2021/12/30

第4部 牙の祭り     26

  ファルゴ・デ・ムリリョ博士はグラダ大学考古学部の主任教授で、セルバ国立民族博物館の館長で、マスケゴ族の族長で、長老で、”砂の民”のリーダーだ。そしてケツァル少佐の考古学の恩師で、カルロ・ステファンもロホもアスルもマハルダ・デネロスも彼の教え子で、アンドレ・ギャラガは現役の生徒になる。さらにフィデル・ケサダ教授の師匠でもあるのだ。
 ケツァル少佐はペロ・ロホの代表ラファエルに教えられた人物の家に直ぐにでも行かねばならなかったのだが、長老の「来い」と言う言葉に逆らえなかった。テオドール・アルストも同伴しますと彼女が言うと、博士は「早く来い」とだけ言った。

「何方へ行けば良いですか?」
ーーグラダ大聖堂だ。

 それだけ言うと、博士は電話を切った。テオが声をかけた。

「行くか?」
「行かねば、後がややこしいでしょう。」

 2人共漠然と博士の要件がわかっていた。今関わっている件に厄介な人が首を突っ込んで来たのだ。それとも救世主になるのだろうか?
 テオは交差点で当初の目的地への方向と反対側へハンドルを切った。
 土曜日のグラダ大聖堂は一般観光客へ開放されている。宗教施設なので中は静かだが、聖堂前の大広場は土産物屋や食べ物の屋台が出て賑やかだ。テオは駐車スペースにベンツを停めた。まだ明るいがそろそろ西の空に太陽が傾きかけていた。夕刻の礼拝が始まる前だ。
 少佐とテオは聖堂に向かって歩き始めた。

「何故博士はキリスト教の教会を会談の場所に指定したがるんだろう?」

とテオが単純な質問をすると、少佐が肩をすくめた。

「純血至上主義者は教会に寄り付かないからです。立ち聞きされるリスクが少ないのでしょう。」

 聖堂の中に入ると夕刻の礼拝を見ようと集まっている観光客の後ろを通り、エクスカリバー礼拝堂へ行った。静かに扉を開くと、ムリリョ博士が祭壇の前に座っているのが見えた。テオを先に入れ、少佐は外に目を配って誰も彼等に関心を抱いていないことを確認した。扉を閉めると中から施錠した。
 テオと少佐は博士のそばへ行き、挨拶した。博士が立ち上がった。彼等を振り返り、ジロリと見た。

「儂は我が部族の中で不協和音が起きることを好まぬ。」

と彼は言った。少佐とテオは顔を見合わせた。ムリリョ博士の言葉の意味を考えた。テオが尋ねた。

「マスケゴ族の中で諍いでも?」
「諍いではない。」

 ムリリョ博士は珍しく彼の質問にまともに答えた。

「1人が仕事をした。もう1人がそれに干渉した。仲間の仕事に干渉することは許されぬ。しかし、干渉される理由はあった。」

 ケツァル少佐が彼の言葉を「解読」した。

「ビダル・バスコの大統領警護隊のI Dを無断で持ち出したビト・バスコにセニョール・シショカが制裁を与えた。それにフィデル・ケサダが干渉し、シショカが回収したビダルのI Dや拳銃を取り上げた・・・」

 ムリリョ博士は彼女を見た。

「そう言うことだ。だが何故フィデルが動いた? あれには全く無関係な事案だった筈だ。」




第4部 牙の祭り     25

  アンパロと言う女性の親の名はテオもケツァル少佐も知らなかったが、彼女の一家が住み込みで働いている家の主人の名前は知っていた。思わずテオは少佐を見て、少佐も彼を見た。少佐がラファエルの襟首から手を離した。

