2022/01/19

第5部 西の海     5

  学生達がケサダ教授を呼ぶ声が聞こえた。教授をお茶に誘っているのだ。ケサダは手で合図を送ると、残った食事を急いで食べてしまい、テオとロホに挨拶して、トレイを持って去って行った。彼の後ろ姿を見送りながらテオはロホに尋ねた。

「本当に君の用件は彼のクシャミのことだけかい?」

 ロホは迷った。テオにあの衝撃波の話をするべきだろうか。尤も教授自身がさっき言葉に出したので、テオも聞いているのだ。

「スィ、教授のクシャミです。」
「衝撃波を彼が出したのか?」
「私だけが感じたのです。デネロスとギャラガは感じていない様子でした。」
「それはつまり?」
「攻撃に使う気の爆裂波ではなく、身内に注意を促したり、呼びかけたりする時に使うものです。」

 ロホはちょっと考えて、周囲に聞き耳を立てている人間がいないことを確認してから説明を続けた。

「例えば、親が森の中や人混みで子供を呼ぶ時や、上官が己の部隊の部下だけに全員集合を掛ける時などに発する気です。ただ、先程貴方が教授に言われた様に、クシャミなどで無防備になった瞬間に発してしまう場合もあります。」
「教授のその衝撃波は大きかったのに、メスティーソの少尉達は気がつかなかったのか。」
「そうです。つまり、凄く独特の衝撃波を教授は出されたのだと思います。純血種のブーカやオクターリャ、サスコシなどにしか感じ取れない波です。」
「それにグラダも?」

とテオは付け加えた。そう考えたから、ロホはケツァル少佐に”心話”で報告してみたのだ。大臣の部屋にいても少佐にだって感じ取れただろうと思ったから。しかし少佐は無視した。

「ケサダ教授は純血種だろ?」
「でもマスケゴ族です。」

 ロホはこの時、一瞬テオの目が揺らいだことに気がついた。

「何かご存知なのですか、テオ?」

 ロホは鋭い。テオは己が隙を見せてしまったことを悟った。だが、「あのこと」は秘密にすると、ムリリョ博士と約束したのだ。だから彼はロホの顔を真っ直ぐに見て言った。

「今朝の教授のクシャミのことは忘れた方が身のためだ、ロホ。」

 ロホの目に「納得がいかない」と言う表情が浮かんだ。テオはどう言えば彼を納得させられるかと考え、”ヴェルデ・シエロ”流の語り方を思いついた。

「彼がどの部族の出身だろうと、彼をマスケゴとして育てた人の気持ちを考えてやってくれないか? そして彼はマスケゴとして生きているんだ。それを尊重して差し上げよう。君も古い考えの実家を出て新しい君自身の家を作ろうとしているんだ。理解出来るよな?」

 ロホが目を遠くへ向けた。そして呟いた。

「サスコシのメスティーソが純血のグラダを普通の子供として育てた様に・・・」
「そうだ。」

 改めて向き直ったロホの目はもう迷いがなかった。

「グラシャス、テオ。納得しました。今まで経験したことがない強さの衝撃波を感じ取ってしまったので動揺してしまいました。大尉になったばかりなのに、恥ずかしいです。」
「恥ずかしいことはないさ。ここは戦場じゃないんだ。だけど、そんなに大きかったのかい、彼のクシャミの衝撃波は?」
「スィ。これでやっとわかりました、少佐があの教授を怒らせるなといつも仰っている意味が・・・だからセニョール・シショカは彼に屈したのですね。」

 テオとロホは笑った。

「ところで、教授が文化保護担当部へ出向いたのは、どこかの遺跡を新たに発掘するためかい?」
「ノ。先日発見されたオルガ・グランデ聖マルコ遺跡の見学をなさりたいそうです。恐らく、ミイラの中に仲間外れがいないか、確認されるのでしょう。」

