2022/05/18

第7部 渓谷の秘密      2

  ケツァル少佐は腹違いの弟カルロ・ステファン大尉に電話をかけた。大統領警護隊遊撃班は警備班と違って時間は比較的自由だ。会議や危険な任務の遂行中でなければ、時間に関係なく出てくれることが多い。呼び出し音5回の後、ステファンの声が聞こえた。

ーー遊撃班ステファン大尉・・・

 姉からの電話だとわかっているが、彼女が私的用件で電話をかけて来る人間でないことを知っているので、役職で名乗った。ケツァル少佐も「ケツァル」と名乗った。

「今何処にいますか?」

 テレビ電話を使わないので、顔は見えなかった。背景が見えないが、背後の音が聞こえた。車のエンジン音で、車内にいるらしい。それも乗用車ではない。ステファンが雑音に負けない声で答えた。

ーーデランテロ・オクタカスからグラダ・シティに向けて車で半時間の場所です。

 そんな場所にいる理由は語らなかったし、少佐も訊かなかった。彼女は言った。

「そこからロカ・ブランカへ抜けられますか?」
ーーロカ・ブランカですか?

 ステファン大尉が怪訝そうな声を出した。ロカ・ブランカは東海岸線を通るハイウェイ沿いの漁村だ。観光客ではなく地元民御用達の海水浴場でもある。デランテロ・オクタカスとグラダ・シティの間を通るハイウェイから外れて海へ向かわなければならない。遠回りだ。

ーー何か用件があるのですか?
「出会った時に話します。貴方の荷物を必ず持って来て下さい。」
ーー部下は?
「部下が一緒ですか?」
ーー演習の帰りです。遊撃班の半数を率いています。

 少佐は考えた。ママコナは、「汚れ」を持っているのはステファンだと言った。部下は関係ないのだろうと思われる。

「部下はそのまま本部へ帰しなさい。それとも車両は1台だけですか?」
ーー指揮車両とトラックです。では、私だけが用件の対象ですね?
「スィ。 セプルベダ少佐には私から連絡を入れておきます。」
ーー承知しました。

 少佐は電話を切った。何時に落ち合うとか、何処で会うとか、そんな約束はしなかった。彼女はテオの居住区から彼女自身の場所へ戻った。手早く外出の準備をすると、カーラに言った。

「今夜帰りが遅くなるかも知れません。テオが帰ったら先に食べてもらって下さい。私は必ず今夜中に帰宅するつもりで出かけます。」
「わかりました。」

 カーラはいつも余計な質問をしない。軍人の家で働いていることを十分に承知していた。
 少佐は駐車場へ行き、彼女のベンツに乗り込んだ。車を道路に出してから、ステファンが拾った「汚れ」とは何だろうと考えた。彼女の唐突な要求に彼は素直に従うようだ。つまり、彼は己が「汚れ」を所持していることを自覚しているのだ。
 ママコナが首都に入れることを厭うもの。つまり、悪霊か? ケツァル少佐はロホに電話を入れておくことにした。車が大通りに出てしまう前に路駐して、ロホの携帯にかけた。
 ロホは2回目の呼び出し音の後で直ぐに出た。この男は文化保護担当部の仲間から電話がかかって来る時の着信音を他の人間からの着信音とは別に設定している。

ーーマルティネス・・・
「ケツァルです。貴方に知っておいてもらいたいことがあります。」
ーーどうぞ。
「”名を秘めた女の人”から要求がありました。カルロが持っている『汚れ』を聖都に入れるなと言うものです。」
ーーカルロの『汚れ』ですか?

 ロホの声に不安が混じったので、少佐は彼の誤解を解こうとした。

「カルロが汚れているのではなく、彼が持っている物が汚れていると言う意味です。本人も自覚している様でした。」
ーー”名を秘めた女の人”が厭う物ですね。祓いが必要なのですか?
「恐らく、カルロはセプルベダ少佐に祓ってもらうつもりで持ち帰って来る最中だった様です。でもママコナはその物がグラダ・シティに持ち込まれるのを嫌がっています。」
ーーセプルベダ少佐にはご依頼がなかったと言うことですか。
「”名を秘めた女の人”は女性に話しかける方が気楽な様です。」

