2021/12/11

第4部 忘れられた男     17

  エルネスト・ゲイルは突然堰を切ったかの様に彼自身の現状を喋り出した。テオは横目で隣のムンギア中尉のポケットに小型の録音機が入っているのを見た。携帯電話ではないが、外国製の高価な機器だ。
 ゲイルは最初にテオが国立遺伝病理学研究所を滅茶苦茶にして逃亡したことを責め立てた。そして、テオと一緒に逃げたセルバ人の男”怪盗コンドル”に対しても呪いの言葉を吐きたてた。アリアナの悪口も言った。超能力者を制圧出来なかったヒッコリー大佐の部隊の責任にも言及した。テオは彼の罵詈雑言を聞き流し、エルネストが疲れて喚き立てるトーンを落とした頃合いに尋ねた。

「ホープ将軍はお元気か?」
「将軍は死んだよ!」

 ゲイルは吐き捨てるように言った。

「何故だか知らんが、自分の部下達に蜂の巣みたいに撃たれて死んだ。」

 テオは、研究所から逃げ出す時、ホープ将軍とその部下達に立ち塞がれたことを思い出した。あの時、ケツァル少佐が将軍ではなく部下達に”操心”をかけた。「その男が少しでも足を動かしたり、あるいは一言でも言葉を発したら、即刻撃て!」と言う命令と共に。少佐は1時間で”操心”は解けると言ったが、将軍は立っていたから、疲れて動いてしまったに違いない。上官を射殺してしまった兵士達は気の毒だが、きっと何も記憶していないだろう。
 テオの質問の意味がわからないムンギア中尉がテオを見たが、テオは気がつかないふりをして、次の質問をした。

「ワイズマン博士は?」
「軍の精神病院に入っている。」

 少佐の”操心”にかけられて自ら研究所のデータを全て破壊してしまった科学者は、心も壊れてしまって修復不能になったのだ。
 テオはドブスンや他の科学者達のその後も気になったが、ここで質問を控えることにした。バスに乗り遅れたくなかった。

「研究所は閉鎖になったんだね?」
「当たり前だ。全てのコンピュータがワイズマンの手で狂わされてしまって、施設全体が使えなくなった。研究所は解散された。」
「それで、君は今何処に所属しているんだ。」

 エルネスト・ゲイルは、ある名前を口にした。ムンギア中尉がドアの横にあるもう一つの机の方を見た。そこにもう1人若い憲兵がいて、ラップトップでゲイルが口に出した単語を片っ端から検索して確認していたのだ。その憲兵が手を挙げて断言した。

「実在する民間企業です。養殖漁業を行なっており、カリブ海の水産資源を米国の近海で養殖して販売しています。尤も・・・」

 憲兵は画面を見て顔を顰めた。

「他国の領海に無許可で侵入して違法に資源を採取して訴えられた事例が過去10年間に4回もあります。」
「ビジネスだ。」

とゲイルがテオに言った。

「珍しい魚や貝の遺伝子を採取して、培養する。天然の海で採ったものじゃないから、水族館に売れるんだ。珍味を出すレストランにも卸せる。」
「つまり、違法操業、密漁で遺伝子採取をしていたってことか?」