 ああ、とテオは納得した。以前ムリリョ博士から博物館収蔵のミイラの中から”ヴェルデ・シエロ”のものを探し出せと強制的にバイトをさせられたことがあった。ケサダ教授はそんな手間を後日に行いたくないので、自ら遺跡を見て幽霊の有無を確認するのだ。”ティエラ”の幽霊は生きている”ヴェルデ・シエロ”がミイラに近づくと怖がって遺体の中に隠れてしまうが、”シエロ”の幽霊は隠れない。だから助手ではなく教授自らが見に行く必要があるのだ。
 教授は生まれ故郷のオルガ・グランデを懐かしがって見に行く訳ではないのだ。恐らく10歳になるかならぬかのうちに離れてしまった故郷、母親もグラダ・シティに引き取ってしまっている現在は、未練がないのかも知れない。彼の胸の内は誰にもわからない。



第5部 西の海     4

  ケサダ教授の申請書はロホが認可署名を行い、あっさりと見学許可が出た。遺跡を掘らないし、監視の必要がないから大統領警護隊は立ち入り許可だけ出す。教授は署名が入った申請書を受け取り、隣の文化財・遺跡担当課へ行き、立ち入り許可パスを受け取り、帰って行った。
 デネロス少尉がロホの目を見た。”心話”で話しかけてきた。

ーー500年前の”ティエラ”の墓所を教授がわざわざ見に行く必要がありますか?

 ロホは答えた。

ーー万が一にも”シエロ”が混ざっていないか、確認に行かれるんだ。

 成る程、とデネロスは納得した。
 ロホは教授がクシャミの度に発した衝撃波が気になったが、部下達は2人共気がついていない。これは純血種とメスティーソの差でもあるのだろうが、ロホは感じた気の力が気になって仕方がなかった。だからケツァル少佐が戻って来た時に、彼女に”心話”で先刻の状況を報告した。しかし少佐はクスッと笑っただけだった。

ーー香水でアレルギーを発症されるとは、デリケートな方ですね。

 彼女はそれっきりロホを相手にせずに己の机に着くと仕事を始めた。ロホはもやもやしたものを感じた。上官は情報をセイブするのが得意だ。隠し事をされている気配がないからこそ、却って彼は気になった。
 昼休み、彼はテオドール・アルストにメールを送った。

ーーシエスタに訪問して良いですか?

 返事は速攻で来た。

ーーO K!

 ロホはカフェで簡単に昼食を食べてからすぐに大学に出かけた。徒歩10分の距離だ。大学のカフェに行くと、すぐにテオを見つけた。ただ、運が悪いことにケサダ教授が一緒だった。ロホが近づいた時、2人は談笑中だった。どうやら講義の時の学生達の奇妙な癖の報告をし合っている様子で、互いに相手の話に相槌を打ったりクスクス笑ったりしていた。
 ロホが来たことに気づくと、教授が「ヤァ」と声を掛け、テオも「オーラ」と言って、空いている椅子を指した。ロホは2人の年長者に挨拶をして座った。テオも教授もまだ昼食の途中で、すぐに終わりそうになかった。だから、テオが、

「君がここへ来るなんて珍しいじゃないか。どんな用件だ?」

と尋ねた時、彼は腹を括った。

「今朝、ケサダ教授が文化保護担当部に来られた時、かなりクシャミをされていましたので、何のアレルギーなのか気になりまして・・・」

 ケサダがロホを見た。テオはケサダを見た。

「アレルギーがあるのですか?」

 ケサダ教授はテオに向き直った。

「ないと思っていたのですが、今朝の客が強烈な匂いの香水をつけていまして、それを嗅いだ後に学生数名と私が、クシャミが止まらなくなって困ったのです。文化・教育省に行く頃には少し治ったのですが、それでも4階にいる時も数回。ああ、今は治りましたよ。」
「どんな香水でした?」
「甘い・・・薔薇に似た香りでしたが、私が薔薇のアレルギーを持っている筈はありません。家族が薔薇を庭に植えていますからね。」
「現物がないとアレルゲンの特定が出来ませんね。その人はまた来ますか?」
「どうでしょう? 雑誌の取材でしたから、もう来ないと思いますよ。」