 実際、”曙のピラミッド”の当代ママコナは女性の”ヴェルデ・シエロ”にお気楽に話しかけてくることが多い。まだ若いので、男性に話しかけるのが気恥ずかしいのかも知れない。ロホは男ばかりの兄弟の家で育ったが、父や兄達ではなく母親の方がママコナの声をよく聞いていた。母親は儀式に関わらない人だが、儀式に関する質問をママコナから受けて、ロホの父親に質問してから返答をしていた。
 ケツァル少佐は言った。

「貴方の助力が必要になった場合に、助けを求めます。よろしいですか?」
ーー承知しました。いつでもお呼び下さい。



2022/05/17

第7部 渓谷の秘密      1

  ケツァル少佐はグラダ・シティの自宅で、真昼間にも関わらず1人の時間を過ごしていた。休業するつもりなどなかったのだが、彼女が指揮する文化保護担当部が置かれている文化・教育省のビルがある問題を抱えてしまったからだ。文化・教育省が入居している4階建ての雑居ビルの何処かで、トイレの排水管が詰まってしまった。その結果、庁舎内は勿論のこと、ビルの1階で営業しているカフェ・デ・オラスも、少佐が一度も入店したことがないド派手な衣装を販売しているブティックも、省庁の職員達の主治医みたいな内科の診療所も、物凄い臭いに閉口し、一斉に休業してしまった。業者が呼ばれ、現在何処が臭いの発生源なのか調査中だ。
 職場に物理的な問題が発生した場合、セルバ共和国では場所を替えて仕事をすると言うことをしない。労働者は休んでしまう。休んだ分だけ給料が減るのだが、その間は別の仕事を見つけて働いても誰も文句を言わない。
 大統領警護隊文化保護担当部は文化・教育省文化財・遺跡担当課が休めば自分達も休む。発掘申請書は文化財・遺跡担当課が受理して文化保護担当部へ回すので、肝心の書類が回って来なければ文化保護担当部の仕事はない訳だ。
 少佐が休業を宣言すると、アンドレ・ギャラガ少尉は大学生に変身してグラダ大学へ行ってしまった。考古学部の通信制の学生だが、たまには全日制の授業を受けてみようと言う魂胆だ。マハルダ・デネロス少尉も溜まっていた大学の課題を消化する為に図書館へ行った。アスルはカブラロカ渓谷の遺跡の監視業務に就ているので不在だ。ロホも市内で行われている建設現場で出土した遺跡調査の巡視に出かけて、そのまま自宅へ直帰すると言っていた。
 ケツァル少佐は暇だった。文化保護担当部に届く申請書が丁度途切れたタイミングでトイレが詰まったので、彼女の仕事がなかった。だから彼女は自宅に帰った。突然の雇い主の帰宅に家政婦のカーラがちょっと迷惑そうだったので、彼女は「別宅」、即ちパートナーのテオが使っている居住区へ入った。テオはグラダ大学生物学部遺伝子工学科の准教授で、最近仕事が忙しい。隣国からの依頼で、20年前に隣国で起きたクーデターの犠牲者の遺体が数10体発掘され、身元鑑定のためのD N A分析に没頭していた。だから昼間、彼の居住区には誰もいなかった。
 テオの寝室は2人の部屋だ。少佐の寝室には時々女性の友人や部下が泊まるので、彼女は男性を入れない。男性客は彼女の居住区の客間に泊まる。テオの居住区の客間は、テオ個人の研究室になっていた。遺伝子抽出の為の機械や冷蔵庫、コンピューターが置かれている。大学で研究出来ないもの、つまりテオ自身の永遠のテーマとなる”ヴェルデ・シエロ”のD N A分析を行う部屋だ。少佐には理解出来ない世界なので、彼女は決してプライベイト研究室に入らない。例え家主であっても、彼女の慎みだった。
 暇を潰す為に、彼女はテオの居住区のリビングにいた。普段寛ぐ時は彼女の居住区のリビングを使う。それはテオも同じだ。だが、今はカーラが掃除をしたり、夕食の仕込みをしたりしている。家政婦の仕事の妨害をしたくないので、少佐はテレビも家具もないがらんとした部屋で、唯一置かれている古いソファの上に寝そべって帰り道に購入した雑誌を眺めていた。たまにはゴシップ紙も良いもんだ、と思っていると、突然頭の中でママコナが話しかけてきた。

ーー汚れを聖都に入れないで。

 ”曙のピラミッド”に住まう”名を秘めたる女の人”が聖都と呼ぶのはグラダ・シティのことだ。少佐はちょっと考えた。ママコナの言葉は時に抽象的で、話しかけられた”ヴェルデ・シエロ”は意味を理解するのに時間を要することが往々にあった。結局聖なる巫女が何を拒んでいるのか判明しなかったので、少佐は問いかけた。

ーー汚れとは?