とテオは言った。

「だから、国籍がバレないように装備から製造元がわからないよう細工していたのか?」

 ゲイルが肩をすくめた。

「誰も傷つけないんだ、スパイ行為でもない。海は広いし、魚はいっぱいいる。いいじゃないか!」

 テオはムンギア中尉を振り返って言った。

「こいつ、社会常識がないんです。」


第4部 忘れられた男     16

  テオは憲兵隊のグラダ・シティ南基地へ行った。手には衣類が入った鞄を下げていたが、これはエルネスト・ゲイルと再度の面会をした後、バスに乗ってエル・ティティに帰省するためだ。憲兵隊の要請だから面会するが、本心を言えば、エルネストには関わりたくなかった。病院で会った時、エルネストはテオの顔を見ても嬉しそうでなかった。今どうしているのか、何をして暮らしているのか、アリアナは何処にいるのか、何も彼は尋ねなかった。訊く必要がないのか、関心がないのか、どちらかだ。テオが彼を愛せないように、彼もテオやアリアナを愛していない。アリアナもセルバの友人達もエルネストに絶対に近づかせたくなかった。
 アウマダ大佐はエルネストを尋問した筈だが、テオが彼のオフィスに来ても結果を伝えなかった。恐らく、テオとエルネストの証言の食い違いを見つけたいのだろう。
 金曜日の午後だ。憲兵も日勤の隊員達は任務を終了して帰りたそうな顔をしていた。テオは若い隊員に殺風景な通路に並んでいるドアの一つ迄案内された。ドアの上にプレートが掲げられており、「S Iー3」と書かれていた。取調室3号室の意味だろう、とテオは思った。憲兵がドアをノックしてから開き、テオに入るよう合図した。テオは鞄を大佐の部屋に置いて来れば良かったと思いつつ、持ったまま中に入った。鞄はビルに入る時に持ち物検査を受けていたので、誰も文句を言わなかった。
 長方形の装飾のない事務机の窓側にムンギア中尉が座り、その対面にエルネストが疲れた顔で座っていた。テオが入ると、彼は嬉しそうな表情で迎えた。

「やっと来てくれたか!」

 テオは彼を無視してムンギア中尉に挨拶して、中尉の隣の椅子に座った。

「さて・・・」

とムンギア中尉が英語で言った。

「貴方の名前と生年月日、国籍を言って下さい。」
「エルネスト・ゲイル・・・」

 エルネストは氏名と生年月日は答えたが、国籍はちょっと言葉を濁した。テオが尋ねた。

「どうした? アメリカ合衆国から追い出されたか?」

 エルネストはムッとした表情になった。

「そうじゃない、パスポートを海に落としたんだ。セルバにU Sの大使館はあるんだろ? 連絡してくれないか?」

 彼等の会話が聞こえなかったふりをして、ムンギア中尉がもう一度尋ねた。

「貴方の国籍は?」

 エルネストは渋々答えた。

「アメリカ合衆国。」

 彼は生まれた州と町の名前も告げた。ムンギア中尉は前日にテオが病院で書いたエルネスト・ゲイルの概歴に目を通していた。
 エルネストがテオに言った。

「さっきも別の憲兵に同じことを訊かれたんだ。僕は犯罪者扱いか?」
「入管を通らずに入国したからね。」
「ハリケーンで遭難して、打ち上げられただけじゃないか!」
「静かに!」

 中尉が注意した。

「乗船が遭難したのですか?」
「そうだ。」
「船の名前は?」
「ハーマイオニー」

 テオはプッと吹き出した。

「ハリー・ポッターの登場人物じゃないか。」
「船の名前なんだ。ちゃんと船体に書いてあった。」
「それは客船ですか?」

 エルネストが返事を躊躇った。中尉が重ねて尋ねた。

「民間船ですか、それとも公的機関の船ですか?」

 エルネストは溜め息をついて、答えた。

「海洋調査船だ。」

 ムンギア中尉がテオの方へ顔を向けたので、テオはスペイン語で説明した。

「海に関する色々なことを調査する装備を備えた船です。国が所有している船が主ですが、民間企業が運営しているものもあります。調査内容は、海流、海産資源、海底資源、海底地質、等の自然を調査するものがあれば、沈没船の捜索や宝探し、海底に建設された施設の点検などもあります。この男は、遺伝子学者ですから、本当に海洋調査船に乗っていたのであれば、目的は海産資源調査です。ただ、昨日も言いましたが、彼は陸軍施設で育ったので・・・」
「海産資源の調査に携わる可能性は低い、と?」
「スィ。」