 教授はポケットからパスケースを取り出し、そこに挟んであった名刺を出してテオに渡した。テオは文化系の名前を名乗るその雑誌を知らなかった。個人が出版社を立ち上げて出す類のものだろう。自然科学の分野でも結構そう言う人が来るのだ。遺伝子の方面では少ないが環境科学や気象学の先生のところでよく見かけた。
 ケサダ教授がロホに視線を戻した。

「私のクシャミを心配して来てくれたのですか?」

 教え子だが相手は立派な社会人だから、丁寧に接する。卒業生に恩師風を吹かせていつまでも威張っている教授もいるので、テオはケサダ教授やウリベ教授の様な気さくな人を見習いたいと思った。
 ロホは困った。ケツァル少佐に相手にされなかった事象をここで語って良いものだろうか。彼は意を決して、言った。

「”心話”を許可願えませんか?」

 テオはケサダ教授が意外そうな表情をするのを見た。そしてロホがさっきから戸惑っていることも感じていた。ロホはテオに用事があるのではなく、教授に何か訊ねたかったのだ。教授が頷いた。

「スィ。」

 ”心話”は一瞬で終わった。教授はちょっと苦笑した様に見えた。

「それは吃逆の様なものだな。」

と彼は呟いた。テオが彼を見たので、教授が言葉にして説明した。

「私がクシャミをしたら大きな気の衝撃波を感じた、とアルファットが言ったんです。」

 教授はロホを渾名ではなく真の本名で呼んだ。大学で一度もその真の名を使ったことがなかったロホは、緊張した。ケサダ教授は”砂の民”だと考えられている。彼等は一族の隅々まで情報を収集し、些細なことも知っている。教授は彼に静かに穏やかに警告したのだ。

 私はお前の秘密を知っている。だからお前も私の秘密を口外するな。

「クシャミには気をつけて下さい。」

 テオが笑顔で注意を与えた。

「一瞬無防備になりますからね。」


第5部 西の海     3

  翌朝、文化・教育省の4階オフィスで大統領警護隊文化保護担当部の面々はいつもの業務を行なっていた。オクタカス監視業務中のマハルダ・デネロス少尉はフランス発掘隊の監視中間報告書をケツァル少佐に前日に提出していたが、彼女が伴って来たフランス人の考古学者は文化財・遺跡担当課に提出する発掘期間延長申請書を書くために、4階の待合スペースの机に陣取ってせっせとラップトップのキーボードを叩いていた。デネロスは彼と共にオクタカスに戻るので、ただ待つだけなのだが、時間が勿体ないと思ったのでアンドレ・ギャラガ少尉のグラダ大学通信講座のレポートの校正をしていた。ギャラガの正規担当教授であるファルゴ・デ・ムリリョ博士は滅多に大学に顔を出さないくせに学生の論文の誤字脱字に煩い。だからデネロスは後輩の手伝いをしていた。
 アスルことキナ・クワコ中尉はミーヤ遺跡以外にもいくつかグラダ・シティ近郊の小規模遺跡を担当しており、その日も3か所掛け持ちで走り回るので朝一番に出かけて不在だった。厳しい先輩がいないのでアンドレ・ギャラガは息抜き出来ると思っていたが、そんな時に限って郵送されて来る申請書が多いのだ。彼は封を開けては中の書類を出して眺め、審査順位を決めて「未決箱」に入れていった。
 ケツァル少佐が文教大臣の部屋に出かけているので、副官のロホことアルフォンソ・マルティネス大尉は最終審査書類を読んで署名する指揮官代行を行なっていた。予算案の書類は既に仕上げて少佐の机の上に積み重ねてあった。指揮官代行はそれに署名するのだ。自分で立てた予算に自分で合否を決める。矛盾だ、と思いつつ彼は仕事をしていた。
 一瞬巨大な気が感じられた。ロホは書類から顔を上げた。部下達は気がつかないのか、それぞれの仕事に専念している。他の職員達も当然ながら何も気がついていない。ロホは微かに緊張した。大きな力なのに、彼にだけ感じられる、そんな気を発することが出来るのは力が強い4部族の”ヴェルデ・シエロ”しかいない。
 フロアの端の階段の降り口にグラダ大学考古学部のフィデル・ケサダ教授が姿を現した時、ロホは意外に思った。ケサダ教授は確かに優秀な能力者だ。しかしマスケゴ族だ。マスケゴ族に、ブーカ族のロホを緊張させる様な力を出せるとは思えなかった。
 文化財・遺跡担当課の職員達は馴染み深い教授の訪問を笑顔で迎えた。文化財保護にいつも有力な助言を与えてくれる先生だから、いつでも歓迎される。
 ケサダ教授は微笑で職員達の笑顔の歓迎に応え、それから文化保護担当部のカウンター前へ来た。アンドレ・ギャラガの正面に立ったので、ギャラガが「ブエノス・ディアス」と挨拶した。教授が頷いた。

