2022/10/12

第8部 チクチャン     21

  ピア・バスコ医師の診療所が見える位置に車を駐車したロホ、アスル、ギャラガは車内で軽食を取った。付近は路駐が多く、屋台も出ているので彼等がそこにいても誰も怪しまない。不審者がいると通報する人間もいない。だが夜が更ける前に仕事を完了したいのは3人共に同じだった。

「遊撃班はアウロラ・チクチャンにどんな呼びかけをしたんだ?」

とアスルが往来を眺めながら呟いた。ロホが肩をすくめた。

「ただ、出て来い、と言ったんだろ?」
「それじゃ誰も出て来ませんよ。」

とギャラガが口元に付いたケチャップを指で拭き取りながら言った。アスルが黙って紙ナプキンを彼に渡した。

「遊撃班の半数が一斉に『出て来い』なんて念を送ったら、受けた方は腰を抜かします。」
「それじゃ、俺達は何て念じる?」
「『直ぐに来てくれ』で良いんじゃないか?」

とロホ。

「単純な方が良い。恐らく”感応”を使い慣れていない連中だ。どの部族にもチクチャンと名乗る家族がいないと言うことは、逸れ者家族だってことだ。」
 
 アスルが軽く咳払いした。ロホは彼を見て、それから、ハッとギャラガを見た。

「すまん、君のことを逸れ者と思ったことがなかったので・・・」
「平気です。」

 ギャラガは苦笑した。

「私の名前は母親が勝手に名乗ったんです。母親の本当の名前すら私は知りませんから、逸れ者で結構ですよ。」
「ほら、拗ねちゃったじゃないか。」

とアスルがロホを揶揄った。ロホがまたギャラガに謝り、ギャラガも恐縮して焦った。そしてアスルに「拗ねてなんかいませんから!」と怒って見せた。部族も年齢も育ちも階級も全く違う3人の大統領警護隊の隊員が兄弟の様に狭い空間でワイワイやっていると、診療所の建物から看護師達が出て来た。待合室の灯りが消えて、業務が終了したことが外部にもわかった。
 バスコの家の個人住居の部分に灯りが灯った。ロホが部下達に声をかけた。

「そろそろ始めるぞ、最初に私が送ってみる。」

 ギャラガにはロホが何もしていない様に見えた。それほど”感応”は”ヴェルデ・シエロ”にとっては微細な力しか要しない軽度の能力なのだ。少し前まで力まなければ使えなかったギャラガは、先輩の表情を見て、自分はどうなのだろうとちょっと気になった。
 アスルが尋ねた。

「どれほど待つ?」
「10分かな? 直ぐ、と言うから、その程度で次の念を送ろう。」

 3人は自然な風を装って車内で世間話をしながら診療所の様子を伺った。ピア・バスコと伴侶は夕食の席に着いたのか、一つの部屋からなかなか移動しなかった。ギャラガがあることに気がついた。

「入院患者がいるなら、別の部屋にも灯りが点いていますよね?」

 ロホとアスルは顔を見合わせた。言われてみればそうだ。アラム・チクチャンが入院していることになっているなら、診療所の方の「休養室」に寝ている筈だ。しかし、彼は大統領警護隊に連行されてしまい、診療所は真っ暗だった。
 「まずったかな」とアスルが呟いた時、ロホの視野の隅に1人の女が入った。通りを早足でやって来て、診療所が見える角で立ち止まった。暗い窓を見て、ちょっと考え込んだ様子だ。ロホは囁いた。

「来たぞ。」



2022/10/11

第8部 チクチャン     20

  グラダ東港は貨物専用スペースだ。コンテナが並ぶ広大なスペースと貨物船に荷積するフォークリフトやクレーンが動き回る埠頭、倉庫群を見ると、捜査する人間は溜め息をつく。ケツァル少佐はステファン大尉を顔見知りの遊撃班隊員が立っていた車の横にドロップすると、すぐにそこからUターンして走り去った。
 遊撃班指揮官セプルベダ少佐からの要請には応じるが、副指揮官ステファン大尉の甘えには応じられない。以前アスルから「弟に厳しすぎませんか」と言われたことがあったが、少佐は「過ぎる」とは思わなかった。カルロは部下達の命を守る指揮官の修行中だ。結界を満足に張れない指揮官など要らない。部下を危険に曝すだけだ。死ぬ気で部下を守れ。
 遊撃班は昨夜アラム・チクチャンから謎の男の顔や声の記憶を引き出した筈だ。それを隊員達が共有して、捜査に当たっている。もし謎の男がマスケゴ族なら、ブーカ族やその系列の血筋が多い隊員達なら十分に対処出来る。ステファン大尉が恐れているのは、取り逃すことだ。
 ケツァル少佐は文化・教育省のオフィスへ出勤した。部下達と挨拶を交わし、「エステベス大佐」の部屋に彼等を集めた。遺跡・文化財担当課の職員達は、彼等が打ち合わせをしているとしか思わない。実際、打ち合わせなのだから。
 アラム・チクチャンがピア・バスコ医師の診療所に現れたことは部下達を驚かせた。しかし、チクチャンと妹アウロラ、そして謎の人物が仲間割れしたことには驚かなかった。