「長生きをしたければ、今回の出来事は忘れろ。」

と彼女はペロ・ロホの代表に命令した。ラファエルは答えなかった。だから少佐は囁いた。

「ぺぺ・ミレレスは”ヴェルデ・シエロ”を怒らせた。憲兵も”ヴェルデ・シエロ”を怒らせた。だから、あなた方はこれ以上この件に関わるな。」

 ラファエルがごくりと喉を動かした。その顔に血の気がなかった。ケツァル少佐の言葉がただの脅しでないことを理解したのだ。少佐が念を押した。

「わかったな?」
「スィ、スィ。」

 ラファエルは怯えた目で彼女とテオを見た。
 少佐がテオに目で「出よう」と合図したので、テオは出口に向かって歩き出した。少佐も歩きかけると、ラファエルが「少佐」と呼びかけた。少佐が背を向けたまま、「何?」と訊いた。彼が尋ねた。

「アンパロは生きていますか?」
「知らない。」

 と少佐は答えた。

「大統領警護隊の手に余る事案であると答えておこう。」

 雑居ビルから出て、少佐のベンツの運転席に座って、やっとテオは深呼吸した。助手席に座ったケツァル少佐が電話を出した。小さな溜め息をついてから、彼女は電話をかけた。相手は直ぐに出た。

ーーマルティネスです。
「ロホ、今何処にいますか?」
ーーもう直ぐバスコの家に到着します。
「先刻アスルに託けた貴方への命令を撤回します。バスコを自宅に届けたら、貴方はセルド・アマリージョへ行きなさい。そこでアンパロと言う女性がウェイトレスとして働いていますが、2日前から欠勤しています。もし今日店に現れたら、見張りなさい。彼女の顔はグラシエラが知っています。」
ーー承知しました。
「彼女が店から移動するようであれば尾行し監視しなさい。行き先がわかれば、テオに連絡しなさい。」
ーー承知しました。

 少佐が電話を切った。テオはこの日がグラシエラ・ステファンのバイトの最終日だったなと思い出した。ロホはアンパロが現れる迄彼女と一緒にいるのだろうか。
 少佐はまた溜め息をついた。テオが尋ねた。

「あの男に会うつもりか?」
「少なくとも、何が起きたのかビダル・バスコ少尉には説明が必要でしょう。会いたくない人物ですが、会って話を聞かなければなりません。」
「それじゃ、行こうか。」

 テオがベンツのエンジンをかけた。車が動き出した。その時、少佐の電話が鳴った。少佐が電話を出して、画面を見た。彼女がかけてきた相手の名前を見て、その日一番大きな溜め息をついた。彼女がテオに囁いた。

「ムリリョ博士です。」


第4部 牙の祭り     24

  まだ日が高い時刻にプールバーに行くと、営業前だった。ケツァル少佐は勝手に解錠して中に入った。入り口カウンターの上に置かれているベルを叩くと、奥から男が1人出て来た。テオも少佐も彼に見覚えがなかったが、向こうは覚えていたらしく、こちらの顔を見ると慌てて奥へ引っ込んだ。
 奥へは行かず、少佐が壁にかけられていたキューを手に取り、眺めた。テオも1本手に取った。玉を出して台に置くと、代表が現れた。少佐がチラリと彼を見て、言った。

「1回だけ遊ばせろ。」

 代表が頷き、彼は部屋の隅の椅子に座った。
 テオは少佐からビリヤードの手解きを受けた。元から理解と身体能力は高い。直ぐに要領を覚えた。もう1回だけ遊ばせろと、テオが要求すると、代表が少佐を見た。少佐が代表に言った。

