2022/04/22

第6部  虹の波      9

  往路より復路の方が時間がかかった。1ヶ月間鎖で繋がれて体力のない女性と、捕虜を連れているのだ。デルガド少尉はペドロ・ウェルタを監視しながら後ろについていた。テオはベアトリス・レンドイロの補助と世話だ。ケツァル少佐は彼女から先刻のウェルタの尋問の記憶を消し去った。ウェルタはそのことに気がつかないが、レンドイロが彼の罪が重くなるような証言をしなければ余計なことを言わない筈だ。彼は大統領警護隊の2人が普通の人間でないことを勘付いていた。だから少佐と目が合いそうになると慌てて視線を逸らせたし、デルガドの手が彼の体に何かの弾みで触れた時は、ビクッと跳び上がった。レンドイロは彼の怯え方を、彼女を誘拐した罪の重さを心配しているのだろうと思っただろう。
 携帯電話の電波が届く場所まで来ると、ケツァル少佐はアスクラカンの憲兵隊に電話をかけた。だから森から出て出発地点に辿り着くと、憲兵隊の車両と救急車が待機していたので、テオはホッとして気が抜けそうになった。ベアトリス・レンドイロは彼と大統領警護隊に感謝して、救急車に乗せられ運ばれて行った。ペドロ・ウェルタは憲兵隊に引き渡された。それらの様子は耳聡いマスコミに撮影されたが、セルバ共和国のメディア関係者達は大統領警護隊を撮影してはいけないことを知っている。だからテオばかりがカメラに追いかけられることになった。
 何故グラダ大学の生物学部遺伝子工学科の准教授が遺跡で行方不明だった雑誌記者を救出したのか? それに関してテオは、「バスの中で出会ったすぐ後で行方不明になった知人が気になった。しかし遺跡に行ったのは、新種の生物を探す目的で、捜索活動をしていた大統領警護隊の友人について行っただけだ。」と語った。ケツァル少佐からペドロ・ウェルタの証言に関する記憶を抜かれているレンドイロは、救出された時の様子を語ったが、彼女自身実際に当時混乱していたので証言が二転三転し、状況がはっきりしなかった。
 テオはすぐに憲兵隊の事情聴取から解放され、ケツァル少佐とデルガド少尉に別れを告げてエル・ティティに戻った。帰宅した時は疲れていたので、家に入るなりシャワーに直行して、それからベッドに倒れ込み、すぐに睡魔の虜になった。
 目が覚めると朝が来ており、彼は一躍エル・ティティの英雄になっていた。テレビのニュースを見た住民達が続々とお祝いに訪れ、彼はゴンザレスや警察署に迷惑をかけては行けないと考え、結局教会で講演会を開き、彼が語ることが許される範囲で冒険談を語った。
 エル・ティティの騒ぎは3日もすれば沈静化したが、その間テオはテレビやネットのニュースでグラダ・シティでレグレシオンの本拠地が憲兵隊の奇襲に遭い、多くの逮捕者が出たと知った。テロを行った事実はなくても、準備していたら犯罪になる。憲兵隊はレグレシオンが製造していた時限爆弾やその材料、シティ・ホールや市役所、放送局の設計図を押収した。オルガ・グランデでは殺人罪で数人の学生や元学識者のホームレスが逮捕された。アメリカ人占い師と、セルバ人の男性を殺害した容疑だ。誰が実行者かなど憲兵隊は問題にしなかった。関わった全員が犯罪者だ。テオは中米のこの無茶振りを時々「行き過ぎだ」と感じるが、テロリストが相手の時は、問題にしないことにした。彼等は性別年齢貧富の差を考えずに市民を殺傷することしか考えていない悪魔だ。テオはそう割り切ることに決めていた。テロリストがそんな行動や思想を抱くに至った過程など問題ではない。そんなことを考えること自体が問題なのだ。
 ゴンザレスは義理の息子が有名になったことを心配していた。テオ自身がテロや誘拐の標的にされることを心配したのだ。

「俺のことは心配しなくて良い。お前はグラダ・シティで”シエロ”の友人達の近くにいろ。ここへは休暇で帰って来てくれるだけで十分、俺は幸せだよ。お前がここにいる方が、俺は却って心配なんだ。」

 テオもゴンザレスやエル・ティティの住民が気掛かりだった。迷惑をかけてはいけない。彼はゴンザレスの厚意を受け容れることにした。
 新学期までまだ1ヶ月以上残っていたが、テオはグラダ・シティに帰った。予定より早い主人の帰宅に、留守宅で一人暢んびり夜を過ごしていたアスルはちょっぴりふくれっ面をしたが、腹を立てることはなかった。テオの自宅の中は綺麗に片付いていて、まるで誰も住んでいないみたいに見えた。元々アスルは物を持たない男だったし、散らかしたり家具を動かすこともしない。
 テオは荷物を寝室の床に置くと、ベッドの上に服を着たまま寝転がり、そのまま眠りに落ちた。


