2022/01/08

第4部 花の風     12

  テオがカルロ・ステファン大尉から以前聞いた話によると、アンドレ・ギャラガの父親はアメリカ人で、ギャラガが5歳の時に亡くなったことになっている。母親は父親の姓はギャラガだったと息子に教えたそうだ。しかしファーストネームを教えてもらった記憶はギャラガになかった。ギャラガをネグレクトして、偶に相手にする時は殴ったり罵ったりするばかりだった母親の名前はルピタ・カノと言った。ステファン大尉が言うには、ルピタはマリア・グアダルぺの愛称なのだそうだ。しかしギャラガは、記憶の中にある母親がそんな高貴な印象を与える名前だったとは到底思えなかった。ルピタは街娼だったのだ。彼女は息子に自分達はブーカ族だと教えていたが、カノと言う名前はカイナ族に多いのだと言う。ブーカ、オクターリャより力の弱いカイナ族であることは決して恥ではないのだが、ギャラガが放つ気は大きく、大統領警護隊は彼がルピタが言った通りブーカ族で間違いないだろうと考えていた。しかし、彼が初めてナワルを使った時、色は薄いものの黒いジャガーに変身したことから、彼の大きな気はグラダ族の血から来ていることが判明した。恐らく、グラダを遠い祖先に持ち、ブーカとカイナの血も受け継ぎ、”ティエラ”の血が混ざり、最後に白人の血が入った複雑なミックスの”ヴェルデ・シエロ”、それがアンドレ・ギャラガだった。
 ギャラガの外見は白人だ。色白で髪は赤い。目も薄い茶色だ。しかし完全に白人かと言えばそうでもなくて、先住民の雰囲気も持っている、そんな風貌だ。だからメスティーソの女性達に彼はよくモテる。現在のところ、仕事と勉学に忙しい男なので、恋人を作る気はないらしい。
 ギャラガは出自に関してコンプレックスがあるので、先祖の話が好きでない。特に白人の血のことに触れられるのを嫌がる。彼にすれば、今更親族が現れても迷惑なだけだ、と言う気分なのだろう、とテオは気遣った。両親の墓が何処にあるのかも覚えていない男は、もしかすると異母兄弟かも知れないアメリカ人の出現に、腹を立てているかの様に見えた。
 3軒目のバルで、ロホとアスルは卓上サッカーゲームに興じた。テオとギャラガはそばでそれを眺めながら、ビールを飲んでいた。

「例の父親探しをしているアメリカ人ですが・・・」

と不意にギャラガが話しかけて来た。テオは顔を向けて、聞いているよ、と示した。ギャラガが続けた。

「その男自身がエル・ドラドを探していると言うことはありませんか?」
「あー、成る程、そう言う考え方もあったなぁ。」

 テオは、ロジャー・ウィッシャーがアリアナや彼の様子を探りに来たとか、”ヴェルデ・シエロ”に関心を持って調べに来たとか、そっち方面を考えていたので、ギャラガの発想に盲点を突かれた感じがした。

「セルバに黄金郷伝説はないだろ? 俺はそこまで思いつかなかったな。」
「私はそのウィッシャーと言う男が、南の国に兄弟姉妹がいるかも知れないと考えないことを思うと、父親さえ見つければ、黄金があるかないか確認出来ると思っている様な気がします。」
「俺は彼のネット情報では海兵隊に所属した経験があるのに、彼自身が俺に話した経歴にはそれが一切触れられていないことが気になったんだ。俺がネットで確認することを予想しなかったのか、それとも知られても支障がない経歴なのか・・・」
「海兵隊よりCIA に属していた経歴の方が知られたくないと思いますけどね。」

 テオは彼を眺めた。

「アンドレ、君は英語を話せたな?」
「私の見た目が白人なので、上官の意向で英語の会話と読み書きはしっかり学習させられました。」
「アメリカ人のふりをしなくても良いから、英語が出来るセルバ人として、ウィッシャーと接触出来ないか? ”操心”とか習得しただろ?」
「ウィッシャーから情報を引き出すのですか?」