「貴方が相手をしてあげろ。」

 代表が舌打ちして立ち上がった。
 勝負は愉快だった。テオは病みつきになるかも、と心の内で危惧した。流石に相手はプロ級の腕前で、テオは負けた。

「君の名前は何て言うんだ?」
「ラファエル。」
「ラファエル、次に会う時は勝たせてもらうぞ。」

 彼の言葉に代表はフンと鼻先で笑っただけだった。そしてケツァル少佐を見た。

「ラ・パハロ・ヴェルデの少佐、今日は何の御用ですか? ぺぺを殺ったヤツの名前でも教えに来てくれたんですか?」
「教えてどうなると言うのか?」

 少佐が何か言いかけたが、テオが遮った。

「ぺぺの彼女のアンパロは今何処にいるんだ? 彼女も狙われるかも知れないぞ。」

 ラファエルは彼と少佐を交互に眺めた。

「まだ犯人を掴めていないんだな。」

と彼は呟いた。少佐が言った。

「見当はついている。」

 彼女は台の上に球を全部戻した。手を使わずに。

「貴方はぺぺが何故死んだのか理由を知っているのか?」
「あいつは・・・」

 ラファエルがちょっと言い淀んだ。しかし少佐と目が合いそうになり、慌てて顔を背けた。

「アンパロにつきまとっていた憲兵と話をつけると言って出かけて、それっきりだった。俺達は憲兵があいつを殺ったと思っていた。だが・・・」
「バスコ曹長も死んでいたので、困惑しているのだな。」
「スィ。」
「アンパロは何処にいる?」

 黙り込むラファエルにケツァル少佐は言った。

「憲兵はアンパロに好意を持っていた。しかし彼女はぺぺを選んだ。ぺぺは殺され、憲兵も死んだ。アンパロが無事で済むと思っているのか?」
「彼女は・・・。」

 ラファエルは少佐を避けてテオを見た。

「あの女はいつも自慢してました。彼女の家族は”シエロ”に守られてるって・・・」

 テオは少佐を見た。ケツァル少佐が「ほう」と言いたげな顔をした。

「アンパロの家族は”シエロ”に守られていると言ったのか?」
「スィ。それが彼女の自慢でした。だからぺぺ以外の男は彼女に手を出さなかった。それが、あの憲兵は無視したんです。」

 少佐がラファエルの襟首を掴んだので、テオはびっくりした。ギャング団の代表が青ざめた。

「アンパロは先住民か?」
「ノ。俺達と同じメスティーソです。」
「親は?」
「親もメスティーソです。あの・・・政府の偉いさんの家で働いている使用人です。」
「その偉いさんとは、誰だ?」



第4部 牙の祭り     23

  もしビト・バスコ曹長が双子の兄弟が大統領警護隊で勤務していると憲兵隊の同僚に話していたら、彼は死なずに済んだかも知れない、とケツァル少佐は言った。

「彼は彼なりに兄に引け目を感じてしまっていたのでしょう。何故兄が選ばれて彼は選ばれなかったのか、彼はきっと悩んだに違いありません。それに大統領警護隊に入ると言うことは、一般の軍人に兄弟が特殊な能力を持っていると教えることになります。双子ですから、選ばれなくても同じ力を持っていると思われる。ビトは友人を失いたくなかったでしょうし、兄より劣っていると思われたくもなかった。だからビダルの勤務先を秘密にしていたに違いありません。」
「だけど、何らかの理由で大統領警護隊のふりをする必要が生じた?」
「ビトにとって必要だったのでしょう。でも理由を兄に言いたくなかった。」
「極めて個人的理由だな。」

 テオは考えて、若者の頭の中を想像した。

「アンパロと言う女性に片思いしたことが関係していると思う。」

 アンパロは陸軍基地の兵士達が多い地区の飲食店で働いている。憲兵も当然客として通う。ビトは彼女に恋をした。しかし彼女にはぺぺ・ミレレスと言うヤクザの恋人がいた。彼女はビトに興味がなくて追い払おうとした。憲兵隊の曹長ごときでは靡かないと言う態度を示した。それで、ビトはビダルと帰省が同じになった時、兄の制服とIDを持ち出した。兄のふりをして、大統領警護隊なら彼女の気を引けると思ったか?
 テオはこの考えを少佐に語り、それから別の考えも披露した。
 アンパロはビトにぺぺと別れたいと言った。彼女は店のスタッフ達にぺぺと別れたいと言っていないから、勿論嘘だ。ビトとぺぺを対決させてぺぺにビトを追い払わせようとした。ビトは憲兵としてぺぺにアンパロと別れろと言ったが、効果がなかった。ヤクザは階級が低い憲兵の若造を相手にしなかった。それでビトはビダルのふりをしてもう一度ぺぺと対決しようとした。大統領警護隊ならヤクザも退くからだ。
 それから3つ目の考えを語った。
 アンパロが振り向いてくれないので、ビトは兄が大統領警護隊にいると彼女に明かした。それで彼女の気を引こうとした。彼女が証拠を見せろと言った。だからビトは一晩だけのつもりで兄の制服とI Dを持ち出した。
 ケツァル少佐が考え込んだ。テオが出した3つの説はありそうでなさそうだ。

