2022/01/22

第5部 西の海     9

  1週間程度の滞在ならサン・セレスト村の店で必需品を揃えることが出来ると言ったのは、ステファン大尉を拾う為に現れた陸軍の下士官だった。2人の院生と同じ飛行機でやって来たステファン大尉は陸軍基地に挨拶もせずに直接任地へ赴くのだ。それは彼の判断ではなく、大統領警護隊本部からの指示なので、陸軍基地司令官も承知していると言う。だから基地から水上部隊へ物資を運ぶトラックで大統領警護隊の隊員も運んでしまおうと言うことだ。テオは買い物をしてから夕方のバスで海辺の村へ行くつもりだったが、ステファンがトラックの荷台で良ければ乗って行くかと訊いたので、乗せてもらうことにした。
 テオが荷台に乗せてもらうことにした、と言うと、アーロン・カタラーニが助手席に乗せてもらっても構わないかと訊いた。飛行機で散々揺すられたので、トラックの荷台で乗り物酔いの限界に来るのではないかと心配していた。一同は笑って、運転手の下士官の許可をもらい、カタラーニは助手席に座った。テオとイサベル・ガルドスはステファン大尉と一緒に荷台に乗った。ネットでしっかり固定されている食糧品や生活用品の箱にもたれかかり、ネットを掴んで体を固定した。
 トラックは空港からオルガ・グランデの市街地を通り抜け、山道へ入って行った。遠去かる街並みを眺めながらガルドスが「都会生活よ、さようなら!」と叫んだので、ステファンが愉快そうに笑った。テオは彼に「試し」の内容を聞きたい衝動に駆られたが、我慢した。きっと外部の人間に漏らしてはいけない神聖な試験なのだろうと想像は出来た。呪いをかけられた人から呪いを取り除き、悪霊を追い払ったり、捕まえたりする修行だ。メスティーソの隊員でそこまで出来る人は滅多にいないと聞いたことがあったので、ステファン大尉はやはりシュカワラスキ・マナの息子として才能を持って生まれたのだ。そして祖父エウリオ・メナクからもかなりのグラダの要素を引き継いだのだろう。
 道路は舗装が終わり、ダートになった。トラックがギシギシと大きな音を立てて揺れまくった。喋ると舌を噛みそうだ。サスペンションが硬いとガルドスが文句を言い、ステファンが軍隊だから快適性は考えないと言った。彼等は気が合ったのか、話せる状態の道を走る時はお喋りして楽しんでいた。ステファンがメスティーソなので大統領警護隊だと意識せずにガルドスは話せる様だ。テオは外の風景を楽しんだ。灰色の岩石や黄色い土の山道が続いた。道幅は結構あって、アンゲルス鉱石や他の中小の鉱山会社が港への輸送路を整備していることがわかった。たまに港から戻る空のトラックとすれ違うと土埃が酷く、スカーフやマスクが欠かせなかったが、道路はティティオワ山の西斜面を大きく蛇行しながら下って行き、やがてトラック後部からでも真っ青な水平線が見え始めると、ちょっとした観光気分になった。
 途中でトラックは休憩の為に停車した。小さな集落があって、そこで飲料水を販売していた。コーラが高価だったので、テオはステファンと同じ地元でよく飲まれている甘味が付いたソーダ水を飲んだ。カタラーニは水だけで、ガルドスはレモン水を飲んでいた。運転士の下士官は持参した水筒で喉を潤していた。テオは時計を見た。空港を出てから2時間近く経っていた。ここから後どのくらいか、と訊くと、下士官は後1時間と答えた。
 セルバ人の1時間は1時間半だと思えば腹が立たない。トラックはまだ太陽が燦々と輝いている時間にサン・セレスト村に到着した。
 村はテオの想像と全く違っていた。石を積み上げて造った壁にコンクリートを薄く塗装し、屋根もちゃんとコンクリート製のしっかりした家が平地に並んでいた。メインストリートを挟んで山側に住宅、海側に商店や倉庫が並んでいた。