 ムンギア中尉が視線をエルネストに戻したので、エルネストは「何だよ?」と言いたげに見つめ返した。セルバ人のマナーとしては、喜ばれない。
 テオは机の上に体を傾けた。

「エルネスト、本当のことを言ってくれ。君は、今、何処でどんな仕事をしているんだ? まだあの研究所にいるのか?」

 

2021/12/10

第4部 忘れられた男     15

  ケツァル少佐はカタリナ・ステファンに断ってカルロの部屋へ行った。ドアに鍵が掛かっていたが、ノックすると直ぐに開けてもらえた。”ヴェルデ・シエロ”に鍵は何の意味もない。ブエノス・タルデス、と挨拶を交わして、カルロ・ステファンは異母姉を中に招き入れた。質素な部屋だ。住人が本部の官舎に住んでいるから、実家には殆ど物がない。家を購入した時に付いていた家具がそのままあるだけだ。衣類は床に置かれたリュックに収納されている。窓際の古い机の上に置かれたラップトップに密林の映像が映し出されていた。
 椅子が1脚しかなかったので、少佐はベッドの上に座った。そしてラップトップのスクリーンを顎で指した。

「オクタカスですか?」
「スィ。私にも派遣の話が電話で伝えられました。長老の護衛です。」
「私も同じです。一種の牽制でしょう。」
「牽制?」
「グラダ族の力がどんなに強くても、調子に乗るとこうなるぞ、と言う・・・」

ああ、とカルロは頷いた。

「私は司令部に入るつもりはありませんよ。」
「私もです。」
「指揮官より、捜査官の方が面白い。」

 カルロ・ステファンは机の前の椅子に座り、マウスを動かして密林の画像を動かした。

「この部分、2年前の事故の後、撤収時にフランス隊が厳重にシートをかけたのですが、3分の1ほど動かされています。慎重に元に戻したつもりでしょうが、微妙にズレています。盗掘があったことは確実です。」
「誰が撮影したのです?」
「オクタカス村の子供です。スマートフォンで撮影して、SNSにアップしていました。」
「子供が?」
「最近、村でも携帯電話が通じるようになったので、面白がって遺跡へ行って撮影大会をしたらしいのです。」

 少佐が思わず微笑んだので、彼も嬉しくなった。

「自宅で座っているだけで、情報が入って来る。先祖はこんな状態を想像もしなかったでしょう。」
「そうですね。」

 ケツァル少佐は弟を見た。

「今日は、ちょっと質問を持ってきました。」
「何です?」
「貴方のお祖父様の名前を教えて欲しいのです。考えたら、一度も聞いたことがありません。」

 ああ、とカルロも不意打ちを食らった表情で首を振った。

「そう言えば、そうですね。私も祖父とか祖父さんとしか呼んだことがなかった。祖父の名前は・・・」

 彼は遠い記憶を呼び起こそうとちょっと天井へ視線を向けた。

「エウリオ・・・エウリオ・メ・・・」

 彼は自分の記憶にギクリとして、少佐を見た。

「エウリオ・メナクでした。」

 少佐は彼程に驚いた様子ではなかった。

「僅か50人前後の小さな村でしたから、恐らくマナ、ケツァル、メナク、後一つぐらいしか家系がなかったのでしょうし、互いに妻の遣り取りをして全員が親族だった筈です。ニシト・メナクもシュカワラスキやウナガンと近い親族で、もしかすると異母兄弟姉妹だった可能性もあります。エウリオさんも誰かの兄か従兄弟だったのでしょう。」

 カルロがフーッと息を吐いて脱力した。

「私達はあまりにも血が濃すぎますね。貴女が私を夫に選ばないと言われた理由も理解出来ます。グラダ族の純血種は危険です。貴女は危険ではありませんが、我々の子孫がどうなるか、私には抑えきれないだろうし。」