「やはりアンパロを探し出さないことには、ビトがビダルの制服を持ち出した理由がわかりませんね。」
「アンパロはまだ姿を現さないのだろうか? ケサダ教授にビダルのIDカードなどを誰から受け取ったのか聞きたいが、あの人は語ってくれそうにないだろう?」

 少佐が家の外に出ようと合図した。
 外はまだ明るく、太陽が照りつけていた。日陰に入り、少佐が電話をかけた。相手はアスルだった。

「状況は?」
ーーバスコ少尉が警備班の指揮官と共に副司令官のところへ行っています。
「ロホは?」
ーーカルロの試しが始まったので、ちょっと覗き見に行ってます。上官に見つかるとやばいですが・・・
 
 テオは笑いそうになって我慢した。ロホは親友が難関試験を乗り越えられるか心配なのだ。カルロ・ステファンは1ヶ月間太陽を見られない地下神殿で修行をする。どれだけ緊張しているか、ロホは気になったのだろう。

「覗き見は良い趣味ではありませんね。」

と少佐が言った。

「ところで、こちらへバスコ少尉を連れて戻ったら、どちらか1人が彼に付いていて下さい。彼は葬儀が終わる迄は母親のそばにいるでしょうけど、埋葬が済んだら何を仕出かすかわかりません。」
ーー私が付きます。
「ではお願いします。それでは、ロホはケサダ教授のところへ行って、先刻の封筒の中身を誰から手に入れたのか聞いて来るように。」

 電話の向こうでアスルがちょっと笑った。

ーーバスコを選んで良かったです。

 少佐も苦笑した。

「フィデル・ケサダは手強いですよ。くれぐれも怒らせるなとロホに伝えなさい。今期アンドレが人質になっていますからね。」
ーーアンドレの担当教官はムリリョ博士でしょう?
「実際に教授するのはケサダですよ。」

 少佐はこれからギャング団のペロ・ロホのところへ行くとアスルに告げて電話を終えた。テオが尋ねた。

「アンパロの居場所をギャングに訊きに行くのか?」

 少佐が頷いた。



第4部 牙の祭り     22

  ランチを済ませると全員でジープに乗ってピア・バスコの診療所兼住居に行った。診療所は休業しており、住宅の方では早くも弔問客が来ていた。ロホとアスルを車に残し、ケツァル少佐とテオは家の中に入った。リビングで遺族に挨拶していたのは、殆どが近所の住民だ。双子の兄弟が幼い頃から知っている人々や、母親が開業してから世話をしてきた患者やその家族だろう。ピアと同居している恋人が客の応対をしていた。恋人の男は白髪混じりの男性で、やはり医師だと言うビダルの証言を裏切らず、しっかりした様子でピアを支えていた。
 ビダルは部屋の隅に座っていたが、テオと少佐を見ると立ち上がった。少佐が”心話”で何かを伝えると、彼は身振りで別室を差した。
 案内された部屋はユーティリティルームで、恐らくお手伝いを雇っているのだろうが、その人は弔問客に出す飲み物や軽食の準備で忙しく、キッチンの方にいた。ビダルはドアを閉め、テオと少佐を見た。

「何か分かりましたか?」

 少佐が茶封筒を出した。

「中身を確認して下さい。」

 ずっしり重量がある紙袋を受け取って、ビダルはハッとした表情を見せた。馴染みのある重量だ。彼はそばの家事台の上に袋の中身を広げた。IDカードが入ったパスケース、財布、その中の運転免許証、拳銃、そして弟の携帯電話。現金がなくなっていることは気にならないようだ。そんなことを気にする次元の話ではないからだ。テオが尋ねた。