「アウロラを確保しないといけません。」

とデネロス少尉が言った。

「暴走するかも知れないし、謎の男の仲間がいる可能性もあるので、保護が必要です。」
「その通りです。」

 ケツァル少佐はロホを見た。

「カルロは遊撃班が”感応”で彼女を呼んだが反応がなかった、と言いました。でも、”感応”でなければ彼女と接触する方法はないと私は思います。」

 ロホは少し考えてから意見を述べた。

「普通の”感応”は、呼びかけられた人間は呼びかけた人が誰なのかわかりません。だから、アウロラ・チクチャンは恐れて出て来られないのです。でも、少佐、貴女は私達部下が危機に陥って貴女に助けを求めた時、誰が呼んだかお分かりになるのでしょう?」
「その時に危機に陥っている可能性が高い部下が誰だか知っているからですよ。」

 するとアスルが提案した。

「バスコの診療所から念を送りませんか? ひたすら来て欲しいと伝えるだけです。アウロラは兄の呼びかけだと思うかも知れません。」
「それなら、男性がやるべきだわ。」

とデネロスが言った。

「”感応”は性別は関係ないと思われていますけど、私は、兄や姉から呼ばれたら、男女の違いを感じます。上手く説明出来ませんけど・・・」
「遊撃班はみんな男だろ?・・・いや、1人だけ女がいるけど・・・」
「でも、診療所から念を送ったのではないでしょ? それに助けを求めた訳でもないと思う。」
「つまり・・・」

 ギャラガが言った。

「私達にアラムのフリをしろと?」
「スィ。」

 デネロスは男性隊員達を見回した。

「お芝居じゃない、ただ助けて、と念じるだけですよ。彼女に来て欲しいと思うだけです。だから嘘をつくのじゃなくて・・・」
「わかった。」

とロホが頷いた。彼は少佐を見た。

「3人で交代にやってみます。」


第8部 チクチャン     19

  睡眠時間は短かったが、シエスタの習慣がある国の人間は夜更かしをあまり気にしない。翌朝、テオとケツァル少佐はいつもの時刻に目覚め、一緒に朝食を取り、それぞれの仕事の開始時間に合わせて家を出た。
 少佐はテオより早く自宅を出たが、車で角を一つ曲がったところで、カルロ・ステファン大尉に呼び止められた。大尉は道端に立って、彼女の車が見えると片手を挙げて止まれと合図したのだ。彼女が停車すると、彼は素早く助手席に回って車に乗り込んだ。

「グラダ東港へ行って下さい。」

と彼は元上官であり、異母姉に要請した。少佐は車を発車させてから文句を言った。

「私は貴方の運転手ではありませんよ。どうして公用車を使わないのです?」
「昨夜貴女がアラム・チクチャンを確保して我々に引き渡された後、我々は彼の妹の捜索をしていたのです。」
「”感応”を使ってみましたか?」
「しました。しかし、彼女は応えない。それで、兄妹を操ったと思われる男が働いていると言う東港に、捜索に出ている隊員が集まることにしました。」
「私を使う理由はなんです?」

 ステファンはちょっと躊躇った。出来れば朝から姉を怒らせたくなかった。しかし正直に言わなければ彼女はもっと怒るだろう。

「東港を結界で覆って頂きたい。容疑者を我々が確保する迄の間、逃さないように港湾施設を囲って欲しいのです。広範囲なので、ブーカ族や、ミックスの隊員では手に負えません。純血種のグラダである貴女にしか頼めません。」