 彼は姉を見て、片目を瞑った。

「でも、ハーフもまだ危ないですよ、例え半分白人だとしても。」
「何ですか、それは?」

 ケツァル少佐は笑ったが、少し頬を赤らめた。それから、直ぐに真面目な顔になった。

「私が気になるのは、エウリオさんと共に出稼ぎに出た残りのイェンテ・グラダ出身の男達のその後です。 彼等はまだ生存しているのか、或いは子孫を残しているのか。」

 カルロは考え、首を振った。

「祖父から何も聞いていません。長老会もそれを気にしているのかも知れませんね。 だから、我々の護衛が必要なのでは?」



2021/12/09

第4部 忘れられた男     14

  2ヶ月の休暇はとても長く感じられた。カルロ・ステファンは退屈で2週間も経たぬうちに本部へ戻ろうかと思ったのだが、同じ時期に大学の雨季休暇に入った妹のグラシエラが、教員免許を取るための特別授業の一環で、スラム街の子供達の教育を行う団体にボランティアとして参加したので、その送迎をする為に実家に残った。グラシエラは”心話”と夜目しか使えない”ヴェルデ・シエロ”だから、普通の人間”ティエラ”と殆ど変わりがない。だから兄貴としては、妹が不良どもに狙われないかと心配だった。さらに気掛かりだったのは、妹の大学の同級生達だ。数人の男子学生がグラシエラを迎えに来たり、送って来たりする。彼女は「ただの同級生だ」と言うが、兄の目から見れば、どれも飢えた狼だ。だから顔を合わせると睨みつけてやる。学生達の間ですぐに噂になった。

 グラシエラ・ステファンの兄ちゃんはおっかない!

 グラシエラには、兄が大統領警護隊の隊員だと周囲に言うなと申し渡してあるが、それでも立ち居振る舞いは軍人だし、軍服を着て街で活動している彼の姿を目撃したことがある学生もいたので、正体がバレるのも時間の問題だった。
 流石にグラシエラも、同級生に片っ端から睨みを効かせる兄貴の態度にいささかうんざりしてしまった。それで彼女は、つい、言ってはいけないことを兄に言ってしまった。

「シータに振られたからって、私の友達に当たることはないでしょ!」

 その話をカタリナ・ステファンから聞かされたケツァル少佐は笑いが止まらなくて困った。カタリナも笑いながら、この3日ほど互いに口を利かない息子と娘に手を焼いている、と愚痴った。彼女達はステファン家の小さな居間でコーヒーを飲みながら世間話をしていた。

「カルロが貴女を慕っていたことを、私は知っていました。でも貴女の心が彼にないこともわかっていました。」
「彼は私にとって大事な部下で、愛する弟です。そして心から信頼出来る仲間です。それ以上でもそれ以下でもありません。」
「グラシエラも貴女を慕っています。でも兄と姉が結ばれる部族の古い習慣には抵抗があることも事実です。だから、貴女が彼に引導を渡してくれた時に、彼女も私も内心安心したのです。だけど、カルロは、まだ未練がある様です。」
「軍隊にいると女性と接する機会が少ないのも事実ですから。焦らずに長い目で見てやって下さい。それにしても、グラシエラの一発は今のカルロにとって、きつかったですね。」
「傷口に塩を塗ったようなものですよ。」

 カタリナは家の奥をチラリと見た。グラシエラはボランティア活動の最終日でスラムに出かけていた。新学期が始まるので、彼女の活動は休止だ。カルロの方も週明けに本部へ戻る。戻ってしまえば、次に実家へ帰るのは何時になるかわからない。本部では、彼を指揮官候補生として教育しているのだ。彼の念願の、「ケツァル少佐と同じ階級に上がる」日が近づいている。しかし、その昇級の目的だった女性は、もう彼のものにならない、と彼女自身から告げたのだ。カタリナは息子が自棄を起こさないかと、ちょっぴり心配だった。こうして彼女が少佐と居間でコーヒーを飲んでいる間も、カルロは自室に閉じこもって出て来ない。ハリケーンが来た時に、祈祷と言う任務で一時的に本部へ召喚されたが、自然災害の脅威が去ると、半ば強制的に実家へ戻された。カルロは丸2日、自室で眠りこけ、目覚めると部屋に閉じこもったままだ。
 ケツァル少佐は、ステファン家訪問の真の目的に入ることにした。何時までも失恋した弟を肴に喋るのも気の毒だ。振ったのは彼女自身なのだから、尚更だ。