「高い位置に住宅があるのは、津波対策です。」

とステファンがそれとなく説明した。

「基地は海側にありますが、通信関係の施設は山側の別棟になります。」

 トラックが一軒の黄色い壁の家の前に停車した。カタラーニが降りて来て、後ろに来た。

「診療所に着きました。僕等はここまでだそうです。」


2022/01/21

第5部 西の海     8

  テオは”ヴェルデ・ティエラ”と呼ばれるセルバ先住民の遺伝子をこれまで細かく分析したことがなかった。漠然と”ヴェルデ・シエロ”と区別する為に分析するだけだった。”シエロ”達が”ティエラ”と呼ぶ場合は、”シエロ”でない人間を意味する。つまり先住民も白人もアフリカ系もアジア系もアラブ系も全部”ティエラ”だ。しかしセルバ国民が”ティエラ”と言う場合は先住民を指す。これがややこしい。”シエロ”の人口が少ないので、後者が”ティエラ”だと頭に入れておけば良いのだが、テオの親しい友人は”シエロ”なので彼は時々混乱した。
 内務大臣パルトロメ・イグレシアスがテオに依頼したのは、東海岸地域に住む”ヴェルデ・ティエラ”と太平洋岸地域に住む”ヴェルデ・ティエラ”が同じ一族なのか調べてくれと言うものだった。東のアケチャ族と西のアカチャ族が同じ先祖を持つ部族なのか、知りたいのだと言う。その理由は政治的次元のもので、言語が微妙に異なる両部族が同じ形態の祭礼を行ったり、共通の神話を持っていることなどから、居住区を管理する役人を1人だけにするか2人にするか、大臣は悩んでいるのだ。管轄する部署が一つなら予算を組み易い。テオは先住民を管理する部署を一つだけにして、担当者を部族毎に任命すれば済むことだろうと思ったが、どうやら同じ祖先を持つと思われる2つの部族を1つと見做して保護政策の予算を削ろうとしている様だ。役人の人件費の問題もあるのだろう。イグレシアス家は白人なので、先住民対策が時に厳しく、度々抗議のデモが行われる。テオはパルトロメ・イグレシアスに個人的な感情を持っていないが、亡命の際には色々便宜を図ってもらったし、保護してくれたので、取り敢えず調査の依頼を引き受けた。
 大学に1週間の予定で出張届けを出し、研究室の院生を2名連れて行くことにした。バイト代は雀の涙ほどしか出せないが、交通費と宿泊費は大学から出してもらえるよう交渉して成功したし、論文の課題に使っても良いと言う条件で男女2名が名乗り出てくれた。アーロン・カタラーニと言うイタリア系のメスティーソ男性とイサベル・ガルドスと言うスペイン系メスティーソ女性だ。ガルドスは医学部の学生で遺伝子の勉強をするために生物学部のテオの研究室に通っていた。アリアナ・アズボーンの弟子でもある。先住民に多い筋肉疲労から来る衰弱死を遺伝子の分析で対策を考えたいのだと言う。だから鉱山労働者が多い西海岸に行きたいのだ。
 週明けの月曜日、テオはエル・ティティの家からバスでオルガ・グランデに昼過ぎに到着して、空港でセルバ航空の定期便(1時間遅れた)でやって来た2人の若者と合流した。海辺のサン・セレスト村に診療所があり、そこの医師が調査に協力してくれると言うので、村にある空き家を宿舎として用意してくれている筈だ。そこへ行く前に装備品のチェックをして足りない物を購入してから村へ向かうバスに乗ろうと話し合っていると、声をかけて来た男がいた。

「オーラ、テオ! どうして貴方がここに?」

 振り返ると、カルロ・ステファン大尉がリュックを背負って立っていた。勿論軍服にベレー帽だ。髭も生やしているから、チェ・ゲバラが立っている様に見えた。ゲバラより顔の輪郭に少し丸みがあったのだが、1ヶ月も地下神殿に篭る指導師の試しの直後なのでほっそりとなって、ますますゲバラに似てきた。
 凄い、本物のエル・パハロ・ヴェルデだ!と目を丸くしている2人の院生を置いて、テオは親友と握手を交わした。

