2022/02/01

第5部 山へ向かう街     6

  サン・セレスト村の旅の装備を解いて、テオは自宅の浴室で久しぶりに湯が出るシャワーを浴びた。蒸し風呂か湯を張ったバスタブにゆっくり浸かりたかったが、少佐が夜明け前に出かけるから早く寝なさいと言った。彼女がこの家に泊まるのは初めてじゃないか、と思いつつ、テオは素直に寝室に入った。ベッドに寝転がると直ぐに寝落ちした。
 少佐に起こされたのは午前四時半だった。寝室から出ると、アスルがキッチンで既に朝食の支度を終えていた。何時帰ってきて何時寝たのかわからない。温かいスープとパンとコーヒーで食事をして、着替えて、徒歩で出かけた。
 ロホが見つけた”入り口”は、なんと空き家になっているピアニスト、ロレンシオ・サイスの家の中だった。3人はこっそり中に侵入した。サイスが戻る迄一応外を見回る警備会社を雇っているので、荒らされていないが、中は埃が積もっていた。高価な品と言えば、グランドピアノだが、これは泥棒もお手上げだろう。

「よくこんな家の奥にある”入り口”をロホは見つけたもんだな。」

とテオが感心して言うと、アスルが、「それがブーカ族の凄いところだ」と言った。
”入り口”はリビングとキッチンをつなぐ廊下の途中にあった。ケツァル少佐は”穴”の大きさを確認すると、男達を振り返った。

「3人並んで通れる大きさですが、廊下の幅があるので、一列で入りましょう。アスル、先頭をお願いします。私は先導が下手だといつもカルロに言われているので。」

 アスルが珍しく笑って、手をテオに伸ばした。握れと言う意味だ。テオはちょっとドキドキした。アスルからこんな風に握手を求められたことはなかったし、これは仕方なくしていることだと分かっていても、嬉しかった。彼は片手でアスルの手を握り、もう片方で少佐の手を掴んだ。少佐も握り返してきた。
 アスルの体が廊下の暗がりの中に溶けて、見えなくなった。テオも中に入り、少佐が続いた。
 いきなり石畳の上に出た。まだ夜明け直前で暗いが、遺跡の様な石を積み上げた壁が左右に長く続いていた。最後に出て来た少佐が呟いた。

「オルガ・グランデの旧市街ですね。」
「陸軍病院は恐らく西の方角です。」

 アスルが指差した。

「歩いて20分の距離でしょう。」

 3人は歩き始めた。テオは出てきた場所を振り返った。石壁に挟まれた路地の様だ。

「本部の人たちがキロス中佐に面会に来る時も、”通路”を使うのか?」
「その時の状況による。」

とアスルが答えた。それ以上の答えは望めなかった。
 路地は曲がりくねっていて、5分程歩くと、幅の広い道路と交差していた。3人は幅の広い道路を右に曲がり、道なりに歩いて行った。やがて広い車道に出た。早朝だが車が往来していた。低木の生垣に囲まれた広い敷地の中に、古い石造りの建物が建っていた。庭に救急車や軍用車両が数台駐車しているのが見えて、そこが陸軍病院だとすぐ分かった。
 3人が門に近づくと、当然ながら門衛がいて、身分証の提示を求めた。ケツァル少佐とアスルが徽章とI Dカードを出した。

「昨日ここに入院した同僚の様子を伺いに来た。」

 門衛は緑の鳥の徽章を見た瞬間、ハッと相手の顔を見てしまい、アスルと視線が合ってしまった。アスルが”操心”を使った訳ではなかったが、門衛はすくみ上がり、「どうぞ」と中へ入るよう手で合図した。少佐が言った。

「簡単に通すでない! 我々は大統領警護隊太平洋警備室のブリサ・フレータ少尉の見舞いに来た。彼女の部屋を教えて欲しい。」
「少々お待ちを・・・」

 門衛は慌てて何処かに電話をかけた。

「スィ・・・そうです、2人は徽章を持っています。I Dカードもお持ちです。もう一人は・・・」

 門衛はテオを見た。テオは仕方なく大学のI Dを見せた。門衛は怪訝な顔をしたが、そのまま電話の相手に見た内容を伝えた。スィの繰り返しの後、門衛はストラップ付きの入館パスのケースを3人に手渡した。

