第3部 終楽章  13

  ケツァル少佐は暫く考え込んだ。そして、彼女なりの見解を引き出した。

「ビアンカ・オルトは私達が知らない間に、既に長老会で問題になっていたのではないですか? ムリリョ博士は誰か配下の人に彼女の追跡を命じられたのでしょう。でも、その命じられた人はケサダ教授ではない。命令を受けた”砂の民”はオルトを探して、彼女がグラダ大学で貴方と接触したことを掴み、博士に報告した。大学は博士にとって大事な職場であり、学生達は博士が守っている大事な国民です。それに・・・」

 少佐はチラリとステファンを見たが、言葉に出さなかった。

 博士の大事な女性の息子である貴方に、逸れピューマが接触したことは許し難い屈辱だったでしょう。

「博士はその時点ではまだオルトの処分を決めかねていたのかも知れません。女のピューマは非常に稀ですからね。ケサダ教授は四六時中大学を守っている訳にいきませんから、博士の叱責に戸惑われたことでしょう。ですから、貴方がテオに連れられて再び大学に現れた時、教授は貴方からオルトの情報を盗んだのです。どんな人物を相手にしているのか、知りたかったに違いありません。
 一方、オルトは”砂の民”が彼女を追いかけているのではなく、サイスのジャガーを探していると思い込みました。」
「私がそんなことを彼女に言ったからですね?」
「そうですね、彼女は貴方に嘘をつきましたが、反対に貴方の間違った情報で彼女自身も振り回されたのかも知れません。彼女はサイスを狙うのを先延ばしして、麻薬運搬の方を優先させようとアンティオワカへ行き、アスルと遭遇したのです。アスルに撃たれて、グラダ・シティのアパートに戻り、傷が癒えるのを待つつもりでいたところへ、私と貴方が迫ったので、彼女は逃亡しようとした。デルガド少尉は災難でした。彼女にもう少し理性があれば、彼は怪我をせずに済み、彼女もまだ生きていたでしょう。少なくとも・・・」

 彼女は小さな声で囁いた。

「生きながらワニの池に放り込まれる迄は。」
「ワニぐらい倒せますよ。」

 イキがって言う弟に、彼女は顔を顰めて見せた。

「ナワルを使って、でしょ!」

 そして、少しだけ悲しそうに付け加えた。

「異種族の血が入っていても弟は可愛いのに、あの女はそれを知らずに死にました。」

 弟・・・ステファンが心の中でその言葉を呟いた時、シータ! とケツァル少佐を呼ぶ女性の声が聞こえた。少佐が立ち上がった。
 上等のスーツを着こなした中年のスペイン女性が足速に近づいて来るのが見えた。

「ごめんなさい、待たせちゃったわね!」

 カルロ・ステファンも立ち上がった。ここは退散した方が良さそうだ、と判断した彼が立ち去ろうとすると、少佐が養母を見つめたまま、彼の手を掴んだ。驚いた彼が足を止めると、そこへマリア・アルダ・ミゲールがやって来た。彼女は目敏く娘がハンサムなメスティーソの若い男と手を繋いでいるのを見つけた。

「シータ、その人はどなた? ボーイフレンド?」

 何故だかもの凄い期待感で、セニョーラ・ミゲールがステファンを見つめたので、彼は赤くなった。ケツァル少佐が「ノ」と強く否定した。

「ママ、紹介するわ。この前、話したでしょう? 私の弟のカルロよ。」


 

 

第3部 終楽章  12

  グラダ・シティ最大のショッピングモールは、地方から出てきた人間には迷宮の様に思える。大勢の人間、煌びやかな装飾、豪華な建物、多種多様な商品、店舗・・・。
 カルロ・ステファンは吹き抜けのある噴水広場で、ベンチに座っているケツァル少佐を見つけた。見たところ彼女は1人の様だ。私服姿で携帯の画面を眺めている様子に見えたが、恐らくフリだけだ、と彼は思った。彼女はこんな賑やかな場所でぼんやり時間を過ごす人ではないのだ。
 ブエノス・タルデス、と声をかけると、彼女は振り返り、ニコッと笑って返事をしてくれた。そして目で隣を示したので、彼は遠慮なく腰を下ろした。