2022/04/21

第6部  虹の波      8

「貴方が知っている”ヴェルデ・シエロ”とは、誰です?」

 ケツァル少佐が落ち着いた声で尋ねた。テオは彼女が最前から”操心”を使っていることを知っていた。ペドロ・ウエルタと名乗った男は少佐に逆らえない。彼女の質問に対して嘘で答えたり、沈黙することは出来ない。ウエルタは目に薄っすらと涙を浮かべて答えた。

「ムリリョ・・・我が神の名前はムリリョだ・・・」

 テオはびっくりしたが、デルガドも目を見開いた。しかし彼等よりもベアトリス・レンドイロの驚きの方が大きかった。

「ムリリョ? まさか、あの考古学のムリリョ博士?」
「セニョリータ・・・」

とデルガドが彼女を呼んだ。レンドイロが彼を見て、視線を合わせた。テオはいきなり彼女がガクンと膝を折り、全体重を彼に掛けてきたので慌てた。デルガドが彼女を眠らせたのだ。
 ケツァル少佐はそんな小さな騒動など目に入らぬ様に、ウエルタに質問を続けた。

「ムリリョが貴方にレグレシオンのことを教えたのは、貴方がレンドイロを捕まえる前でしたか、後でしたか?」
「前だ。遺跡のことを調べに来る他所者がいたら知らせろと命じられた。特にレグレシオンと言う悪い連中は七柱のことを知りたがるから、警戒しろと言われた。七柱のことを調べている女記者や占い師が来たら遺跡に近づかせるなとも言われた。」
「その女記者をレグレシオンが誘き出したので、貴方が横取りしたのですね?」
「スィ。」
「彼女を奪われたレグレシオンの男はどうしました?」
「死んだ。」

 ウエルタは平然と答えた。”操心”に掛けられているとは言え、あっさりし過ぎている、とテオは感じたが黙っていた。支えているレンドイロの体が重たくなってきた。

「貴方が殺したのですか?」
「ジャガーに一撃された。俺はやっていない。」

 そのジャガーは誰かのナワルなのか、それとも野生のジャガーなのか。テオは野生のジャガーならタイミングが良すぎる、と思った。”ヴェルデ・シエロ”のナワルだ。ベアトリス・レンドイロを尾行していたのか、それともレグレシオンの男が尾行されていたのかわからないが、恐らくその”ヴェルデ・シエロ”は”砂の民”なのだろう、と彼は思った。だがムリリョ博士ではない、とテオは確信した。博士が変身して過激派の血で己の牙を汚すだろうか。それに博士はジャガーではなくピューマだ。ではウエルタが見たジャガーは? 
 ジャガーの詳細を聞きたかったが、少佐の”操心”術の邪魔をする訳にいかない。テオは我慢して彼女の質問を聞いていた。

「殺された男の死体はどうしました?」
「森の中に埋めた。」
「では、レグレシオンから助けたレンドイロを何故遺跡に監禁したのです。」

 ウエルタはテオが仰天するような返答をした。

「ジャガーに捧げるためだ。ジャガーが戻って来たら、彼女を生贄に差し出すつもりだった。」

 だがジャガーは戻って来なかった。だからレンドイロは殺されもせず、1ヶ月も鎖に繋がれていたのだ。
 ケツァル少佐がハァッと息を吐いた。ペドロ・ウエルタはハッと夢から覚めたかの様な顔をした。そして不安気に大統領警護隊の緑色に輝く徽章を胸に付けた男女の軍人を見比べた。”ヴェルデ・シエロ”と会話が出来ると言う大統領警護隊だ。
 少佐がレンドイロを振り返った。

「この女性をジャガーの生贄にするつもりだったのですか?」

 ウエルタは己が何を喋ったのか記憶にないのだろう、顔が土色になった。

「俺は何を喋ったんだ?」

 少佐がテオに尋ねた。

「この男をどうすべきですか? 誘拐と監禁の罪で憲兵隊に引き渡すことは出来ます。」
「”ヴェルデ・シエロ”の僕として遺跡の番人をしていたんだな? 口は固いと思う。神の話を他人にすればテメェの命がなくなるってことは理解しているだろう。」

 テオはウエルタに尋ねた。

「君はこの女性を誘拐したのか?」

 ウエルタはテオが支えているレンドイロを見た。ぐったりしている彼女を暫く眺め、それからテオや大統領警護隊を見ないように努めながら言った。

「そうだ。彼女が悪い奴に騙されて森に連れて来られたのを助けた。だけど美人だったので、俺の女にしようと思って閉じ込めていた。」

 簡潔な、しかし憲兵隊が納得する説明だ。嘘の説明だが、世間は信じるだろう。ウエルタは己の名誉が地に落ちても主人である”ヴェルデ・シエロ”の命令を守り抜くのだ。
 ケツァル少佐がレンドイロを見て、それからデルガド少尉を見た。

