2022/02/10

第5部 山の街     1

  エル・ティティ警察の署長アントニオ・ゴンザレスは署に集結した”ヴェルデ・シエロ”達にコーヒーを出すと、当惑した面持ちで養子のテオドール・アルスト・ゴンザレスを見た。4人の若い巡査達も心なしか部屋の隅に集まって大統領警護隊を眺めている様な雰囲気だ。尤も彼等は実際のところ彼等の机の前に座っていただけだ。彼等の気分が萎縮しているのだ。テオは警察官達に申し訳ない気持ちだった。しかしケツァル少佐以下、ロホ、アスル、そしてギャラガは、警察官達の気分を推し測ることもなく、3年前のバス事故の調査資料と引き取り手がない犠牲者の遺品やバスの残骸を署の資料室で調べていた。長閑な田舎町で発生した大事故だったので、当時の資料は多かった。エル・ティティ警察は事故原因の調査や、犠牲者の身元確認の為によく働いたのだ。テオの身元調査の記録もあった。

「デジタル化していればグラダ・シティでも閲覧出来たのにな。」

とテオが言うと、ギャラガが小さな声でいった。

「本部もこんな様なものです。」

 書類仕事が苦手なアスルは、時計を見た。彼等は午後になってから、オルガ・グランデとアスクラカンをそれぞれ発ち、エル・ティティで合流したのだ。そろそろ夕食を作る頃だ、とアスルは思った。それでテオに声を掛けた。

「ここの連中は晩飯をどうするんだ?」
「夜勤当番以外は自宅に帰って食べるんだ。」

 アスルは少佐をチラリと見た。ケツァル少佐は部下の心の動きを敏感に察した。彼女は資料を捲りながら言った。

「きちんと署長の許可を得てからになさい。」

 アスルは敬礼すると、資料室を出た。テオは急いで彼を追った。
 ゴンザレスの机の前に立ったアスルは署長に敬礼してから用件を述べた。

「貴官の家の厨房をお借りしたい。」

 ゴンザレスが巡査から提出された報告書から顔を上げた。大統領警護隊の中尉の言葉の意味がすぐに理解出来なかったのだ。するとテオが後ろから「通訳」した。

「彼が家の台所を使って晩飯を作りたいと言ってるんだ。」
「・・・中尉が?」

と言ったのは、一番古参の巡査だ。ちょっと驚いていた。大統領警護隊と言えばセルバ共和国の軍隊の中で最もエリートだ。それが料理をしたいと言っている。テオが説明した。

「彼は料理が得意なんだ。俺のグラダ・シティの家に下宿しているんだ。家賃を安くする代わりに、手が空いている時に食事の支度をしてくれるんだが、凄く腕が良い料理人だ。」

 すると独身の巡査達の目が輝いた。テオは署長を見た。ゴンザレスが当惑して言った。

「家の台所は大人数の料理を作れる様な設備じゃないぞ。」
「心配無用。」

とアスルが言った。

「野営で慣れている。」

 流石に軍人だ、と巡査達が囁き合った。テオはゴンザレスに期待感を込めて視線を送った。ゴンザレスが頷いた。

「メルカドが閉まる前に買い物をしなきゃいかんぞ。それに誰が食材の金を払うんだ?」

 資料室の戸口にケツァル少佐が姿を現した。彼女がアスルに財布を投げ渡したので、ゴンザレスもテオに紙幣を数枚差し出した。

「うちの若いもんの分だ。お前も一緒に買い物に行って来い。」

 


第5部 山へ向かう街     21

 「大統領警護隊に私達の仲を知られてしまった以上、ホセは不名誉除隊になるのでしょうね?」

とディンゴ・パジェが心配した。ロホはホセ・ラバル少尉がキロス中佐の暗殺を図った上に同僚2人も負傷させ、逮捕されたことを彼に伝えなかった。上官暗殺未遂は反逆罪だ。司令部がキロス中佐の言い分を聞いて、どう判断するのかわからないが、無罪になることは絶対にない。
 ディンゴ・パジェは音信がふっつりと途絶えた恋人の安否を気遣いながら、これから生きていくのだろう。大統領警護隊は身内の不祥事を決して世間に公表しないのだ。