「ブエノス・ディアス、ギャラガ少尉。遺跡立ち入り許可申請に来ました。用紙をダウンロードしようとしたが、プリンターが故障してしまったので、ここでもらえますか。」

 ギャラガは慌てて傍のキャビネットに手を伸ばし、引き出しから用紙を取り出した。

「遺跡は何か所ですか?」
「1か所。申請者は1名。」

 ギャラガは用紙を1枚手渡した。教授はグラシャスと言って、ライティングデスクへ向かった。途中で足を止め、上着のポケットからハンカチを取り出し、顔に当てた。クシャミをハンカチで抑えたのだが、その瞬間ロホはまたあの物凄い気を感じた。しかしギャラガもデネロスも感じないらしく、平然と業務を続けていた。一般職員も同様だ。ロホは教授を見た。彼の恩師だが、通信制だったし、卒業後は大学に足を向けることが滅多になかったので、彼自身は恩師とあまり繋がりが深くない。ついでに言えば、マスケゴ族は人口がブーカ族に比べて極端に少ないので、ロホは「マスケゴ族ってこんなに力が強かったっけ?」と思った。
 ケサダ教授はデスクの前でもう一回クシャミをした。そして隣のデスクにいるフランス人に「失礼」と謝った。
 フランス人の書類は枚数が多く、英語で書く外国人用のものだった。スペイン語で書く国内用の申請書を慣れた手順で素早く書き上げたケサダ教授は、隣のデスクを覗いた。そしてフランス人がうっかり飛ばしてしまった空欄を見つけ、そっとペンで差した。フランス人はメルシーと呟き、そこに書き込んでから、やっと相手がセルバ共和国の考古学界では有名な教授だと気がついた。短い挨拶が交わされ、それから教授はカウンターに戻って申請書をギャラガの前に置いた。 ギャラガが手に取っていた郵送されて来た申請書を傍に置いて、教授の申請書を手にした。

「オルガ・グランデ聖マルコ遺跡に教授お一人で行かれるのですか?」
「スィ。ただ見るだけです。掘ることはしません。」

 ここでは考古学の権威も一人の申請者だ。ケサダ教授は謙虚に振る舞った。これもこの人の好感度が高い理由の一つだ。

「遺跡認定の視察は助手が行ったので、私も一度実際に見学しようと思っています。」

 そう言ってから、彼はまたクシャミをした。新たな衝撃波を感じて、思わずロホが声をかけた。

「大丈夫ですか?」

 教授が苦笑した。

「失礼。今朝の客が頭から被ったみたいに強烈な香水の匂いを放っていて、学生達も私も鼻の調子がおかしくなったのです。」
「何の香水です?」

 デネロス少尉が好奇心で尋ねたが、教授は答えを知らなかった。


2022/01/18

第5部 西の海     2

 「左遷部署って?」

 アンドレ・ギャラガと2人だけになった時、テオはそっと訊いてみた。ギャラガはビリヤードに興じている上官達を見ながら「噂話です」と断った。

「さっきのケツァル少佐のお話でもお分かりの様に、太平洋警備室は本部から忘れられたかの様な存在の部署なのです。指揮官以外の隊員は地元出身の人が多いのですが、出世コースから外れた人ばかりが選ばれて送り込まれると言う噂があります。滅多に交代の話を聞かないし、向こうに着任してそれっきり戻らない隊員もいるとか。尤も・・・」