「東棟の3階です。部屋はそこの事務室でお聞き下さい。」
「グラシャス。」

 テオ達は堂々と陸軍病院の中に入った。


第5部 山へ向かう街     5

  ロホはオルガ・グランデへ通じる”入り口”を探して夜のグラダ・シティを車で流した。金曜日の夜の大都会は遅く迄賑やかだった。偶に次元の渦を見かけたが、人の目があって使えなかった。最後に、意外な場所で”入り口”を見つけて、ケツァル少佐に電話した。少佐はテオをマカレオ通りの彼の家に送り、入浴させて休ませようとしていた。

「日が昇ると人目に着くので、夜の間に使った方が良いかも知れません。」

とロホは言った。少佐は、アスルが戻ったらテオを連れてそちらへ行く、と言った。

ーー貴方はアパートに帰りなさい。
「私は仲間外れですか?」

 ロホが不満そうに言うと、少佐は言った。

ーー貴方は明日、アスクラカンに行ってもらいます。バルセルと言う医師が3年前に、あの街に何をしに行ったのか、調べて下さい。
「軍事訓練ですか?」
ーーそう言うことにしましょう。
「では、アスルとアンドレはどうします?」
ーーアスルは私から指示を出します。 アンドレは貴方が連れて行きなさい。純血至上主義者に近づく時の心得を教えてやりなさい。彼の人生で決して避けて通れないことですから。
「承知しました。あいつは打たれ強いですから、タイマンなら負けないと思いますがね。」

 少佐は電話の向こうで笑って、通話を終えた。
 ロホは車中で次にアンドレ・ギャラガにメールを送った。時間があれば電話をくれと送ると、彼がアパートに帰り着いた時に電話がかかって来た。

ーー通話場所が空くのを待っていたので遅くなりました。明日の軍事訓練の件でしょうか?

 流石に文化保護担当部だ。金曜日の夜の連絡が何を意味するのか承知している。ロホは心の中で笑った。

「スィ。明日、君は私と共にアスクラカンへ行く。0700に本部前で君を拾うから待っていてくれ。」
ーー承知しました。軍服は必要ですか?
「私服で良い。だがI Dは忘れるな。」
ーー大丈夫です、絶対に忘れません。

 ギャラガにとって大統領警護隊が人生の全てだ。ロホはふと思った。彼をいつか軍の呪縛から解放して自由に伸び伸びと生きる道を歩かせたい、と。

「アスクラカンには、厄介な思想を持った家系がいるからな、用心しろよ。」
ーーああ、例のサスコシの・・・

 ギャラガはビアンカ・オルトの事件を忘れていなかった。彼自身はあの件に殆ど関わらなかったのだが、純血種でないと言う理由で腹違いの弟の存在を抹消しようとした女の考え方は衝撃だったのだ。己の血筋がはっきりしないミックスのギャラガは、純血種が血筋を守ろうとする考え方が理解出来ない。

ーーミックスだって立派に”シエロ”だって見せてやります。
「それなら、早く”操心”と”連結”の違いをマスターしろよ。」

 チクリと先輩らしく注意してやると、ギャラガは電話の向こうで、ククっと苦笑した。

ーーでは、失礼して、明日遅刻しないように早く寝ます。
「おやすみ。」
ーーおやすみなさい。

 電話を終えて、ロホは実家にまだ居座っている2人の弟を思い出した。あいつらもアンドレを見習って武者修行に出れば良いのに、と6人兄弟の4男は思った。


2022/01/31

第5部 山へ向かう街     4

  大統領警護隊本部遊撃班は恐らくホセ・ラバル少尉を尋問し、またカロリス・キロス中佐からも事情聴取したことだろう。テオは隊員ではないし、”ヴェルデ・シエロ”でもない。サン・セレスト村で起きた事件に多少関与したが、だからと言って大統領警護隊が彼に捜査結果を教えてくれる訳が無い。ケツァル少佐も同じく捜査結果を知りたい様子だったが、彼女は己が事件の部外者であることを心得ていたので、本部に情報を求めることをしなかった。
 テオは太平洋警備室のホセ・ガルソン大尉、ルカ・パエス中尉、そしてブリサ・フレータ少尉がこの先どうなるのかも気になった。ガルソン大尉は3年間本部に嘘を通してきた。指揮官のキロス中佐が元気で勤務していると動画を細工して、毎日定時報告として送信していたのだ。彼は転属を覚悟していた。降格もありうるし、もしかすると不名誉除隊となるかも知れない。それなら良いが、罪に問われて逮捕でもされたら・・・。 パエス中尉とフレータ少尉も共犯だ。だが3人はキロス中佐が元通り元気になる日が来ると信じて、彼女に仕えたのだ。

