2022/01/23

第5部 西の海     16

  昼前に診療所に戻ると、待合室に患者はいなくて、イサベル・ガルドスと看護師1人が世間話をしていた。聞けばセンディーノ医師ともう一人の看護師は最後の患者と診察室にいると言う。テオが採取した人数を尋ねると、20代の女性1人、30代の男女1人ずつ、60代の女性2人だった。テオは人数を合計して、言った。

「目標人数には足りていないが、大臣が俺の目標人数を指定した訳じゃない。看護師の分も入れて全部で14人だ。遺伝子比較には十分だと思うが、どうだろう?」
「十分だと思います。」

とカタラーニが応じたが、ちょっぴり残念そうだ。この旅行がすぐに終わってしまう予感がして寂しいのだ。それはガルドスも同様で、

「あっけなく終わってしまいましたね。」

と言った。すると看護師が言った。

「それなら村民全員のサンプルを採ればどうです?」
「出来ないことはないが・・・」
「帰りたくないのでしょう?」

 看護師が悪戯っ子の様な笑を浮かべた。

「アカチャ族は港が出来る前から、海から来る客に慣れています。だから貴方達が村の中を歩き回って出会う人に検査協力を求めても騒いだりしませんよ。」

 テオは彼女を眺めた。純血種の先住民の顔をしてるが、もしかすると・・・。彼は尋ねた。

「昔も海から客が来たと仰いましたね? すると村の人でその他所から来た人と結婚したり、子供を産んだりした人もいたのですか?」
「いたでしょうね。」

と看護師はサラリと言った。

「白人やアフリカ系でなければどこの部族と混ざり合っているか、わかりませんもの。」
「そうか!」

 テオは手を打った。カタラーニとガルドスが不思議そうに見たので、彼は説明した。

「海沿いをやって来たり、船で訪れた人との間に生まれたアカチャ族の住民もいたんだ。その人の子孫がまだ村にいる可能性だってある。つまり、東のアケチャ族とここのアカチャ族に遺伝子が違う可能性も十分あるってことだよ。」
「そうなんだ!」

 ガルドスも目を輝かせた。

「アカチャ族が独立した一つの部族だと言う証明を探すのですね!」

 看護師は何故グラダ大学の人々が喜んでいるのかわからず、ぽかんとして見ていた。

第5部 西の海     15

  現場監督のホセ・バルタサールは50がらみの男性だった。よく日焼けしたなめし革の様な肌をした先住民だ。もしかすると見た目より若いのかも知れない。先住民は若い時期は幼く見えて男性でも可愛らしい人がいるが、ある年齢を超えると急速に大人びて加齢に従い若いのに老成して見える。それだけ生活が過酷なのだ。都会でビジネスマンとして働いている先住民は地方の人々と同年齢でももっと若く見える。
 テオはバルタサールと引き合わされた時、先住民の挨拶を丁寧に行った。東海岸のアケチャ族の挨拶だ。バルタサールは一瞬戸惑った表情を見せ、それから、「私達はこうします」と言いたげに、少しだけ手の位置を下に下げて挨拶をした。それでテオは改めてそれを真似て見せた。エルムスが上から目線でバルタサールにグラダ大学の先生と学生の作業を手伝うよう命じた。バルタサールは「わかりました」と言い、テオに「ついて来い」と手で合図をして所長室を出た。だからテオとカタラーニもエルムスに「グラシャス」とだけ言って、急いで現場監督について出た。
 山から乾いた熱い風が吹きおろす村だ。従業員達が仕事の準備をしているコンクリート舗装の広場の様な場所にバルタサールはテオとカタラーニを連れて行った。彼がホイッスルを吹くと、男達が集まって来た。先住民がいればアフリカ系の人やメスティーソもいる。海沿いだから隣国からも労働者が来ているのだ。バルタサールがテオを見た。