 ギャラガは肩をすくめた。

「出身地に配属されて、そのまま住み着いてしまっても不思議じゃないでしょう。本部の上官達だって、グラダ・シティで家庭を持ってそのまま故郷に戻らずに住んでいる人が殆どなんですから。」
「確かに。」

 テオは納得した。

「太平洋警備室に配属された隊員が、本部で何かしくじったとか、偉いさんの機嫌を損ねたって訳じゃないだろう。」
「そこまで事情は知りません。」

 ギャラガは上官や先輩がビリヤード台で遊んでいるのを眺めた。

「ただ、少佐や大尉達がオルガ・グランデに行かれても太平洋警備室に立ち寄られたと言う話は聞いたことがありません。ほら、貴方と私が初めてお会いしたのもオルガ・グランデの陸軍基地だったでしょう? あの時もキロス中佐や部下達の話は出ませんでした。」
「そう言えばそうだったな。」
「だから忘れられた部署なんです。」

 ギャラガの口調からは、そんな部署に飛ばされたくない、と言う響きが微かに聞き取れた。彼にしてみれば、西海岸へ行かされるくらいなら警備班に出戻った方がましなのだろう。

「それじゃ太平洋警備室の隊員達は遺跡や呪い関連には全くノータッチなんだな。」
「恐らく・・・」

 その時、ロホが彼等を呼んだ。

「テオ、あちらの台が空きましたよ! アンドレ、しっかり練習しろよ!」

 テオとギャラガはキューを選びに壁の棚へ行った。

「ナインボールで良いかい? 俺はまだそれしか知らないんだ。」
「結構です。私もまだ初心者ですから。」


 

第5部 西の海     1

  大統領警護隊は大統領を警護するのが本業と言うことになっているので、支部は基本的に設けていない。しかし、文化・教育省に文化保護担当部を置いているし、外務省や内務省、国防省などに隊員を事務官として派遣している。更に南北の国境警備隊にも数名ずつ派遣していた。本部はグラダ・シティにある。東海岸地方の大都市で当然ながら首都だ。それなら太平洋側の西海岸にも何らかの組織を置いているのではないか、とテオドール・アルストは思った。それで文化保護担当部の友人達と夕食をとっている時に、それを訊いてみた。

「太平洋警備室のことですか?」

とマハルダ・デネロス少尉が言った。

「太平洋警備室? そんな部署があるのかい?」
「ありますけど・・・」

 デネロスはちょっと困って上官のケツァル少佐を見た。

「私はよく知らないんです。名前を聞いたことがあるだけで・・・」
「私も知りません。」

とアンドレ・ギャラガ少尉も言った。彼は声を低めた。

「噂では、左遷部署だと・・・」
「おい、アンドレ・・・」

と最近中尉に昇級したばかりのアスルが注意した。警護隊の中での噂話を外で喋るのはマナー違反だ。ギャラガが小さく舌を出して黙り込んだ。ロホがクスクス笑った。彼もアスルの昇級に1週間遅れて大尉に昇級した。2人の少尉の教育はアスルことクワコ中尉に任せて、彼自身は指揮官ケツァル少佐の副官として忙しい毎日を送っている。だがセルバ人はオン・オフをはっきりさせる国民だ。どんなに仕事が忙しくても、夕方業務時間が終わると、途端にリラックスムードになるのだ。だから、テオは今彼等とバルで暢んびり過ごしているのだった。
 少佐が説明した。