 少佐はハンドルを切って、職場オフィスとは反対方向へ車を向けた。

「それは貴方の考えですか? それともセプルベダ少佐の・・・」
「私の一存です。」

 少佐が溜め息をついた。

「カルロ、貴方は他部族を過小評価しているのではありませんか?」
「過小評価?」
「もっと部下達を信頼しなさい。」
「しかし、ブーカ族でも結界を張れる範囲は狭いです。」
「狭くても、複数を適所に配置してカバーし合えば十分守備を固めることが出来るでしょう。貴方は、あの”暗がりの神殿”でロホを信じて守りを任せた。現在の部下達もロホと同じように力を出せますよ。」

 少佐は路肩に車を寄せて停止させた。そして携帯電話を出した。ロホの番号にかけたのをステファン大尉は横目で見た。ロホが直ぐに出た。

ーーマルティネスです。
「ブエノス・ディアス、ケツァルです。少し遅れますから、業務の指示をお願いします。」
ーー承知しました。

 それだけだった。ステファン大尉は不満気に少佐を見た。

「すぐに終わるとは思えませんが?」
「当然でしょう。私は貴方を港に下ろしたら、すぐ帰ります。」
「少佐・・・」
「貴方もグラダ族なのです、港全体を覆う結界ぐらい張りなさい! 都市全体ではないのですよ。」

 姉に叱られて、ステファン大尉はムスッとした表情で前を向いた。
 少佐はかなり乱暴な運転でグラダ東港に向かった。


2022/10/07

第8部 チクチャン     18

  大統領警護隊司令部からの指図通り、ケツァル少佐は本部に連絡を取り、1時間後に遊撃班の隊員達が軍用車両で現れた。彼等はアラム・チクチャンを車に乗せ、本部へ運び去った。残った少佐はピア・バスコ医師に告げた。

「あの男の妹もしくは知り合いだと言う人物が来ても、決して家の中に入れないように。アラムは大統領警護隊に保護されたとだけ、事実を伝えて下さい。あの男の記憶を共有したことは絶対に喋ってはいけません。」
「わかっています。」

とバスコ医師は、患者の情報を守る医師の守秘義務を思い出して頷いた。少佐は彼女が心細いかも知れないと思い、提案してみた。

「もし宜しければ、ビダルをこちらへ寄越してもらうよう、警備班に掛け合いますが・・・」
「大丈夫です。」

 バスコ医師も伊達に町医者を20年以上やってきた訳ではない。様々な危険な状況に面して、それを切り抜けて来た女性だった。

「”出来損ない”の私が言うのもなんですが、中途半端な力を使って他人を脅して生活しているチンピラの”出来損ない”の患者を多く手がけて来ました。自宅の守備ぐらいは1人でも出来ます。」
「失礼しました。」

 ケツァル少佐が素直に謝ると、彼女は微笑んだ。

「でも、『心を盗む』技は、流石に使えませんけどね。」
「あんな技は使わずに済む方が良いのです。」

 少佐と医師はハグを交わして別れた。
 車に乗って少佐が帰宅した時は午後の10時近くになっていた。テオはまだ夕食を食べずに待っていた。家政婦のカーラは帰した後で、少佐が部屋に入ってくると、彼が料理を温め直し、準備してくれた。2人はキスとハグを交わし、それから食卓に向かい合うと、少佐が食べながらアラム・チクチャンの話を語った。一般人のテオを巻き込むべきでないと理解していたが、彼女は彼が何も知らずにいることに我慢出来ない人だとも解っていた。

「チクチャン兄妹を操った男が何者かが、問題だな。」

とテオが感想を述べた。少佐は「スィ」と答えた。

「マスケゴ族の族長選挙が絡んでいるとすると、選挙運動はかなり早くから行われるのかい?」
「族長が決まれば、すぐに次になりたい人が運動を始めますね。なりたい人は野心家ですから。でも人望がなければ、票は入りません。」
「呪いでライバルに妨害をかける人間は人望なんてないだろう。だけど、どうして建設大臣が狙われるんだ? 大臣は昔も今も”ティエラ”じゃないのか?」
「ティエラです。遠い祖先に”シエロ”がいる人がいたかも知れませんが、少なくとも、今狙われているイグレシアスは混じりっけなしの白人です。」
「イグレシアスを狙っていると見せかけて、シショカにフェイントをかけているのかな?」
「有り得ることです。シショカは族長になるつもりがないと言っていますが、本心は分かりませんし、立候補しなくても票が集まる人はいるのです。人望があればね。ムリリョ博士も候補に立たなかったのに族長になられたのです。」
「それじゃ、ケサダ教授も族長になる可能性があるのか?」
「ないとは言い切れません。」