「来週、イェンテ・グラダへ派遣されることになりました。」

 カタリナにはピンと来なかったようだ。不思議そうな目で義理の娘を見た。それで少佐は簡単に説明した。

「シュカワラスキ・マナとウナガン・ケツァルが生まれた村です。貴女のお父様の故郷でもあります。」

 ああ、とカタリナは頷いた。夫はイェンテ・グラダ殲滅事件があった時、まだ1歳だった。だから夫から村の話を聞いたことはなかった。父親は10代の頃に村を出て鉱山へ出稼ぎに行った。1度だけ里帰りしたが、その時点で既に村は消滅していた。父親は、故郷を失ったとだけ妻子に語り、それ以上村の思い出を語ることはなかった。恐らく、彼が出稼ぎに出る前からイェンテ・グラダ村には不穏な空気が満ちていたのだろう。父親は村がどうなったのか真相を知らなかったが、何故消滅したのか、理由は漠然と理解したのだ。だから娘に伝えなかった。堕落して自滅した故郷の話を語らなかった。
 カタリナ・ステファンにとって、イェンテ・グラダ村は古代セルバ同様、遠い存在だった。

「ジャングルの中の村だったとだけ聞いています。住む人がいなくなって、既に半世紀経っているのですから、ジャングルに呑み込まれてしまっていることでしょう。」

 彼女はケツァル少佐に微笑みかけた。

「貴女はお仕事で何度もジャングルに入られていると思いますが、気をつけて行ってらっしゃいね。」

 


第4部 忘れられた男     13

  カルロ・ステファンを男性として見ることが出来なくなった、とケツァル少佐はテオに言った。

「彼は、私にとって、グラシエラと同じレベルの人間です。」

と彼女は言い、テオは彼女をそっと見下ろした。2人はバルからリストランテに移動し、食事をして、一旦少佐のアパートまでベンツで帰った。テオが歩いて帰ると言ったのだ。だから、彼女は自宅の車庫にベンツを置いて、彼をマカレオ通りの長屋迄護衛してくれているのだった。

「グラシエラと同じレベル?」

とテオは繰り返した。ケツァル少佐にとって、グラシエラ・ステファンは可愛い妹だ。腹違いだし、互いの存在を知ったのはほんの2年前だ。しかし少佐は妹を愛している。どんなことがあっても守りたい存在だ。そしてグラシエラもこの強い姉を信頼し、心から慕っている。だが、少佐は彼女の人生に干渉しようと思わないし、少佐自身の人生に妹が干渉することも望まない。つまり、

「つまり、君はカルロを求婚者としては認めない、と解釈して良いのかな?」

 テオが確認すると、少佐は「スィ」と頷いた。

「彼は弟です。それ以外の存在ではありません。強いて言えば、私の命を預けられる同士です。」

 テオは微笑んだ。

「それは最高の褒め言葉だと思うな。」

 だけど、カルロ・ステファンの方はどう感じているのだろう。実力を認めてくれて信頼してくれた上官以上の存在として少佐を見ているあの男は、あっさり姉を諦め切れるのか?

