2022/01/11

第4部 花の風     25

  テオはもやもやした気持ちを抱えたまま自宅に帰った。アスルがキッチンで野菜と肉の煮込みを作っていた。
 テオは鞄を寝室に放り込むと、ダイニングのテーブルの前に座った。甲斐甲斐しく働くアスルを見ながら、彼は呟いた。

「俺はお人好しだなぁ。」

 アスルが呟き返した。

「今頃気がついたのか。」

 ムッとしたが、アスルは元々口が悪い。テオは頭の上で手を組んだ。

「父親探しをしていたアメリカ人は偽物だとさ。ミイラは本物のアンドリュー・ ウィッシャーだが、ロジャー・ウィッシャーは偽物だ。だからアンドレと血縁ではないし、恐らくアンドリューとも他人同士だ。アンドレとミイラの比較を行わなければならなくなった。」

 アスルが肩越しに彼を見た。

「どんな結果が出ようが、アンドレは俺たちの一族だ。アメリカ人には渡さない。」
「当たり前だろう。」

と言い返してから、テオはドキリとした。ロジャー・ウィッシャーと名乗った男は、”ヴェルデ・シエロ”のDNAを採取に来たのではなかろうか。大統領警護隊に接近してみたものの、触れることさえ出来ず、相手にもされなかった。だから次に隊員と親しくしている遺伝子学者に接近した。何らかの理由をつけて隊員の細胞を手に入れようとしていたのであれば・・・。
 テオは研究室の冷蔵庫を思い出した。文化保護担当部の友人達のサンプルを保存してある。他人にわからないように記号で識別ラベルを書いてあるし、他にも色々動物や人間のサンプルを入れてあるが、根こそぎ奪われたらお終いだ。
 彼は玄関に向かった。

「大学に行ってくる。DNAのサンプルが心配だ。」

 ドアを開けようとすると、直ぐ後ろにアスルがついて来ていた。

「相手は武器を持っているかも知れない。俺も行く。」

 めっちゃ心強い用心棒だ。10人のならず者を薙ぎ倒した格闘技の達人だ。テオは彼に来いと手を振った。 アスルは外に出ると、小さく手を振った。後でわかったことだが、ちゃんとドアを施錠してくれたのだ。
 アスルを助手席に乗せてテオはグラダ大学に向かって車を走らせた。大した距離ではないが、夜のラッシュアワーが起こっていた。一般企業は省庁よりシエスタが長い分、終業時間が1時間遅い。企業勤めの人々が帰宅する時刻だった。なかなか前へ進まない。
 テオが焦っていると、アスルが言った。

「先に行ってる。」

 彼はテオの返事も待たずに助手席側のドアを開けて、外に降りた。ドアをバタンと閉めて、車の列の間を走って姿を消した。アッと言う間の出来事で、テオは何も言えなかった。通常なら15分で行ける距離を半時間かけて大学に到着した。遅く迄研究している学者もいるのか、いくつかの部屋の窓に灯りが点いていた。
 テオは駐車場に車を駐めると、自然科学学舎の研究室へ走った。アスルが開けてくれたのか、それとも何処かの研究者が開けっ放しにしているのか、入り口の扉が開いていた。テオは中に入った。何度か夜に来ているので、暗くても勝手はわかる。非常灯の灯りだけを頼りに階段を上り、2階の研究室へ行った。ドアの前へ行くと、アスルが気配でわかるのか、ドアを中から開けてくれた。

「まだ誰も来ていない。」
「それじゃ冷蔵庫の中の物を持って帰る。」

 ロジャー・ウィッシャーが偽物なら、今夜辺りにサンプルを探しに来るだろう。いつ迄もセルバでぐずぐずしていない筈だ。身分を偽る目的で利用した行方不明者が、ひょんなことからミイラになって現れたのだ。身元確認でセルバとアメリカの間で情報交換が行われて、回数が多ければ偽物の息子だとバレる。
 テオは携帯のライトを頼りに棚から保冷バッグを出し、冷蔵庫の中の友人達のサンプルを取り出して中に入れた。小さいので重量はないが、暗がりで落として紛失する恐れがあるので慎重に作業した。
 全部入れ終わって保冷バッグの口を閉めた時、アスルが囁いた。