「試験に合格したんだってな! おめでとう!!」
「グラシャス!」

 ハグは好まない”ヴェルデ・シエロ”だが、ステファンはテオのハグを素直に受け容れた。彼は以前より細く見えたにも関わらず、筋肉はさらにしっかり逞しくなっているとテオの手の感触が伝えた。
 体を離してから、ステファンはもう一度最初の質問を繰り返した。

「ここで学生を連れて何をなさっているのです?」

 テオは院生達を振り返った。

「国務大臣の依頼で、先住民アカチャ族の遺伝子サンプルを採取しに来たんだ。東のアケチャ族と同じ部族であることを証明して欲しいらしい。政治的理由だよ。」

 ステファンが苦笑した。

「遺伝子が同じでも部族は違うと思いますがね。」
「大臣が分析結果を見てどう判断するかは、俺たちの知ったこっちゃないさ。」

 テオが院生達にウィンクして見せると、アーロン・カタラーニが同意した。イサベル・ガルドスは苦笑しただけだ。

「アカチャ族の村へ行かれると言うことは、ポルト・マロンへ行かれるのですね?」
「そうだったかな?」

 テオが考え込むと、ガルドスが笑った。

「先生は地名を覚えるのが下手ですね。 海辺の村はサン・セレストしかありませんよ。」
「だが、ポルト・マロンは鉱石の積み出し港だろう?」
「でも集落はそこだけです。村の外れにポルト・マロン港があるのです。」

 ステファンも「スィ」と言った。

「沿岸警備隊の基地も、陸軍水上部隊も大統領警護隊太平洋警備室も、サン・セレスト村にあります。食料品店も郵便局も診療所もサン・セレスト村にあります。」

 テオはオクタカスにあった先住民の集落に似た時代遅れの村を想像していたのだが、どうやら目的地は町の様相をしているらしかった。



 

2022/01/20

第5部 西の海     7

  約束の時間にカルロ・ステファン大尉がケツァル少佐のアパートを訪問した時、少佐はまだ夕食中だった。家政婦のカーラがステファンに食事はどうしますかと訊いたので、彼もいただくことにした。急な来客でも1人や2人の追加ならカーラは平気だ。
 向かい合って食べていると、数年前に戻った様な気分になった。カーラが帰り支度を始めたので、彼は席を立ち、彼女を見送った。この習慣も同じだった。彼女がタクシーに乗る前に彼は尋ねた。

「少佐はドクトルと上手くいってますか?」

 カーラはちょっと首を傾げた。

「休日のことはわかりません。でも月曜日の少佐はいつもご機嫌なので、上手くいっているのだと思いますよ。」

 ステファンは笑って彼女を送った。部屋に戻ると、少佐がテーブルの上の彼女自身の食器を片付けていた。彼の分はまだ残っていたのでそのままだ。彼が椅子に座ると、彼女が食器を洗っているうちに食べてしまいなさいと命じた。上官と部下というより、正に姉と弟だ。ステファンは温かいものを胸の内に感じ、その新しい感情にちょっと戸惑った。
 食事を終え、後片付けも終わってコーヒーを淹れてから、2人は改めて向かい合って座った。

「話とは何です?」

と少佐が先に切り出した。ステファンは質問した。

「指導師の試しに合格した後の最初の勤務は厨房班だと思いますが、他の部署に行かされることはよくあることですか?」

 厨房班は大統領警護隊の指導師の資格を持たなければ勤められない部署だ。本部にいる警護隊全員の食事の世話だけでなく、大統領の食事、大統領府での会食の世話もする。これには理由がある。そして指導者の資格を取った者は必ず最短でも半年は厨房班で勤務するのが慣習となっていた。(だから少佐以上の将校は全員料理が出来る。)

「他の部署?」

 訊かれて彼は言った。

「太平洋警備室です。」

 思いがけない部署の名が出て、ケツァル少佐は暫く沈黙した。偶然先日話題に出たばかりだ。指揮官のカロリス・キロス中佐は覚えているが、他の隊員は全く知らない。

「正式に辞令が出たのですか?」
「スィ。あちらの厨房で3ヶ月、それからこちらに戻って厨房で3ヶ月と命じられました。」
「エステベス大佐からですか?」
「ノ、エルドラン中佐とトーコ中佐のお2人からです。連名で辞令を出されました。」