「まだ22歳ですよ。」

と少佐が呟いた。

「カルロはまだ若いのです。これからいくらでも女性との出会いがあります。」
「確かに・・・」

 テオは少佐が体を寄せて来たので、ドキッとした。彼女が囁いた。

「私はもう28です。」
「だから? 痛い!」

 いきなり腕をつねられてテオは声を上げてしまった。少佐がパッと離れた。悪戯好きな子供の様な目で彼を見た。

「北米の男性はもっと積極的だと思っていました。」
「俺は消極的だと言いたいのか?」
「少なくとも、カルロ程ではありません。」
「それじゃ、マリオ・イグレシアス並みに迫ろうか?」

 少佐が笑った。
 車が走って来たので、2人は道端に身を寄せた。テオは彼女の肩に腕を回した。
 蒸し暑い夜だったが、お互いの体温を感じながら暫く道端に立っていた。テオは何時キスをしようかと考えた。キスは既に何回かしている。ただ、毎回少佐の方が挨拶程度に、スッと唇を接触させてくれるだけだ。もっと愛情を込めたキスをしたい。ここで強引に・・・。
 少佐がスッと体を離した。

「来週から暫くオクタカスの遺跡へ行ってきます。半月は帰りません。」
「はぁ?」

 いきなり仕事の話だ。テオはがっかりした。

「オクタカスって、あの”風の刃の審判”の遺跡がある所だったな。」

 随分昔の出来事の様に思い出せるが、あの遺跡は、カルロ・ステファンと初めて出会い、ロホやステファンが異種の人間だと確信を抱いた場所だった。そして・・・・

「イェンテ・グラダ村の遺構を確認して、オクタカス遺跡発掘が再開される前に村の遺構を完全に消滅させます。」

 イェンテ・グラダ村は”ヴェルデ・シエロ”の歴史の中で負の遺構になるのだ。ケツァル少佐の母と、彼女とカルロの父が生まれた村。存在すると危険だと一族から見做されて抹殺された村人達。その遺構が残っていて、もし考古学者達の目に触れれば、また厄介なことになる。

「君1人で行くのか?」
「そうしたいのですが、今回は長老会のメンバーも何人か行きます。彼等には、村を殲滅させた責任がありますから、最後の始末をするのだそうです。私は、彼等の護衛です。」

 ”ヴェルデ・シエロ”の長老会と言ったら、最高の超能力者集団だ。その護衛を命じられたと言うことは、少佐のグラダ族としての能力がどれだけ強いかと言う証拠だ。

「カルロは行かないのか?」
「聞いていません。でも長老が彼も一行に加えたいと思えば、彼も呼ばれるでしょう。」

 父親の誕生地を見たいだろうか? と考え、テオは別の可能性を思い付いた。

「カルロは、お祖父さんの故郷を見たいだろうな。」

 少佐が頷いた。カルロが見て記憶するイェンテ・グラダ村の景色を、母親のカタリナ・ステファンも息子を通して見るかも知れない。

 

第4部 忘れられた男     12

  エルネスト・ゲイルについて知りたい情報を引き出すと、憲兵隊はテオを大学へ送り届けてくれた。必要ならまた呼びます、と言う注釈付きで。
 テオは研究室に入り、次週から正式に始まる新学期の準備に取り掛かった。前期から続けて受講してくれる学生の授業と、新規に履修してくれる学生の為の入門講座の2つの教室を受け持つことになる。忙しくなるが、給料もその分多少アップするので文句を言わないことにした。シエスタ返上で働き、何とか授業方針に目処がたった。予算も降ろしてもらえる内容だ、と自分で思う。
 ホッと一息ついて、ふとエルネスト・ゲイルの現在に心が向いた。あの男は実際のところ、今は何をしているのだろう。何処かに潜入しようとした印象だが、彼にスパイ行為が務まるのか? バス事故に遭う前のテオは我儘で身勝手で他人への思い遣りがない人間だと評価されていた。しかし、彼自身の記憶の中のエルネストは、もっと酷かったと思う。エルネストは我儘と言うより、自分のことしか関心がなく、自分の殻に引きこもっていた。盗撮や盗聴が好きなのも、1人で楽しめるからだ。ネットに公開して視聴者を獲得し、標的となった他人を苦しめようとか、そんな目的ではなく、彼1人楽しめれば十分満足、と言う人間だ。諜報部から教育を受けてスパイ活動を行うなど想像出来ない。しかし、亡命はもっと想像出来ない。生まれ育った研究所が失われてしまったとしても、あの男は現代アメリカ文明の中でしか生きられない。ネットと宅配ミールのない世界で生きていけるだろうか。
 省庁が業務を終わる時間が近づいたので、彼はケツァル少佐にメールを入れた。