「少尉、彼女を起こしなさい。テオに担がせて行くつもりですか?」
「申し訳ありません、尋問を聞かれたくなかったので。」

 デルガド少尉はレンドイロの額に右人差し指を当てて、「起きろ」と囁いた。



第6部  虹の波      7

  ジャングルの夜は蒸し暑く、雨季らしくジメジメしていた。その日は雨が降らず、夜は冷え込まなかった。蚊に刺されるかと心配したが、2人の”ヴェルデ・シエロ”が故意に無防備に気を放出して寝たので、虫は寄って来なかった。ある意味、それは危険行為で、同じ”ヴェルデ・シエロ”の敵がいれば存在を察知されてしまうのだ。しかしケツァル少佐とデルガド少尉は2人の守るべき”ティエラ”を抱えていたので、敢えて「気を緩ませて」一夜を過ごした。
 朝は霧が出ていた。テオは太陽がどこにあるのかと天空を見上げ、微かに白い円形の光を霧の膜の向こうに見つけた。あっちが東なのか、と思った。彼の感覚では現場はアスクラカンの街より南だ。北へ歩いて行かねばならない。
 少佐が上の枝から手を伸ばしてアーモンド味のクランチバーをくれた。水分も欲しかったが、それはテオのリュックの中に入っているペットボトルの中に4分の1程残っているだけだった。
 地面に降りると、テオはデルガドの助けで降りて来たベアトリス・レンドイロに肩を貸し、アスクラカンへ戻り始めた。前夜勢いよく誘拐された過程を語った雑誌記者は、朝になると疲れがさらに酷くなっていた。デルガドが歩きながら見つけた木の葉を搾って苦そうな液体を彼女に飲ませた。すると彼女は少しだけ元気を取り戻して足を前に出して歩いた。

「薬草かい?」

 テオがそっとケツァル少佐に訊くと、少佐が彼にだけわかるようにドイツ語で答えた。

「麻薬成分を含む植物です。」

 レンドイロの疲労や苦痛を和らげるだけのものだ。
 小一時間歩いて、少佐が足を止めた。片手を挙げたので、テオとデルガドも止まった。テオは背後でデルガドがアサルトライフルを構え直す微かな音を耳にした。少佐が石像の様に固まったので、少尉も動かない。テオも息を潜めた。レンドイロだけがぼんやりと彼の体に腕を回し、もたれかかって立っていた。
 数分後に、やっとテオの耳にも足音が聞こえて来た。下草を踏み、木の枝を動かさぬ様砕心して歩いているが、ジャガーやマーゲイの耳には十分聞こえるのだろう。そして通常の人間より聴力の良いテオにも聞き取れた。不自然な音だ。樹上にいる猿や鳥が立てる音ではない。
 足音は片足を少し引きずった感じだった。怪我で足に多少の障害が残ったのか、引きずる癖があるのか定かでないが、特徴がある音だった。さあ来い、とばかりに少佐がライフルを音源の方向に向けた。
 レンドイロがやっと音を聞き分けたのか、テオの背中に回した手に力を入れた。微かな震えが伝わって来たので、テオは空いた手で彼女の手を軽く叩いて励ました。ここで怯えてパニックになってくれるな、と願いながら。
 戦闘態勢に入った2人の”ヴェルデ・シエロ”は完全に気配を消していた。目の前にいるのに人間が存在する気配がない。
 足音がすぐそこまで近づいた時、頭上で猿が吠えた。接近者に驚いたのだ。接近者が逆にそれに驚いて足を止めた。いきなり膠着状態に陥った。接近者も警戒して動くのを止めた。少佐とデルガドには相手の位置がわかったのだろう、彼等は焦らず、空気の一部になって向こうが動き出すのを待った。レンドイロもテオも息を止めてしまった。
 接近者が動いた瞬間、ケツァル少佐がクッと喉の奥で音を発した。テオはレンドイロを抱えて地面に伏せた。少佐も伏せ、最後尾のデルガドが3人を飛び越えて薮の中に踊り込んだ。
男の「わーっ!」と言う叫び声が上がると同時に、少佐が跳ね起き、彼女も藪に飛び込んだ。

「助けてくれ!」

 聞き覚えのない男の声が叫んだ。テオはレンドイロを助けながら起き上がり、泥を落として、ゆっくり藪へ歩いて行った。薮は激しく揺れていたが、テオとレンドイロが到着すると静かになっていた。
 無精髭の農民の姿の男が跪いていた。後ろ手に手錠をかけられている。デルガドの見事な捕縛術だった。男は顔は手入れをしていなかったが、服装はデルガドと格闘した際の汚れ程度で、荒んだ感じはなかった。少佐がライフルの銃先で男の顎を持ち上げて顔を見た。

「何者です?」

 男より先にレンドイロが震える声で言った。

「私を捕まえていた人です。」

 少佐は彼女を振り返らずに男の目を見つめた。

「名乗りなさい。」
「ペドロ・ウエルタ・・・」
「何処に住んでいますか?」

 男はアスクラカンの南の地区の名を告げた。低所得者が住む農村だ。所謂小作農が住む地区だった。

「貴方はベアトリス・レンドイロを誘拐しましたね?」
「・・・助けた。レグレシオンから・・・」

 テオは思わず少佐を見たが彼女は振り返らなかった。それで彼はデルガドを見た。デルガドは彼を見返し、それからまた少佐に視線を戻した。レンドイロを見ると、彼女はレグレシオンを知っているが、何故あの過激組織の名がここで出てくるのかわからない、そんな表情だった。