 副司令官からの辞令なら、恒久的な地位を与えられるのではない。これは「任務」だ。

「太平洋警備室の厨房へ赴任とは聞いたことがありません。副司令お2人からの命令なら、それは臨時の身分を与えられて行う任務です。」
「やはりそう思われますか?」

 ステファンは腕を組んで考え込んだ。

「最初は本部の厨房班が定員一杯ではみ出したのかと思ったのですが、エルドラン中佐から向こうの隊員達の名簿を渡され、可能な限り情報を収集してから出発するようにと言われ、あちらで何か起きているのではと思っている所です。」
「あちらの様子は何も中佐から教えられていないのですね?」
「何も。寧ろ中佐達の方が情報を得たい様子でした。」

 ケツァル少佐も考え込んだ。本部から遠い分室で何か起きていても知りようがない。キロス中佐はマメに定時報告をしている筈だが、司令部に何らかの不安を感じさせる事象が起きているのかも知れない。

「太平洋警備室の厨房要員は1名ですね?」
「スィ。カイナ族のブリサ・フレータ少尉です。彼女と交代と言うことでもないのです。」
「他の隊員は?」
「中佐の副官のブーカ族のホセ・ガルソン大尉、同じくルカ・パエス中尉、マスケゴとカイナのミックスのホセ・ラバル少尉、以上です。キロス中佐以外は全員西海岸の出身です。」
「本部ではカイナ族とマスケゴ族はブーカとのミックスしかいませんから、確かに地域性はありますね。しかし特におかしい点はなさそうです。司令部は貴方に何を調べさせたいのでしょう?」
「エルドラン中佐はそれに関して何も仰いません。」

 ステファン大尉は冷めてしまったコーヒーを飲んだ。カップを置いて言った。

「不穏な動きがあるのであれば、副司令ははっきりそう仰ると思います。きっと何か掴みかねていることがあり、それが何か知りたいのでしょう。危険な任務とは思いませんが、軍人ですから常に用心を怠らぬよう勤務します。万が一・・・」

 少佐は弟の言葉を遮った。

「カタリナのことは私がしっかり守ります。グラシエラにはロホがいます。しかし貴方は一人で向こうへ行くのでしょう。それなら事前にオルガ・グランデで味方に出来る人々をチェックしてから行くべきです。」
「グラシャス。」

 ステファンは微笑した。

「”ティエラ”の知り合いを総動員して味方予備軍を想定しておきます。」


2022/01/19

第5部 西の海     6

  文化・教育省のオフィスにロホが帰ると、まだシエスタが終わっていないにも関わらずケツァル少佐とアンドレ・ギャラガが仕事をしていた。マハルダ・デネロスがいなかったので、オクタカスへ戻ったと思われた。人手が足りないので少佐とギャラガは昼休みを早めに切り上げて仕事をしているのだ。定刻の午後6時に帰るために。
 ロホが自席に着くと、少佐が声をかけた。

「教授のクシャミは治りましたか?」

 ロホは大学へ行くと少佐に告げた覚えがなかった。教授が彼女に大尉が来たと教える筈もないだろう。テオが彼女に告げる必要もない。上官は鎌をかけて来たのだ。ロホは素直に答えることにした。恐らく少佐は教授の本当の血統を知っているのだろうと彼は思った。だから嘘をつく必要はない。

「お昼前に治ったそうです。考古学部へ来た客はどんな成分の香水を使っていたのでしょうね。」
「間違ってもセニョリータにプレゼントしないで下さい。」

とギャラガが揶揄った。

「後でステファン大尉に撃たれますよ。」

 アンドレ!とロホが低い声で叱責した。グラシエラ・ステファンと交際を始めたことは、まだ他の職員に秘密なのだ。一般市民から畏怖の目で見られる大統領警護隊だが、この文化保護担当部の隊員は文化・教育省の職員達から友人として見られている。恋人が出来たなんて知られた日には絶対に揶揄われるのだ。
 ケツァル少佐が忍び笑いしながら書類をめくっていると、携帯電話にメールが着信した。差出人はカルロ・ステファン大尉だった。

ーー今夜お会い出来ませんか?