「貴方から話をして下さい。私は難しい話は出来ない。」

 それでテオはカタラーニに検査の説明をさせた。彼が白人の使用人でないことをはっきりさせたかった。カタラーニはこれから行う検査が政府の事業であること、目的は先住民の分布状況調査で、先住民保護助成金の予算算出の参考とすること、調査対象はアカチャ族の各世代男女2名ずつなので、協力者は名乗り出て欲しいこと(決して強制ではないですよ、と彼は強調した。)、検査は綿棒で口の内側を擦るだけなので数秒で済むし、痛みは全くないこと、協力の報酬はないが短時間で済むので決して仕事の妨害にならないことを語った。
 アカチャ族だけが対象と聞いて、早くも自分は無関係と決めつけた人達が集会から離れて行った。結果的に14名が残った。全員男性だ。テオは彼等に年齢を尋ね、20代と30代が5人ずつ、40代が3名いたので、彼等が自主的に2名選ぶよう頼んだ。50代は1人で、バルタサールではなかった。
 最終的に残った7人に、テオは自分で実際に綿棒を使って実演して見せ、細胞サンプルを採取することに成功した。
 保冷ケースに検体を入れて、テオとカタラーニは労働者達に丁寧に感謝の言葉を述べた。40代のサンプルを提供したバルタサールが尋ねた。

「足りないサンプルを集めますか?」
「ノ、診療所でも行っているので、ここはこれで十分です。それに必ずしも全部の世代、男女揃わせなければならないと言うこともありません。アカチャ族の遺伝子のパターンさえ登録出来れば良いのです。」

 バルタサールはテオの背後の風景に視線を向けて言った。

「数年前、会社の健康診断と言うことで、色々なことを検査されました。その時に血液も採られた。後で聞いた話では、その血液をアメリカのどこかの研究機関が買ったと言うことです。」

 テオはドキリとした。国立遺伝病理学研究所のドブソン博士がアンゲルス鉱石の労働者達の血液を集めていた。彼はそこから偶然”ヴェルデ・シエロ”と思われるサンプルを発見して、その遺伝子の持ち主に会おうと初めてセルバ共和国の土を踏んだ。そしてエル・ティティでバス事故に遭ったのだ。そこから彼の新しい人生が始まった。

「今日のサンプルを外国に売ったりしませんから、安心して下さい。」

 それは事実だ。問題は助成金の額だ。アケチャ族とアカチャ族が別々に助成金をもらえるのか、一つにまとめられてしまうのか、だ。

「会社の健康診断は、会社が雇った医師が行ったのですか?」
「ノ。」

 バルタサールは診療所の方を指差した。

「ドクトル・センディーノとドクトラ・センディーノです。会社がお金を払って2人に健康診断をさせたのです。この営業所の従業員だけですが。」

 では鉱山は別の医師が担当したのだ。テオはバルタサールに協力の礼を言った。
スムーズに捗ったので、もしかすると残りの日々はオルガ・グランデ観光で過ごせるかも知れない。


第5部 西の海     14

  2日目の朝。テオドール・アルストは2人の学生と共に朝食を済ませた。テオが早起きしてキッチンでそれなりの料理を作ったので、学生達が驚き、感心して歓声を上げた。

「先生、いつもこんなことをなさっているのですか?」
「いや、家じゃルームシェアしている友人が作ってくれるんだ。彼が来る前は俺も自分で作っていたがね。料理は彼の趣味なんだ。だから仕事が忙しい時や機嫌が悪い時は作ってもらえない。」

 笑顔で朝を迎えられたので、彼等は機嫌良く仕事に取り掛かった。まず診療所に行き、マリア・センディーノ医師の開業準備を手伝った。地方の労働者は始業時間にダラダラと通勤して来ることが多いが、医療機関は別で2人の看護師は時間前に出勤して来て、テオ達に色々と診療所内の物の位置や村人の様子を教えてくれた。彼女達もアカチャ族だったので、早速2人分のサンプル採取が出来た。それを診療所の手伝いをするイサベル・ガルドスが帰る迄管理することになる。
 テオとアーロン・カタラーニは港のアンゲルス鉱石サン・セレスト営業所へ行った。鉱石の積出を管理する事務所だ。社長のバルデスから所長のアダン・エルムスに細胞採取に協力するよう通達が来ている筈だった。エルムスは白人で、テオはドイツ系だと思った。きっと父親とか祖父はヘルムスなのだ。ドイツ人が薄情な国民だと思わないが、エルムスが所長と言う地位を心地良く思っている印象は拭えなかった。と言うのも、所長室に入った時、エルムスはテオに椅子を勧めたのにカタラーニを無視したのだ。使用人と思ったのかも知れないが、それでも失礼な話だ。だからテオは敢えて言った。