「貴方も人間を気の爆裂で負傷させたのだ。今まで貴方の親が隠していたことが、今我々の知るところとなった。貴方は恋人のことより貴方自身のことを心配する必要がある。」

とロホは言った。
 ディンゴが真っ青な顔になって彼を見た。

「私を逮捕なさるのですか?」
「そうしたいが・・・」

 ロホは肩をすくめた。

「今日は非公式の任務で来ている。貴方の証言を大統領警護隊に報告するが、貴方の処遇を決めるのは上層部だ。」
「では、私は・・・」
「悪いことは言わない。今日これからでもサスコシ族の長老に貴方がしたことを打ち明けろ。もし少しでも貴方の言い分が通るとしたら、それは長老の裁決次第だ。」
「私を庇った父も同罪なのですか?」
「それも長老の考え次第だ。あなた方が日頃はどんな振る舞いをして生きているのか、私は知らない。長老達が貴方と貴方の家族に対してどんな心象を抱いているかも知らない。しかし、隠したり、逃げたりすれば、確実に彼等を怒らせる。」

 それは、”砂の民”に追われることを意味した。
 純血至上主義者の家系に生まれ育ったディンゴ・パジェは、ミックスのギャラガをチラリと見た。長老会は”出来損ない”も一族と認めている。”出来損ない”に対して数々の酷い仕打ちをする人々として認識されている純血至上主義者達は長老会にもいるが、少数派だ。

「私は・・・異端だが、”出来損ない”を虐げたことはない。」

とディンゴは囁いた。ギャラガは聞かなかったふりをした。”出来損ない”と言う言葉を使うこと自体が差別だ。

「時間をとらせて悪かった。」

とロホが言った。そしてギャラガを促し、アパートから出た。
 2人で市街地の中心部に向かって歩いて行った。まだ日が高かったが、なんだか疲れた。

「腹が減ったな。」

とロホが呟いた。ギャラガが頷いた。

「どこかで爽やかなピアノ演奏を聞きながら食事が出来れば良いですがね・・・」


第5部 山へ向かう街     20

 「大統領警護隊の中佐は、私の気の爆裂で酷い損傷を頭部に負った筈です。しかし、私の家族には指導師がいませんでした。」

 ディンゴ・パジェは「あの日」の話をボソボソと話し始めた。”心話”を使えば一瞬で済むが、知られたくない個人的感情も全て伝わってしまう。彼はそれを恐れたのだ。

「中佐は何か焦っていた様で、まだ動ける状態でないにも関わらず、任務があるからと言って父の家を出て行きました。父は彼女を心配して私に彼女を連れ戻すよう言いつけました。私は彼女にしたことを後悔していたので、彼女を探し、バスターミナルで彼女を見つけました。彼女に謝罪して父の家に戻るよう説得しましたが、彼女は私の言葉に耳を貸そうとしませんでした。それどころか、あることを私に持ちかけてきました。」

 ディンゴ・パジェはロホに視線を向けた。それは救いを求める様な切ない眼差しだった。

「ホセと私の仲を父に黙っていてやるから、数分前にターミナルを出て行ったバスを一緒に追いかけてくれとと言うものでした。」

 ロホとギャラガは再び顔を見合わせた。キロス中佐が追いかけようとしたバスは、例の事故に遭遇したバスではないのか。テオドール・アルストが乗っていた運命のバスだ。
 ディンゴは続けた。

「私は自分の車に中佐を乗せて、バスの後を追いかけました。運転しながら、あのバスに何があるのかと彼女に訊きましたが、彼女はただ同じ言葉を繰り返すだけでした。止めなければ、と。」