 ギャラガは好奇心で目を輝かせた。しかし、理性が勝った。

「面白そうですが、上官の許可を得ませんと・・・」

 彼がここで言う上官は、ケツァル少佐だ。ギャラガを警備班から引き抜いて、姉の様に見守りながら厳しく能力習得の監督をしている師匠でもある。怒らせると、非常に恐ろしい。”ヴェルデ・シエロ”は普通の人間の心を目を見て支配してしまう能力を持っているが、テオの様にその技が効かない人間も稀に存在する。少佐は、まだ未熟な部下が万が一にもそんな人間に遭遇して危険な目に遭わないよう、”操心”の無断使用を認めないのだ。
 だから、テオはこの場は退くことにした。

「そうだな、俺の好奇心を満たす目的で君が営倉送りになっては申し訳ない。俺から少佐に相談してみる。どのみち、この写真を配らないといけないから。」



2022/01/07

第4部 花の風     11

  テオは研究室に戻ると、ロジャー・ウィッシャーの頬内側の細胞を分析器にかけた。それから翌日の授業の準備をした。昨シーズン、火曜日は午後の講義だけだったが、受け持つ学年が増えたので、午前にも講義がある。それに院生の助手が2人付いた。授業の準備を手伝ってくれるが、秘密の研究をした時はちょっと障害になる存在だ。だがウィッシャーのDNA 検査は秘密にする必要がなかった。行方不明の肉親を探している外国人の細胞だと言うと、助手達は機械のお守りを引き受けてくれた。彼等はテオが驚異的な速さで遺伝子マップを解読していく場面に立ち会うのが嬉しくて堪らないのだ。
 ケツァル少佐の個人的興味で依頼されていたフィデル・ケサダ教授の細胞はまだ手に入れていない。しかし、教授の出生の秘密を知ってしまったので、少佐は興味を失ってしまい、依頼は立ち消えになった。テオも危険を冒してまで、現代最強と言われる”ヴェルデ・シエロ”の細胞を無理に採りたくなかった。
 そのケサダ教授はテオの心を知ってか知らずか、新たな動物のミイラを学生に託してテオの研究室に送り込んで来た。今度は大型の動物で、リャマと思われた。リャマはアンデスの動物だ。そのミイラが中米の東海岸、ジャングルに近い場所で出土した。考古学者は東海岸に住んでいた部族が南米の何処と交易していたのか知りたいのだ。テオは分析作業を助手に任せた。ミイラのどの部分から使える細胞を取り出せるか、助手の腕試しだ。但し、貴重なミイラを傷だらけにするなと事前に注意を与えておいた。
 夕刻になると、研究室を片付け、助手を帰した。分析器には仕事をさせておき、ドアを施錠してテオは文化・教育省の駐車場へ行った。出張から戻ったロホとアスル、ギャラガと夕食に出かけた。ケツァル少佐は文教大臣と各課の責任者達との夕食会と言う名の「仕事」だ。きっとドレス姿なのだろう、と想像しつつ、バルへ行った。
 カウンターで立ち飲み立ち食いしながら、テオはロジャー・ウィッシャーが大学に現れた話を語った。預かった写真を出して見せると、ロホが「おや?」と言う顔をした。アスルも戸惑った様な表情を見せた。ギャラガだけが「ふーん」と言う興味なさそうな顔で写真を見た。その顔をロホとアスルが見た。だからテオもギャラガを見て、やっと写真の中の男が誰に似ているのかわかった。
 ギャラガが先輩達の視線を感じて顔を上げた。

「何ですか?」

 後輩に対して遠慮と言うものを持たないアスルが言った。

「お前は写真の男と似ている、と思った。」

 ロホとテオも頷いたので、ギャラガは「でも」と言った。

「私の父親はギャラガです。ウィッシャーではありません。」
「だがお前の出生届は何処にも出ていなかっただろ?」

とアスルは容赦なく詰めた。アンドレ・ギャラガは物心がつく前に父親を亡くし(と母親が言ったそうだ。)、母親からはネグレクトされた。小学校も行かせてもらえなかった。軍隊に入ったのも、母親の死後、生きる為に彼自身が年齢を誤魔化して入隊したのだ。その時、どうやら陸軍の入隊検査がいい加減だったらしく、大統領警護隊にスカウトされて、初めて出生届が出ていないことが判明した。司令部はエステベス大佐の指示で彼の出生登録を行い、ギャラガはセルバ人であるにも関わらず、16歳になって初めて正式にセルバ国民となったのだ。彼の出生届の両親の欄に書かれている名前は、司令部が彼自身から聞き取った名前だった。それが真実の両親の名前なのかどうか、誰も知らないのだ。
 ギャラガが意地になって言った。