「彼女を最初に誘拐した男はレグレシオンの構成員ですか?」
「スィ。・・・彼女から七柱の仕組みを聞き出そうとして、彼女を誘き出した。」
「貴方はどうやってそのことを知ったのです?」
「村の古老に遺跡の場所を訊きに来た男がいた。遺跡に七柱があるか、まだ崩れずに残っているかと訊いてきた。古老は怪しんで答えなかった。後で俺に男のことを教えてくれた。」
「何故古老は貴方にレグレシオンのことを教えたのです?」
「俺が遺跡の管理者だから。」
「管理者?」
「ずっと昔から、俺の家は遺跡を管理してきた。ずっとずっと昔からだ。”ヴェルデ・シエロ”が去る時に、俺の先祖にそうしろと命じたからだ。」
「遺跡のことを訊いてきた男がレグレシオンだ、とどうして貴方は知っているのです?」
「”ヴェルデ・シエロ”がそう教えてくれた。」

 デルガド少尉がテオを見た。テオも彼を見た。レンドイロが呟いた。

「いるの? ”ヴェルデ・シエロ”が?」



2022/04/20

第6部  虹の波      6

  川と呼ぶには浅い流れだったが、水流を見つけて、そこで休憩を取った。レンドイロはそこで体を洗い、少佐が持ってきていたシャツと短パンに着替えた。ジャングルを歩くには不向きな服装だが、他に衣類がないので仕方がない。レンドイロの身支度が終わってから、遅い昼食とも早い夕食とも区別がつかない食事を取った。レンドイロは空腹だったに違いないが、飢餓の後でいきなり食事を取るのは危険だと知っていたらしく、少量の乾パンを水で浸して舐めるようにして食べた。
 テオが質問した。

「バスの中で俺と出会ったことは覚えていますか?」
「スィ。アスクラカンで下車する迄、ご一緒しました。」
「バスを下車してから、どうされたのです? 貴女がバスに戻って来なかったので、俺は何か用事でも出来たのかと思いました。貴女が行方不明になっていると、少佐から連絡をもらったのは10日も後でした。」

 レンドイロがケツァル少佐を振り返った。

「誰が貴女に私のことを通報してくれたのです?」
「貴女が消息を絶って8日後に貴女の会社が騒ぎ出し、貴女が取材予定だったンゲマ准教授に問い合わせがありました。ンゲマ准教授は貴女が遺跡の下見にでも行ってゲリラか何かに誘拐されたのではないかと心配し、文化保護担当部に相談して来たのです。」

 この段階では、まだオルガ・グランデで起きたことを少佐は雑誌記者に伝えなかった。レンドイロの身に起きたことだけを今は知る必要があった。

「きっと家族や友人を巻き込んで心配をかけてしまったのでしょうね。」

 雑誌記者はしょんぼりして言った。

「私の愚かさが招いたことです。バスから降りてお手洗いに行きました。出てきたところで、子供に声をかけられたのです。その男の子は私の会社の雑誌を持っていて、私の写真入りの記事を広げて見せ、私であることを確認して来ました。私がそうだと答えると、誰も知らない遺跡を知っている、柱が7本あった遺跡だ、とその子は言いました。」
「信じたのですか?」
「子供がジャングルの奥へ行けると思いませんでした。だから、お父さんか叔父さんが見つけたのかと訊いたんです。子供はそうだと答え、叔父さんと言う男性のところまで連れて行ってくれました。お駄賃は要求されましたけど。農地の外れでした。泥棒避けの監視カメラがありました。」
「叔父さんと言う人はどんな人でした?」
「普通の農民に見えました。言葉で遺跡の場所を説明しようとしたので、地図を出して見せたら、地図は読めないと言いました。それで、監視カメラにも私達の姿が写っているので、油断してしまい、男について森に入りました。」

 監視カメラは二日おきに上書きされて何も記録が残っていない。しかし、それもここでは彼女に伝えなかった。

「森の中に入って、1時間ばかり歩いたところで、騙されているのではないかと不安になりました。それで、携帯を出して位置を確かめようとしたら、男が私の行動に気づいて電話を取り上げようとしました。私が声を上げた時、別の男が現れたのです。」
「別の男ですか?」
「スィ。彼は子供の叔父と名乗った最初の男を殴りつけ、男達はその場で争いになりました。私は怖くなり、逃げました。来た道を逃げたつもりだったのですが、方角を間違えて、迷ってしまいました。森の中で遭難してしまったのだと絶望しかけた時に、2人目の男が私を追って来ました。彼が敵なのか味方なのか、私は判断出来ず、彼に導かれるままにあの遺跡へ行きました。」
「その男はあの遺跡を知っていたのですね?」
「スィ。迷わずあの場所へ案内されました。」
「どんな男でした?」
「服装は最初の男と変わらない、農夫の姿をしていました。農作業をする作業服を着ていたと言う意味です。人種は私と同じメスティーソでした。年齢は30歳前後? 細身で左頬に白い傷跡がありました。」