とあった。指導師の試しが終わったらしい。だが難関試験が終了したからと言って合格したとは限らない。少佐は返事を打った。

ーー合否は?
ーー通りました。

 淡々とした返答だ。あまりにあっさりしているので、彼女は彼が会いたがる理由を考えてしまった。

ーー貴方と私の2人だけですか?
ーースィ。場所と時間は貴女が決めて下さい。

 少佐は邪魔が入って欲しくない場合の会見場所をいつも同じ所に指定する。

ーー2000に私のアパートで。
ーー承知しました。

 ロホの机から溜め息が聞こえた。予算を組まなければならない監視計画書が溜まっていたのだ。

第5部 西の海     5

  学生達がケサダ教授を呼ぶ声が聞こえた。教授をお茶に誘っているのだ。ケサダは手で合図を送ると、残った食事を急いで食べてしまい、テオとロホに挨拶して、トレイを持って去って行った。彼の後ろ姿を見送りながらテオはロホに尋ねた。

「本当に君の用件は彼のクシャミのことだけかい?」

 ロホは迷った。テオにあの衝撃波の話をするべきだろうか。尤も教授自身がさっき言葉に出したので、テオも聞いているのだ。

「スィ、教授のクシャミです。」
「衝撃波を彼が出したのか?」
「私だけが感じたのです。デネロスとギャラガは感じていない様子でした。」
「それはつまり?」
「攻撃に使う気の爆裂波ではなく、身内に注意を促したり、呼びかけたりする時に使うものです。」

 ロホはちょっと考えて、周囲に聞き耳を立てている人間がいないことを確認してから説明を続けた。

「例えば、親が森の中や人混みで子供を呼ぶ時や、上官が己の部隊の部下だけに全員集合を掛ける時などに発する気です。ただ、先程貴方が教授に言われた様に、クシャミなどで無防備になった瞬間に発してしまう場合もあります。」
「教授のその衝撃波は大きかったのに、メスティーソの少尉達は気がつかなかったのか。」
「そうです。つまり、凄く独特の衝撃波を教授は出されたのだと思います。純血種のブーカやオクターリャ、サスコシなどにしか感じ取れない波です。」
「それにグラダも?」

とテオは付け加えた。そう考えたから、ロホはケツァル少佐に”心話”で報告してみたのだ。大臣の部屋にいても少佐にだって感じ取れただろうと思ったから。しかし少佐は無視した。

「ケサダ教授は純血種だろ?」
「でもマスケゴ族です。」

 ロホはこの時、一瞬テオの目が揺らいだことに気がついた。

「何かご存知なのですか、テオ?」

 ロホは鋭い。テオは己が隙を見せてしまったことを悟った。だが、「あのこと」は秘密にすると、ムリリョ博士と約束したのだ。だから彼はロホの顔を真っ直ぐに見て言った。

「今朝の教授のクシャミのことは忘れた方が身のためだ、ロホ。」

 ロホの目に「納得がいかない」と言う表情が浮かんだ。テオはどう言えば彼を納得させられるかと考え、”ヴェルデ・シエロ”流の語り方を思いついた。

「彼がどの部族の出身だろうと、彼をマスケゴとして育てた人の気持ちを考えてやってくれないか? そして彼はマスケゴとして生きているんだ。それを尊重して差し上げよう。君も古い考えの実家を出て新しい君自身の家を作ろうとしているんだ。理解出来るよな?」

 ロホが目を遠くへ向けた。そして呟いた。

「サスコシのメスティーソが純血のグラダを普通の子供として育てた様に・・・」
「そうだ。」

 改めて向き直ったロホの目はもう迷いがなかった。

「グラシャス、テオ。納得しました。今まで経験したことがない強さの衝撃波を感じ取ってしまったので動揺してしまいました。大尉になったばかりなのに、恥ずかしいです。」
「恥ずかしいことはないさ。ここは戦場じゃないんだ。だけど、そんなに大きかったのかい、彼のクシャミの衝撃波は?」
「スィ。これでやっとわかりました、少佐があの教授を怒らせるなといつも仰っている意味が・・・だからセニョール・シショカは彼に屈したのですね。」