「我が国は海軍を持っていません。太平洋岸は沿岸警備隊と陸軍の水上部隊が警護しています。大統領警護隊は陸軍水上部隊の基地の隣に太平洋警備室を設置して、5名の隊員を常駐させています。現地出身の隊員ばかりなので、あまり本部の隊員達と馴染みがないのです。彼等は交代でたまに本部へ研修に戻って来ますが、私達は滅多に出会いません。」
「5名だけの部署? まるで文化保護担当部みたいだな。」

 そうですね、とロホとデネロスが笑い、アスルは「けっ」と言った。ギャラガは好奇心を抱いたらしく、少佐に質問した。

「指揮官は何方ですか?」
「指揮官ですか?」

 ケツァル少佐が珍しく考えた。本当に普段繋がりのない部署らしい。恐らく遺跡にも関係しないのだろう。数秒考えてから、彼女は思い出した。

「カロ・キロス中佐です。」

 テオは部下達が反応しないことに気がついた。全員知らないのだ、その中佐を。だから少佐が説明した。

「フルネームはカロリス・キロスです。Zで終わるキロスです。」

そう言われても、やっぱり誰も反応しなかった。テオは仕方なく尋ねた。

「カロリスと言うからには、女性なんだな?」
「スィ。私が少佐になった頃には既に中佐でしたし、太平洋警備室の指揮官でしたから、お会いしたのは1回だけです。中佐が何かの用件で本部に来られたのです。それで副司令が、ついでだからとその時に本部内にいた少佐以上の隊員を集めて紹介して下さいました。物静かな方と言う印象でした。それだけです、私が彼女について知っているのは。」
「他の隊員は?」
「知りません。本部ですれ違ったかも知れませんが、互いに名乗りませんから。」
「まぁ、そうですね・・・」

 ロホが肩をすくめた。

「太平洋警備室と言うからには、船に乗ったり、海上警備をするんだろ?」
「それは沿岸警備隊の仕事です。」
「じゃ、キロス中佐と4人の隊員は何をしているんだ?」

 答えが誰からも出てこなかった。少し考えてから、ロホが言った。

「太平洋岸の人口は少ないです。セルバ人の漁業はカリブ海側が盛んで、太平洋側は隣国の方が強いのです。セルバの海岸線は短いですから。だから太平洋警備室は、海沿いの村の住民や西側の鉱山の労働者や、オルガ・グランデの守護を行っている、その程度しか私にはわかりません。」

 テオは頭の中でセルバ共和国の地図を描いた。確かに、セルバ共和国第2の都市オルガ・グランデは太平洋に近い。鉱石の積出は太平洋岸の港から行う。しかし彼は何故かあの都市の守護は、陸軍のオルガ・グランデ基地に本部から隊員が派遣されて行うものだと勝手に思い込んでいた。その方が効率が良いのではないのか?
 そこまで考えて、一つの長い間の謎が解けた。シュカワラスキ・マナが一族と戦った時、オルガ・グランデは彼の結界に取り込まれた。もし大統領警護隊がオルガ・グランデに駐在していたら、そんな事態にならなかった筈だ。つまり、オルガ・グランデを守護する役目の大統領警護隊は、オルガ・グランデにはいなかったのだ。離れた海辺にいたから、シュカワラスキ・マナに隙をつかれた。

「どうして大統領警護隊は、オルガ・グランデに守護の拠点を置かないんだ?」

 すると、ケツァル少佐とロホ、アスルが目を交わし合った。”心話”だ。2人の少尉は仲間外れか? アスルが「オホン」と咳払いした。そして言った。

「オルガ・グランデに地下墓地が多いことを、あんたは知ってるな、ドクトル?」
「スィ。」
「あの街は古代、聖なる墓所だった。”シエロ”の時代も”ティエラ”の時代になっても。植民地になって都市が造られたが、我々の力で眠っている先人達を起こしてはならない。だから大統領警護隊は、訪問はしても常駐はしない。住み着いている”シエロ”は少ない。住んでいたとしても、力が大きくないカイナ族やマスケゴ族だ。メスティーソはいるが、普通に”ティエラ”に溶け込んでいる人々だ。だから守護は街の外から行う。」