「足音が近づいて来る。机の後ろに隠れていろ。」

第4部 花の風     24

  テオが仕事を終えて帰宅する準備をしていると、ケツァル少佐から電話がかかってきた。出来れば直ぐに会いたいと言うので、カフェテリア・デ・オラスで待ち合わせる約束をして大学を出た。徒歩でも10分の距離だ。車を文化・教育省の駐車場の空きスペースに置いて、カフェに行った。少佐も直ぐ来た。ただし、少佐は2人いた。どちらも大統領警護隊だ。

「ブエノス・タルデス、ロペス少佐。何か御用ですか?」
「ブエノス・タルデス、ドクトル・アルスト。例のアメリカ人の件です。」

 まだ何も注文していなかった。ケツァル少佐が車の中で話しましょう、と言うので、彼女のベンツまで行った。

「父親探しをしていたアメリカ人ですね?」

とテオは確認した。ロペス少佐が「スィ」と肯定した。ベンツの後部席に男性2人が並んで座り、ケツァル少佐は運転席に座った。ロペス少佐が先に言った。

「先ず、貴方の方の出来事を話して頂けませんか? ウィッシャーと名乗る男の父親探しの進捗状況です。」

 それで、テオはウィッシャーが公園で話しかけて来た翌日、マカレオ通りの食料品店で再び出会ったことを語った。アスルからも大統領警護隊に声をかけて来るアメリカ人の話を聞いたので、ネットで検索して、ウィッシャーが勤務する靴の会社が実在すること、ウィッシャーの経歴に海兵隊勤務があるのに、本人との会話では一度もそれが出てこないこと、C I Aの仕事をしていたと本人は言ったが、それなら父親探しもそちら方面で出来る筈なのに、コネを使わないこと、ウィッシャーは大学の講義の最中に教室に現れ、父親探しを依頼してきたこと、その際にDNA検査用サンプルを採取させてくれたことをかいつまんで話した。

「それから、ニュースになったのでご存じだと思いますが、考古学部がオルガ・グランデで出土したミイラの鑑定を依頼して来て、ケサダ教授と学生達が俺の研究室でミイラの荷解きをしたんです。布を剥がしたら、ミイラの腕に腕時計が嵌められていて、まるで助けを求めるような異様なポーズをしていました。しかもインプラントで歯の治療をしていた。直ぐに憲兵隊に連絡してミイラを引き取ってもらいました。ウィッシャーに憲兵隊が腕時計を見せたら、父親の時計だと確認しました。インプラントの方もアメリカから歯科医療記録を取り寄せるそうです。 ウィッシャーも父親に間違いないだろうと言っています。それから・・・」

 テオは医学部でコンピューター処理による復顔術で、写真のアンドリュー・ウィッシャーと同じ顔が現れたと話した。

「まだコンピュータ画像の話をロジャーに連絡していないのです。恐らく、あれを見ればミイラが父親のものだと納得するでしょう。」
 
 するとロペス少佐が言った。

「ミイラが写真の男である可能性は否定出来ないでしょう。確かに、20年近く前に南の国境検問所からセルバに入国して、出て行った記録が何処にもないアメリカ人が一人いました。アンドリュー・ウィッシャーと言う名前に間違いありません。」
「では・・・」
「しかし、アンドリュー・ウィッシャーに息子はいませんでした。」

 テオは思わず、「ハァ?」と声を上げてしまった。

「しかし、ロジャー・ウィッシャーのネット上のプロフィールには、父親はアンドリューと書いてあった・・・」
「そもそもロジャー・ウィッシャーと言うアメリカ人はいないのです。否、貴方が会っていた男はロジャー・ウィッシャーではない、と言った方が良いでしょう。」
「それじゃ、あのネット情報自体がフェイクですか?」
「今どき、ネットで直ぐ身元を調べられるとわかっている組織がでっち上げた偽のプロフィールでしょう。20年前に行方不明になったアメリカ人がいたので、それを利用したのです。恐らく、ロジャーと名乗る男は少しばかり顔を整形していると思います。それとも行方不明者に似た顔の男が任務を与えられたか・・・」
「任務?」