 テオとロホは笑った。

「ところで、教授が文化保護担当部へ出向いたのは、どこかの遺跡を新たに発掘するためかい?」
「ノ。先日発見されたオルガ・グランデ聖マルコ遺跡の見学をなさりたいそうです。恐らく、ミイラの中に仲間外れがいないか、確認されるのでしょう。」

 ああ、とテオは納得した。以前ムリリョ博士から博物館収蔵のミイラの中から”ヴェルデ・シエロ”のものを探し出せと強制的にバイトをさせられたことがあった。ケサダ教授はそんな手間を後日に行いたくないので、自ら遺跡を見て幽霊の有無を確認するのだ。”ティエラ”の幽霊は生きている”ヴェルデ・シエロ”がミイラに近づくと怖がって遺体の中に隠れてしまうが、”シエロ”の幽霊は隠れない。だから助手ではなく教授自らが見に行く必要があるのだ。
 教授は生まれ故郷のオルガ・グランデを懐かしがって見に行く訳ではないのだ。恐らく10歳になるかならぬかのうちに離れてしまった故郷、母親もグラダ・シティに引き取ってしまっている現在は、未練がないのかも知れない。彼の胸の内は誰にもわからない。



第5部 西の海     4

  ケサダ教授の申請書はロホが認可署名を行い、あっさりと見学許可が出た。遺跡を掘らないし、監視の必要がないから大統領警護隊は立ち入り許可だけ出す。教授は署名が入った申請書を受け取り、隣の文化財・遺跡担当課へ行き、立ち入り許可パスを受け取り、帰って行った。
 デネロス少尉がロホの目を見た。”心話”で話しかけてきた。

ーー500年前の”ティエラ”の墓所を教授がわざわざ見に行く必要がありますか?

 ロホは答えた。

ーー万が一にも”シエロ”が混ざっていないか、確認に行かれるんだ。

 成る程、とデネロスは納得した。
 ロホは教授がクシャミの度に発した衝撃波が気になったが、部下達は2人共気がついていない。これは純血種とメスティーソの差でもあるのだろうが、ロホは感じた気の力が気になって仕方がなかった。だからケツァル少佐が戻って来た時に、彼女に”心話”で先刻の状況を報告した。しかし少佐はクスッと笑っただけだった。

ーー香水でアレルギーを発症されるとは、デリケートな方ですね。

 彼女はそれっきりロホを相手にせずに己の机に着くと仕事を始めた。ロホはもやもやしたものを感じた。上官は情報をセイブするのが得意だ。隠し事をされている気配がないからこそ、却って彼は気になった。
 昼休み、彼はテオドール・アルストにメールを送った。

ーーシエスタに訪問して良いですか?

 返事は速攻で来た。

ーーO K!

 ロホはカフェで簡単に昼食を食べてからすぐに大学に出かけた。徒歩10分の距離だ。大学のカフェに行くと、すぐにテオを見つけた。ただ、運が悪いことにケサダ教授が一緒だった。ロホが近づいた時、2人は談笑中だった。どうやら講義の時の学生達の奇妙な癖の報告をし合っている様子で、互いに相手の話に相槌を打ったりクスクス笑ったりしていた。
 ロホが来たことに気づくと、教授が「ヤァ」と声を掛け、テオも「オーラ」と言って、空いている椅子を指した。ロホは2人の年長者に挨拶をして座った。テオも教授もまだ昼食の途中で、すぐに終わりそうになかった。だから、テオが、