 止めなければ・・・。 キロス中佐はバスを止めたかった。バスに誰かが乗っていたのだ。ギャラガが尋ねた。

「ホセ・ラバル少尉がそのバスに乗っていたと言うことはないのか?」
「ノ。 ホセは”通路”を使ってオルガ・グランデ近くの農村へ出て、それから実家経由で職場へ帰ると言っていました。彼はカイナとマスケゴのハーフですが、”入り口”を見つけるのはブーカ並に得意なのです。ですから、バスに彼が乗った可能性はありません。」
「キロス中佐はバスに誰が乗っているのか、全く言わなかったのだな?」
「一度も。」

 ディンゴは身を震わせた。

「バスはエル・ティティで一度停車しました。ですから、私の車はその時、追い付けたのです。中佐は私の車から降りて、バスに乗り換えました。」

 え? とロホとギャラガは驚いた。キロス中佐がバスに乗った? では、あのバスの乗客は38人ではなく、39人だったのか? 運転手と36人の乗客が死に、テオドール・アルスト1人だけが生き残った事故の生存者がもう一人いたのか?

 ディンゴが申し訳なさそうに言った。

「私が話せるのはそこ迄です。中佐がバスに乗って去ったので、私はアスクラカンに戻ったのです。そして怪我人を見つけられなかったと父に伝えました。父は私に”心話”を要求しました。恐らく、私は挙動不審だったのでしょう。そして中佐の怪我が気の爆裂によるものであると知っていた父は、私が絡んでいると睨んだのです。父は真実を知り、私の行為を大変恥に感じました。私は実家を追い出され、ここに住んでいます。」
「ホセ・ラバルはその後、貴方を訪ねて来たか?」

 ディンゴは少し躊躇い、小さな声で言った。

「あれ以来、彼がアスクラカンへ来ることはありません。私達はオルガ・グランデの廃坑で時々出会うだけです。」

 2人の仲はまだ続いていたのだ。
 ロホは更に確認した。

「エル・ティティのバス事故は知っているな?」
「スィ。」
「中佐が乗ったバスか?」
「スィ。あの時、中佐は死んだと思いました。不謹慎ですが、もうホセとの仲を邪魔されないと安堵しました。」
「しかし彼女は生きていた。」
「スィ。ホセに教えられ、仰天しました。一族の人間でも、あんな事故から一瞬で逃れられる人などいません。ましてや、脳に気の爆裂を食らった人間が、逃げられる筈がない・・・」

 ロホとギャラガは考え込んだ。アスクラカンを出てオルガ・グランデを目指したバスに何が起きたのか、バスに乗り込んだキロス中佐はどうやって助かったのか。

 

第5部 山へ向かう街     19

 アスクラカンのサスコシ族ディンゴ・パジェは父親が築いた家族の集落を出て、市街地のアパートで独り住まいをしていた。パジェ家は旧家だし、族長アラゴの話では裕福な家庭だと聞いていたが、ディンゴのアパートはセルバの平均的な収入がある一般的な住宅だった。入り口に守衛はおらず、バルコニーも狭い。エレベーターはなく階段で2階へ上がった。途中すれ違った女性はロホとギャラガに陽気な声で「オーラ!」と声をかけてくれた。
 ディンゴの部屋のドア横に呼び鈴のボタンが付いていたので、ロホは押してみた。中でジージーと音が鳴った。そして1分も経たぬうちにドアが開いた。30代後半と思える男が顔を出した。ロホは素早く緑の鳥の徽章を提示した。

「大統領警護隊、マルティネス大尉と・・・」

 彼は後ろを振り返って、部下を紹介した。

「ギャラガ少尉だ。ディンゴ・パジェは貴方か?」

 ディンゴがギョッとした様に目を大きく開いた。

「ロス・パハロス・ヴェルデス?  何の用です?」

 ロホは相手の気の大きさを推測った。ディンゴは気を抑制しているが、指導師であるロホは相手の能力の大きさが大体わかる。これは大事なことだ。相手がもし攻撃してきたら、防御に用いる力の加減を瞬時に設定しなければならない。小さければやられるし、大きければ跳ね返した相手の力が逆に相手自身を傷つけてしまう。
 ロホは慎重に言った。