 ママコナは短く答えた。

ーーエル・ジャガー・ネグロが持っている。

 そして彼女からのアクセスは途絶えた。
 少佐は雑誌を胸の上に置いて考えた。エル・ジャガー・ネグロは彼女の異母弟カルロ・ステファンのことだ。ステファン大尉が今何処で何をしているのか知らないが、何か良くない物を拾ったようだ。ママコナはそれが首都に入ってくることを拒んでいる。恐らくステファン本人に命令したいのだろうが、白人の血が混ざっているステファンにママコナの言葉は理解出来ない。だから姉のケツァル少佐に依頼が来たのだ。
 少佐は体を起こした。暇潰しが出来たようだ。まずは、ステファン大尉が何処にいるのか調べなければならない。

第7部 南端の家     15

  銃声を耳にした遊撃班の隊員達が格納庫の口に集まっていた。警備班2班で事足りると思ったのか、フェンス際へ来ないで様子を伺っていた。救急車と警察車両がやって来るのを見て、アクサ大尉は部下に犯人と思しき若い男を格納庫へ連行するよう命じた。

「見た限りでは祓いが必要と思われる。この状態のまま警察に渡すのは危険だ。」

 格納庫の口では、ステファン大尉がフェンスの向こうの様子を眺めていた。警備班達は怪我人の応急処置を施し、足止めした見物人に事情を聞いていた。そこへ町の救急車と民警が来た。騒ぎが収まりかけた頃に憲兵隊もやって来た。
 警備班第7班が引き摺ってきた若い男を見て、ステファンは格納庫の中へ入れろと命じた。

「テントを張って、中に入れておけ。恐らくその若者の中に何かがいる。」

 ステファン大尉が結界を張るのが苦手だと知っている部下達は素早く行動した。管理人やエステバン少年がいる位置から離れた場所にテントを張り、そのテントの周囲を円陣で囲んだ。ステファン大尉は己の荷物から30センチメートル程の大きさの木像を取り出した。顔と胴体だけの木偶で、目鼻はない。
 テントの中に押し込まれた若者は、白目を剥いて、唸っていた。狂犬病に罹った犬の様だ。皮膚にも衣服にも血が着いているが、黒ずんでいて異臭を放っており、2、3日経った古い物だとわかった。新しい血痕は先程フェンスの外で襲われた見物人の血だろう。後ろ手に縛られていたが、歯を剥き出して近づく者を威嚇するので、警備班に撃たれた肩の傷は放置されたままだ。そこからも血が流れていた。狙撃者は肩を撃ち抜いたので弾丸は体に残っていない。振り回していた鉈を落とすために撃たれたのだ。
 ステファン大尉は部下をテントから出すと、1人で若者の前に屈み込んだ。顔を見つめ、視線を合わそうとしたが、白目を剥いたままなので不可能だった。恐らくこの男は、アベル・トロイだ、とステファンは思った。何かが取り憑いている。ステファンは己と若者の間に木偶を置いた。木偶は顔はないが裏表はあるので、表を少年に向けた。グァっと若者が威嚇する声を出した。ステファン大尉はいきなり彼の頭部を左右から手で押さえた。同時に気を若者の目に向かって放った。

「ギャーーーー!」

と若者が悲鳴を上げた。テント内に一瞬白い粉でも舞ったように粗い粒子の渦が生じた。テントが空気を注入されたかの様に膨張し、1秒後に3箇所が裂けた。円陣を組んでいた12人の大統領警護隊遊撃班は結界を張る気をマックスに高めた。その結界に白い渦が押し戻され、木偶の頭から吸い込まれて、やがて消えた。
 若者ががくりとその場に崩れ落ちた。ステファン大尉は床に尻を突け、部下の誰にともなく命じた。