 聖なる墓所。テオは、太陽の野に眠っている星の鯨を思い出した。死者の魂、それも英雄と呼ばれた人々の魂が暢んびりと暮らしているあの神秘的な空間。生きている者が踏み込んではいけない場所。

「わかった。」

とテオは言った。

「これ以上は質問しない。」

 彼はメニューを取り上げた。

「誰か、鶏の串焼きは要るかい?」

 アスルとギャラガが勢いよく手を上げ、少佐もそっと挙手した。


2022/01/17

第4部 花の風     30

  ミイラとなったアンドリュー・ウィッシャーのDNA分析結果が出た。テオはそれをアンドレ・ギャラガのDNAと比較した。そして無言でアスルに見せた。アスルは目を細めて2枚の細長いゲノム分析表を眺めた。そして、テオを見た。

「で?」

と彼は問いかけた。テオは真面目な顔で答えた。

「ウィッシャー家の人間はアンドレをアメリカへ連れて行けないってことさ。」

 アスルは彼を数秒間見つめ、それからゲノム表を投げ捨てた。

「だったらはっきりそう言えよ。アンドレはミイラと無関係なんだろ?」
「そうさ。」

 テオは笑いながらゲノム表を拾い上げ、それをビリビリと破った。

「偶然顔立ちが似ていただけだ。そしてアンドリュー・ウィッシャーが死んだ時期とアンドレが生まれた頃が近かった。おまけにウィッシャーの息子だと偽ってアンドリューに似た顔のウィンダムが現れたもんだから、ややこしくなったのさ。」

 アスルは「けっ」と吐き捨てるように声を出し、ソファの上に寝転がった。テオはダイニングの椅子に座って彼を眺めた。ケツァル少佐から週明け迄大人しくしていなさいと言われたので、アスルは出かけずに家の中にいる。サッカーに出かけても良いのに、とテオは思ったが、セルバ人はサッカーの勝敗に熱くなるので、この週末はフィールドに出ない方が無難だろう。

「アスル、昇級する時、本部で儀式の様なことをするのかい?」
「そんなものはしない。新しい階級章をもらうだけだ。」

 アスルは体を起こした。

「ロホが大尉になったら、またお祝いをしなきゃな。」
「君の昇級祝いと合同でやろうか?」
「俺はいい。ロホのお祝いだけだ。」

 照れ臭いのだ。もっとも乾杯の時に一緒に祝えば良いのだ。テオはそれ以上彼を追い詰めずに解放した。
 カルロ・ステファンが指導師の資格を取ったらお祝いをしたいとも言いたかったが、文化保護担当部のメンバー達はそれに一言も触れない。これもワイワイ祝う様なものではないのかも知れない。 だがテオはどんな些細な理由でも良いから、また皆で集まって騒ぎたいなぁと思うのだった。
 セルバではおめでたいことが続くことを「花の風が吹く」と言う。


2022/01/12

第4部 花の風     29

  結局アスルは大して飲んでもいなかったのに、寝てしまった。昼間の業務でくたびれたのだろう。金曜日の夜だ。ケツァル少佐も彼とテオにさっさと帰れとは言わなかった。
 テオは用心深く彼を肩に担ぎ上げ、客間のベッドへ運んだ。少佐の家は土足厳禁なのでアスルは素足だった。行儀良くベッドに寝かせて上掛けをかけてやり、テオはダイニングに戻った。少佐がテーブルを片付けていたので、手伝い、皿洗いをした。