「私はそんな男を知りません。第一、アメリカに妻子がいるのにセルバでも家族を作るなんて・・・」

 テオは苦笑した。以前もそんな男と知り合った。セルバに妻子がいるのにアメリカでも女性に子供を産ませた男がいて、その息子と大統領警護隊は知り合ったのだ。

「アンドレ、気になるなら、君の遺伝子検査をしてやるぞ。ロジャー・ウィッシャーと兄弟かどうか判定してみれば良いんだ。」
「結構です。」

 ギャラガが珍しく反抗的になった。

「私は私です。ルーツなんか知りたくもありません。」
「でも君のサンプルは持っている。」

 ロホが言った。

「検査費用はいくらだったかな?」


 

第4部 花の風     10

  テオはロジャー・ウィッシャーの顔を眺めた。

「それで、貴方が俺を探していた理由は? 大統領警護隊と仲良くしている元アメリカ人を探していると言うアメリカ人は、貴方のことでしょう?」

 ウィッシャーが苦笑した。

「随分失礼なことをしてしまった様です。父親の手掛かりを求めてアメリカ大使館に協力を要請した折に、セルバ共和国で人探しをする時は大統領警護隊に動いてもらわないと無駄だと言われたのです。それで大統領府へ行って、警備している兵隊に声を掛けたのですが、全く相手にしてもらえませんでした。ここの大統領警護隊って、インディアンばかりなのですね?」

 テオは眉を顰めた。中南米を渡り歩く人らしくない物言いだ。

「インディアンではなく、インディヘナと呼びますがね。」
「ああ、そうでした・・・」

 ウィッシャーが頭を掻いた。

「アメリカ人ばかりで集まる傾向があるので、白人も黒人も先住民をインディアンって陰口叩いてしまうんですよ。何しろ、こちらが思う様に動いてくれないものだから。メスティーソの人達は愛想が良いんですけどね。」

 それは先住民の習慣を理解していないからだ、とテオは思ったが黙っていた。本当はインディヘナの呼び方よりも部族名を一つ一つ呼ぶ方が礼儀に適っているのだが。
 ウィッシャーが話を続けた。

「大統領警護隊が相手にしてくれないので困っていたら、隊員と親しくしている元アメリカ人がいると噂で聞いたんです。グラダ大学で講師をしていると聞いたもので・・・」
「准教授です。」
「そうでした。失礼しました。准教授でした。だから、前置きが長くなってしまいましたが、父の足取りを調査してもらえるよう頼んで頂きたいのです。父の名前は、アンドリュー・ウィッシャー、愛称はアンディでした。スペイン風に名乗ればアンドレアになるかな?」

 ウィッシャーは名刺入れから写真を一枚出した。机から降りて、テオの前に来た。

「同じものをコピーして沢山持っていますから、差し上げます。これが父のアンドリューです。20年前の写真なので、今はもっと歳を取っていますが。」

 スーツを着て、カメラに対してちょっと斜めに体を置き、顔を正面に向けて笑っている中年の男性だった。髪の色はロジャーより薄い茶色で、金髪に近い。目は息子と良く似て、薄い青、セールスマンらしく人懐こい顔だ。テオは何処かで見た顔だ、と言う印象を持った。

「これをコピーして配れば良いんですか?」
「大統領警護隊でなくても良いんです。隊員が協力しろと言ったら警察も動くと聞いたので。」

 テオは頷いた。大使館はそれなりのセルバの常識を持っているのだ。大使館員を動かしてこの国の守護者達を怒らせたくないのだ。
 テオは足元に置いてあった鞄を教卓の上に置いた。

「もしよろしければ、ここにDNA 採取セットがあります。貴方のサンプルを採らせていただけたら、お父さんらしき人を見つけた時に比較しますよ。」

 するとウィッシャーが奇妙な笑顔を見せた。

「父らしき死体と言う意味もありますね?」

 テオは肩をすくめて見せた。

「可能性もあります。」

 ウィッシャーが口を開けた。テオは笑って鞄を開き、箱を出した。綿棒で頬の内側を擦ってもらい、それをビニル袋に入れた。

 