「貴方がここにいるなんて、珍しいですね。」

と彼女の方が先に言った。ステファンは肩をすくめた。

「休暇を与えられたので、実家に帰っているのです。今日で2日目です。」
「でも、貴方が暇を潰す場所とは思えませんが?」
「今日は母と妹の荷物持ちです。女達が買い物をしている間、ここで待機を命じられました。」

 軍隊的な物言いに、少佐が笑った。カルロ・ステファンは15歳でセルバ共和国陸軍に入隊してから大統領警護隊に引き抜かれ今日迄、休暇を与えられても実家に帰ったことがなかった。自分で何かしら言い訳を作り、どこかで時間を潰していたのだ。しかし、母親と妹を故郷のオルガ・グランデからグラダ・シティに呼び寄せたのは彼自身だ。ちゃんと彼女達の相手をしてやれと、ケツァル少佐からもテオドール・アルストからも、ロホやアスルからもせっつかれ、その上大学の恩師ファルゴ・デ・ムリリョや副司令官トーコ中佐からも煩く言われたので、今回初めて休暇を実家で過ごすことにしたのだ。だが、今ショッピングモールで何をして良いのかわからず、ベンチで座っているだけだ。少佐に出会えたのがもっけの幸いと言った風で、少佐は少し呆れていた。

「待機ですか・・・何時から?」
「今、彼女達と別れたところです。」
「では、2、3時間はかかりますよ。」

 恐らく、カタリナ・ステファンも立派な大人になった息子をショッピングに連れ出したものの、どう扱って良いのかわからないのだ。
 ステファンは己のことばかり話題にされるのも癪なので、少佐に質問した。

「貴女こそ、ここで何をなさっておられるのです?」
「私も待機です。」

 少佐がけろりとして答えた。

「母が新しい店を出すので、今建築家と打ち合わせ中です。北ウィングに空きスペースができたので、そこを改装して宝飾店にします。セキュリティやら内装やらで打ち合わせが長引きそうです。」
「それで、ただ座っておられるのですか?」
「通行人を見ています。何人の”シエロ”が通るか数えていました。貴方が邪魔したので、6人目でわからなくなりましたけど。」
「それは失礼しました。」

 これだけ人間が通っていて、たったの6人か、とステファンは思った。多分、少佐が数えたのはメスティーソが殆どだ。それも”心話”しか出来ない「ほぼ”ティエラ”」の”シエロ”だろう。
 2人で3分ほど黙って人通りを眺めていた。
 不意に、少佐が呟いた。

「あのサスコシの女のことですけど・・・」

 ステファンは無視しようかと思ったが、思い直した。

「オルトですか?」
「スィ。彼女は本当に弟を殺すつもりだったのでしょうか。」
「わかりません。」

 彼は正直に言った。

「ただ、逮捕したバンドリーダーの証言によれば、サイスが変身したドラッグパーティーを提案したのは、彼女だったそうです。バンドリーダーは隠れ蓑に使っているサイスやバンドのメンバーをドラッグで潰したくなかった。だから、ちょっと騒ぐ程度で止めさせるつもりだったのですが、オルトが濃度の高いドラッグを連中に飲ませた。だから彼等は意識を失ってサイスが変身するところを見ていません。オルトは麻薬密売組織に雇われていた運び屋です。仲間のバンドリーダーやマネージャーのマグダスを危険な目に遭わせてでも、あの時にあのパーティーを行わなければならない理由があったのでしょう。」
「サイスの能力を目覚めさせることですか?」
「スィ。しかし、彼女は純血至上主義者です。サイスを家族として歓迎したとは到底思えません。彼女は死ぬ間際迄、私を”出来損ない”と蔑んでいました。そして純血種でも力の弱いグワマナ族を侮っていました。ですから・・・」