「君がここへ来るなんて珍しいじゃないか。どんな用件だ?」

と尋ねた時、彼は腹を括った。

「今朝、ケサダ教授が文化保護担当部に来られた時、かなりクシャミをされていましたので、何のアレルギーなのか気になりまして・・・」

 ケサダがロホを見た。テオはケサダを見た。

「アレルギーがあるのですか?」

 ケサダ教授はテオに向き直った。

「ないと思っていたのですが、今朝の客が強烈な匂いの香水をつけていまして、それを嗅いだ後に学生数名と私が、クシャミが止まらなくなって困ったのです。文化・教育省に行く頃には少し治ったのですが、それでも4階にいる時も数回。ああ、今は治りましたよ。」
「どんな香水でした?」
「甘い・・・薔薇に似た香りでしたが、私が薔薇のアレルギーを持っている筈はありません。家族が薔薇を庭に植えていますからね。」
「現物がないとアレルゲンの特定が出来ませんね。その人はまた来ますか?」
「どうでしょう? 雑誌の取材でしたから、もう来ないと思いますよ。」

 教授はポケットからパスケースを取り出し、そこに挟んであった名刺を出してテオに渡した。テオは文化系の名前を名乗るその雑誌を知らなかった。個人が出版社を立ち上げて出す類のものだろう。自然科学の分野でも結構そう言う人が来るのだ。遺伝子の方面では少ないが環境科学や気象学の先生のところでよく見かけた。
 ケサダ教授がロホに視線を戻した。

「私のクシャミを心配して来てくれたのですか?」

 教え子だが相手は立派な社会人だから、丁寧に接する。卒業生に恩師風を吹かせていつまでも威張っている教授もいるので、テオはケサダ教授やウリベ教授の様な気さくな人を見習いたいと思った。
 ロホは困った。ケツァル少佐に相手にされなかった事象をここで語って良いものだろうか。彼は意を決して、言った。

「”心話”を許可願えませんか?」

 テオはケサダ教授が意外そうな表情をするのを見た。そしてロホがさっきから戸惑っていることも感じていた。ロホはテオに用事があるのではなく、教授に何か訊ねたかったのだ。教授が頷いた。

「スィ。」

 ”心話”は一瞬で終わった。教授はちょっと苦笑した様に見えた。

「それは吃逆の様なものだな。」

と彼は呟いた。テオが彼を見たので、教授が言葉にして説明した。

「私がクシャミをしたら大きな気の衝撃波を感じた、とアルファットが言ったんです。」

 教授はロホを渾名ではなく真の本名で呼んだ。大学で一度もその真の名を使ったことがなかったロホは、緊張した。ケサダ教授は”砂の民”だと考えられている。彼等は一族の隅々まで情報を収集し、些細なことも知っている。教授は彼に静かに穏やかに警告したのだ。

 私はお前の秘密を知っている。だからお前も私の秘密を口外するな。

「クシャミには気をつけて下さい。」

 テオが笑顔で注意を与えた。

「一瞬無防備になりますからね。」


第5部 西の海     3

  翌朝、文化・教育省の4階オフィスで大統領警護隊文化保護担当部の面々はいつもの業務を行なっていた。オクタカス監視業務中のマハルダ・デネロス少尉はフランス発掘隊の監視中間報告書をケツァル少佐に前日に提出していたが、彼女が伴って来たフランス人の考古学者は文化財・遺跡担当課に提出する発掘期間延長申請書を書くために、4階の待合スペースの机に陣取ってせっせとラップトップのキーボードを叩いていた。デネロスは彼と共にオクタカスに戻るので、ただ待つだけなのだが、時間が勿体ないと思ったのでアンドレ・ギャラガ少尉のグラダ大学通信講座のレポートの校正をしていた。ギャラガの正規担当教授であるファルゴ・デ・ムリリョ博士は滅多に大学に顔を出さないくせに学生の論文の誤字脱字に煩い。だからデネロスは後輩の手伝いをしていた。
 アスルことキナ・クワコ中尉はミーヤ遺跡以外にもいくつかグラダ・シティ近郊の小規模遺跡を担当しており、その日も3か所掛け持ちで走り回るので朝一番に出かけて不在だった。厳しい先輩がいないのでアンドレ・ギャラガは息抜き出来ると思っていたが、そんな時に限って郵送されて来る申請書が多いのだ。彼は封を開けては中の書類を出して眺め、審査順位を決めて「未決箱」に入れていった。
 ケツァル少佐が文教大臣の部屋に出かけているので、副官のロホことアルフォンソ・マルティネス大尉は最終審査書類を読んで署名する指揮官代行を行なっていた。予算案の書類は既に仕上げて少佐の机の上に積み重ねてあった。指揮官代行はそれに署名するのだ。自分で立てた予算に自分で合否を決める。矛盾だ、と思いつつ彼は仕事をしていた。
 一瞬巨大な気が感じられた。ロホは書類から顔を上げた。部下達は気がつかないのか、それぞれの仕事に専念している。他の職員達も当然ながら何も気がついていない。ロホは微かに緊張した。大きな力なのに、彼にだけ感じられる、そんな気を発することが出来るのは力が強い4部族の”ヴェルデ・シエロ”しかいない。
 フロアの端の階段の降り口にグラダ大学考古学部のフィデル・ケサダ教授が姿を現した時、ロホは意外に思った。ケサダ教授は確かに優秀な能力者だ。しかしマスケゴ族だ。マスケゴ族に、ブーカ族のロホを緊張させる様な力を出せるとは思えなかった。
 文化財・遺跡担当課の職員達は馴染み深い教授の訪問を笑顔で迎えた。文化財保護にいつも有力な助言を与えてくれる先生だから、いつでも歓迎される。
 ケサダ教授は微笑で職員達の笑顔の歓迎に応え、それから文化保護担当部のカウンター前へ来た。アンドレ・ギャラガの正面に立ったので、ギャラガが「ブエノス・ディアス」と挨拶した。教授が頷いた。