2022/01/06

第4部 花の風     9

  ロジャー・ウィッシャーは話を続けた。

「僕のC I Aの活動は現地の社会情勢の調査でしたから、あまり危険なことはしていません。映画に出てくる様なスパイ活動じゃないですよ。毎日新聞やテレビのニュースを本国に送信するだけでした。まぁ、政情が不安定な国ではちょっとやばいこともありましたがね。でも僕の本当の目的は父親探しでした。父が行方不明になった前後のそれぞれの国の、アメリカ人の入国記録を調べていたんです。だが、父は手紙を出したガテマラを最後に足跡を消していました。僕はガテマラ国内をしらみ潰しに探したかったのですが、ニカラグアへ派遣された。そこでかなり危険な目に遭いまして・・・何とか乗り切った後で辞めました。普通のビジネスマンに戻ったんです。」
「それなのに、ガテマラではなくセルバへ来た理由は?」

 ウィッシャーは少し躊躇った。

「父の最後の手紙の内容が奇妙だったと言いましたね。父は『黄金の都を見つけるかも知れない』と書いていたのです。」

 テオは思わず「ハァ?」と声を出してしまった。

「黄金の都? エル・ドラドですか?」
「そうです。馬鹿みたいでしょう?」
「エル・ドラドを探すなら、アンデスへ行かないと・・・」
「僕もそう思ったのですが、父はセルバの伝説を聞いて、エル・ドラドの存在を確信したと書いていました。」
「セルバの伝説?」
「何でも、地の底に黄金の湖があって、宝石でできた魚が飾られている、と言う・・・」

 テオはドキリとした。それは、「太陽の野に星の鯨が眠っている」聖地のことではないのか? ”ヴェルデ・シエロ”の英雄達が亡くなった後、のんびり悠久の時を過ごしている地下の世界・・・。
 ウィッシャーはテオの微妙な顔色の変化に目敏く気づいた。

「何かご存知ですか?」

 テオは顔色を読まれたと悟った。だから言った。

「それは、セルバでは禁忌の文句です。『太陽の野に銀の鯨が眠っている』と言うフレーズで、犯罪組織などが敵対するグループに皆殺しの宣戦布告をする時に使うものです。」

 勿論、それは事実だった。何時の時代にか、「星の」が「銀の」と誤訳されて現代のセルバ人に伝わっているのだ。現代のセルバ人はただの呪いの言葉だと信じて疑わない。原文が地下深くに築かれた神殿に古代文字で刻まれた文言だと知らないのだ。

「太陽は黄金に光り輝いているから、黄金と誤解され、銀色の鯨は光っている宝石と取り違えられたんです。エル・ドラド伝説を求める人々が無理矢理な解釈をしたのでしょう。第一、セルバにはエル・ドラド伝説などありませんし、西部のオルガ・グランデに金鉱がありますが、大部分はアンゲルス鉱石と言う企業が所有しています。勝手に金を掘ると、連中に袋叩きにされます。」

 一気に喋ってから、テオは尋ねた。

「お父さんはその嘘の情報を信じてセルバに入ったと、貴方は考えているのですか?」
「それしか、今は思いつかないのです。メキシコ、ベリーズ、コスタリカ、エルサルバドル、ガテマラ、ニカラグア、パナマと探しましたが、父の手掛りは何処にもありませんでした。最後が、一番アメリカ人の入国が少ないセルバだったのです。ここで父の消息をつかめなければ・・・」

 ウィッシャーは溜め息をついた。

「コロンビアかボリビアに行ってみます。」


第4部 花の風     8

  翌日、テオが大学で初級生対象の遺伝子組み替えに関する講義をしていると、教室の最後列の机に遅れて入って来て着席した人がいた。学生かと思ったらそうではなかった。ロジャー・ウィッシャーだった。彼はテオと目が合うと、微笑して片手を顔の横の高さに上げて挨拶代わりにした。テオは軽く頷いて見せた。何となく心穏やかでなかったが、そのまま講義を続けた。彼の講義が終わると質問タイムだ。開講して1ヶ月経つと質問をする顔ぶれが決まってきた。将来の野外授業に参加するであろう学生達だ。テオは質問しない学生達にもわかりやすく答えを説明していったが、一体何パーセントがついて来るだろう。
 質問が出尽くし、彼が次回の講義までの課題を出すと、学生達はノートに書き留めたり、タブレットにメモしたりして、やがて騒々しく教室から出て行った。
 テオが黒板の文字を消していると、ウィッシャーが近づいて来た。「ハロー」の後、彼は言った。