「うちの院生にも椅子をお願い出来ますか?」

 エルムスは失礼と呟き、カタラーニにパイプ椅子を提供した。セルバで高等教育を受けられる若者は富裕層の子供か奨学金給付対象の成績優秀な人間だ。いつの日かエルムスはその傲慢な態度のしっぺ返しを受けるだろう、とテオは思った。
 テオは気を取り直してエルムスに調査方法の説明をした。純血種もしくは先住民の血が濃いメスティーソの従業員の頬の内側を綿棒で擦るだけの採取方法だ。但し、年代に分けて男女2名ずつだ。テオが会社に求めるのは、従業員のいる場所へ案内して調査協力を要請してもらうことだった。

「注射と違って痛いことはしないし、薬を飲ませたりもしません。ただ綿棒で頬の中を擦るだけです。」
「それだけ?」
「それだけです。内務大臣が求めているのは、アカチャ族の分布状況ですから、御社の業務の妨害などは一切しません。」

 先住民保護助成金削減が目的などエルムスに言いたくなかった。多分、この男はイグレシアスが大統領選に立候補でもすれば喜んで票を入れる口だろう。テオは勝手にそう思い込んだ。

「それじゃ、現場監督に案内させましょう。」

 エルムスは席を立ち、事務所のドアを開けると、大声で人を呼んだ。

「バルタサール! ちょっと来い!」

 誰かが答えた。

「彼は現場に出ています。」

 エルムスは舌打ちして携帯電話を出した。現場監督にかけて、事務所にすぐに来るよう命令した。そして電話を終えるとテオに言い訳した。

「まだ船も積荷も来ていないのに、いつも外にいたがる男でね。まぁ、威圧的に話しかければ言うことを聞きますよ。」


2022/01/22

第5部 西の海     13

  スープとジャガイモの茹でたものだけの質素な夕食が出来上がると、フレータ少尉は軽く気を発した。食事の合図だ。しかし食堂に現れたのはキロス中佐とラバル少尉だけだった。ステファンは食器にスープとジャガイモを入れてトレイに載せ、彼等に渡した。フレータ少尉と己の分も盛り付け、各自好きな量だけパンを取って1台しかない幅の広いテーブルを取り囲む形で座った。本部の食堂では大所帯で常に誰かが交代で勤務しているので、席に着いたら勝手に食べるのだが、太平洋警備室は4人だけだ。指揮官のキロス中佐がフォークとスプーンを手に取ると、それが合図の様にラバルとフレータも食べ始めたので、ステファンも食事に手を付けた。食事中は静かにすると言うのは本部でも同じだが、人数が極端に少ないので実に静かだ。人が動く音も食器の音も椅子を引く音も聞こえない。まるで地下神殿の指導師の試しが続いている様な気分になったステファンは、少し躊躇ったが思い切って声を出した。

「ガルソン大尉とパエス中尉は後から食べるのですか?」

 するとラバル少尉が手を止めた。

「彼等は家族がいるから、家に帰って食べる。大尉はそのまま家で休むが、中尉は今夜の宿直当番だから、1時間後に戻って来る。貴方も来週から宿直当番のルーティンに入れるが、構わないでしょうな?」
「勿論。」

 ステファンは頷いた。

「夜間の港の見回りとかするのですか?」

 するとラバル少尉がキョトンとした。

「それは昼間私がしている。夜は陸軍がパトロールをしているから、我々はオフィスで朝まで電話番をする。陸軍や沿岸警備隊から出動要請があれば出かけるだけだ。」
「津波や高潮の時ぐらいです。」