 ケツァル少佐がそこで初めて言葉を発した。

「テオ、ロジャー・ウィッシャーとミイラのDNAを比較分析したのですか?」
「否、まだだ。分析器に入れて、君の電話をもらったのでそのままにしてある。分析表は夜中に出て来る予定だ。」

 アンドレ・ギャラガとロジャーの比較はしたが、これはアスルとの約束で2人の少佐には言えない。

「きっと他人ですよ。」

とロペス少佐が言った。

「ロジャー・ウィッシャーなる人物の真の目的が何であれ、彼は大統領警護隊を騒がせた。当然ながら外務省は彼の身元調査に遊撃班の出動を依頼しました。私の耳には入っていないが、”砂の民”もその動きを察しているでしょう。遊撃班がウィッシャーを捕まえれば、あの男の命は助かるでしょうが、そうでなければ、我々には何も出来ません。」

 背筋が寒くなるようなことを言って、ロペス少佐はベンツから出た。そして近くに駐車してあった彼自身の車に乗り込むと、直ぐに走り去った。
 テオは黙ってそれを見送っていた。ケツァル少佐が咳払いしたので、彼は我に帰った。

「ごめんよ、直ぐに出る。」

 すると少佐が言った。

「明日、うちへ夕食に来ませんか? アスルも一緒に。」


第4部 花の風     23

  アスルとの静かな夕食を済ませると、テオはゲノムの分析結果表を詳細に眺めた。アスルはいつもの様にサッカー中継をテレビで観戦していた。近所の家から聞こえて来るような興奮した叫び声を上げたりしないが、熱心に見ていて、テオがコーヒーを淹れてやっても直ぐには気づかない程だ。
 テオは3時間程分析表を見つめ、やがて大きな溜め息をついてデスクのライトを消した。書斎兼寝室を出ると、サッカーの試合が終わったところで、アスルがテーブルの上を片付けていた。

「遺伝子の分析は途中だが、結果は大体出た様だ。」

とテオが言うと、アスルは手を止めて彼の顔を見た。テオはちょっと笑って見せた。

「アンドレはウィッシャー氏の子供ではなく、ギャラガ氏の子供だ。」

 アスルは数秒間彼を見返し、そして頷いた。微かに安堵の表情が見て取れた。

「顔の印象は似ているが、アンドレがロジャーと兄弟である確率は、俺の分析では殆どない。まだ見てみないといけないが、肉親だと言う決め手は現在の段階では皆無なんだ。ウィッシャーはアングロサクソンだが、アンドレはラテン系の白人の子供だと思う。彼には色々な人種が混ざっているが、イギリス系ではないと、俺は思う。」
「あいつが何系だなんて、俺達にはどうでも良いんだ。」

とアスルは言った。

「あいつが肉親のことで今以上に悩まずに済めば、良いんだ。」

 テオは同意した。そして「おやすみ」と言って、寝室に戻った。デスクの上の分析表を折り畳み、鞄に入れた。
 翌日、大学に出勤すると、テオは医学部解剖学科のベアトリス・ビスカイーノ准教授にメールを送った。何時研究室にお邪魔すればよろしいかと言う問い合わせだ。ビスカイーノ准教授は3分後に返事をくれた。午後1時ではどうか、と言うことだ。シエスタの時間に行うと言うことは、彼女にとってはお遊びの次元なのだろう、とテオは予想した。
 承諾して、午前中の仕事に専念した。
 昼食は手早く取った。ちょっと楽しみで興奮していたのかも知れない。コンピュータでの復顔処理はテレビで見たことがあるが、実際に見るのは初めてだった。
 ビスカイーノ准教授の部屋に行くと、学生も数人いた。課外学習の形で彼女は行うのだとわかった。テオはアンドリュー・ウィッシャーの写真を画像が出来上がってから出すと言うことに決めて、彼女の作業を見学した。
 さまざまな方向から撮影したミイラの頭部の骨の写真から立体画像を作り、それにコンピュータが「肉付け」していく。3Dプリンターが部屋にあったが、ビスカイーノはそれを使わなかった。正規の製造依頼でないので、スクリーン画像だけの制作だ。
 