「そのガキを手当してやれ。」

 2人が若者を破れたテントから出し、腕を縛っていた革紐を切り、汚れた衣服を脱がした。残りの部下達は大尉が手を振ったので、テントを片づけ始めた。キロス中尉が木偶を見た。

「悪霊ですか?」
「スィ。何者なのかは知らんが、私の力でなんとか封じ込めた。かなり強引だったがな。」
「強引?」
「グラダの力の大きさで少年の体から追い出し、木偶に追い込んだ。それだけだ。セプルベダ少佐の様に悪霊を納得させて沈静化させた訳じゃない。だから、こいつはまだ浄化されていない。聖布の袋を取ってくれ。」

 キロス中尉はステファンの荷物から木偶が元々入れられていた布袋を取り出した。ステファン大尉はそれを受け取り、丁寧に木偶を入れて包む様に巻きつけた。革紐で袋全体を縛る様に巻き、しっかり端を結んだ。
 デルガド少尉は厨房区画を見た。管理人が出勤して来ており、エステバン少年を庇う様に立ってこちらを見ていた。”ティエラ”同然だが”シエロ”の血を引く彼等は大統領警護隊が何を行ったのか、理解していた。目撃したことを口外してはならない。彼等は掟を肝に銘じていた。
 警備班の隊員達が戻って来た。事件の後片付けは全て憲兵隊に押し付けて来たのだ。憲兵隊は見物人達から事情聴取するだろうが、大統領警護隊が確保した容疑者の引き渡しも要求してくるだろう。大統領警護隊も悪霊に取り憑かれて凶行に及んだ若者を庇うつもりなど毛頭ない。ただ、真犯人たる悪霊を憲兵隊に渡すつもりもなかった。
 エステバンが手当を受けている若者に近寄って行くのをビダルは見ていた。きっとトロイ家の大人達を殺害したのは、悪霊に取り憑かれていたアベル・トロイに違いない。エステバンはその凶行の最中を目撃してしまったのだろうか、それとも惨劇が終わったところに居合わせたのか。いずれにしても、エステバンは兄がなんらかの形で関わっていると知っているのだ。
 エステバンが少し距離を取って立ち止まった。ステファン大尉が尋ねた。

「アベルか?」

 エステバンは頷いた。ステファンが言った。

「君の兄を憲兵隊に渡す。君も一緒に行くか?」

 ビダルは大尉を見た。憲兵隊がどんな判断を下すのか、わからない。だが、どんな形でもこの兄弟にハッピーエンドは訪れない。
 エステバンが頷いた。そして気絶しているアベルのそばに駆け寄り、怪我をしていない方の兄の手を握りしめた。