「3年前の今頃にエル・ティティでバス事故があった。貴方がその事故の前日に他所から来た人と問題を起こしたと聞いた。その相手の人を覚えているか?」

 ディンゴは礼儀としてロホの目を見なかった。しかしロホの後ろに立っている赤毛で肌が白い大統領警護隊の隊員をぼんやりと眺めた。

「3年前に私が他所者と問題を起こしたと、誰が貴方に言ったのです?」

と彼が尋ねた。ロホは当然ながらその質問に答えなかった。

「こちらの質問に答えてもらいたい。これは公務である。」

 非公式だが、と後ろで控えているギャラガは心の中で呟いた。通常ロホ先輩は初対面の人に対して丁寧な言葉遣いで話しかける。しかし、ディンゴ・パジェに対して彼は上から目線で話していた。ギャラガはちょっと戸惑ったが、すぐにこれは純血至上主義者と言われるパジェ家の人間を牽制しているのだと気がついた。ディンゴに言っているが、ギャラガにも己と同じ様に話せよと教えているのだった。さもないと相手に舐められるぞ、と。
 大統領警護隊に嘘や誤魔化しを言うと、後でそれがバレた時に酷い目に遭う、と言うのが”ヴェルデ・シエロ”の常識だ。これは”ティエラ”達が彼等を恐れるのとはちょっと違う。”ティエラ”は大統領警護隊が古代の神々と話が出来ると信じているから、彼等が恐れるのは神罰だ。だが”ヴェルデ・シエロ”は、”ティエラ”が警察を厄介な相手と見做すのと同様のレベルで考えているだけだ。捕まって”曙のピラミッド”の地下神殿で審判を受けたくない。有罪判決が万が一にも出た日には、生きて家族の元へ帰れないかも知れない。
 ディンゴ・パジェは溜め息をついた。 彼は2人の大統領警護隊隊員を室内に招き入れた。狭い居間の椅子に向かい合って座ると、彼はロホの質問に答えた。

「軍服を着た小母さんだった。貴方の上官になる地位です。」
「名前を知っているか?」
「私のホセは、中佐と呼んでいました。」

 私のホセ? ロホは相手をまじまじと見た。ギャラガも思わず体を動かしてディンゴを見た。ディンゴ・パジェは彼等を真っ直ぐに見た。

「私は家族から異端者として追放されました。私が愛した人が軍人で男性だったからです。」
「その・・・ホセと言う人は・・・」

とギャラガが思わず口を出した。上官の許可なく発言するのは規則違反だが、ロホは咎めなかった。文化保護担当部はこの手の違反に対して緩いのだ。ケツァル少佐でさえ睨みつけるだけで、後から非難したり叱ったりしない。

「ホセさんが軍人なのだな?」

とギャラガが精一杯上から目線で喋った。相手は彼よりもロホよりも年上だ。しかし緑の鳥の威光が許される範囲で胸を張って振る舞わなければならない。
 ディンゴが小さく頷いた。

「大統領警護隊の少尉です。彼と私が会っているところを、上官の中佐に見られたのです。」

 当然、少尉の隊律違反を中佐は責めたのだ。セルバ共和国の軍隊は陸空、憲兵隊、そして大統領警護隊も同性愛を未だに認めていない。

「中佐は貴方ではなく少尉を咎めた。貴方は民間人だから、部下だけを責めた。そうだな?」

とロホが確認し、ディンゴは「スィ」と認めた。

「しかし、私は彼女の言葉に腹が立った。規則を守らせるだけなら、一言ホセに持ち場へ帰れと言えば済むことだ。私と会うなと言えば良い。しかし、彼女はそれ以上のことを言ったのです。ホセを侮辱したのです。彼が出世出来ないのはその・・・」

 ロホが片手を上げて遮った。

「それ以上言わなくても、結構。彼女は貴方と彼氏を誹謗中傷し、貴方達はそれに激昂した。そう言うことだな?」
「スィ。私は彼女に口を閉じて欲しかった。だから、夢中で・・・」