「君の物で間違いないな?」
「スィ、私のI Dカードと拳銃、免許証です。そしてビトの携帯・・・」

 ビダルは拳銃を手にして、中の弾倉を開けた。そして少佐に顔を向けた。

「弾は私が装填した時のままです。」

 少佐が頷いた。少なくとも拳銃が何らかの犯罪に使用された形跡はない訳だ。

「これは何処で? 誰が持っていたんですか?」

 当然の質問が来た。テオが答えた。

「それは言えないんだ。俺たちも知らない。ある人がさっき持って来てくれたんだ。その人も多分、遣いだと思う。昨日の午後まで事件のことを何も知らない人だったから。」

 ビダルが何か言いたそうにしたが、少佐が遮った。

「事件の真相はまだ捜査しなければなりません。ただ貴方の所持品は戻りました。出来れば今すぐにこれらの物を持って、本部へ帰還し、指揮官に報告しなさい。貴方がどう行動すべきかは、貴方の上官が指図します。」

 テオは言い添えた。

「警察でも憲兵隊でも、被害者の身内は捜査に参加出来ないからな。」
「承知しています。」

 ビダルは何かを耐える声で応えた。

「しかし、私は母を1人にしたくない・・・」
「まだ休暇中ですね。上官に奪われた物を回収した報告をして、母親に付き添う旨を申し出なさい。大統領警護隊は不幸に見舞われた隊員に勤務を強制するような酷いところではありません。」

 ケツァル少佐にキッパリ言われて、ビダル・バスコ少尉は敬礼した。そして喪服の上着の下に拳銃を隠し、その他の小物も内ポケットに入れると、再び敬礼して居間へ出て行った。テオと少佐も小部屋から出た。ビダルが母親に”心話”で何か伝え、それから彼女をハグし、母親の恋人に何か言ってから、テオ達の方を見た。少佐がテオに言った。

「ここにいて下さい。すぐに戻ります。」

 彼女はビダルを連れて外へ出た。数分後に戻って来たので、ロホ達のジープに彼を乗せたのだとわかった。ロホとアスルはビダルを本部へ連れて行き、また連れ戻って来る予定なのだ。
 テオはお手伝いさんと思われる女性からトレイを差し出され、カクテルの様な飲み物を2つ取った。そばに来た少佐に一つ渡し、室内を見回した。居間は花が飾られ、奥に棺がある。母親と恋人はその棺の前に座って弔問を受けているのだ。近所の世話焼きおばさん達がお手伝いさんを手伝って働いていたり、客の相手もしている。見る限り怪しい人物はいない。死んだぺぺ・ミレレスが本当に刺殺犯なのか否か、まだ不明だ。ミレレスの遺体からサンプルが採れれば良いのだが。
 客達がざわついた。家の入り口を見ると、憲兵が2人入って来た。若い隊員だ。ピアが立ち上がり、彼等を迎えた。憲兵達は弔問の言葉を述べ、1人がピアをハグした。もう1人はピアの恋人に頼んで棺の中を見せてもらった。顔を検めたのだ。遺体の顔はピアが化粧して傷を隠している筈だ。憲兵を誤魔化せるだろうか。
 棺の中を見た憲兵は、棺に向かって敬礼した。母親をハグした同僚と交代し、彼もピアをハグした。
 少佐がテオに囁いた。