「スニーカーのセイルスに来たんです。アメリカ人の准教授がいると聞いたので、覗いてみたら貴方だったので、驚きました。」
「遺伝子の組み替えにスニーカーは必要ありませんよ。」

 テオはわざとスペイン語で返した。検索した情報が正しければ、ウィッシャーは中南米をセイルスで渡り歩いて来た。スペイン語やポルトガル語を理解出来る筈だ。
 ウィッシャーが苦笑した。

「僕がスペイン語を話せるとご存知でしたか。」
「仕事で方々を歩いて来られたでしょう。」

 テオは黒板消しをクリーナーで綺麗にした。

「ここへ来られた本当の目的は何です?」
「本当の目的?」
「偶然この教室に来られたとは信じ難い。」

 彼はやっとウィッシャーの顔に真っ直ぐ向き直った。

「それとも、俺が何者か知ってて公園で声をかけて来られたのかな?」

 ウィッシャーが首をゆっくりと振った。彼は言語を英語に戻した。

「成る程、国立遺伝病理学研究所で一番の頭脳を持って生まれた人だと聞いていたが、流石に侮り難い。」
「C I Aですか?」

 テオがズバリと訊いた。ウィッシャーは再び首を振った。

「元です。ニカラグアで仕事をして、その後で辞めました。信じていただけないでしょうがね。」
「確かに、知り合って間もない貴方を信じる謂れはありませんが、差し支えなければ、C I Aを辞めた理由をお聞かせ願えませんか?」

 テオは相手の表情を窺った。嘘をついたら見破ってやる、そんな気持ちだった。ウィッシャーはそばの机の上に座った。

「僕がC I Aに協力した本来の目的を果たすためです。」
「貴方の目的?」
「そうです。僕は父親を探しているんです。僕が14歳の時に中央アメリカで消息を絶った父親をね。」

 ウィッシャーは教室の後方を振り返って誰もいないことを確認した。

「ここで話していても構わないですか? 次の授業とか・・・」
「この教室は午後の授業迄空いています。」

 だからと言って長話をするつもりはないテオは、チラリと天井に近い壁の時計を見た。

「お父さんが行方不明なのですか?」
「ええ、もう20年近くなるので、生きているとは思えませんがね。父はゴムの貿易商でした。中央アメリカの農園を新規開拓に出かけて、いつも留守ばかりしていました。ある時、手紙が母の所へ送られて来たんです。消印はガテマラでした。手紙には奇妙なことが書かれていて、母は笑っていました。しかし、その手紙が父からの最後の便りでした。父の消息はぷっつり途絶えてしまい、母は何度か国務省に父を探して欲しいと働きかけましたが、父の手がかりはガテマラで途絶えていると言う答えしかありませんでした。それで僕は学校を出てから今の会社に就職して、中南米をビジネスで歩き回りながら父の手がかりを探しているのです。C I Aに協力することになったのは、僕が色々な国に出入りしてそこそこ現地の内情に知識があったからです。」

 テオは黙って聞いていた。学校を出て就職した? では海兵隊は何時入隊したのだ?