とフレータが付け加えた。キロス中佐は部下達の会話に一向に関心を示さず、一人黙々と食べていた。

「宿舎の説明は受けられたのかな?」

とラバルに訊かれて、ステファンは「ノ」と答えた。

「では、ここの後片付けが終わったら、案内しよう。荷物はオフィスに置いたままでしたな?」

 その後も静かな食事が続き、最後にフレータ少尉が出したコーヒーを飲むと、キロス中佐は「おやすみ」と呟いて出て行った。3人の部下は立ち上がって彼女を敬礼で送ったが、いかにも形だけの敬意にステファンには思えた。
 ステファンはフレータを座らせたまま、後片付けを引き受けた。ラバル少尉とフレータ少尉は厨房で鍋や皿を洗っている大尉を眺めた。そしてラバルが呟く様に言った。

「今から張り切ると、半月も経たないうちに心が折れるぞ。」

 ステファンが振り向くと、彼は続けた。

「グラダ・シティにいる時は、制服を着ている時は神様扱い、私服の時は市民の中に溶け込んでいられる。しかし、ここじゃ直ぐに顔を覚えられる。私服で出かけても、何者かわかってしまう。何処へ行こうが怖がられる。友達なんて出来やしない。独りぼっちだ。入隊するんじゃなかったと後悔するばかりだ。」

 ステファンは手をタオルで拭いて、カウンターの外に出た。

「私はオルガ・グランデのスラムで育ったんです。掏摸やかっぱらいをして生活していました。そうでもしなければ母親を街角に立たせることになってしまう貧しさでしたから。自己紹介の時に言った様に父は私が幼児の時に死んだ。母方の祖父も私が5歳の時に亡くなった。我が家の男手は私だけだったのです。だから入隊して、給料をもらえる様になって家族はかなり楽になりました。神様扱いなんてされたことはないし、メスティーソだから本部でも純血種達から馬鹿にされ続けました。独りぼっちなんて平気です。仕事をもらえるなら、どんな任地でも大歓迎です。」

 ここの連中は大統領警護隊であることを後悔しているのか? ステファンは心の奥で困惑を覚えた。後悔しているから覇気がないのか? 

「私は今の仕事に満足していますよ。」

とフレータが言った。

「少なくとも、戦闘から遠い場所ですから。」
「君は女だからな。」

とラバルが鼻先で笑った。フレータはムッとしたが、言い返さなかった。
 ラバルが立ち上がった。

「後片付けが終わりましたな。では、宿舎へ案内しよう。男と女で別の家だ。中佐とフレータは女の家、大尉と私は男の家です。」

 男女で別の家に寝泊まりするのはカイナ族の風習だ、とステファンは気がついた。そう言えばフレータは純血種のカイナ族でラバルはカイナとマスケゴのミックスだ。



第5部 西の海     12

  大統領警護隊太平洋警備室の厨房は別棟だった。さらに付け足せば、食堂併設なので食堂もオフィスとは別棟になるのだ。オフィスの建物の裏手、指揮官室の背中側に当たる場所だった。ブリサ・フレータ少尉は厨房棟に入ると照明のスイッチを押した。柔らかな光が屋内に灯った。5人だけの所帯なので厨房も食堂も広くない。カウンターで仕切られているが、それがなければ一つの部屋と言っても良い広さだった。
 フレータは魚のスープを作ると言い、2人は教わった通りの食物を清めるお祓いの祈祷をして調理に取り掛かった。鍋に水を入れて火に掛けた。

「指導師の資格を取られたのですってね。」

とフリータが魚の鱗を取りながら尋ねた。ステファンはジャガイモの皮を剥きながら「スィ」と答えた。

「ここでは資格を持っているのは中佐だけです。」

とフレータは言った。

「私がここを任されているのは、私が女だからです。それに一番若いから。」
「全員で交代で料理しないのですか?」

 ステファンは階級が上だったが、ここでは新入りだったし年下なので丁寧に話しかけた。フリータは「ノ」と答えた。

「皆自分の仕事をするだけです。私も朝港へ行って魚を仕入れたり、畑へ行って野菜を分けてもらって、昼食や夕食の支度をするだけです。」
「では、私がここで働けば、貴女は別の仕事が出来るのでは?」