「苦悶の表情の骨だったから、画像もちょっと歪むかも。」

とビスカイーノは断った。最も画像が修正されており、彼女の言葉はちょっとした「脅し」に過ぎなかった。テオと学生達が見守る中で彼女はキーボードから次々とコマンドを入力していった。
 1時間後に出来上がった男性の顔を見て、テオは写真を出した。みんなでそれとスクリーン上の顔を見比べた。

「そっくりだ!」
「これでミイラの身元が判明しましたね。」
「遺伝子の方はどうなんですか?」

 テオは言った。

「親族から要求があれば分析するけど、申請がなければしない。」

 そしてビスカイーノ准教授と握手した。

「グラシャス、ビスカイーノ准教授。息子さんに連絡しておきます。」
「グラシャス。お役に立てて嬉しいです。」



2022/01/10

第4部 花の風     22

 解剖学の教授は留守だった。しかし助手を務めた准教授が事務室前迄ミイラのサンプルを持って来てくれた。

「人工物での身元確認では正確性が低いですからね。」

と彼女は言った。彼女はロジャー・ウィッシャーの父親捜索の件を知らなかったので、テオが説明すると、コンピュータでミイラの生前の顔を作ってみようかと提案してくれた。それでテオは、ベアトリス・ビスカイーノと言うその准教授の研究室を翌日訪問する約束をした。
 医学部から生物学部に戻り、午後の授業をこなした。研究室に再び戻った時、携帯電話が鳴った。画面を見るとケサダ教授だったので、病院前で教授の母親と妻に出会ったことがバレたのかと冷や汗が出た。教授が話がありますと言うので、テオは覚悟を決めて考古学部へ行きますと答えた。
 急いで室内を片付け、翌日の授業の準備ができていることを確認すると、部屋を施錠して考古学部へ向かった。
 ドアをノックすると、ケサダ教授が自ら開けてくれた。

「急に呼び出して申し訳ありません。」

と教授が言ったので、怒っていないとわかった。テオは出来るだけリラックスしようと己に言い聞かせた。勧められた椅子に座ると、ケサダ教授はコーヒーを淹れてくれた。

「例のミイラのことです。」

と彼が切り出した。テオが黙っていると、彼は「聞いた話です」と断りを入れた。

「黄金郷などと言う馬鹿な夢を見てオルガ・グランデの旧市街を彷徨いていた白人がいたそうです。」

 テオはドキリとした。アンドリュー・ウィッシャーのことか?

「暗がりの神殿の銘板を誤訳した呪い文が黄金の在処を示す暗号だと勘違いした様でした。彼は聖マルコ教会の地下墓地の存在を何処かで知り、バルで知り合った仲間2人と夜中に床石を剥がして墓地へ降りる入り口を見つけました。彼等は墓所へ降りた。そしてそこに安置されている遺体の中で金の指輪を嵌めている一体を見つけました。バルで知り合った男達は当然セルバ人でした。彼等は黄金が欲しかったが、ミイラの指輪を見て怖気付きました。死者の冒涜は恐ろしい呪いを呼び込むと信じたのです。しかし白人はその指輪に文字が刻まれているのに気がつき、ミイラの指から指輪を抜き取ろうとしました。セルバ人はそれを止めようとして争いになりました。暗闇の中での争いです。白人は転倒し、脚を折りました。セルバ人は逃げた。階段を駆け上がり、教会に出ると床石を元通りに戻して去りました。」

 一気に語ると、ケサダ教授はテオを真っ直ぐ見た。そして繰り返した。

「聞いた話です。」

 テオは黙っていた。アンドリュー・ウィッシャーの身に何が起きたのか、ケサダ教授が教えてくれているのだ。ウィッシャーがバルで出会ったセルバ人は、普通のセルバ人だったのだろうか。ウィッシャーが呪い文を元に黄金を探していると言う噂を聞いて、彼に接近した”砂の民”ではなかったか。年代的には、オルガ・グランデの戦いが行われた頃だ。オルガ・グランデの街にはシュカワラスキ・マナの結界の為に街中に閉じ込められた”ヴェルデ・シエロ”達がいたのだ。”砂の民”が結構いたのではなかったか。彼等はマナと戦いながらも、一族を守る仕事もこなしていた。 ウィッシャーの言動は一族の秘密の聖地を探そうとしていると受け取られたに違いない。だからウィッシャーは「粛清」された。
 ケサダ教授は勿論その頃はまだ子供だった。母親の希望で、ムリリョ博士に引き取られてグラダ・シティで暮らしていた。だから、アンドリュー・ウィッシャーに起きたことは、伝え聞きだ。「聞いた話」だ。誰から聞いたのか、教授が語ることは永久にない。一緒に異様なミイラを見た仲間として、教授が独自のルートで調べたことを教えてくれたのだ。