2022/05/16

第7部 南端の家     14

  一夜明けて、大統領警護隊第7班と第8班は手早く格納庫内でのキャンプの撤収を始めた。朝食は作業が終わってからだ。忙しいので、ビダル・バスコ少尉は毛布にくるまったままのエステバン・トロイを遊撃班の場所へ連れて行った。まだ撤収指示が出ていない遊撃班は、キャンプの後片付けを後回しにして、朝食場所の設営を行なっていた。警備班の分も用意しておくのだ。管理人が来るのは食事が終わる頃になる。朝食準備は大統領警護隊が自分達で行うのだった。指導師の資格を持っているステファン大尉が簡略された食材清めの儀式を行い、隊員達がすぐさま調理に取り掛かった。床に下ろされたエステバン少年は目を覚ましており、大人達の作業を珍しそうに眺めていた。一晩暖かい場所で眠ってかなり落ち着いた様子だった。隊員達は誰も事件の話も昨夜の怪しい気配の話もしなかった。箝口令が敷かれていたのではなく、普段から無駄口を叩かないだけだ。それにまだ軍事訓練は本部に無事帰投する迄続いているのだ。
 キャンプの撤収が終わったが、朝食の支度はまだ終わっていなかったので、警備班の隊員達は格納庫の外に出てランニングをした。陸軍航空部隊や空軍も朝の日課をこなしているのが見えた。デランテロ・オクタカスは半官半民の飛行場なので、民間航空会社も格納庫を持っている。そちらは朝一番の便を飛ばす会社だけが扉を開き、プロペラ機の整備を行なっていた。他の会社はまだ仕事を始めていない。ロノイ大尉もアクサ大尉も部下達を指揮しながら、民間格納庫の様子を伺っていた。何か異変があればすぐに駆けつけなければならない。だが朝日が射す飛行場は平和そのものに見えた。
 ロノイ大尉はビダル・バスコ少尉をチラリと見た。半年前に部下の家族に降りかかった悲劇を彼はまだ覚えていた。だからバスコが森の中で保護した少年に未練を抱く感情はわかっているつもりだった。しかし大統領警護隊は個人的感情で行動を取ってはならない。特に現在のビダルは少年に感情移入しやすい精神状態だとロノイ大尉は判じていた。それは国民の安全を守るために集中しなければならない大統領警護隊にとって命の危険に関わることだ。常に第三者の目で物事を見なければならない。それ故、ロノイ大尉はビダルからエステバンを引き離すことを決断していた。少年のためではない、ビダルのためだ。
 飛行場のフェンスの向こうに人影が見えた。滅多に見られない大統領警護隊を見ようと集まったデランテロ・オクタカスの若者達だ。国民にとって畏怖の対象であり、憧れの存在である大統領警護隊。決してその期待に背いてはならないのだ。
 突然、その見物人の人垣の中で叫び声が上がった。ワーっとか、ギャーとかそんな悲鳴だ。大統領警護隊は一斉にそちらへ注意を向けた。第7班がそちらへ走った。ランニング中も抱え持っていたアサルトライフルを前に向けた。指揮官の命令を待たずに、誰かが発砲した。人垣が左右に分かれ、悲鳴は小さくなったが、騒ぎは収まらなかった。フェンスを跳び越えた隊員達が何かを取り囲み、若者達に怒鳴っていた。

「ここを離れるな!」
「騒動の発端を見た者はいるか?」

 ロノイ大尉は第8班に飛行場周辺の封鎖を命じた。

「その若い連中をどこにも行かせるな。事情聴取する迄足止めしろ。」

 部下達が散開すると、ロノイ大尉はアクサ大尉のそばへ行った。

「何があった?」
「あの男が見物人に襲いかかった。」

 アクサ大尉が顎で示した先に、地面に男が1人倒れていた。左肩を撃ち抜かれ、苦痛で呻いていた若い男は、血まみれの服を着ていた。地面に鉈の様な刃物が落ちており、別の男性数名が腕や顔から血を流しているのが見えた。怪我人は第7班が直ちに応急処置に取り掛かっていたが、撃たれた男はまだだった。その男は後ろ手に縛られるところだった。大尉達は、その男が、男と呼ぶにはまだ幼さが残る少年だと気がついた。ロノイ大尉が呟いた。

「まさか、アベル・トロイか?」


第7部 南端の家     13

  夕食の後片付けが終わる頃に、陸軍特殊部隊と憲兵隊の捜査車両がカブラロカ渓谷から戻って来た。ステファン大尉はエステバン・トロイ少年を宥めすかし、何とかビダル・バスコ少尉から引き離し、憲兵隊と共にオクタカス支部へ連れて行った。
 2時間後に再び少年を連れて戻って来た大尉は疲れた表情だったが、ビダルに「一晩一緒にいてやれ」と少年を返した。そして大尉自身はアクサとロノイ両大尉を促し、一緒に格納庫から出て特殊部隊の格納庫へ向かった。
 格納庫の外に現場から戻った陸軍特殊部隊第17分隊の隊長アデリナ・キルマ中尉が待っていた。簡単な挨拶を交わしてから、まずステファン大尉が保護した少年の情報を彼女に与えた。そしてロノイ大尉が現在世間で報道されている捜査内容を伝え、アクサ大尉が3時間前に格納庫の外に近づいた怪しい気配について伝えた。
 キルマ中尉はそれらの情報を暫く頭の中で吟味してから、現場の捜査情報を伝えた。