 フレータが顔を上げてステファンを見た。ちょっと微笑んで見せた。

「買い物に時間をかけても良いかも知れませんね、大尉さえ黙っていて下されば。」
「海岸をパトロールしたり、道路の状態を点検したりしないのですか?」
「私が?」

 フレータが手を止めた。

「本部では女性もそんなことをしているのですか?」

 逆にステファンが驚いた。

「大統領警護隊は男女で勤務内容が違うと言うことはありません。いや、陸軍でも憲兵隊でも警察でも、男女区別はありません。」

 フレータが溜め息をついた。彼女は魚の内臓を取り出し、ぶつ切りにした。鍋の水が沸騰したので、そこに魚を入れ、玉葱やニンニクも入れた。ステファンは別の鍋でジャガイモを茹でた。

「そう言えば、入隊して本部で修行している時は男達と一緒に警備に能っていました。丁度貴方頃の時にこっちへ配属されて、それっきり・・・ずっとこの場所で働いています。」
「他の方達は?」
「ガルソン大尉はもう15年こっちにおられます。少尉から中尉になられた時にこちらへ来られて、大尉に上がられて、そのまま結婚されてお子さんもいらっしゃいます。ブーカですが、所謂オエステ・ブーカと呼ばれる、オルガ・グランデに住み着いた支族の出ですから、グラダ・シティに戻るつもりはない様です。」

 フレータはちょっと背伸びして窓の向こうのオフィスの様子を伺った。厨房棟から見えるオフィスの建物は窓のブラインドが閉じられていた。上官達がこちらを伺っていないと確認してから、彼女は続けた。

「パエス中尉は大尉より古くて、17年こちらにいるそうです。昇級でガルソンに抜かれたので、同じブーカですがあまり親しくないです。中尉も結婚されています。多分愛想が悪い人と思われるでしょうが、頼んだことはきちんとして下さるので、意外に親切な人ですよ。」

 話し相手がいて嬉しいのか、フレータ少尉はステファンに新しい同僚達のことを教えてくれた。

「ラバル少尉は25年こちらにいます。恐らく中佐より長いです。港湾関係者に顔が利くので港の警備をしていらっしゃいます。あの方は独身です。」
「指揮官殿は・・・?」
「キロス中佐はグラダ・シティのブーカ族の出です。」

 と言って、そこでフレータはスープの中に塩や香辛料を入れた。

「キリッとした力強い方でしたけど・・・」

 彼女はそれ以上は語らず、ジャガイモの茹で具合を確認した。そして棚からパンを出すようステファンに頼んだ。だからステファンは言った。

「私は新参者ですから、大尉だからと言って遠慮せずに指図して下さい。命令口調で結構です。」

 フレータが微笑んだ。

「ずっと私が一番下でしたから、指図するのは慣れていません。」
「でも沿岸警備隊や陸軍には指図するでしょう?」
「ここでは誰もそんなことはしません。ただ見張っているだけです。沿岸警備隊も陸軍も私達には逆らいませんから、私達も命令しません。」

 なんだかおかしい・・・とステファンは感じた。ここの隊員達は覇気がなさ過ぎる。

第5部 西の海     11

  カルロ・ステファン大尉は陸軍水上部隊への輸送トラックから降りると、運転手の下士官に礼を言って、大統領警護隊太平洋警備室の建物に入った。見た目は隣の陸軍水上部隊の基地のボイラー室か?と思える様な小さなコンクリート造りの建物だった。ステファンがドアの前迄行くと、ドアが開いて30代半ばの男性が姿を現した。大統領警護隊の制服を着た隊員で肩章は大尉だった。
 ステファンと彼は視線を交わし、敬礼して挨拶を交わした。

「本部遊撃班所属カルロ・ステファン大尉であります。本日付で太平洋警備室厨房班に着任致します。」
「太平洋警備室ホセ・ガルソン大尉だ。指揮官補佐をしている。」

 ガルソンはステファンを建物の中に招き入れた。海側の窓が小さいのは村の家々と同じだ。海からの強風で割れないよう、小窓で明かりを採っている。薄暗くないのは東側の窓が大きいからだ。ブラインドは開いていた。広くない室内に机が4台、窓際に1台。ガルソンはステファンを奥のドアへ真っ直ぐ連れて行った。形式通りドアをノックして、少し開いた。中の人に声を掛けた。