 ディンゴは両手で顔を覆った。

「気の爆裂で人間を襲うのは大罪です。私は殺人未遂を犯しました。気がついたら、中佐が倒れていて、ホセが彼女の息を確認していました。そして言いました。彼女はまだ生きている、自分がやったことにするから、君は逃げろ、と。後の咎めは全部自分が引き受ける、と。」
「ホセとは、太平洋警備室のホセ・ラバル少尉のことだな?」
「スィ。」

 ロホとギャラガはチラリと視線を交わした。

ーーラバルが今回の爆発事件の犯人でしたね?
ーーそうだ。彼は3年間中佐のそばで何を考えていたんだろうな。

 ロホはディンゴに向き直った。

「貴方は言われるがままに逃げたのか?」
「御免なさい・・・恐ろしくて、夢中で家に逃げ帰りました。しかし、その夜、父がその中佐を自宅に保護したのです。それを私が知ったのは翌日でした。その時既にホセは帰ってしまっていました。」

 ラバルは倒れた上官を見捨てて帰ったのか? ロホは呆れた。 ラバルの同僚のガルソン大尉と2人の他の部下達は自分達が咎めを受けるのを覚悟で中佐の異変を本部に隠し続けたと言うのに。
 ディンゴ・パジェの告白はさらに続いた。


2022/02/09

第5部 山へ向かう街     18

  ケツァル少佐は、キロス少佐から読み取った記憶を自分の頭の中で整理した。

「中佐の思考は時々混乱しています。恐らくディンゴ・パジェ又はラバル少尉から喰らった爆裂で脳にダメージを受けたのでしょう。
 彼女はディンゴに提案しました。ラバル少尉との仲を黙っていてやるから、少し前に出発したオルガ・グランデ行きのバスを追いかけて欲しい、と。」

 パジェ家は伝統を重んじる純血至上主義の家族だ。同性愛は勿論許されない。ディンゴ・パジェは父親に黙っていてくれるならと言う条件で、彼女を自分の車に乗せた。

「中佐とディンゴは車でバスを追いかけました。中佐の目的はバルセル医師が持っていたと言うエンジェル鉱石の従業員名簿でした。ディンゴがその目的を中佐から知らされたのかどうかは不明です。中佐の記憶はディンゴの車に乗ってから酷く曖昧になり、時間の統一性もありません。」

 ケツァル少佐は目を閉じた。指で己の額を抑えたので、テオは彼女の顔を覗き込んだ。

「頭痛がするのか?」
「少し・・・」

 少佐が辛そうなので、アスルがテオを見て言った。

「キロス中佐の記憶がメチャクチャになったので、読み取った少佐に影響が出ている。」

 テオは彼女に声をかけた。

「もう止せ、少佐。大体何が起きたのかわかったから・・・君が無理をして思い出さなければならないことじゃない。」

 アスルも彼に同意した。

「少佐、もう結構です。アスクラカンで起きたことはわかりました。バス事故の原因もなんとなく推測されます。」

 少佐が横目で部下を見た。

「事故原因が推測出来るのですか?」
「スィ。キロス中佐は気の爆裂で脳に損傷を受けたのでしょう。ルート43はアスクラカンを出ると舗装が終わります。ガタガタ道を車でバスを追いかけたら、振動で頭部の傷に悪い影響を与えます。中佐はバスを止めたいと思った筈です。朦朧とした頭で、バスを止めようとしたら・・・」

 テオはアスルの推測に背筋が寒くなった。

「意識が朦朧となったキロス中佐がバスを落としたのか?」
「飽く迄俺の推測だ、ドクトル。」

 アスルはテオを真っ直ぐ見た。

「事故の後でキロス中佐は正気に帰ったんじゃないか? そして自分がやらかした大惨事を目の当たりにして、あの人は自分の内に篭ってしまった・・・。」

 ケツァル少佐が頷いた。

「中佐の心は後悔と悲しみでいっぱいでした。彼女は現実に戻るのが恐ろしかったのです。年下の部下に片恋をして、部下の恋人と喧嘩をした挙句、気の爆裂で傷ついてしまいました。そして正気を失っている間に守護者として許されない大失態をやらかした。そして太平洋警備室に戻ると、そこにラバル少尉がいました。彼女は自分の心を殺すしかなかったのです。呪いが残る体で精神的に大きな負担を抱え、彼女の症状はどんどん悪化していったのです。」