「被害者は渓谷の入り口でトウモロコシを栽培していた先住民カブラ族の農夫カシァ・トロイと息子カミロ、カミロの妻のマリアの3人。3人共に鋭い刃物で全身をめった斬りされていました。恐らく農業用の鎌を振り回されたのだと思われます。鎌は血で汚れた状態で畑の外れに放置されていました。殺害された順番は分かりませんが、カミロがマリアを庇う形で倒れていたので、夫婦は同時に襲われたものと推測されます。夫婦は家の中で殺害されており、床に血溜まりを踏んで付いた足跡が無数にありました。スニーカーの足跡です。一種類だけでしたから、犯人は1人と思われます。同じ足跡が外で死んでいたカシァの周囲にも残っていました。家の中に物色した跡はなく、物取りとは思えません。
 戸口に子供の勉強道具が入ったカバンが落ちていたので、下の子供が帰宅して現場を目撃したと思われました。エステバンと年上の息子の行方を探しましたが、見つからず、兄の方は事件発生日から学校にも友達のところにも現れていません。憲兵隊が指紋を数カ所から採取していますが、我々にはまだ情報はありません。」
「犯人を追跡出来なかったのか?」

 ロノイ大尉が、”ヴェルデ・シエロ”なら出来るだろうと言うニュアンスで言った。キルマ中尉は大統領警護隊の「上から目線」を無視した。

「樹木の葉などに付着した血痕や地面の足跡を追跡しましたが、カブラロカ川に犯人が入ってしまったようで、川から痕跡が途絶えました。」
「川か・・・」

 ステファン大尉が呟いたので、残りの3人が彼を見た。ステファンが思ったことを言った。

「犯人は川を歩いて下流へ向かったのだろう。ところが2日目に上流で遊撃班のキロス中尉と警備班のバスコ少尉が下の子供のエステバンを見つけ、川で子供の体を洗ってやった。犯人はエステバンの気配を感じ、追跡を始めたのだ。そしてここまで追ってきた。」
「そんなことが出来るのは、”ティエラ”ではないですね。」

 キルマ中尉が眉を寄せた。ロノイ大尉が囁いた。

「何か悪い物に取り憑かれた”ティエラ”なのかも知れん。例えば、行方不明になっている上の息子・・・」

 暫く4人の”ヴェルデ・シエロ”達は沈黙した。悪霊に取り憑かれて人を殺めた例は過去にもあった。どれも官憲に射殺されたり、捕まって精神病院に閉じ込められてそれっきりだ。憲兵隊も警察も、”ヴェルデ・シエロ”に救いを求めない。悪霊祓いをしてもらって正気に帰っても、世間が許さないからだ。どんな理由があっても人殺しは人殺しだ、とセルバ人は考える。正気に帰って社会に戻されても世間は受け容れてくれない。結局別の犯罪に走ったり、精神に異常を来したり、自死してしまうのだ。

「もし、犯人がアベル・トロイだとして、彼の犯行だと立証できなければ、憲兵隊は手を出せないだろう?」

とステファン大尉が言った。残りの3人はまた彼を見た。「元ケチなこそ泥」のステファン大尉は考えを述べた。

「アベルを我々が捕まえ、祓いをして正気に帰す。恐らくアベルには犯行時の記憶がないと思う。だから、そのままエステバンと共に残りの人生を生きさせる・・・」
「アベルはそれで良いかも知れないが、エステバンは何かを見たんじゃないか?」