「マハルダがいないと忙しいんじゃないか?」

と彼が言うと、少佐が肩をすくめた。

「アスルが監視で出ている時の方が忙しいです。彼は1日おきにミーヤ遺跡の日本人のところに通っています。新しい消しゴムがコレクションに加わった様です。彼がくたびれているのは、データ入力が面倒臭いからです。」
「誰でも苦手はあるさ。」

 少佐がクスッと笑った。

「中尉に昇進すれば秘書を雇えるのです。財政的な問題で私の部署では誰もそんな贅沢をしていませんが。」

「秘書? 一般人から雇うのか?」
「スィ。」
「ロホは兎も角、アスルは秘書を雇う人間に見えないな。彼は自分でやらないと気が済まないだろう?」
「確かに。」

 皿を洗い終わり、水気を拭き取って棚に仕舞った。それからコーヒーを淹れて2人でリビングでまったりタイムにした。
 テオはロジャー・ウィッシャーの件の顛末を語った。少佐は知っているのかも知れないが、大人しく聞いてくれた。テオの話がウィッシャーの逮捕で終わると、彼女はそこで感想を述べた。

「その、ウィンダムとやらは、恐らく強制送還になると私は思います。アメリカ人を刑務所に入れて、また向こうから誰かが派遣されて来たらイタチごっこになるでしょう。シーロも外務大臣もそれぐらい理解していますから、罰金でも課して追い払う筈です。」
「そう願いたいな。”砂の民”の発動が想定外に早くなければ、だけど。」

 ”砂の民”と言ってから、テオは大学病院での出来事を思い出した。

「これは君だから打ち明けるが・・・」

 少佐が彼を見た。彼は声を顰めた。

「先方も君とカルロには打ち明けても構わないと言っていた。だが、俺は君だけに語る。」

 必要ないとわかっていても、彼は窓の外のバルコニーに誰もいないことを目視で確認した。

「俺は大学病院でマレシュ・ケツァルと会った。」

 少佐が眉を上げた。ちょっと驚いていた。

「ご存命でしたか・・・」
「スィ。今は夢の世界に生きているが・・・息子の家にいる。」

 ケツァル少佐は暫く黙ってテオを見つめ、やがて微笑した。

「彼女はオルガ・グランデを出て、グラダ・シティに来たのですね。」
「直接来たのかどうか知らないが、大切な息子に出会えて今は息子の家族の世話を受けている様だ。コディア・シメネス、知っているかい?」
「スィ。フィデルの奥様です。ムリリョ博士の末のお嬢様でもあります。とても優しくて、でも聡明な方ですよ。」
「彼女の付き添いで通院しているんだ。だから、マレシュと会ったと言ったが、言葉を交わしたのはコディアとだ。ただ、声をかけて来たのはマレシュの方だった。」

 少佐が「え?」と言う顔をした。滅多に見られない表情だ。テオはちょっと笑った。

「彼女は息子の記憶を無意識に読み取って俺の顔と名前を覚えているんだ。きっと君や教授の教え子達や教授が関わった人々も覚えているんじゃないかな。だけど俺には彼女の言葉が理解出来なかった。君達の母語を喋っていたから。」
「それは恐らくイェンテ・グラダ村での方言でしょう。時々カタリナがポロリと口に出しますが、カルロもグラシエラも私も理解出来ない時があります。」
「そうか・・・すると彼女の言葉を理解出来る人は現在教授夫妻とカタリナだけなのかも知れないな。」

 テオはコーヒーを飲み干してカップをソーサーに戻した。

「俺は彼女と出会ったことを教授に言ってない。彼女の存在は教授夫妻とムリリョ博士だけの秘密なのだと思う。」
「私もそう思います。ムリリョ博士が彼女の話をして下さった時、博士は彼女の現在の行方をご存知ないと仰いました。きっと他の長老に教えたくなかったのでしょう。ですから、私もここで貴方から聞いた話を忘れることにします。」
「カルロには言わない方が良いな?」
「言わないで下さい。あの子はフィデルから心を盗まれる迂闊者ですから。」

 ケツァル少佐は愉快そうに笑った。



 

第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...