 ステファンは少し躊躇ってから、打ち明けた。

「昨日、実家に帰る前に、グラダ大学に立ち寄って、ケサダ教授に意見を伺ってみました。」
「任務のことを話したのですか?」
「規律違反であることは承知しています。しかし教授は勝手に私の心を盗みましたからね、全てご存じでした。」
「教授にどんなことを訊いたのです?」

 少佐が興味を抱いて彼を見た。ステファンは溜め息をついた。

「聞けば胸が悪くなりますよ。」
「言いなさい。」
「オルトはサイスを変身させ、彼が街へ飛び出すのを止めなかった。止めようとしたと証言したのは嘘で、故意に外へ出したのだ、と教授は見解を語られました。ドラッグで理性を失ったジャガーのサイスが、警察に撃ち殺されるのを期待したのだろう、と。」

 ケツァル少佐が顔を前へ向けた。片手で口元を抑え、気分が悪い、と言うジェスチャーをした。勿論、ケサダ教授が考えた内容に対しての感情だ。
 ステファンは暫く黙った。少佐が口を開くのを待っていた。
 やがて、少佐が囁いた。

「オルトは”砂の民”ではなかった・・・”砂の民”なら、そんな方法は使いません。ジャガーは死んだら人間に戻ります。」
「スィ。教授もそう仰いました。オルトはピューマでしたが、他のピューマから受け容れられていなかったのです。彼女の思想はあまりに過激で、却って危険だったのです。教授はムリリョ博士から、逸れピューマを大学に入れたと叱責を受けられたそうです。」

 少佐が振り向いたので、ステファンは補足した。

「オルトがオルティスと名乗って、大学へ来て私に嘘の証言をした時のことです。」
「博士はその当時大学内にいらっしゃらなかったのでしょう?」
「私は存じませんが、きっとお2人の恩師達の間で彼女が大学に侵入したことが問題になったのでしょう。」


 

 


2021/11/10

第3部 終楽章  11

  雨季休暇が始まった。テオは次期も准教授として大学で勤務出来る確約を取り付け、やっと一安心出来る状態になってエル・ティティに「里帰り」した。9月迄はゴンザレスの家で代書屋をするのだ。グラダ・シティの家と車は休暇中の3ヶ月間アスルが使用する。その間は家の管理人として給料を払う代わりに家賃を免除、車もガソリン代をアスルが払うので使用料免除、と言う契約で話がまとまった。留守中にアスルが友達を招こうが、誰かを車に乗せようが、アスルの自由にさせる。もしかすると文化保護担当部の溜まり場になってしまうかも知れないが。
 平和な日々の間に、テオは買い物ついでにアスクラカンの町へ何度か行ってみた。ロレンシオ・サイスはシプリアーノ・アラゴの敷地内の、空き家になっていた小さな家に住んでいて、昼間はアラゴやタムードの畑を手伝い、夜は近所の裕福な家にピアノの家庭教師として雇われると言う生活を楽しんでいた。田舎町では彼の名声もそれほど浸透していなくて、北米から来たピアノの先生、と言う住民の認識だった。畑仕事の間にアラゴとタムードが彼に気の抑制の仕方や”心話”を教えていた。彼が”心話”以外の力の使用を望んでいないと知ると、アラゴは我慢を教えるだけで済むと言って笑ったそうだ。
 ビアンカ・オルトの遺体は実家に戻された。大統領警護隊が十分に検分したあとだ。サイスのマネージャー、ロバート(ボブ)・マグダスとバンドのリーダーは麻薬をセルバから北米へ密輸する仕事を請け負っていた。他のメンバーとサイスは隠れ蓑に使われていたのだ。オルトはアンティオワカとバンドの間の麻薬の運搬を担当していた。”ティエラ”のマグダスとリーダーには明かしていなかったが、彼女は空間通路を用いて麻薬を運んでいたので、警察にも憲兵隊にも見つからずに仕事が出来たのだろう、と警護隊は考えている。
   彼女がサイスに麻薬を与えたのは、本当にただパーティーでの遊びだったようだ。彼女は能力を使えない異母弟を軽蔑していたので、彼がジャガーに変身して、慌てた。大統領警護隊がすぐに捜査を始めたと知ると大学迄ステファンを尾行して嘘の情報を与えた。結果的に疑われる逆効果を与えてしまったのだが。
   彼女がデルガド少尉を襲った真意は不明だ。ステファンの背後で気配を消していたデルガドは、ステファンが彼女の前に移動したことで彼女に存在を察知された。2人の隊員に挟まれたオルトは逃げられないと悟るべきだった。しかし、グワマナ族のデルガド少尉の力が、グラダ族のステファンの力より弱いことは歴然としていた。オルトは敏感に少尉の力がサスコシ族より弱いと察知し、恐らく「”出来損ない”の大尉の部下も”出来損ない”に違いない」と誤判断したのだ。だから、デルガドを倒せば、逃げられると咄嗟に思ったのだろう。ステファンは倒された部下を見捨てはしない、と。時間を稼げる、と。しかしデルガドは弱いと言っても純血種だ。彼女の気の爆裂に辛うじて耐えた。肋骨3本の骨折で、胸を押し潰されるのを自分で防いだ。そしてステファンは部下を傷つける者に容赦しなかった。デルガドを守る為に彼は彼女を殺すことを選択した。