「キロス中佐に面会出来ないだろうか?」

 テオの提案にケツァル少佐は首を傾げた。

「彼女は今厳重な警護の元で治療を受けているでしょう。家族の面会も難しいと思います。」
「中佐に家族がいるのかい?」

 と訊いてから、テオは遊撃班のファビオ・キロス中尉を思い出した。少佐はキロス中佐と親しくないので、と言い訳した。

「彼女の家族のことは知りません。」
「遊撃班にファビオ・キロス中尉がいるが・・・」

 するとロホが言った。

「キロス家は代々軍人を出している家系ですから、大統領警護隊に何人のキロスがいると思いますか?」
「そんなにいるのか?」
「私が知っているだけでも3人います。全員従兄弟同士ですが。」
「それじゃ、カロリスは叔母さんかも知れないな。」

  テオはキロス中佐が本部の事情聴取を受ける前に会いたかった。本部から事件の真相を口止めされる前に。そしてガルソン大尉達の処分が決定する前に。彼女の口から真相を聞かせてもらい、部下達の処分が軽く済むよう助けてやってくれと頼みたかった。
 ふとケツァル少佐が顔を上げて、テオに言った。

「フレータ少尉なら面会させてもらえるかも知れませんね。」


第5部 山へ向かう街     3

  テオはケツァル少佐を見つめ、それからロホを見た。

「3年前、アスクラカンを出たバスがティティオワ山で事故を起こしたんだよ。」

 彼が囁くと、ロホが少佐より先に反応した。

「貴方が記憶を失った事故ですか?」
「スィ。キロス中佐はその事故が起きる前にアスクラカンへ行き、事故のすぐ後でサン・セレスト村に戻って来たと、太平洋警備室の隊員達は言っていた。」

 少佐が尋ねた。

「貴方は、中佐があの事故について何か知っていると考えているのですか?」
「彼女の呪いを祓ったカルロが、中佐は悲しみにうちひしがれていると言ったんだ。だから・・・」

 テオは言葉を纏めようと考えた。

「中佐はもしかすると事故の原因を知っているのかも知れない。事故を防ごうとして出来なかったか、あるいは、あれは事故ではなく、何者かが仕掛けて、彼女はそれを阻止出来なかったか・・・」

 ケツァル少佐が彼の手に自身の手を重ねた。

「それで貴方はアスクラカンへ行きたいのですね?」
「スィ。アスクラカンはエル・ティティから車で1時間の距離だ。週末にエル・ティティに滞在する時に、出かけても良いんだ。買い物とか・・・」
「調査するなら、目標を決めないと、無駄足になります。」
「ラバルは純血至上主義者みたいな考えを口走っていた。」

 ロホが首を振った。

「オルト一族の様な人々と接触しない方が良いです。白人や”ティエラ”に危害を加えたりしないと思いますが、気持ちの良い人達ではありません。」
「それなら、キロス中佐が会いに行った医者の訪問先を探してみる。」

 ちょっと間を置いて、少佐とロホが「医者?」と質問した。それでテオは説明が抜けていたことを思い出した。

「3年前、エンジェル鉱石、今のアンゲルス鉱石だが、あの会社が従業員の健康診断で採取した血液を、当時俺がいた国立遺伝病理学研究所へ売り払ったんだ。それで俺がセルバ共和国に来るきっかけが出来たんだが、その仲介をしたのが、医者のバルセルと言う人物だった。キロス中佐は彼が”ヴェルデ・シエロ”の遺伝子が混ざったサンプルを売却したと知り、バルセルがアスクラカンに出かけたので追いかけた。そこまで俺に語ってから、彼女はおかしくなった。」

 少佐とロホは顔を見合わせた。ロホが尋ねた。

「そのバルセルと言う医者は今何処に?」
「知らない。調べなきゃ。」
「バルセルは”シエロ”ですか?」
「いや、白人だと聞いた。」
「彼が血液を売却したことと、純血至上主義は結びつきませんが?」
「だから、それを調べたい。」