「本部からステファン大尉が到着しました。」

 中の人の声は聞こえなかった。しかしガルソン大尉は「はい」と答え、ステファンに入れと合図した。ステファンは荷物を床に置き、室内に足を踏み入れた。戸口に1歩入り、敬礼した。

「ステファン、着任致します。」

 指揮官室は薄暗かった。ブラインドを全部閉じて、照明も薄暗かった。机の向こう側に胡麻塩頭の女性が軍服姿で座っていた。50代だと聞いていたが70歳近くに見える、とステファンは感じた。ガルソン大尉が紹介した。

「我々の指揮官カロリス・キロス中佐だ。」
「太平洋警備室へようこそ」

と彼女が囁く様に言った。そしてガルソン大尉に言った。

「ここでの任務を教えてあげなさい。」

 ガルソン大尉は敬礼し、ステファンに部屋から出る様に合図した。ステファン大尉はもう一度敬礼してからガルソンについて部屋を出た。ドアを閉じると、ガルソンが肩の力を抜いた様に感じた。
 室内にはさっきまでいなかった男女が3人、それぞれの机の前に立っていた。ガルソン大尉が声を掛けた。

「紹介しよう。今日からここで3ヶ月間厨房勤務をするステファン大尉だ。」

 彼は右に立っている男性を指した。

「ルカ・パエス中尉、車両と船舶などの乗り物の担当をしている。機械の整備なども得意だ。彼はブーカだ。」
「よろしく。」

 パエス中尉は30代後半と思われた。

「お若いですな、ステファン大尉。」

 明らかに年下の上官のステファンにパエス中尉がニコリともせずに挨拶した。まだ20代になってそこそこのメスティーソの若造が、と言う目だ。ステファンは本部でもそう言う目をよく見たので、無視した。パエスとガルソンはどちらが年上なのだろう。
 ガルソンは次にパエスの隣の机の男性を指した。

「ホセ・ラバル少尉。主に港の警備を担当している。外国から来る船を見張る仕事だ。彼はカイナとマスケゴの血を引いている。」
「よろしく。」

 ラバル少尉も年上だ。恐らく40代、パエスよりガルソンより年上だ。ステファン大尉は居心地が悪くなってきた。何故なら、3人目の先輩である厨房班のブリサ・フレータ少尉も30代だったからだ。先輩が全員年上で階級が下だ。ガルソンは大尉だが、昇級は何時だったのだろう。