「ビトと仲が良かった同僚達です。きっと巡回勤務の途中ですね。正式の弔問ではない筈です。」

 2人の憲兵は改めて敬礼して、外へ出て行った。テオは呟いた。

「ビダルがいなくて良かったな。」

 少佐が彼を振り返った。

「そう言えば、ビトは双子の兄弟が大統領警護隊にいることを僚友に教えていませんでしたね。もしビダルがここにいたら、彼等はどんな反応をしたでしょう。」



2021/12/29

第4部 牙の祭り     21

  何気なくカフェの出入り口の方へ視線を向けたアスルが、「え?」と言う表情をした。彼が驚く顔を見せるのは滅多にないので、テオもケツァル少佐もロホも、同じ方向を見た。そして全員が「え?」と思った。
 滅多に見せない普段着姿でグラダ大学考古学部教授フィデル・ケサダが店に入ってきた。彼は店内を見回し、テオと文化保護担当部の3人を見つけると、まっすぐやって来た。4人用のテーブルだ。一番階級が低いアスルが素早く立ち上がった。しかし教授は手で「座れ」と合図して、テーブルの横に立つと、ケツァル少佐の前に茶色の大判封筒を置いた。ゴツンと鈍い音がした。中に硬い物が入っているのだ。少佐が彼を見上げると、教授は目を逸らし、くるりと体の向きを変えて歩き去った。テオ達は無言で、彼の後ろ姿を彼が店から出て見えなくなる迄見つめていた。
 やがて、彼等の視線はテーブルの上の茶封筒に注がれた。少佐が封筒を掴み、そこそこ重量がありそうなそれを逆様にした。封をしていない封筒から、プラスティックのパスケースに入ったI Dカード、使い込まれた革財布、携帯電話、拳銃が出て来た。ロホが素早く拳銃を掴み、軍服のベルトに差した。少なくとも、座っている間は他の客や店のスタッフに見えない。少佐がパスケースを掴み、中のI Dカードを見た。そしてテーブルの上に置いた。ビダル・バスコ少尉の顔写真が印刷されていた。テオは財布を手に取り、中を検めた。現金は小銭しかなかったが、ビダル・バスコ少尉の運転免許証が入っていた。アスルは携帯電話を掴み、パスワードを2、3試し、ロック解除した。

「ビトの携帯電話です。」

 彼の囁きに、彼等はまた互いの顔を見合わせた。何故、ケサダ教授がこんな物を持って来たのだ?
 ロホが囁いた。

「教授は犯人をご存知ですね。ピューマも刺殺犯人も。」

 テオが追加した。

「きっとミレレスを轢き逃げさせた人も誰だか知っていると思う。」

 少佐が彼に確認した。

「ケサダは、貴方が事件の話を大学で彼に話す迄、何も知らなかったのですよね?」
「うん、驚いていたから、絶対にあの時迄何も知らなかった筈だ。だが、俺と話をしている時に、急用を思いついて俺を部屋から追い出した。」
「その時、犯人に心当たりがあったんだろう。」

とアスルが呟いた。

「あの先生は、よくわからん。俺は一度も”心話”を許してもらったことがない。」
「私はある。だが、常に情報をセイブされて必要なことしか教えて下さらない。」

 ロホもケサダ教授がガードの固い人である意見に同意した。ケツァル少佐はまだI Dカードを眺めていた。テオが仲間が忘れている人物を思い出した。

「ミレレスの彼女、アンパロはどうしたんだろ?」


第4部 牙の祭り     20

  なんとなく衣服が汗でベチャベチャな感触で気持ちが良いと言えなかったが、時間がないので着替えに帰宅出来ない。テオは”ヴェルデ・シエロ”達がいつも平然としていられるのが羨ましい。アスルは暑いと言わないが暑い筈で、彼等だって汗をかくのだ。平然としていられる訓練も受けるのだろうか。ケツァル少佐は汗すらかかないかの様に泰然として、グラダ・シティ警察東署の前へ車を運んだ。
 驚いたことに、ロホとアスルが軍服で大統領警護隊のジープで来ていた。訓練だから、それなりの装備だ。ジープは本部から持ち出したとしか思えない。正規の任務でもないのに、と思い、テオは思い直した。文化保護担当部が指揮官の命令ですることは全部正規任務なのだ。
 ケツァル少佐は車から降りてジープの助手席のロホのところへ行った。”心話”で情報を与え、無言で意見交換を行い、5分で戻って来た。

「私達は一旦帰りましょう。警察での捜査はアスルが行います。」
「ロホは?」
「車の番。」

 つまり上官なのでロホは部下の仕事を監視するのだ。テオは納得して、ベンツを西サン・ペドロ通りへ向けた。
 少佐をアパートで下ろし、彼は自分の車に乗って帰宅した。彼女から連絡がある迄休憩だ。シャワーを浴び、着替えてリビングのソファに横になって遺伝子マップを眺めた。彼の才能は遺伝子マップの解析能力だ。普通の遺伝子学者達が数日かかる分析を半日あればやってしまう。驚異的なスピードで2つのマップを対比しながら見ていった。
 ケツァル少佐から電話がかかって来た時、彼は既に2つのサンプルの人間が別人であることを判定していた。