「ブエノス・ディアス、ギャラガ少尉。遺跡立ち入り許可申請に来ました。用紙をダウンロードしようとしたが、プリンターが故障してしまったので、ここでもらえますか。」

 ギャラガは慌てて傍のキャビネットに手を伸ばし、引き出しから用紙を取り出した。

「遺跡は何か所ですか?」
「1か所。申請者は1名。」

 ギャラガは用紙を1枚手渡した。教授はグラシャスと言って、ライティングデスクへ向かった。途中で足を止め、上着のポケットからハンカチを取り出し、顔に当てた。クシャミをハンカチで抑えたのだが、その瞬間ロホはまたあの物凄い気を感じた。しかしギャラガもデネロスも感じないらしく、平然と業務を続けていた。一般職員も同様だ。ロホは教授を見た。彼の恩師だが、通信制だったし、卒業後は大学に足を向けることが滅多になかったので、彼自身は恩師とあまり繋がりが深くない。ついでに言えば、マスケゴ族は人口がブーカ族に比べて極端に少ないので、ロホは「マスケゴ族ってこんなに力が強かったっけ?」と思った。
 ケサダ教授はデスクの前でもう一回クシャミをした。そして隣のデスクにいるフランス人に「失礼」と謝った。
 フランス人の書類は枚数が多く、英語で書く外国人用のものだった。スペイン語で書く国内用の申請書を慣れた手順で素早く書き上げたケサダ教授は、隣のデスクを覗いた。そしてフランス人がうっかり飛ばしてしまった空欄を見つけ、そっとペンで差した。フランス人はメルシーと呟き、そこに書き込んでから、やっと相手がセルバ共和国の考古学界では有名な教授だと気がついた。短い挨拶が交わされ、それから教授はカウンターに戻って申請書をギャラガの前に置いた。 ギャラガが手に取っていた郵送されて来た申請書を傍に置いて、教授の申請書を手にした。

「オルガ・グランデ聖マルコ遺跡に教授お一人で行かれるのですか?」
「スィ。ただ見るだけです。掘ることはしません。」

 ここでは考古学の権威も一人の申請者だ。ケサダ教授は謙虚に振る舞った。これもこの人の好感度が高い理由の一つだ。

「遺跡認定の視察は助手が行ったので、私も一度実際に見学しようと思っています。」

 そう言ってから、彼はまたクシャミをした。新たな衝撃波を感じて、思わずロホが声をかけた。

「大丈夫ですか?」

 教授が苦笑した。

「失礼。今朝の客が頭から被ったみたいに強烈な香水の匂いを放っていて、学生達も私も鼻の調子がおかしくなったのです。」
「何の香水です?」

 デネロス少尉が好奇心で尋ねたが、教授は答えを知らなかった。


第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...