第5部 山へ向かう街     17

 しかし、ケツァル少佐がキロス中佐から得た情報はそれだけではなかった。まだ続きがあった。

「中佐は気絶し、目覚めた時は誰も近くにいませんでした。ラバル少尉と相手の男は逃げた後でした。」
「倒れた上官を放置して逃亡とは、とんでもないヤツだ。」

 アスルがぷんぷん怒って見せた。

「しかし、そのラバルはそれから3年間、キロス中佐のそばで勤務していたのですね? どんな神経をしているのか・・・」
「ラバルの心理は中佐の”心話”では計れません。中佐を見張っていたのでしょう。それより、まだアスクラカンでの出来事には続きがあります。」

 ケツァル少佐はテオを見た。テオはドキリとした。バス事故に話が移るのか?

「中佐は倒れた現場から近いサスコシ族の地所に救援を求めました。頭部にも体にも爆裂の影響が出ており、まともに歩けない状態でした。彼女が訪ねた家族はパジェと言いました。」
「パジェ?」

 テオはその名に聞き覚えがあった。

「もしかして、ロレンシオ・サイスの父親の親族か?」
「恐らく。サイスとの関係は中佐の記憶の中にはありません。それに当時サイスはまだ普通のピアニストとして活躍している時期でした。彼の腹違いの姉も彼のそばに近づいていなかったでしょう。」

 少佐は憂を顔に出した。

「ラバルの恋人は、パジェ家の息子だったのです。」
「中佐は知らずに敵の家に入ってしまった・・・?」
「スィ。ただ、パジェ家の家長は分別がありました。怪我をした大統領警護隊の中佐を手当して保護しました。中佐は流石にパジェ家の家長に何が起きたのか語ることを躊躇い、沈黙した様です。恥じらいと、爆裂による呪いから来る苦痛が、彼女が真実を語ることを妨げたのです。そしてパジェ家では指導師の能力を持つ人がいませんでした。パジェ家の家長はサスコシ族の長老を呼ぼうとしましたが、キロス中佐自身がそれを断りました。」
「プライドと恥じらいと・・・」

とテオは呟いた。大統領警護隊の中佐ともあろう者が、痴話喧嘩の果てに恋敵から気の爆裂を喰らって負傷したなど、とても長老に言えたものでなかったろう。

「キロス中佐は恋敵が恩人の息子だと知りました。サスコシの伝統的な屋敷を見たことがありますか、テオ?」
「ノ。」
「小さな家が敷地内に円形もしくはUの字の形に並んでいます。それぞれの家に夫婦とその未成年の子が夫婦を一つの単位として住んでいます。家長夫婦が中心で、息子や娘が成年式を迎えると家を1軒もらうのです。中佐は家長の家に保護されましたが、窓から庭を見て、恋敵がいるのを見てしまいました。彼女は体が回復していないのに、パジェに別れを告げてそこを出ました。」
「どの道、指導師がいなければ治りませんよ。」

とアスルがぶっきらぼうに言った。彼は感情に流されて恋敵を怒らせたキロス中佐に同情する気分でなくなったようだ。ケツァル少佐は部下の不機嫌を無視した。

「キロス中佐は、バルセル医師を探す本来の目的を思い出しました。傷ついた体でアスクラカンの街を彷徨い、医師がグラダ・シティから来たオルガ・グランデ行きのバスに乗り込むのを見ました。そこへ、恋敵が彼女を追って来ました。」