ーーお休みでしたか?
「ノ、遺伝子マップを解析していた。ビト・バスコを襲ったピューマと、彼を刺し殺した人間は別人だ。殺人犯は”ティエラ”だ。」
ーー間違いありませんか?
「ない。」
ーーでは、これからランチしながら報告会としましょう。来られますか?
「スィ。」
ーーでは、カフェ・デ・オラスに行くので、私が貴方を拾います。

 文化・教育省が入っている雑居ビル1階のカフェだ。日曜日以外は営業している、文化・教育省の職員食堂扱いされているカフェだが、実際は普通の民間の店だ。ここのスタッフは客が何者であろうと気にしない。文教大臣が秘書と政策に関する相談をしても無視しているし、田舎から陳情に出て来た先住民がテーブルで奇妙な儀式みたいな行動を取っても見ぬふりをする。当然文化保護担当部が任務の話をしても聞いていない・・・ふりをしている。
 この店が特別なのではない。セルバ人は他人のプライバシーに踏み込まないのだ。逆に言うと、助けて欲しい時ははっきり助けを求めないと無視される。
 テオは少佐のベンツに同乗して文化・教育省の駐車場へ行った。大統領警護隊のジープが駐車していた。他の車も数台駐車していたが、見慣れない車ばかりだったので、職員ではなく無関係な人が休日の空いている場所に車を停めただけだ。
 ロホとアスルは先にテーブルを確保していた。店内は予想以上に混雑していた。雨季明けで田舎から都会へ出て来た人が多いのだろう。
 料理を注文してから、ロホがアスルに「報告」と命じた。隊員だけなら”心話”だけで済むが、テオがいるので言葉が必要だ。アスルは特に嫌がる様子もなく、警察でわかったことを報告した。
 ぺぺ・ミレレスは東署管内の緑地帯で死体になって発見された。道路横を細長く伸びている植え込みや芝生のベルト状公園だ。そこで彼は昨日の午後4時頃に死んで転がっていた。傷の状態から判断して、警察では交通事故で車に轢き逃げされたと結論づけた。所持品はぺぺ自身の運転免許証、携帯電話と財布だけだった。何者かに奪われたビダル・バスコのI Dカード、財布、拳銃は所持していなかった。ビト・バスコの携帯電話も持っていなかった。

「ただ、彼の死体があることを通報する電話が警察にかかってきたのですが、誰がかけたのかは不明です。ミレレスの電話が使われたからです。」
「それ自体は別に怪しくない。」

とロホが言った。しかしアスルは不思議なことを言った。

「ミレレスがトラックに撥ねられるのを目撃した通行人は数人いました。彼等はトラックの特徴を覚えていました。だが、彼の死体に近づいて彼の携帯電話に触った人間の風態を覚えている人が1人もいない。」

 1分程テーブルを沈黙が支配し、それからテオが尋ねた。

「通報した人は、救急車を呼ばなかったんだな?」
「呼んでいない。ミレレスが死んだことを確認したのだろう。」

 少佐が呟いた。

「”シエロ”ですね。」

 テオは”心話”が出来ないが、この時3人の大統領警護隊隊員の考えが理解出来た。ミレレスは、消されたのだ。彼の体に直接触れることなく、何らかの気の作用でトラックを操作して彼を轢かせた。
 ロホがアスルの捜査中に独自に電話やネットで調査した結果を報告した。

「ピア・バスコ医師が、昨日の午後憲兵隊本部に息子のビトが病死したと届けを出しました。」
「病死・・・」
「ピューマに襲われた上に、刺されて死んだなんて、不名誉な事実を公にしたくなかったのでしょう。彼女は医者ですから、検死報告も提出しました。本部は隊員の突然の死去にショックを受けています。今夜通夜を行い、明日葬儀です。公務での死去ではないので、公葬ではありません。」
「葬儀はビダルも出ますね?」
「出ます。大統領警護隊は隊員の家族の死去なので、花を贈ります。」

 ビダルはまだ弟に盗まれた物を取り返していない。きっと針の筵に座っている気分だろう。



 

 

 

第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...