 レンドイロは指で傷をなぞるような仕草をした。ケツァル少佐とデルガド少尉は心当たりがないのか、反応しなかった。

「男は遺跡に関して何か言いましたか?」
「私が探している”ヴェルデ・シエロ”の遺跡だと言いました。太い柱の跡も7つありました。私が遺跡の名前を尋ねると、クァラと答えました。」

 テオは少佐を見た。少佐が言った。

「クァラは古い言葉で、『ない』と言う意味です。」

 遺跡に名前が付いていないと言う意味なのか、それとも本当にそんな名前の場所だったのか。男が古い言葉を知っているらしいことについては、少佐もデルガド少尉も驚くことではなかった様だ。地方によっては古語が残っているのだ。

「私が、そこに案内してくれた理由を尋ねると、彼はあの穴へ私を案内しました。そして私に穴の底へ降りるよう言いました。正直なところ、私は降りたくありませんでした。何とかして彼に町へ案内してもらおうと説得にかかったのですが、彼は降りろの一点張りで、怖くなった私は仕方なく彼に従いました。そして、貴方達に発見されるまで、あの暗闇の中で監禁されていたのです。」
「彼は監禁した理由を言いましたか?」

 テオは彼女が性的乱暴を受けていないことを雰囲気で感じ取っていた。レンドイロは疲弊しきっていたし、体調も良くなさそうだったが、気力はまだ残っていたし、テオとデルガドの手が触れても怖がらなかった。だから、却って彼女が監禁された理由がわからなかった。
 レンドイロは首を振った。

「私にはわかりません。私を鎖で繋ぐ理由を尋ねましたが、彼は答えてくれませんでした。食べ物と水だけくれて、一日に一回だけ用足しにあの部屋へ連れて行かれました。それ以外は話もせず、穴の外へ出て行き、戻りませんでした。私は地下で飼われていただけだったのです。」
「貴女を最初に森に連れ込んだ男がどうなったのか、尋ねてみませんでしたか?」
「そんな心の余裕はありませんでした。あの男と仲間なのかと一度だけ尋ねましたが、返事はありませんでした。」

 レンドイロは喋り疲れて、大きな溜め息をついた。デルガド少尉が木の上に寝床を作り、彼女をその上へ押し上げた。
 空は既に薄暗くなりかけていた。今夜は野営だ。”ヴェルデ・シエロ”は焚き火を必要としない。ケツァル少佐が別の木の上に足場を作り、テオを上げてくれた。デルガドもレンドイロが休む木の上の枝に居場所を作った。テオが少佐に囁きかけた。

「レンドイロを捕まえた男は明日も来ると思うかい?」
「わかりません。私達が遺跡に近づいた気配を感じ取って戻らない可能性もあります。」
「何者だろう?」

 少佐は肩をすくめただけだった。



第6部  虹の波      5

  洞窟探検の装備はして来なかったが、夜間行動の可能性はあったので、テオはヘッドライトを持っていた。ヘルメットなしで直接頭にベルトで固定した。ケツァル少佐は最初から軍用ヘルメットを被っていた。彼女のサイズではテオの頭部には小さ過ぎた。彼はデルガド少尉から借りることは考えなかった。少尉のヘルメットは少尉を守るための物だ。
 少佐が先に鉄棒の梯子を降りて行き、底に到着すると安全を確認してから、テオに合図を送った。テオも梯子を降りて行った。3年前、オルガ・グランデの廃坑にあったエレベーター用竪穴を降りたことがあった。あの時より明るく、距離も短かったが、石組は2000年以上前の物だし、鉄棒が錆びて折れないかと心配だった。何とか底に足を置いた時は、まだ探検が始まったばかりだと言うのに、ホッとした。
 竪穴の底の出口は1箇所だけで、3方は塞がっていた。少佐が地面を指したので、テオはヘッドライトをそちらへ向けた。土ではなく石畳の上の土埃の上に足跡が残っていた。何度も往復した様子で一番新しいものは梯子に向かっていた。少佐が囁いた。

「成人の男性、履き物は古いスニーカー。踵部分がかなりすり減っています。右足を少し引きずり気味。」
「最後に通ったのは何時かわかるか?」

 少佐が屈み込み、足跡の臭いを確認した。彼女や仲間がこんな行動を取る時、”ヴェルデ・シエロ”にはジャガーの資質が強いんだな、といつもテオは感じる。一体どんな遺伝子的変化で人間とジャガーが入り混じってしまったのだろう。
 少佐が顔を上げた。

「恐らく、この足跡は今朝のものです。」
「そんな最近?」
「もしかすると、この穴の奥で誰か住んでいるのかも知れません。」

 2人は歩き始めた。テオは足音を立てまいと努力したが、どうしても洞窟の中で音が響いてしまった。しかし少佐は咎めなかった。”ティエラ”なら当然だと理解しているのだ。天井が低いのも少しテオの身長には辛かった。ヘルメットを被った少佐でギリギリの高さだったから、この石の地下通路は当時の人間の身長に合わせて造られたのだろう。
 微かな空気の流れと異臭を感じて、テオは足を止めた。少佐が振り返った。目で「わかった?」と同意を求めて来たと思ったので、彼は頷いて見せた。少佐はライフルを構えたまま、前進を続け、彼も続いた。
 異臭は、トイレの臭いに近かった。動物の排泄物の臭いだ。テオは大判のハンカチを出した。少佐がスカーフを顔に上げ、彼も鼻から下を覆った。アンモニア臭のする場所に、土を盛った地面が数カ所見受けられた。約10メートル四方の四角い空間だ。少佐が壁を見回し、低い声で呟いた。