ーー夕食を一緒にどうだい?

 珍しいことに、速攻で返信が来た。

ーーO K

 思わずメアドを確認してしまった程だ。
 研究室を出て、歩いて文化・教育省へ行った。午後6時になって、何時ものごとく、職員達が一斉に雑居ビルから吐き出されて来た。
 ケツァル少佐は普段最後の方で出て来るのだが、その日は珍しく早いグループに混ざっていた。角に立っているテオを見つけると足速に歩み寄った。そして彼の顔を見るなり、言った。

「お腹ぺこぺこです。」

 テオは吹き出した。彼女は病院からオフィスに戻ってから、一心不乱に溜まった書類と格闘していたのだ。昼食も取らずに。
 部下を同伴するかしないか、それは夜の予定で決める文化保護担当部指揮官だ。少佐はテオをいつものバルに連れて行った。ビールと小皿料理で夕刻の一時を2人でのんびりと過ごした。テオは簡単に憲兵隊との遣り取りやエルネスト・ゲイルの現状を説明した。そして少佐はいつもの様に食べることに集中しているふりをして、彼の話の一言一句をしっかり聞いていた。

「要するに、現在のところエルネストが何処へ何をしに行こうとしていたのかは、まだ不明なんだ。あまり素直な男じゃないから、憲兵隊の尋問に正直に答えるかどうかも疑問だけどね。ただ、俺はあいつがこの国で問題行動を起こして、眠っている人々を起こしはしないかと、それだけが心配だ。」

 眠っている人々、と言うのは”砂の民”のことだ。テオは初めてこのロマンティックな隠語を思いついて使ってみたのだ。少佐はあっさり理解した。

「私はあの男のことを誰にも話すつもりはありませんが、シーロは私から事情を説明した時に、ゲイルが危険な存在であると思った筈です。」
「わかる。」

とテオは頷いた。

「ロペス少佐は、一族と共に婚約者も守りたい筈だね。」
「スィ。彼は私に感想を伝えませんでしたが、何か手を打つかも知れません。」

 事務仕事を長年してきたと言っても、シーロ・ロペスは大統領警護隊の少佐だ。移民や亡命者を相手に様々な対策も練ってきただろう。外務省の顔の1人として他の省庁にも出入りしているのだから、顔も広い筈だ。

 エルネスト・ゲイルは生きてセルバ共和国から出ることが出来ないかも知れない

 テオはふとそんな予感がした。

「ところで少佐、彼がセルバに流れ着いたことを、カルロに教えるつもりはあるかい?」

 ケツァル少佐が意外そうな顔をした。

「その必要があるのですか?」
「もし、エルネストが街中に出て、そこにカルロが通りかかったら・・・」

 よく考えると、馬鹿な心配だ。ここはカルロ・ステファンのホームベースで、ゲイルは紛れ込んでしまった異分子だ。ゲイルがどんなに騒ごうが、周囲は”ヴェルデ・シエロ”を信仰するセルバ人ばかりだ。そしてセルバ人にとって、カルロ・ステファンは、ただのメスティーソの大統領警護隊隊員だ。超能力を持っていようが、ジャガーに変身しようが、ゲイルがどんなに喚き立ててもセルバ人は無視する。ステファンも無視するだろう。
 テオは手を振った。