第4部 花の風     7

  午後になるとアスルも元気を取り戻し、共用の庭で長屋の子供達と遊んでいた。大人達は彼を「アルスト先生ちの軍人さん」と呼んでいた。名前を訊かれて、アスルは「キナだ。でもアスルで通っている」と言ったので、子供達は彼をアスルと呼んでいた。
 テオは近所の人から夜のお惣菜をもらい、お返しに余っていたワインを進呈した。ワインと惣菜では釣り合わないが、今迄何度も惣菜をもらっていながらお返し出来なかったのだ。これでなんとか収支がつくだろう。
 ケツァル少佐は日曜日をどう過ごしているだろうか。カタリナ・ステファンと買い物だろうか。それとも実家を訪問しているのか。養母のマリア・アルダ・ミゲールが新規の店をグラダ・シティ最大のショッピングモールに出して、店の経営を直接監督しているので、ずっとセルバ共和国にいるのだ。だから少佐は養母が国内にいる間はできる限りお淑やかに暮らしている。マリア・アルダ・ミゲールはカタリナ・ステファンが織る民芸品の小さなタペストリーが気に入って、店の装飾に使ったり、上得意への贈り物に使うので、カタリナへの仕事の注文が増えた。緑色を基調としたセルバ織と呼ばれる布だ。本当のセルバ織のプロはもっと大きなポンチョやカーペットの様な大きさの物を作るのだと謙遜しながらも、カタリナは喜んで仕事をしている、と少佐は語った。宝飾品のおまけや包装に使える大きさだから良いのだ、とマリア・アルダ・ミゲールは言い、決して娘の異母弟の母親だから仕事を発注するのではない、と強調した。
 夕刻、テオは食材の買い物に近くの食料品店に出かけた。アスルに頼まれたメモを見ながら食材をカートに入れて、レジに行くと、3人ばかり並んでいた。列の後ろに付いて待っていると、「ハロー!」と声をかけられた。振り返ると、ロジャー・ウィッシャーがいた。彼も冷凍食品を入れたカートを押していた。

「偶然だな、この近所に住んでいるんですか?」

と訊いて来たので、テオはそうだと答えた。貴方は?と聞き返すと、

「この坂の下の方にあるアメリカンハウスに部屋を借りています。」

と返事が来た。アメリカンハウスはグラダ・シティで仕事をするアメリカ人で1、2ヶ月の短期滞在をする人々が集まって住んでいるアパートだ。特に大家はアメリカ人限定で貸した訳ではないが、自然とアメリカ人が集まってしまい、今では市内全体で呼び名が通ってしまっているが、本当の名前は他にある筈だ。昨日公園で出会った時、ウィッシャーは1ヶ月の滞在予定だと言っていたので、アメリカンハウスに部屋を借りてもおかしくない。英語が普通に話せるアパートなら安心出来るのだろう。
 テオはウィッシャーの買い物を見た。冷凍食品のピザやスープだ。自宅に招いてやっても良さそうなシチュエーションだが、招きたくなかった。アスルだって嫌がるだろう。

「同居人がいて・・・」

とテオは言った。

「彼氏が嫉妬深いので客を呼べないんです。」

 別に恋人の意味で言った訳ではなかったが、「男友達」をウィッシャーはある意味に捉えた様だ。意味深な笑みを浮かべて、そうですか、と言った。テオは、ではまた、と言い、支払いを済ませて先に店を出た。真っ直ぐ帰った。
 男の恋人がいるのかどうか、昨日のデート現場を見ればわかるだろう。そしてさっきの会話をアスルが聞いたら、絶対に機嫌を損ねるだろうと確信した。
 帰宅すると、アスルが待ち構えていて、紙袋を受け取ってすぐにキッチンに入った。テオはその背中に言った。