「遺跡をトイレ代わりに使っているなんて・・・」

 対面に通路が続いており、その奥で何か気配がした。少佐は通路に向かって行き、テオも続いた。少し上り坂になり、それを登り切ると、先のトイレ空間より広い部屋に出た。仄暗い灯りが一つだけ灯っていた。蝋燭の灯りだった。そして、黒い影がその下で蹲っていた。テオのヘッドライトがその影の主を照らし出した。照らされた人は顔を覆い隠し、小さくなった。テオは女性だと思った。思わず声をかけた。

「ベアトリス・レンドイロ?」
「いや・・・来ないで・・・」

 女性の声がそう言った。ケツァル少佐が話しかけた。

「大統領警護隊です。」

 暫く沈黙があった。それから、その人は顔を上げた。肌は汚れていたし、髪も乱れていたが、テオが知っている女性の面影があった。彼女はテオを眩しそうに見た。テオはヘッドライトを頭部から外し、彼女を直接照らさないよう気遣った。そして彼女に見えるように、ケツァル少佐にライトを当て、それから自分の姿も見せた。女性が囁いた。

「もしかして、ケツァル少佐?」
「スィ。」
「・・・そして、ドクトル・アルスト?」
「スィ。」

 突然彼女がワッと泣き出したので、テオはびっくりした。少佐が彼女に近づいた。

「怖かったんですね?」

 珍しく少佐が優しい声で雑誌記者に声をかけた。レンドイロが泣きながら頷いた。少佐がさらに尋ねた。

「貴女一人ですか?」

 レンドイロが頷いた。それから、顔を上げ、急いで周囲を見回した。

「男が一人、毎日食べ物を持って来ます。今朝も来ました。」

 テオは室内をライトで照らした。生活臭はない空間だが、彼女の為に、その男が運んだのか、汚い毛布と水のペットボトルがあった。少佐が確認した。

「その男がここへ来るのは、一日一回きりですか?」
「スィ。」

 レンドイロは部屋の一角を指差した。

「あそこから外の光が差し込んで来ます。短い時間ですが、それで1日の始まりと終わりの目安にしていました。彼は一日一回だけ来ます。間違いありません。」

 賢い女性だ、とテオは思った。少佐が彼に彼女の腕をとるように、と言った。

「事情は後でお聞きします。今はこの人をここから出してあげましょう。」

 テオがレンドイロの手を取って立ち上がらせると、地面近くでジャラリと金属音が響いた。見ると、彼女の右足首に輪っかがはめられ、彼女は鎖で壁に繋がれていた。少佐が鎖を眺め、ライフルの台尻で輪っかに近い部分を叩いた。実際はそれだけで鎖が砕けると思えなかったが、砕けた。恐らく、叩くタイミングで爆裂波を放ったのだ、とテオは推測した。1ヶ月近く繋がれたままだったので、レンドイロは最初歩くのがおぼつかなかったが、トイレ空間を過ぎた頃に何とか歩く感覚を取り戻した。彼女はトイレ空間を通り抜ける時に、恥ずかしそうに俯いた。彼女自身の体からも異臭がしていた。「男」が来る時しか、トイレ空間を使わせてもらえなかったのだ。
 出口に近づくと、少佐が先に登って行き、デルガド少尉にレンドイロ発見と、周辺への警戒の必要性を伝えた。これは同時に若いデルガドに、”ヴェルデ・シエロ”らしさを隠すようにと言う注意を与えたのだった。
 レンドイロは残る力を振り絞って鉄棒の梯子を登り切った。暖炉型の小屋から出ると、彼女は思わず、

「地上だわ!」

と声を上げた。デルガド少尉が指を唇に当てて、静かに、と注意した。

 

2022/04/19

第6部  虹の波      4

 5分程だったが、テオには10分かかった様に感じられた。彼は息を潜めて森の中で動かずに立っていた。やがて不意に後ろでデルガド少尉が息を吐く気配がして、現実が戻って来た。デルガドが囁いた。

「少佐に呼ばれました。行きましょう。」

 ”感応”で呼ばれたのだ。こんな場合はすぐ反応しなければ、呼んだ方が心配する。テオは少佐が姿を消した薮に向かって歩き出した。顔の高さまで葉が茂る植物をかき分け、いきなり開けた場所に出た。
 崩れた石造物が森の中に横たわっていた。苔生してシダなども蔓延っていたが、建物らしき物が昔そこにあったのだろうと推測される地形だった。ケツァル少佐が少し高い岩の上に立っていた。岩ではなく、崩れて残った壁の一部だろう。草の蔓が側面を覆っていた。