「君はどの部族だ?」

とガルソンが訊いてきた。ステファン大尉はあまり答えたくなかったが、この質問は”ヴェルデ・シエロ”である限り、絶対に避けて通れない。彼は答えた。

「白人の血が入っていますが、グラダです。」

 僅か4人の先輩達が一瞬ざわついた、と彼は思った。実際は声を出さなかったが、彼等は互いの目を見合ったのだ。パエス中尉が声を掛けてきた。

「オルガ・グランデを一人で2年間制圧したシュカワラスキ・マナの息子と言うのは、貴方のことか?」

 これも答えたくなかったが、ステファンは頷いた。

「スィ。しかし私は父を覚えていません。2歳の時に彼は亡くなったので・・・」

 重たい沈黙が訪れ、不意にそれを振り払う様にフレータ少尉がステファンに手を振った。

「夕食の支度をしますから厨房へ案内します。」

第5部 西の海     10

  サン・セレスト村の診療所は女性医師マリア・センディーノと2人の地元の女性が看護師として働いていた。センディーノは白人で、隣国の太平洋岸の町の出身だったが、結婚してセルバに来たのだと言った。同じく医師だった夫は数年前に亡くなった。エル・ティティの警察署長ゴンザレスの妻子の命を奪ったのと同じ疫病だった。患者から罹患して、治療が間に合わず亡くなったのだとマリアは言った。イサベル・ガルドスが医学部生だと知ると、喜んだ。彼女の子供もグラダ大学で医師を目指して学んでいるのだが、まだ地元に帰って来ないのだと言う。
 診療所はセンディーノ家が経営しているが、村で唯一の医療機関と言うこともあり、港を利用している鉱山会社各社から少しずつ援助が出ているのだと言った。だから僻地の診療ではあるがレントゲン施設があり、簡単な手術を行える部屋もあった。特にアンゲルス鉱石は社長がミカエル・アンゲルスからアントニオ・バルデスに代替わりしてから援助を増やしてくれていると、マリアは感謝していた。テオはバルデスにマフィアのドンの様な印象を持っていたが、考えるとマフィアは地元を大切にする。バルデスも地元民にはそれなりに優しいのだ。

「アカチャ族はサン・セレスト村の構成員の9割を占めています。私は東のアケチャ族を知りませんが、内務省から貴方の調査に協力するよう要請が来ましたので、お手伝いします。」
「頬の内側の細胞を採るだけですから、健康診断の様な血液採取はしません。ただ、採取の目的をアカチャ族が納得してくれるかどうか、自信がないのです。」

 テオは正直に言った。先住民保護の予算を削るための検査だ。内務大臣は東西の海岸地帯に住む2つの先住民の集団が同じ祖先を持つと遺伝子レベルで証明して、助成金対象を一グループだけにしようと企んでいる。

「遺伝子が同じでも文化が別なら別部族ですよね。」

 アーロン・カタラーニは大臣の考え方に不満を覚えていた。マリアも頷いた。

「別部族だと言う結果が出るよう祈って検査しましょう。」

 宿舎は診療所から徒歩3分の距離にある空き家だった。マリアと2人の看護師で前日に掃除してくれたので、テーブルや椅子はすぐに使えた。ベッドは1台しかなかったので、それを小さめの部屋に移動させ、女性のガルドスに使わせることにして、テオとカタラーニは大きい方の寝室で寝袋で寝ることにした。
 セルバ共和国七不思議の一つ、どんなに辺鄙な土地でも必ず井戸がある、を裏切らず、この空き家にも井戸が裏手にあり、5、6軒で共同で使用していた。テオは炊事当番を決めてキッチンの壁に貼り出した。それから3人で村の食料品店に出かけて買い出しをした。アカチャ族は純血種の先住民で年配の女性は伝統的な襞の多いスカートを履いていたが、働ける世代や若い人は都会と変わらぬ服装だった。言葉もスペイン語で、男達は港で働いていた。女性達は村より標高の高い土地に作られた畑で野菜やトウモロコシを作っていた。もう少し南へ行けばバナナ畑があると言う。
 そう言えば往路で山を大きく迂回する様なポイントがあったが、あの辺りがバナナ畑だった、と思ったテオは、そこが以前通ったことがある道だったと思い出した。セルバ共和国に亡命する前、彼はアメリカ政府からの束縛から逃れようとエル・ティティに逃げたことがあった。その時、反政府ゲリラに誘拐され、ケツァル少佐とロホ、ステファンに救出されたのだ。ゲリラに重傷を負わされたロホを背負ってジャングルを走り、ティティオワ山の火口付近から生まれて初めて”空間通路”を抜けて出た場所が、あの道路側のバナナ畑だった。

 もう2年になるのか・・・

 感慨深いものがあった。あれは辛い事件だったが、お陰で大統領警護隊文化保護担当部との仲が深まった。信頼と信用を勝ち得たのだ。
 夕食の時、細胞の採取方法を話し合った。村の住人全員の細胞を採る必要はない。若者から高齢者まで、各世代毎に4名ずつ細胞を採っていこう。診療所に来る人の細胞は、ガルドスに任せる。ガルドスは医学生だから、マリアの手伝いが出来る。テオとカタラーニは港で港湾労働者から細胞を集める。これはアンゲルス鉱石のバルデスに協力を依頼してあるので、従業員から採取する。バルデスは内務省から話を通してもらっているので従ってくれる筈だ。
 上手く作業が運べば週半ばで終了するだろう。

第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...