 オルトの実家は、娘の罪を長老と大統領警護隊司令部から告げられ、娘の遺体を部族の墓所に入れることを拒否した。一族の恥晒しとして、一般の墓地に彼女を葬った。母親は家に閉じ籠り、娘の葬儀以来外に出て来ないと言う。彼女の家族は彼女を外に出さないよう見張っている。この純血至上主義者の家族は、サイスがアスクラカンにいることを知らされていない。サイスと言う名はロレンシオの母方の姓だし、サイスも父親の親族に会うつもりはなかった。ただ1回だけ、こっそりセルソ・タムードに付き添われて父親の墓に参った。
 
 のんびり休暇を過ごしているテオのところに、アンドレ・ギャラガ少尉が立ち寄ったのは7月の終わりだった。オルガ・グランデへ出張へ行く途中だと言った。

「みんなから、貴方がお元気か見てこいと言われまして・・・」

と言い訳したが、恐らく長距離バスの座席に疲れたのだ。出張は空軍に運んでもらうのが一番一般的なのだが、ギャラガは飛行機が嫌いなのだ。空間通路は使うなとケツァル少佐に言われているので、どうしてもバス使用となる。 
 テオは彼に一夜の宿を提供してやり、ゴンザレスが夜勤だったので2人でのんびり夕食を楽しんだ。

「俺はいつでも元気だよ。病気知らずだからね。」
「それを聞いて安心しました。」

 ギャラガは微笑んだ。

「お家の方も大丈夫ですよ、アスル先輩は掃除も得意ですから。」
「あいつ、きっと良い奥さんになるよ。」

 2人は大笑いした。それから、とギャラガはつけくわえた。

「早く戻って下さいね。貴方がいらっしゃらないと、少佐のご機嫌が悪いんですよ。」


2021/11/09

第3部 終楽章  10

「つまり、そのピアニストは・・・」

 エル・ティティ警察の署長アントニオ・ゴンザレスは、スパイシーに煮込んだ豆を蒸した米の上に載せて混ぜ合わせながら言った。

「普通の人間になる為に、神様の修行をしに行ったんだな?」
「神様の修行ではなくて、力を使わないようにする訓練だよ。」
「同じことだ。」

 テオも同じ料理を食べながら、2週間分の出来事を養父に説明していた。ゴンザレスはジャガー騒動には興味を示さなかったが、ミーヤ遺跡での偽チュパカブラ騒動は面白がって聞いていた。そしてジャガー騒動とチュパカブラ騒動が麻薬と言う単語で繋がっていたことを知ると、不愉快そうな顔をした。警察官なら当然の反応だった。 