「いやいや、忘れてくれ、俺の余計な心配だった。」
「そうでしょう。」

 と少佐はビールをごくりと飲んだ。そして囁いた。

「カルロとは連絡を取り合っていませんから。」


2021/12/08

第4部 忘れられた男     11

  シエスタの時間だ。ロペス少佐は外務省から迎えに来た部下が運転する車で帰ってしまった。エルネスト・ゲイルの病室には憲兵隊の軍曹が見張りに着き、テオはアウマダ大佐とムンギア中尉と共に昼食に出た。勿論憲兵が彼を食事に誘ったのには目的があった。テオはエルネスト・ゲイルとの関係や、ゲイルのアメリカでの仕事について色々と質問された。それで彼は後々に厄介な事態に陥らないよう、可能な限り本当のことを喋った。
 彼とゲイルは親がいない子供で、同じ施設で育ったこと、長じてそれぞれ遺伝子分析を研究する分野に進んだこと、テオ自身はセルバ共和国で旅行中事故に遭い、そこで受けたセルバ人の親身の世話に感動して、セルバ国民になることを決意したこと、ゲイルはそれに反対で妨害を試みたこと、ゲイルはさらにセルバ人を誘拐して研究に使おうとしたこと・・・

「何故、彼はセルバ人を研究しようと考えたのです?」

と大佐が尋ねた。テオは肩をすくめた。

「彼は、セルバ人には古代の神様の子孫がいると言う噂を耳にしたのです。」

 憲兵達が顔を見合わせた。中尉が肩をすくめ、大佐が溜め息をついた。

「そんな噂をすることこそ、神に対する不敬ですがね。」

と彼は言った。

「セルバの神々は恐ろしいのです。失礼のないように我々は日々心がけています。あの男は命を落としても仕方がないことをしたのですな。」
「海が荒れたのも、神様を怒らせたからでしょう。」

とムンギア中尉が言った。若い彼がそんなことを言うと、ちょっとおかしく聞こえた。テオは彼等が白人であるテオを警戒していると感じた。エルネストの仲間とは思っていないが、セルバの秘密を打ち明けてはならない相手、と見做されているのだ。打ち明けてはいけないどころか、神様そのものと親しくなり過ぎている彼は、内心可笑しく感じながら、ムンギア中尉の言葉を冗談として受け止めたふりをして笑った。

「それで、誘拐されたセルバ人はどうなりました?」

と大佐が訊いたので、テオは本当のことを言った。

「無事にアメリカを脱出してセルバに帰国しましたよ。その時に俺も一緒に逃げて、セルバに亡命したんです。前にも言いましたが、エルネストと俺は軍の施設で研究者として働いていましたから、他国の人間になりたいと言っても許してもらえません。だから、俺は亡命するしかなかった。エルネストは、捕虜に逃げられて、俺にも逃げられて、恐らく軍から何らかの罰を受けた筈です。ただ、俺はセルバに来てから彼の消息を耳にすることが全くなかったので、彼の存在を忘れていました。だから、さっき病院のベッドで寝ている彼を見て、びっくりしたのです。」

 ふむ、と大佐が考え込んだ。

「彼がパナマ辺りに亡命しようとしたとは考えられませんか?」
「俺には考えられません。」
「何故?」
「それは・・・」

 テオは肩をすくめた。

「彼が育った施設以外の場所を全く知らない男だからです。彼は自活出来ません。社会のルールだってまともに守れない。それに、こう言っては何ですが、彼はメキシコから南の国々や民族を蔑視しています。己が馬鹿にしている国に逃げて来るなんて想像も出来ません。彼が亡命するなら、EUかイギリスぐらいです。」
「それでは・・・」

 アウマダ大佐とムンギア中尉は互いの顔を見たが、マナーとして目は見ていなかった。ムンギア中尉が呟いた。

「母国へ強制送還、と言うのは駄目ですね。」


第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...