「名も無い遺跡です。」

と彼女が言った。銃先で地面を指した。

「大きな柱の跡が7箇所、後は小さいですが、やはり柱の跡です。」

 テオとデルガドは見回した。言われなければ遺跡だと思わない。岩が多いから大きな植物が育たなかった、と思うだけだろう。

「神殿跡か?」
「恐らく。でも住民はもう少し離れた場所に住んでいたのでしょう。そこは既に森に飲み込まれて発見出来ないと思います。」

 デルガド少尉が両手を胸の前で組み、祖先への挨拶をしてから遺跡の中に足を踏み入れたので、テオも真似た。 足元は平坦に見えて、実際は崩壊した石が散乱しており、不安定だった。うっかりすると浮き石を踏んで転倒しかねない。砂漠の遺跡の方が歩き易い、と彼は思った。
 少佐と少尉は人が最近この遺跡を訪れた形跡がないか探していた。レンドイロが姿を消したのは1ヶ月前だ。あれから毎日スコールが降っている。前日に来ていても跡が残ることは稀だろう。テオは石材の残骸の上を歩くのが少し不安に思えたので、神殿跡と思われる場所から少し離れてみた。”ヴェルデ・シエロ”達から離れると、彼等の気の放出範囲から出てしまうので蛇や毒虫に対する警戒が必要になるが、少なくとも声が届く距離にいる限り、少佐は怒らない。彼は草木の中を用心深く歩いて行った。
 いきなり薮の中に石組の小屋の様な物を見つけた。ジャングルでなければ暖炉かな?と思えるようなアーチ型の窪みが作られた人工物で、しかも床に穴が口を開いていた。雨水が入らないように周囲が高くなっており、口の大きさは人間が楽に入れる程だ。テオは穴を覗き込んだ。石で壁が造られている。遺跡の一部なのか。彼は携帯を出して、中を照らしてみた。
そして石壁に鉄の棒が挿してあるのを発見した。ほぼ等間隔で互い違いに2列、下へ降っている。古代中南米に製鉄技術はなかったので、これは近代の物だ。そして穴の底に降りる目的で壁に打ち込まれた梯子代わりの物だ。
 テオは「小屋」から出て、ケツァル少佐を呼んだ。返事はなかったが、彼女自身が2分後には姿を現した。少し遅れてデルガドもやって来た。テオは「小屋」の床にある穴を指差した。

「穴の壁に鉄の棒を挿して梯子が作られている。近代の物だと思う。君達の祖先が製鉄技術を持っていたなら、話は別だが。」
「古代に製鉄技術があったとしても、この時代まで鉄がそのまま残っているとは思えません。」

 少佐は穴を覗き込み、テオの梯子説を認めた。

「上から見る限り、下に横穴がある様です。」

 彼女はデルガド少尉に命令した。

「ここで見張っていなさい。テオと私で降りてみます。1時間経っても戻らなければ、本部に連絡を入れること。」
「承知しました。」

 デルガドが敬礼した。テオが「気をつけろよ」と気遣うと、彼は微笑んで頷いた。

「貴方こそ注意して下さい。決して少佐から離れない様に。」


2022/04/18

第6部  虹の波      3

  森の中は下草が多かったが、明るく、歩きやすかった。それに”ヴェルデ・シエロ”と一緒なので蛇や毒虫も寄って来ない。少佐が先頭で、テオを挟んでデルガドが殿を務めた。テオは何故少佐のお供が文化保護担当部の隊員ではなく遊撃班のデルガド少尉なのか、理由がわからなかった。遊撃班は通常2人1組で行動する筈だ。それで歩きながらその疑問を口にすると、少佐が教えてくれた。

「文化保護担当部は申請書類が溜まって忙しいので、一番最終的な仕事をしている私が出張しているのです。」

 つまり、申請書審査を担当するギャラガ少尉やデネロス少尉は多忙だ。警護の規模を考えるアスルも多忙で、警護費用や申請者に請求する協力金を計算するロホも忙しい。最終審査をして署名する少佐が、一番時間の余裕があるので、出張って来たと言っている訳だ。きっと文化・教育省の会議に出席したくないのだろう。
 ケツァル少佐の短い説明が終わったので、デルガド少尉の番だ。

「遊撃班は指揮官のセプルベダ少佐を含めて26名ですが、まだステファン大尉が厨房勤務なので、1人余ります。セプルベダ少佐は今回のテロリスト捜査に2名ずつ振り分けて、私が残りました。私は憲兵隊からもたらされる情報を分析して同僚に伝える役目を仰せ使っていましたが、レンドイロ記者がアスクラカンの無名の遺跡に誘い出された可能性が出て来ました。セプルベダ少佐は私をテロリスト捜査から外し、記者の捜索へ配置変えしたのです。」
「君一人だけを?」
「私は以前アスクラカンでディンゴ・パジェの捜索と捕縛を行ったので、ここでの森の歩き方はわかるだろうと。それに文化保護担当部に遺跡での捜査を手伝っていただければ、双方から1名ずつ出すことになって、2人組みが出来ると少佐はお考えになったのです。」
「すると、ケツァル少佐が出張ったのは、セプルベダ少佐の要請があったからか?」