「この国では麻薬関係の犯罪を犯すと、最短でも10年以上の懲役刑だ。国内で麻薬を売れば最悪死刑判決が出ることもある。お前達が関わったビアンカ・オルトと言う女性が本当に麻薬売買に関係していたのなら、ステファン大尉に殺されても彼女は文句を言えない。お前の話を聞く限りでは、彼女は実際に関わっていた様子だがな。問題は、ピアニストだ。そいつは本当に麻薬密売に関係していないのか? その嘘つきの女の弟だろう?」
「彼の護衛に当たった大統領警護隊の隊員達が交代で彼の家の中を捜索したけど、何も出てこなかったそうだ。」
「ピアニストは”シエロ”だろう?」
「警護隊も”シエロ”だよ。それに彼等は一族の人間が”ティエラ”のふりをしてもすぐに見破ってしまえる。」

 ゴンザレスはそれ以上”ヴェルデ・シエロ”の話題を続けることを避けた。セルバ人としての暗黙のルールだ。古代の神様の子孫達を噂のネタにしてはいけない。

「ピアニストは今、アスクラカンにいるんだな? 父親の純血至上主義者の親族に出会ったりしないのか?」
「彼の世話をしている人々がそんなことにならないよう、見張っているさ。」

 テオはふとあることに興味が湧いた。

「親父、アスクラカンのミゲール家って知ってるかい?」

 ゴンザレスがちょっと笑った。

「サンシエラ農園の所有者のミゲールのことか? 知らなかったからこの州ではモグリだな。」
「サンシエラ農園って、シエラ・コーヒーの? あれは東海岸の農園じゃなかった?」
「アスクラカンがあの農園の発祥の地だ。昔植民地時代にサンシエラと言うスペイン人がプランテーションを築いた。サンシエラは本国に奥方がいたが、セルバでも女をこしらえた。その女が”シエロ”の血を引く先住民だったそうだ。子供が何人か生まれて、スペイン人の主人は裕福な暮らしをしていたが、セルバが独立運動を始めると早々に本国へ逃げて行った。その時、彼は現地妻と子供達にミゲールと言うスペイン臭い名前と農園を与えたんだ。それであの家族は農園に始業者の名前サンシエラを付けて、残された農園を上手く経営し、莫大な財産を築いたって話だ。恐らく”シエロ”の血を引いているから、神様の加護があったんだろうって噂だよ。今、駐米大使をしているミゲールはサンシエラの曾孫だな。他にも手広く事業を展開している孫や曾孫達がいる。アスクラカンのガソリンスタンドの9割はサンシエラの系列だよ。スーペルメルカド(スーパーマーケット)だって、社長はサンシエラの孫だ。」

 そう言ってから、ふとゴンザレスはあることに気づいた。

「お前が付き合っている警護隊の少佐はミゲールだったな?」
「付き合ってると言えるかどうか・・・」

 テオは苦笑した。

「大事な親友だ。うん、彼女は駐米大使ミゲールの養女だ。」

 ゴンザレスが難しい顔をした。

「そんな金持ちの家の娘と付き合っているのか?」
「だから、付き合っているって程じゃ・・・」

 付き合っているのだろうか? テオは考えてしまった。ケツァル少佐は最近彼を名前で呼んでくれる。キスもしてくれるし、デートの誘いも彼からするより彼女からかけてくる方が多くなった。これは、交際していると言って良いのだろうか? 手を繋いで歩いたこともあるし・・・。