 不意にケツァル少佐が電話を出した。何処かにかけるのを男達が眺めていると、彼女は先方と話し始めた。

「ブエナス・ノチェス、バルデス社長!」

 え? とテオとロホは思わず顔を見合わせた。少佐は喋り続けた。

「大統領警護隊文化保護担当部のミゲール少佐です・・・スィ、ご協力、感謝しております。」

 少佐はアンゲルス鉱石のアントニオ・バルデス社長と話している。 セルバ流に少し世間話をしてから、本題に入った。

「3年前の御社の産業医をしていたバルセルと言う医師は現在何処にいますか?」

 バルデスの返事を聞いた少佐の顔が曇った。

「本当ですか? ・・・ わかりました。グラシャス。」

 電話を終えたケツァル少佐はテオを見た。そしてわかったことを伝えた。

「バルセル医師は、貴方が巻き込まれたバス事故で亡くなっていました。」


第5部 山へ向かう街     2

  バルで軽く一杯やった後、本格的な食事に行く前に、公園のベンチでビールを飲みながら、テオはサン・セレスト村で起きた事件の概略を語った。
 オルガ・グランデ空港でカルロ・ステファン大尉と出会い、お陰で大統領太平洋警備室の隊員達とお近づきになれたこと。ステファンが感じた指揮官キロス中佐の異常をフレータ少尉に訊いてみると、副官のガルソン大尉が中佐に面会させてくれたこと。面会の途中で中佐の具合が悪くなったので、フレータ少尉が車で診療所へ連れて行こうと彼女を車に乗せ、そのジープが爆発したこと。中佐と少尉は重傷を負ったが、生きていること。(「今はオルガ・グランデ陸軍病院に入院している」とテオは忘れずに言った。)ラバル少尉が、パエス中尉が爆破犯人だとして拘束したが、ガルソン大尉とステファン大尉はラバル少尉の嘘を見破り、少尉を拘束してパエス中尉を救出したこと。ラバル少尉は純血至上主義者の主張をしたが、彼はカイナとマスケゴのミックスで、彼の思想でキロス中佐の暗殺に繋がるものが何も思い当たらないこと。

「俺が面会した時、キロス中佐は何かを語ってくれそうだった。3年前にアスクラカンへ出かけて戻って来てから彼女がおかしくなったとガルソン大尉が言っていたので、俺はその点を訊いてみたんだ。彼女は何か言いたそうだったが、そこで具合が悪くなった。」
「具合が悪くなった?」
「何かを思い出そうとすると頭痛が始まった様で、それから泣いている様にも見えた。」

 ロホが尋ねた。

「それは何かが彼女に喋らせまいとしていたのではありませんか?」

 テオは彼を見た。

「彼女は”操心”に掛けられているって言うのか?」
「キロス中佐は強い能力を持っています。完全に支配されない代わりに、完全に逃げ切ることも出来ないで、苦しんでいるのだと思います。」

 ケツァル少佐が頷いた。

「何者かが彼女の記憶を消そうとしたのです。でも彼女は抵抗して、逃げた。そして3年間、その敵の”呪い”と闘っていたのでしょう。それが、無気力と部下達の目に見えたのです。中佐はきっと副官のガルソン大尉に伝えたかったに違いありません。でも説明しようとすれば敵の力に乗っ取られそうになる、だから言えない。その繰り返しだったのでしょう。」
「ガルソン大尉は指導師の資格を持っていません。呪いの対処方法を知らないし、どんな類の呪いが中佐に掛けられているのかもわからないのです。心の病気かも知れないと心配して投薬治療を行なっていたのですね? 彼は判断を誤りました。中佐の異変に気づいた時に、本部に連絡すべきでした。」