 アクサ大尉が言った。

「憶測だけで我々が論じ合っても仕方がない。明日、警備班は本部に帰還する。後は遊撃班に任せる。」

 彼はキルマ中尉を見た。キルマ中尉は肩をすくめた。

「私の隊は憲兵隊の援護をしただけですから、捜査にこれ以上首を突っ込みません。少なくとも、ゲリラの仕業でないと結論を出しました。」

 一番年長のロノイ大尉が頷いた。

「では話はまとまった。それぞれの職務を果たそう。解散だ。」

 警備班の大尉達が格納庫に戻った。ステファン大尉は怪しい気配が現れたと思われる方角の森を眺めた。するとキルマ中尉が声をかけて来た。

「カブラロカの遺跡にクワコ中尉がいました。」

 ステファン大尉が振り返った。

「アスルが?」

 文化保護担当部時代から弟の様に可愛がってきた元部下だ。尤もアスルの方も2歳年上のミックスの上官を弟扱いしていたが・・・。

「元気そうでしたか?」
「スィ。すっかり指揮官が板についていました。」

 ステファンは微笑した。弟分の成長が誇らしくあり、またちょっと寂しかった。一緒に大きな遺跡で警備の指揮を執りたかったな、と思った。

「情報、有り難う。今夜はゆっくり休んで下さい。」

 キルマ中尉の豊かな胸にともすれば向いてしまいそうな視線を制御して彼は手を振り、背を向けた。



2022/05/15

第7部 南端の家     12

 「アベル・・・」

 エステバン少年がビダルの胸に顔を押し付けたままで呟いた。ビダルは彼の体を己の胸から離し、顔を見た。

「さっき、ここへ近づいたのは、アベル・トロイか?」

 少年が首を振った。違う、と。ビダルはステファン大尉に視線を移した。ステファン大尉は立ち上がって、ロノイ大尉と”心話”を交わしたところだった。アクサ大尉は自身が指揮する第7班と共に格納庫の外へ出て行ったので、姿が見えなかった。”心話”を終えたロノイがどこかに電話をかけた。
 数分後ロノイ大尉がビダルのそばへ来た。直属の上官が近づいて来たので、ビダルは少年の肩を抱き寄せる形で立ち上がり、指示を待った。ロノイ大尉はエステバンの顔を眺め、それから部下に視線を戻した。

「先刻の『何か』はその子を追って来たのかも知れない。デランテロ・オクタカスの憲兵隊にその子を任せるのは、ちょっと不安だ。」

 憲兵隊にも”ヴェルデ・シエロ”はいるのだが、デランテロ・オクタカス支部にはいない、と言うことだ。大尉達は先刻の「嫌な気配」が普通の人間や動物ではないと考えている、とビダルは察した。グラダ族のステファン大尉が滅多に発しない威嚇の気を放ったのだ。相手は尋常でないモノだ。ビダルは上官に質問した。

「この子をグラダ・シティに連れ帰るのでありますか?」
「ノ」

 ロノイ大尉は即答した。

「子供の面倒を見る暇は我々警備班にはない。大統領警護隊の役目でもない。憲兵隊がトロイ家の親族を探している。その子は教会が預かるそうだ。」

 教会に子供を預けるのは憲兵隊に任せるより不安ではないか、とビダルは内心思ったが、反論しなかった。その代わりに申し出てみた。

「親族が現れる迄、私がこの少年を護衛しましょうか?」

 しかし、その申し出はあっさり却下された。

「君には警備班のルーティンをこなしてもらわねばならぬ。その子の護衛は遊撃班が行う。」

 想定外の出来事に対処するのが遊撃班の任務だ。ロノイ大尉の言葉は理にかなっていた。ビダルは不満を押し隠し、頷いた。そこへアクサ大尉と第7班が戻って来た。

「逃げられた。だが、どう言う輩かは見当がつく。」

 アクサ大尉は、仲間に告げた。

「滑走路の向こうの藪に血の匂いが残っていた。人間の血だ。恐らく、殺人者がその子供を追跡して来たのだ。」

 大統領警護隊の隊員達は、エステバン・トロイを見た。第8班の隊員の一人が考えを口に出した。

「その子供はジープでここへ連れて来られました。殺人者はジープを追って来たのですか?」

 アクサ大尉はその質問に考えることもなく答えた。

「子供の匂いがジープのタイヤ痕の辺りで消えて、ジープは森の中の一本道を通ってここへ走って来た。恐らく他の車の轍が重なることはないだろう。だから安易に追跡出来たと考えられる。」
「わかりました。」

 素直に質問者は納得した。アクサ大尉の説が正しいとすると・・・とビダルは思った。追跡者はずっとエステバンを森の中で探していたのだ。ビダルとキロス中尉が少年を川で洗ったり、ステファン大尉達と出会って休憩させたりしている間に接近して来たのだろう。

「子供を事件の目撃者として、消しにかかろうとしていたのか?」

とロノイ大尉が呟いた。邪悪な気を放つ追跡者。大統領警護隊は厄介な敵がいると感じ始めていた。


 