「あんな富豪の娘が、この家に嫁に来るとは思えんな。」

とゴンザレスが言った。だからテオは言った。

「それより以前に、彼女が誰かの妻になるって考えられないよ。彼女は家庭に入るタイプじゃないからね。」

 早く嫁に行け、とミゲール大使に言われた時の、ケツァル少佐の反発顔を思い出しながらテオは呟いた。


2021/11/08

第3部 終楽章  9

  金曜日の朝、グラダ大学の事務局が始業する頃合いを見計らってテオは電話をかけ、芸術学部のピアノ科のピアノ室を午後の2、3時間使用させてもらえないか、と尋ねてみた。生物学部の准教授がピアノにどんな用事があるのかと訊かれて、テオは「ここだけの話にしてくれないか」と断ってから、病気療養するピアニストが、静養地へ旅立つ前にピアノを弾いておきたいと言っている、テオが付き添って最終のオルガ・グランデ行きのバスに同乗するので、バスの時間迄の繋ぎだ、と説明した。事務員は、病気療養するピアニスト、と聞いて、何かピンとくるものがあった様だ。ピアノ科の教授と連絡を取るので、半時間待つように、と言って電話を切った。大学からの返事を待つ間、テオは己とサイスの旅行の準備をした。と言っても、サイスは自宅から逃げてきた時のままの鞄を持って行くだけだったが。先方へは大統領警護隊から既に話を通してあるので、手土産は不要だと言われていた。
 テオはビアンカ・オルトの死亡の知らせがアスクラカンに届いているのではないかと、ちょっと不安を感じたが、サイスには黙っていた。
 半時間経たないうちに大学から返事があり、ピアニストがピアノ室を使っても良い、と許可が出た。但し、と事務員が言った。

「混乱を避けるために、ピアニストには身元がわからないよう配慮してもらって下さい。」

 大学側は、ピアニストが誰なのか予想した様だ。果たして、昼過ぎにテオがサングラスと帽子とマスクで顔を隠したサイスを連れて大学に行くと、芸術学部が入った人文学の学舎の入り口にピアノ科の教授2名と学生10名が待ち構えており、学生達にピアノ演奏を聞かせて欲しいと言った。それでサイスがピアノ室を使う条件になるのだ。サイスは喜んで学生達と学舎の中へ消えていった。
 それから夕方迄テオは退屈な会議を切り抜け、なんとか定刻に解放された。芸術学部にサイスを迎えに行くと、彼は学生達に指導をしていた。弾きっぱなしでは疲れるだろうから、彼が自らインストラクターを務めていたのだ。
 大学当局に礼を言うと、ピアノ科の教授から、病気が治ったら大学でコンサートを開いて欲しいと言われ、サイスは笑顔で承諾した。
 テオの車は文化・教育省の、「いつも空いている」スペースに置いて、バスターミナルまではロホが送ってくれた。

「ロレンシオがこれから世話になる人はシプリアーノ・アラゴと言う人です。サスコシ族の族長です。リベラルな人ですが、族長ですから一応こちらからも礼儀を予習しておいた方が良いです。幸い、少佐の父君の遠縁の叔父さんにあたる人が、教えてくれます。アスクラカンのバスターミナルに迎えにきてくれるのは、その叔父さんの息子で、セルソ・タムードと言う人です。セルソはメスティーソで、気の良い男ですから、ロレンシオに必要なことを色々教えてくれる筈です。それから、もし困ったことがあれば・・・例えば、純血至上主義者に絡まれたりしたら、この名刺を見せて下さい。」

 ロホはケツァル少佐と彼自身の名刺をサイスに渡した。どちらも緑色の鳥の絵が描かれていた。サイスはそれを大切に胸ポケットに入れた。

「グラシャス、中尉。少佐とステファン大尉、それにデルガド少尉によろしくお伝え下さい。」

 サイスは握手しようと手を差し出して、ロホが純血の”ヴェルデ・シエロ”だと思い出した。しかしロホは優しく微笑んで彼の手を掴んだ。
 サイスが先にバスに乗り込むと、ロホはテオとも握手した。