 テオは頷いた。

「彼も後悔していた。中佐の名誉を心配する余りに、正しい判断を下せなかったと。」

 ロホが呟いた。

「大尉はキロス中佐を心から慕っているのですね。」

 するとケツァル少佐が言った。

「私がおかしくなったら、躊躇わずに司令部に通報なさい。間に合わなければ撃ち殺しても構いません。」
「少佐!」

 テオの抗議の声を無視してロホが頷いた。

「承知しました。しかし、撃つ限りは必ず息の根を止めさせて頂きます。」
「ロホ・・・」
「それでこそ、我が副官です。」
「少佐・・・」

 テオは友人達の会話に呆れた。少佐とロホが顔を見合わせ、それから2人共同時にぷっと吹き出した。テオはむくれた。

「俺を揶揄ったのか?」
「そうではありません。私達はそれぐらいやらないと危険な存在だと言うことです。私が狂う場合は、少佐が私を撃ちますよ。ガルソン大尉と部下達は中佐を治そうと必死だったのでしょうね。指導師の資格を取り立てのカルロが赴任して、彼等は期待と同時に本部に嘘をついてきたことがバレると覚悟したでしょう。」

 ロホは遠い太平洋の僻地で心に異変を来した上官を守ろうと奮闘した隊員達を思い遣った。
 ケツァル少佐が腕組みした。

「アスクラカンで何かが起きたことは間違いありませんね。それにラバル少尉が関係しているのかしていないのか、それは本部が取り調べるでしょう。恐らくラバルは尋問に屈する筈です。大統領警護隊の司令部の尋問に耐えられる者はいません。でもそれで真相が判明するかと言えば、確実とは言えないでしょう。」

 テオは夜空を見上げた。乾季の空は晴れ渡って満天の星空だ。

「アスクラカンへ行く用事を作らなきゃいけないなぁ。遺伝子鑑定が必要なミイラが出土する遺跡とか、ないかい?」
「しかし、キロス中佐が話が出来る状態に回復したら、事情は聞けるでしょう。」
「酷い火傷だった。それに彼女がそうなった事情を彼女から聞けても、事件の解決に結びつくだろうか。犯人を探さないと・・・」
「テオ。」

と少佐がちょっと尖った声を出した。

「何故貴方がそこまでするのです? 遊撃班に任せなさい。」




第5部 山へ向かう街     1

  航空機でグラダ・シティに帰ると、到着は午後3時になった。早朝にサン・セレスト村をバスで出発して午前10時過ぎにオルガ・グランデに到着し、それから空港までは徒歩で10分。搭乗手続きに時間がかかり、空港で昼食、飛行機に乗って、やっと戻って来たのだ。
 3人はちょっと贅沢してタクシーで大学へ行き、遺伝子工学教室の冷蔵庫にサンプルを入れた。分析は早い方が良いのだが、週末だ。月曜日の午後から始めることにした。
 院生達を帰宅させ、テオは研究室で一人コーヒーを淹れた。椅子に座ってから携帯を出した。

ーー帰ったよ。

 相手はケツァル少佐だ。忙しければ返事はない。1分画面を見つめてから、彼は携帯を机の上に置き、コーヒーを啜った。メールが着信した。

ーー今夜はエル・ティティに帰るのですか?
ーーノ。 良ければ食事でもどう?
ーーOK。いつもの時間にいつもの場所で。

 少佐もすっかり素直になった。恐らく西海岸で起きた事件が文化保護担当部に伝えられることはないだろう。テオは彼女が要求しなくても語りたい気分だった。まだ何か残っている感じが拭えないのだ。
 夕方が待ち遠しかった。冷蔵庫の中をもう一度整理して、ふと心配になった。彼は携帯電話を出した。相手が出てくれるかどうかわからなかったが、掛けてみた。
 5回の呼び出しの後で、今朝別れたばかりの男の声が答えた。

ーー大統領警護隊太平洋警備室ガルソン大尉・・・
「テオドール・アルストです。」

 ああ、と相手が声を出した。

ーーどうかなさいましたか?
「貴方のお子さんの名前をお聞きしようと思って。もし採取したサンプルに貴方のお子さんの物が混ざっていたら、遺伝子分析の時にちょっと拙いでしょう?」