「グラシャス。」

とテオは言った。教授が軽く頭を下げた。

「一つだけ・・・」

 テオは、多分これは教授も知らないだろうと予想しつつも尋ねた。

「その白人が、”シエロ”の女に子供を産ませたと言う話はありませんね?」

 教授がちょっと考えて、そして彼が誰のことを念頭に置いて質問したか、思い当たった様だ。ノ、とケサダ教授は首を振った。

「あったかも知れませんが、私は聞いていません。しかし、なかったと言うことにしておいた方が良い。」
「そうですね。」

 テオは同意した。あんな末路を辿った男の子供だったなんて、考えただけでも嫌じゃないか。


第4部 花の風     21

  シエスタの時間だ。テオは医学部へ歩いて行った。グラダ大学医学部は人文学舎や自然科学舎からちょっと距離がある。病院が併設されているので駐車場も別だし、職員寮も立派なものが建てられている。アリアナ・オズボーンは結婚する直前迄そこに住んでいた。今はロペス少佐と夫の父親と共に郊外の大きな家に住んで運転手付きの車で通勤だ。テオはアリアナではなく解剖学の教授を訪ねるつもりだった。事務所で面会を申し込んで、断られたら帰ろうと言う軽い気持ちだった。ミイラが現在何処に保管されているのか訊くだけでも良かった。
 病院前は広い芝生の庭になっていて、車椅子に乗った患者やパジャマ姿の患者がベンチに座っているのが見えた。
 ベンチに座った先住民の高齢女性の前を通り過ぎようとした時、女性が囁いた。

「テオドール・アルスト・・・」

 テオはびっくりして足を止めた。振り返ると、その女性はパジャマではなく、Tシャツに巻きスカートを身につけた、年配のセルバ女性に多い服装で、白い髪を三つ編みにして顔の両側に垂らしていた。皺だらけの顔を彼に向けて微笑んだ。テオの名前を呼んだものの、彼女はその後先住民の言語でブツブツ呟き、彼は理解出来なかった。テオは彼女の前に戻り、身を屈めて声を掛けた。

「ブエノス・タルデス。」

 先住民の言語を習いたいのだが、どう言う訳か大統領警護隊の友人達は教えてくれない。”ティエラ”の先住民の言語も習おうとしてみたが、発音が難しい音があって、なかなか習得出来ないでいた。だからスペイン語でその高齢女性に話しかけた。

「俺のことをご存知ですか?」

 女性はまた微笑した。その時、別の女性の声が聞こえた。

「義母は子供に還っているのです。出身部族の言葉しか話しません。」

 テオは後ろを振り返り、40代と思われる先住民の女性を見つけた。純血種だが、”ティエラ”なのか違うのか、わからなかった。テオは立ち上がり、ブエノス・タルデスと彼女に挨拶した。彼が胸から下げている大学職員のI Dカードを見て、女性がニッコリした。

「ドクトル・アルスト、お初にお目にかかります。」
「俺をご存知ですか?」
「スィ。父や夫から貴方のことを伺っています。」

 女性は優しい笑顔を見せたが、その目は知的で、鋭い光を放っていた。テオはドキリとした。”ヴェルデ・シエロ”だ。彼が彼女の正体に気づいたことを、女性も察した。だから彼女は名乗った。

「貴方は一族ではないので、他人を介さずに自己紹介致します。コディア・シメネスと申します。」
「セニョーラ・シメネス・・・失礼ですが、お父様やご主人は俺のことを・・・」
「父も夫もグラダ大学の考古学部で教授をしています。」

 テオは数秒後に、彼女が誰のことを言っているのか悟り、心の底から驚いた。コディア・シメネスはファルゴ・デ・ムリリョ博士の娘だ。そして夫と言うのは、フィデル・ケサダ教授だ。すると、目の前に座っている高齢女性は・・・。彼は低い声で囁いた。