「族長の家まで行ってやりたいけど・・・」

とテオは笑いながら言った。

「そこまで過保護にされると、彼も嫌だよね、きっと。」

 ロホは黙って笑っただけだった。
 そしてオルガ・グランデ行きのバスはターミナルをゆっくりと出て行った。


第3部 終楽章  8

  バルコニーに出ると、外気は湿気を帯びてムッとしていた。テオは空気が乾いているエル・ティティに逃げる季節だな、と思った。大学が夏季休暇(雨季休暇とも言う)に入ったら、エル・ティティに避難するつもりだった。エル・ティティでも雨季は雨が多いが、空気の湿度はグラダ・シティや東海岸地方ほどではない。
 フェンスにもたれてケツァル少佐が彼を見た。

「昨夜、私は貴方を家に送り届けた後で、オルトのアパートへ行きました。」
「カルロから聞いた。彼女とどんな話をしたんだい?」

 ロホはバルコニーに置かれた椅子に座って2人を眺めた。少佐がワインを一口飲んでから言った。

「大統領警護隊に出頭しなさいと言ったのです。彼女はアスルが撃った銃弾をまだ脇腹に抱えたままでした。麻薬密売組織が使っていた遺跡に近づこうとしたのですから、その理由を説明してもらわねばなりません。銃弾の摘出も必要でした。」
「彼女は出頭を承知したのか?」
「彼女の裁量に任せて私は帰りました。それ以降のことは関知しません。」

 次は貴方の番ですよ、と少佐の目が言っていた。テオは、ステファンから聞いた話だと前置きした。

「君が張った結界が消えたと知ったオルトは、裏の非常階段を使ってアパートから逃げようとしたらしい。それに気がついたカルロとエミリオが追いかけた。彼等が追いつきかけると、彼女は気の爆裂を放って来た。カルロは風が到達する前に押し返した。オルトは自分が放った気をくらって転び、立ち上がって逃げようとした。それでカルロは止まらなければ脚を砕くと警告した。オルトは立ち止まったそうだ。カルロとエミリオは彼女に近づいた。彼女の目を塞ぐためにカルロが彼女の前へ回った時、彼女がいきなり後ろのエミリオに体を向けた。咄嗟にカルロは彼女の首に一撃を与えたが、間に合わなかったんだ。」

 少佐もロホも反応しなかった。テオは彼等の冷静さに妙に感心しながら、続けた。

「オルトは即死だ。エミリオは肋骨を3本折られて倒れたが、幸い命は取り留めた。カルロは直ちに本部に連絡を取って救護を要請した。遊撃班の仲間がすぐに駆けつけてくれたみたいだ。」
「あの女は自分より力が弱いと踏んでグワマナ族のデルガドを攻撃したのですね。」

とロホが呟いた。

「麻薬の違法所持程度の罪なら処罰もそれほど厳しくない筈なのに、何故命の危険を冒して逃げようとしたのでしょう。気の爆裂を押し返された時点で彼女はカルロに勝てないと悟ったのです。彼に刃向かえば殺されることぐらいわかっていたでしょうに。」

 少佐はグラスの中の赤い液体を眺めていたが、視線をテオに戻した。

「麻薬の違法所持以上の罪を犯していたのではありませんか。」
「違法所持以上の罪?」

 テオが聞き返したので、彼女は言った。

「例えば、彼女自身が麻薬密売に関わっていた・・・」
「そう言えば・・・」

 とテオは考えた。

「彼女はサイスにドラッグを与えたのはバンド仲間の誰かだと言ったが、彼女自身だった可能性があるな。ミーヤ遺跡に彼女が現れたのも、麻薬を買うつもりだったと自分で言っていたんだろ?」

 すると少佐が種明かしをした。

「昨日の朝、アスルがグラダ・シティに中間報告のために戻ったことはご存じですね?」
「スィ。うちで朝飯作ってくれたから、知ってる。」
「彼の報告の内容は聞いていないでしょう?」
「任務の詳細を教えてくれるようなヤツじゃない。それに軍人がベラベラ喋るわけじゃないし。」
「彼の報告は、アンティオワカ遺跡を使っていた麻薬密売組織に関する憲兵隊の捜査状況でした。」