 少佐と少尉が同時に「スィ」と答えた。最強の”ヴェルデ・シエロ”グラダ族のケツァル少佐と、一番力は弱いが情報収集活動では優れた能力を発揮する”ヴェルデ・シエロ”グワマナ族のデルガド少尉のコンビだ。テオはあのずんぐりしたセプルベダ少佐の賢人の様な風貌を思い出し、案外最適コンビをセプルベダが最初から考えていたんじゃないか、と想像した。

「レンドイロを誘い出した男は何者だったんだろう? レグレシオンの仲間だろうか?」
「それはわかりません。彼女に遺跡を見せると言って誘い出したのか、それとも他にも仲間が隠れていて、彼女を拉致したのか。しかし彼女は考古学の研究を取材している雑誌記者で、建造物の構造や崩壊させる仕組みを調べる専門家ではありません。専門家の話を聞くのが仕事の記者に、どんな用件があったのでしょう。」

 仲間がテロリストを追っている時に、行方不明の雑誌記者の捜索を命じられたデルガドは、不満ではないのか、とテオはちょっぴり心配したが、デルガド少尉はそんな小さな悩みなどない様に、森の中に注意を払っていた。だから通り道から少し離れた所で落ちていた赤い紙の切れ端を見つけたのも彼だった。それは雨で何度も濡れて溶け掛けていたが、雑誌の一部に見えた。ケツァル少佐はそこで立ち止まり、周辺を見回した。そしてさらに数片の紙屑を見つけた。

「雑誌を破り捨てた様だな。」

とテオは呟いた。振り返ると、低木の森であったが、どの方向から来たのかわかりにくくなっていることに気がついた。もうアスクラカンの街並みも、農村地区の風景も見えない。ここで置き去りにされると町への方角がわからない。太陽はほぼ真上だ。
 少佐が進みましょう、と言った。デルガドが黙ってテオに水筒を渡してくれた。”ヴェルデ・シエロ”達は時々通り道の樹木の葉を噛んだりしている。それで水分を補給しているのだろう。テオに薦めないのは、植物に含まれる成分が”ティエラ”には有毒である場合もあるからだ。

「デルガドと私はレンドイロと面識がありません。」

と不意に少佐が歩きながら言った。

「もし彼女が無事なら、貴方は彼女と面識がありますから、彼女を安心させてあげて下さい。」

 その為だけに呼ばれたのか? テオは不思議に思った。少佐はレンドイロがまだ生きていると思っているのだろうか?

「今向かっている遺跡は、行ったことがあるのかい?」
「ムリリョ博士とケサダ教授は行かれたことがあります。私は”心話”で情報を頂きました。」
「ムリリョ博士とケサダ教授は行った?」
「スィ。お2人は”シエロ”の遺跡をチェックする仕事をされています。発掘されていなくても、荒らされていないか不定期に見回っておられるのです。教授はディンゴ・パジェがこの付近に逃亡した時も、来られていました。」

 すると突然、ピリッと空気が微かに震動した。ケツァル少佐が足を止め、テオも思わず後ろを振り返った。デルガド少尉が困惑した表情で立っていた。

「どうした、エミリオ?」
「何でもありません。」

 一瞬怯えた表情が浮かんだが、デルガドは直ぐに平静に戻った。テオは彼が何に反応したのか、思い当たって、ハッとした。前を振り向くと、ケツァル少佐が肩をすくめ、再び歩き出した。彼女も思い当たることがあったのだろう。だが言葉に出してはいけないことだ。デルガドも忘れたことを思い出してしまって後悔しているだけで、誰にも話すつもりはない。
 テオはデルガドが”見てはならぬ者”を見たと聞いた時、あの人がディンゴ・パジェを追っていたのだとばかり思っていた。あの人が”砂の民”だと思い込んでいたからだ。しかしケツァル少佐から思い違いだと言われて、あの人がアスクラカンにいた理由がわからなくなった。だが、今になって少佐が説明してくれた。あの人は犯罪者を追いかけていたのではなく、遺跡を見回りに来ていただけだ。そして偶々森に隠れていたパジェを見つけ、パジェを捜索していた大統領警護隊を見つけたに過ぎなかった。
 デルガド少尉は、”見てはならぬ者”が誰だったのか、推測出来た。だが決してそれを口に出してはならない。一緒に同じ者を目撃した同僚にすら告げてはならない。彼は十分に掟を理解していた。 
 3人はそれから半時間ばかり無言で歩き続けた。次第に樹木が高くなり、高い位置で茂る葉が日光を遮り、薄暗くなってきた。
 不意にケツァル少佐が足を止めた。テオは危うく彼女の背中に接近しそうになって、立ち止まった。少佐が片手を挙げて、後ろの2人に待機と合図した。テオは最後尾のデルガドが気配を消したことに気がついた。まるで一人で森の中に立っている気分だ。
 少佐がアサルトライフルを腰だめの位置に構えて静かに前の藪に入って行った。

第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...