「この方は、マレシュ・ケツァル、いや、マルシオ・ケサダさん?」

 コディアが、「スィ」と頷いた。

「5年前から夢の中に住んでいます。過ぎ去りし日を見て、生きているのです。」
「さっき、俺の名を呼んだんですよ。」
「恐らく夫の記憶を読んだのでしょう。」

 コディアは夫の母親を月に1度定期健診で通院させているのだと言った。薬局で薬を受け取る間、庭で義母を待たせていたのだ。「オルガ・グランデの戦い」を目撃したイェンテ・グラダ村の最後の生き残りである女性は、人生の辛かった記憶を仕舞い込んで、楽しかったことだけを思い出しながら余生を送っているのだろう。
 テオはコディアの許可をもらってマルシオ・ケサダの手を握った。年老いたグラダの血を引く女性はニッコリ笑って彼の目を見た。そして何かを囁いた。コディアが通訳してくれた。

「義母は言いました。エウリオの娘は元気ですか、と。」
「スィ。」

 テオはマルシオの目を見つめて大きく頷いた。

「カタリナ・ステファンは元気です。」

 マルシオがまた何か言った。コディアが通訳した。

「赤ちゃんによろしく。」

 多分、マルシオの中の時は、カルロとグラシエラが幼い時で止まっているのだろう。カタリナが子供を産んだ時、彼女自身は我が子フィデルを守る為に手放していたのだ。今、息子の家で息子の妻に世話をされていることを理解しているだろうか。
 テオはマルシオをハグしたい衝動に駆られたが自重した。”ヴェルデ・シエロ”は異人種とハグする習慣を持たない。それにコディア・シメネスの父親は純血至上主義者だ。もしかすると隠して養っているマルシオ・ケサダの存在をテオが知ったことを知ると、機嫌を損なうかも知れない。
 テオはマルシオ・ケサダから離れた。

「この人の存在は一族には秘密でしたよね?」

と確認すると、コディアは頷いた。

「貴方は信用出来ると夫が言っておりますので、明かしました。」
「グラシャス。」

 テオは心から礼を言った。

「俺は今日のこの出来事を忘れます。」

 するとコディアは微笑んで言った。

「シュカワラスキ・マナの子供達には打ち明けても大丈夫だと思いますよ。」


第4部 花の風     20

  水曜日の昼前にアンドレ・ギャラガとロジャー・ ウィッシャーの遺伝子分析結果が出た。テオはそれを比較していくつもりで、分析表を鞄に入れて、昼食を取りにカフェへ行った。料理を取ってテーブルに着いた時、ロジャー・ウィッシャーがやって来るのが見えた。偶然なのだろうが、テオはちょっと緊張を覚えた。ウィッシャーは彼を見つけると真っ直ぐテーブルに来た。ハローと声をかけ、向かいに座っても良いですか、と訊くので、テオは許可した。

「憲兵隊から連絡が入ったんで、報告しておこうと思いました。」

と ウィッシャーは切り出した。テオが彼の顔を見ると、ウィッシャーはちょっと悲しげに見えた。

「ここの大学で騒ぎになったミイラがありましたね。確か、貴方の研究室で荷解きされたとか?」
「スィ。考古学部の学生達が腕時計や歯のインプラントに気が付いて、分析が中止になったミイラですね。」

 テオは、ウィッシャーが憲兵隊からもらった連絡の内容に見当がついた。ウィッシャーが溜め息をついた。

「憲兵隊にその腕時計を見て欲しいと言われて、昨日の午後、行って来ました。綺麗に泥を落としてもらっていて、裏側の刻印がはっきり見えました。From Mary to Andrew、母が父の誕生日祝いに贈った時計に間違いありませんでした。」
「それは・・・」
「さらにインプラントの調査で、父の歯科の医療記録を取り寄せる許可が欲しいと言われたので、書類にサインしました。恐らく明日にはアメリカから返事が来るだろう、と。」

  ウィッシャーはテーブルに視線を落とした。

「骨から推測される身長や、髪の色、褪せていますが父の髪の色である可能性はあります、それらの要素を合わせて、あのミイラは父である可能性が大きいです。」
「それは・・・残念です。」