 セルバ共和国陸軍憲兵隊は、決してボンクラではない。彼等の多くは普通の人間”ティエラ”だが、共和国軍のエリート集団だ。仕事はしっかりやっていた。

「コロンビアから運ばれてきた麻薬やドラッグは、アンティオワカ遺跡に一旦隠され、そこからグラダ・シティに運ばれ、さらに別の運び屋の手で北米に流れていました。船での輸送路は先日の港で摘発しましたが、他にもルートがいくつかありました。その一つが、ジャズバンドです。」

え? とテオは驚いた。思わず室内にいるサイスの方を見た。ロレンシオ・サイスはデネロスとギャラガ相手にまだ歓談中だった。
 ロホが説明した。

「サイスは何も知らないと思います。彼はいくつかのバンドと契約して、その時々にセッションをするピアニストです。彼の楽器は常に現地にあります。ピアノを持ち歩くなんて出来ませんからね。しかし、管楽器やドラムは持ち運べます。ギターも持って行ける。そう言う楽器の中に麻薬を隠して運んでいたのです。」

 テオはショックだった。あの素敵な演奏をしていたバンドが、麻薬の運び屋?
 少佐が残念そうに言った。

「容疑が固まり次第、憲兵隊がバンドの家宅捜査に入ります。サイスは調べを免れます。彼の持ち物に何も隠されていないことを遊撃班が調べて確認しているからです。護衛の時にこっそり捜査していました。勿論、カルロも承知しています。彼の担当は街中に出没したジャガーでしたが、サイスがドラッグ使用が原因で変身したとわかって、麻薬密売に関係している可能性もあると疑っていたのです。だから、彼はオルトをどうしても逮捕したかった。アンティオワカとグラダ・シティの間の運び屋をやっていたのが、オルトだと見当をつけていたからです。」
「だけど、自供させる前に殺してしまった・・・」
「部下を守るために仕方がなかったのでしょう。でも任務として失敗です。」

 だからステファン大尉は鬱になっていたのか、とテオは漸く得心した。

「オルトは血の繋がりを全く無視してロレンシオに近づいたのかな?」
「興味はあったでしょうね。父親の愛情を奪った”出来損ない”の弟がどんな人物なのか、知りたかったのでしょう。でも彼女が麻薬密売に関係していたとするなら、マネージャーやバンドと取引をする目的もあった筈です。」
「あのマネージャーも一味か?」
「マネージャーを蚊帳の外に置いて麻薬を楽器に隠すのは難しいでしょう。」

 マネージャーがサイスの休業にあれほど執拗に反対したのは、麻薬の運送ルート確保の隠れ蓑を失うのを恐れたためだったのか。
 その時、ギャラガが席を立ってバルコニーに顔を出した。

「少佐、お話中すみません。そろそろ終バスの時間なので、デネロスと私は官舎へ帰ろうと思います。」
「私が送って行くよ。」

とロホが言うと、彼は笑って首を振った。

「中尉は飲んでおられるでしょ? バスで帰りますよ。」
「それじゃ、俺もロレンシオを連れて帰るかな・・・」

 テオは当初の目的を思い出した。

「少佐、明日のロレンシオの居場所なんだが・・・」

 少佐がちょっと考えてから、彼に尋ねた。

「明日の午後の大学は授業があるのですか?」
「ない。」
「音楽室は誰か使いますか?」
「教授会で進級に関して話し合う間は、学生は学舎に入れない。」
「ピアノ室は防音ですね?」

 テオはやっと少佐が言いたいことを理解した。

「そうか! ロレンシオに夕刻までそこでピアノを弾かせておけば良いんだな? 彼も練習は欠かしたくないだろうし、彼を2、3時間置くだけなら事務局も承諾してくれるだろう。」
「説得が難しければ、私も行きますよ。」

 と少佐が悪戯好きな顔で言った。


 

第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...