「例の不審なアメリカ人が、アメリカンハウスに住んでる。さっき店で出会った。」

 アスルが背中を向けたままで尋ねた。

「つけられたのか?」
「気をつけたつもりだ。それに向こうは冷凍食品を買っていた。」

 フンと言って、アスルは鍋に水を入れ始めた。


第4部 花の風     6

  関わるな、と言われてもやっぱり気になった。テオは自分で何とかするべきではないかと思った。ロジャー・ウィッシャーと名乗ったアメリカ人が、母国の諜報部員なら、危険な目に遭うのはテオではなくウィッシャーの方だ。彼は既に大統領警護隊と接してしまっている。警備班の中で噂になっているだろう。当然司令部にも話は伝わるし、司令官エステベス大佐が長老会に審理を依頼すれば当然の如く”砂の民”に指令が行くに違いない。このセルバ共和国内でアメリカ人に死んで欲しくなかった。不審な死を遂げたと本国が知れば、必ず調査する人が新たに派遣されて来る。そしてまた同じことが繰り返される。
 日曜日も天気が良かったが、アスルは出かける気力がないのか家でテレビを見てゴロゴロしていた。テオも寝室兼書斎でロジャー・ウィッシャーと言う名前で色々検索してみた。外務省に問い合わせてみたかったが、セルバ共和国の省庁は土日をしっかり休むので電話もメールも返事がない。ちょっと考えてから、アリアナの携帯にメールを送ってみた。シーロ・ロペス少佐と話がしたい、と。
 ロジャー・ウィッシャーの名前でテオが知っている男らしき人物は、靴製造会社の海外営業マンでヒットした。主に軍隊や登山関係の団体に靴を提供している会社だ。ウィッシャーはスペイン語が得意だと言うことで中南米と母国を行き来している。出身大学と海兵隊の所属部隊も書かれていた。元海兵隊か、とテオは男に感じた軍人の匂いに納得した。軍隊上がりだから用心しなければならないと言う訳ではないが、「大統領警護隊と仲良しの元アメリカ人」の存在を知っていると言うのは怪しい。テオはセルバ共和国在住のアメリカ人の団体とは距離を置いている。亡命したので、母国の人間に近づきたくないのだ。しかし彼もアリアナも研究者で、大学にはアメリカ人の研究者もいるし、訪問もある。嫌が王にも接しない訳にいかなかった。
 シーロ・ロペスから電話がかかってきたのは、お昼ご飯を食べ終わった頃だった。スープとパンだけの質素な昼食を終えて洗い物をしていると、テーブルの上の携帯が鳴った。アスルが煩そうに怒鳴った。

「外務省の少佐だ!」

 テオは急いで手を拭いて電話に出た。

ーー急ぎの用ですか?

とロペス少佐がいつもの冷静な声で尋ねて来た。

「急ぎかどうかわかりませんが、」

 テオはロジャー・ウィッシャーと名乗るアメリカ人が彼とアリアナを探っているかも知れないと伝えた。

「実際どんな人物なのか、俺は昨日ちょっと言葉を交わしただけなのでわかりません。無害なのか、それとも敵なのか・・・」
ーー貴方からは接触しないことです。向こうから近づいて来たら連絡して下さい。
「わかりました・・・」

 アリアナにも注意させてくれと言おうと思ったが、それより先にロペス少佐は電話を切った。
 アスルがテレビを見ながら言った。

「日曜日に仕事を持ち込むから怒ってるんだ。」
「そうなのか?」
「多分、明日の朝、外務省に彼が出勤したら大統領警護隊からの報告が上がって来ている筈だ。それから彼は動く。」
「だが、ウィッシャーが諜報活動をする人物なら、日曜日も祝日も関係ないぞ。」
「入国の時に目を付けられていれば、監視が付いている。」

 アスルはそれっきりテレビに関心を向けてしまい、相手にならなかった。
 テオは洗い物を片付けてしまい、昼寝のために寝室に入った。ベッドにゴロリと横になって、さっきのアスルの言葉を考えた。

 入国の時に目を付けられていれば 

 俺が初めてセルバへ来た時、監視を付けられたのだろうか? 俺が記憶を失ったバス事故は本当にただの事故だったのだろうか? 
 彼は首を振った。いや、そんな筈はない、あれはただの事故だ。”砂の民”は罪のないセルバ国民37人を、俺1人消すために一瞬で巻き添えにしてしまう筈がない。
 しかし胸がドキドキして、結局昼寝をゆっくりする気分でなくなった。彼は起き上がり、ウィッシャーが勤めていると言う靴製造会社の出張所を検索した。ベンダバル、疾風 と言う意味の運動靴メーカーとしてセルバ社会では紹介されていた。店ではないので、今日はオフィスは閉まっている。明日行ってみよう。
 テオはリビングに行った。アスルはサッカー中継を見ている。

「アスル、ベンダバルと言う運動靴を知っているか?」

 アスルは振り向きもせずに答えた。

「知っている。だがマイナーだ。俺のチームはナイキを履いている。」

 そして全然関係ない質問を返してきた。

「今週はどうしてエル・ティティに帰らなかったんだ?」
「ああ・・・親父の方の都合だ。」

 テオは肩をすくめた。

「親父もやっとデートしたい女性を見つけたんだよ。」


第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...