 テオはそれ以上言うべき言葉を見つけられなかった。父親が時計を他人に譲ったとか、盗まれた可能性はないのかと言おうかと思ったが、インプラント治療を受けていたとしたら、本人である確率が高い。
 ウィッシャーが顔を上げた。

「兎に角、貴方が大統領警護隊を通して憲兵隊に父の捜索を頼んでくれたので、こんな形ですが父を見つけられたと思います。礼を言います。」
「俺は何の力にもなっていません。」

 ウィッシャーが立ち上がったので、テオも立ち上がった。手を差し出され、握手した。

「これからどうされますか?」
「仕事で来ているので、任期が終わる迄はこちらにいます。ミイラが父だとはっきりしたら、アメリカへ連れて帰って埋葬します。」

 さようなら、とウィッシャーは歩き去った。
 あっけなく終わった父親探しに、テオは釈然としないものを感じたが、黙って靴のセールスマンを見送った。


第4部 花の風     19

  オルガ・グランデからアンドレ・ギャラガがメールで写真を送って来た。地下墓所はやはり旧市街にある小さな教会の床石を外して階段を降りたところにある、十字形の通路で、規模はあまり大きくなかった。グラダ大学考古学部は教会の名前を採って「オルガ・グランデ・聖マルコ遺跡」と名付けた。大統領警護隊文化保護担当部は遺跡登録したが”ティエラ”の墓所なので関心が薄い。グラダ大学も調査を現地の考古学研究施設に託してしまった。
 ギャラガがグラダ・シティに帰って来た。”心話”でケツァル少佐や先輩将校達に報告すると、土日に働いた代休をもらい、海へ息抜きに行ってしまった。
 テオもエル・ティティでゴンザレス署長とのんびり週末を過ごし、月曜日の午前大学に戻り、午後初級者向け講義をこなし、夕方に帰宅した。アスルが帰って来た。珍しくテイクアウトの夕食を買って来ていた。後輩2人がいない職場は流石にキツかったらしい。テオは何も言わずに彼が買った料理を食べた。アスルは食事が終わるとシャワーを浴びて、テレビも見ずに寝てしまった。テオも流石に長距離バスの旅の直後の仕事は堪えた。
 翌朝、テオが目覚めると、アスルはいつもの様に朝食の支度をしていた。ギャラガは何時帰るのかと訊くと、明日から通常業務に戻ると答えた。

「あいつ、海が好きだから、偶にボーッと波を眺めていると気分が落ち着くそうだ。」
「そんなことを以前にも言っていたな。」

 するとアスルが、ドクトル、と呼んだ。

「あいつのサンプルは採ってあるのか?」
「スィ。君達文化保護担当部のサンプルは全員ある。カルロも採ってある。」
「あいつと、あの訳のわからないアメリカ人の比較は出来るか?」

 思いがけないアスルの言葉に、テオは驚いて皿から顔を上げた。アスルは横を向いた。

「あいつの為じゃない。俺がスッキリしないんだ。突然現れた白人が父親を探していると言う。写真の男はアンドレに似ている。その父親が行方不明になった年代はアンドレが生まれた頃だ。しかもその父親は、『暗がりの神殿』の呪い文に似た言葉を聞いて黄金郷を探していたそうじゃないか。アンゲルス鉱石が見つけたミイラは白人のものだと聞いた。地下墓所から出ようとして出られずに死んだかも知れないと、遺跡登録の申請書を持って来た考古学部の学生が言っていたぞ。俺は何だか落ち着かないんだ。」
「その気持ち、俺にもわかる。」

 テオは同意した。

「アンドレにしてみれば今更なんだろうけど、恐らく彼も落ち着かないんだ。だから海を見に行った。ウィッシャーが彼と無関係な人間だとはっきりさせれば、彼もスッキリするだろう。」

 テオとアスルは2人だけの約束を交わした。アンドレ・ギャラガとロジャー・ウィッシャーの遺伝子を比較する。どんな結果が出ようと、ギャラガが希望しない限りは本人に教えない。ケツァル少佐にもロホにもデネロスにも、ステファンにも教えない。
 アスルは普段通り、ロホの車に同乗して出勤して行った。テオも時差出勤して、研究室に入ると、ウィッシャーとギャラガのサンプルから分析に取りかかった。

第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...