2022/05/14

第7部 南端の家     11

  格納庫の管理人の1人がラジオから仕入れた情報で、殺人事件があったカブラロカ渓谷の民家の、行方不明になっている子供達の名前は、兄がアベル・トロイ、弟がエステバン・トロイだとわかった。ビダル・バスコ少尉がエステバンと呼びかけると、初めて少年は反応した。涙を流し、泣き出した。オクタカス地方の方言を話せる管理人が話しかけ、エステバン少年は自宅で起きたことをポツリポツリと話し始めた。
 彼が片道3時間の道のりを歩いて学校から帰宅すると、家の前庭で祖父が死んでいたこと。家に駆け込むと、母親と父親も血まみれで倒れていたこと。
 それだけを聞き取るのに10分も要した。少年の記憶が多少混乱していたのと、難しい語彙が上手く使えなかったからだ。管理人が質問者であるステファン大尉とビダルに標準語に通訳し直したのも、手間がかかった原因だった。
 両親が死んだことをエステバンが理解出来ていることが、大人達に彼を痛ましく感じさせた。

「誰が君のパパとママから命を奪ったのかな?」

 管理人が可能な限り穏やかな表現を使って質問した。殺人者を目撃したのか、と訊きたいのだ。
 エステバンは暫く黙っていた。床を見つめ、唇を噛み締めていた。犯人を知らないのではなく、知っているのだ、とステファンは思った。だが言いたくない。言わなければと言う気持ちと言いたくない気持ちが少年の幼い心の中で闘っている、そんな表情だった。だから、彼は想像した犯人を言ってみた。

「アベルがパパとママを死なせたのかな?」

 エステバンは再び泣き出した。物悲しい声を出して、悲痛な表情で泣いた。ビダルは彼を抱き締めてやり、上官を見た。ステファン大尉は背後で控えていたロノイ大尉とアクサ大尉を振り返った。ロノイが囁いた。

「憲兵隊に通報しよう。アベル・トロイを親殺しの罪で手配するべきだ。」
「だがこの少年は兄が親を殺すところを見た訳ではない。」

とアクサが待ったをかけた。

「重要参考人として手配させるべきだ。」

とステファンも意見を述べた。

「少なくとも、アベルを探し出して保護なり拘束なりしなければならない。真犯人が誰かは不明だが、少年の確保が先決だ。」

 ビダルは黙って上官達の話し合いを聞いていた。彼の腕の中で少年は少しずつ落ち着きを取り戻してきた感じだった。
 昔、親に叱られて泣く弟をこうやって抱き締めた・・・とビダルは思った。ビトは彼とそっくりの双子だったが、性格はビトの方がヤンチャだった。優等生のビダルは、奔放な弟を時に羨ましく、時に疎ましく感じた。だが、この世の誰よりも愛していた。彼はエステバンの背中を優しく撫でた。
 何かの間違いだ。お前の兄ちゃんは何かのトラブルに巻き込まれたんだ。お前の両親の死に関わっちゃいない。
 そう言ってやりたかった。
 アクサ大尉が携帯を取り出して憲兵隊に電話をかける声が聞こえた。
 格納庫内は静かになっていた。大統領警護隊の隊員達はビダル・バスコ少尉が抱き締めている子供を眺め、憲兵隊と話をしている上官の声を聞いていた。
 ステファン大尉が、ふと格納庫の壁へ顔を向けた。少し遅れて遊撃班の隊員達も同じ方向へ注意を向けた。警備班の隊員の中にも、銃を掴んで立ち上がりかけた者がいた。
 ”ヴェルデ・シエロ”の野性の勘だ。近くではないが、遠くとも言えない距離に、何か嫌な気配を感じ取った。ビダル・バスコは少年を守らねばと、エステバンを包み込む様な体制を取った。軍人ではない管理人達は感じなかった様子だったが、隊員達のほぼ一斉の緊張した様子に、ただならぬものを感じたのだろう、3人固まってビダルのそばに寄って来た。分散すると、”ヴェルデ・シエロ”達の守護に負担をかけると知っていたからだ。
 ステファン大尉から強い気が発せられるのをビダルは感じた。ステファンはミックスなので結界を張るのが得意ではない。その代わり強烈な破壊力を持つ爆裂波を出せる。その力を少しだけ放っているのだが、並の威力ではないので他の隊員達は気負い負けしそうになった。ステファン大尉は、格納庫に近づいて来た「嫌な気配」を威嚇したのだ。それ以上近づくとただでは済まないぞ、と。
 不意に「嫌な気配」が消えた。警備班第7班の隊員達が格納庫の外へ走り出て行った。

第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...