 ケツァル少佐は少し休んだ。喉が渇いた様だが、近くに飲み物を売っている店はなさそうだ。アスルが井戸を探しましょうか、と言ったが、少佐は断った。

「ここは不衛生ですよ。ジャングルの中の湧水の方がまだマシです。」

 と都会育ちの少佐は言った。そして話を続けた。

「ラバル少尉の恋人は、ディンゴ・パジェと言う名でした。彼は父親から中佐を探すよう言いつけられ、仕方なく彼女を追いかけて来たのです。彼は中佐を傷つけたことを詫び、父親の家に戻ってくれるよう頼みました。」
「案外いい奴だったんだ・・・」
「中佐はバルセル医師を追いかけたかった。だから、ディンゴにある提案をしました。」



 


第5部 山へ向かう街     16

  ケツァル少佐は言葉を選んでいる様子だった。ストレートに言うべきか、遠回しに言うべきかと悩んで、やがてアスルを見て、テオを見た。

「ルカ・ラバル少尉はアスクラカンで恋人と会っていました。」

 テオもアスルも無言で少佐を見ていた。少佐は noviaではなくnovioと言ったのだ。ラバル少尉に片思いしていたキロス中佐が少尉が誰かと逢引している現場を目撃したとしても、彼等に何も言うことはない。
 少佐が続けた。

「キロス中佐が見たのは、ホテルから出てくるラバル少尉と若い男性でした。ラバル少尉の恋人は男性だったのです。」

 それは中佐に気の毒だと言うしかない、とテオは思った。ラバルが女性を愛せなくても男性を選んでも、それは彼の自由で権利だ。中佐が失恋したのは気の毒だし、ショックだったろうが、他人にラバル少尉を責める権利はない。
 しかしアスルは違った反応をした。

「我が国の軍隊では同性愛はまだ禁止されている。」

と彼はテオに聞かせるように呟いた。

「本部に知られたらラバルは除隊処分になる。」

 ケツァル少佐が頷いた。

「ですから、キロス中佐は彼等が人目のない場所まで歩くのを尾行し、そして2人の前に姿を現しました。ラバルに上官として規則違反を責めたのです。」

 ラバルが上官に何を言ったのか少佐は言わずに、相手の男性の方に話を向けた。

「ラバルの恋人はサスコシ族の男性でした。彼はラバルの隊律違反を責めるキロス中佐に向かって言いました。『異人種の血を入れて一族の血を汚すより、自分達がしていることの方が清い行為だ』と。」
「ええっと・・・それは・・・」

 テオは考えた。

「そのサスコシの男は純血至上主義者だったのかな?」

 ケツァル少佐は肩をすくめた。

「それはどうでしょう。自分達の立場を正当化する為に言っただけかも知れません。でも彼はキロス中佐にとって恋敵です。中佐と少尉とその男はそこで口論になりました。」
「痴話喧嘩ですか・・・」

 アスルが呆れたと言いたげに目を眼下の風景に向けた。少佐が溜め息をついた。

「大人気ないことです。キロス中佐は、ラバル少尉の恋人が女性だったら、あんなに取り乱すことはなかったかも知れません。でも彼が愛したのは男性でした。ずっと彼への恋を抑圧してきた中佐の心のタガが外れたのです。彼女はラバルに向かって叫びました。彼と別れなければ本部に通報すると。」

 あちゃーっとテオとアスルは心の中で声を上げた。それは部下に取って最後通告の様なものだ。20年以上少尉の地位に甘んじてきて、後輩が出世していくのを黙って見るしかなかったラバルに、不名誉除隊は地獄だろう。

「どちらが発したのか分かりませんが・・・」

とケツァル少佐は言った。

「キロス中佐の心は、『やったのは相手の男だ』と訴えていました。」

 テオがその意味を理解する前に、アスルの方が先に悟った。

「ラバルかサスコシの男か、どちらかがキロス中佐に気の爆裂を浴びせたのですね?」
「スィ。」
「無茶だ・・・」
「恐らく2人の男性は、”操心”で中佐の記憶を消したかったのでしょう。でも口論の最中にそんなことは不可能です。中佐の最後通告を聞いて、どちらかがラバルを守る為に中佐を襲ったのです。」

 

第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...