 ガルソン大尉はテオの言葉の意味を直ぐに理解してくれた。 テオが思った通り、子供達は母親の姓を名乗っていたので、教えてもらわなければ彼の子供のサンプルを判別出来なかった。テオは大尉に礼を言って、電話を切った。
 半分”ヴェルデ・シエロ”のガルソン大尉の子供達のサンプルに小さく印を付けた。廃棄しようかとも思ったが、数を確認した院生達に怪しまれるので、そのままにして分析の時に無視する項目に”シエロ”のゲノムを入れておくのだ。もしカタラーニが何か気がつけば、その家系の特性だと決めつけておこう。
 夕刻、テオは研究室を施錠して、文化・教育省へ行った。車は自宅にあるので(留守中はアスルが使った筈だ。)歩いて行った。
 定時になると、職員達がゾロゾロ退庁して来た。アンドレ・ギャラガ少尉が女性職員2人に挟まれて仲良く談笑しながら出てきた。テオに気がつくと、彼はちょっとバツが悪そうな顔をした。きっと女性達に口説かれていたのだろう。
 アスルはサッカーのユニフォームに着替えて出て来た。テオに気づくと近づいて来た。

「車を使って良いか?」
「スィ、構わない。潰すなよ。」

 最後の冗談に彼は、フンと言って、駐車場に歩き去った。
 ケツァル少佐は「コブ付き」で現れた。ロホが一緒だった。これはテオも想定内だったので、笑顔で1週間ぶりの再会を喜び合った。

「ついて行っても良いですか?」
「勿論さ。君にも聞いてもらいたい話があるんだ。」

 ケツァル少佐が笑顔なしで尋ねた。

「向こうで何かありましたか?」



2022/01/30

第5部 山の向こう     19

  グラダ・シティに帰る日がやって来た。テオも2人の院生達も、ブリサ・フレータ少尉が退院して来る前にサン・セレスト村を去ることを残念に思った。彼女との付き合いは短く浅かったが、ハラールの儀式をわざわざ教えに来てくれた親切な女性だ。せめて彼女をお茶に招待したかったと院生達は言った。オルガ・グランデに戻っても陸軍病院に見舞いに立ち寄る時間的余裕がなかった。セルバ航空の飛行機は離陸が遅れることが多いが、乗客が遅刻しても待ってくれない。
 採取したサンプルを3つの保冷バッグにぎっしり詰め込んだ。往路はステファン大尉と合流したので陸軍のトラックで来たが、帰りは1日2本の路線バスだ。朝早く学校へ行く子供達と一緒にバスに乗るために広場で待っていると、驚いたことにガルソン大尉がセンディーノ医師と共に見送りに来てくれた。

「想定外の騒動であなた方に多大な迷惑をかけてしまいました。」

 大統領警護隊とは思えない腰の低さでガルソン大尉が挨拶した。

「この村は普段は平和で暢んびりした場所です。港の積出があるので煩雑な印象を与えますが、休日は磯で魚を釣ったり、泳いだりして楽しめる海岸です。不便な所ですが、機会があればまた訪ねて来て下さい。」

 センディーノ医師も挨拶した。

「まるで大学にいる子供達が帰って来た様な気持ちで過ごせました。手術のお手伝いもしていただいて、本当に頼もしかったです。大尉が仰ったように、ここは良い村ですよ。また遊びに来て下さいね。」

 バスが埃を立てながらやって来た。テオ達はセンディーノ医師とハグし合い、ガルソン大尉とは握手を交わした。
 テオと握手した時、ガルソン大尉が囁いた。

「私は転属させられるかも知れません。次の指揮官がどんな人かわかりませんが、私は何処に行っても、キロス中佐に起きたことを調べ続けたいと思います。」
「気をつけて下さい。」

とテオも囁き返した。

「俺もラバル少尉一人の犯行とは思えないのです。くれぐれも用心して下さい。」

 バスは子供達が乗り込む間停まっているが、うかうかすると行ってしまいそうなので、別れの挨拶を切り上げて、大人達も乗り込んだ。ドアが閉まらないうちにテオはガルソン大尉に怒鳴った。

「カルロ・ステファンをよく指導して下さい。俺の将来の弟になるかも知れない男ですから!」

 ガルソン大尉が目を丸くした様に思えたが、ドアが閉まり、バスは直ぐに動き始めた。
 テオが座席に座ると、院生達が窓の外に手を振った。バスがガタガタ揺れながら坂道を登り始め、村が遠ざかっていった。

「先生、さっきの、何なんです?」

とカタラーニが尋ねた。

「さっきの、とは?」
「ステファン大尉が先生の弟になるって・・・」
「ああ・・・」

 テオはニヤリと笑った。

「彼の姉さんが美人なんだ。」




第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...