 しかしケツァル少佐は恩師のことは心配していない風だった。ムリリョ博士と違ってケサダ教授は経済界に知られていない。ムリリョ博士の時は、大企業の経営者だった叔父の後継者になるやも知れぬと噂が立ったのだ。マスケゴ族だけでなく、一般のセルバ国民の注目を集めた。それだけ有名企業だったのだ。考古学者として有名になる前に、ムリリョ博士は家族が経営する会社の経営者候補として有名になってしまった。だから、彼が族長に推挙された時、息子のアブラーンが票の取りまとめをしてしまったのだ。
 心配するなら、ケサダ教授ではなく、アブラーン・シメネス・デ・ムリリョの方だ。

 

2022/10/06

第8部 チクチャン     17

 ケツァル少佐はベッドの上に横たわる男に声を掛けた。 

「私は貴方の傷を治す力を持っている。だがその前に私の質問に正直に答えて欲しい。一つでも嘘をつくと、私は貴方を助けない。承知するか?」

 男は小さく頷いた。額に脂汗を浮かべていた。かなり辛いのだ。
 少佐はバスコ医師が横にいることを気にせずに質問を開始した。

「貴方の名前を名乗れ」
「・・・ア・・・アラム・・・チクチャン・・・」
「アラム・チクチャン、ピソム・カッカァの遺跡からアーバル・スァットの神像を盗んだのは貴方か?」

 男は目を天井に向けた。少佐が黙って待っていると、彼は苦痛に顔を歪め、やがて声を出した。

「スィ。」
「アルボレス・ロホス村がダム建設で泥に埋もれた仕返しを目論んだのか?」

 男は小さく溜め息をつき、そしてまた顔を歪めた。脇腹の傷はかなり重症の様だ。

「警備員を爆裂波で襲ったのは貴方か?」

 すると、男は大きく首を横に振った。

「ノ!」

 少佐は彼の脇腹を見た。

「貴方を襲った人間と警備員を襲った人間は同一人物か?」
「スィ!」

 男は初めて首を動かして少佐をまともに見た。

「妹を助けてくれ! あいつは妹も殺すつもりだ。」

 少佐と男の目が合った。少佐は男に己の情報を一切与えなかったが、男の記憶を引き出した。つまり、「心を盗んだ」のだ。


 アラム・チクチャンと妹のアウロラは両親と共にアルボレス・ロホス村で貧しいながらも幸せな暮らしを送っていた。しかし、ダムが下流に出来て泥が畑を覆い始めると、貧困の度合いが酷くなり、村は離散せざるを得なくなった。チクチャン家はアスクラカン市街地に引っ越したが、仕事が見つからず、貧乏のどん底に陥った。父親は無理が祟って病死した。母親は力仕事に出ていたが、事故で亡くなった。まだ10代だったチクチャン兄妹は同じ村出身の老人と3人でなんとか生きた。その老人がある男と知り合った。男は彼に遺跡にある神像を使って呪いをかける方法を教えた。老人はピソム・カッカァ遺跡からネズミ型神像を盗み出し、ダム建設を指図した建設大臣に送りつけようとした。だが手違いから神像を実際に盗んだのは、老人から呪いの話を聞かされた白人の女だった。白人の女は神像を大臣ではなく別の人間に送りつけてしまった。
 チクチャン兄妹は老人が失意の中で亡くなるのを見守るしかなかった。貧困の中で、それでも懸命に生きていた彼等は、ある男から接触された。老人に神像の呪いを教えた男だった。彼はアラムにもう一度建設大臣への復讐を持ちかけた。大臣憎しの気持ちで、アラムは大臣が代替わりしていることを全く気にしていなかった。だから、妹と共に遺跡へ行き、神像を盗み出した。その時に同行していた件の男が、盗難に気づいて追ってきた警備員を、「手を触れずに」倒した。驚いているアラムとアウロラに、男は神像の扱い方を教え、グラダ・シティへ運ばせた。建設省に持ち込む時もそばに一緒にいた。不思議なことに周囲の人間には男の姿は見えなかった様だ。
 建設省に神像を置いて来たが、大臣が病気になったり死んだりしたと言うニュースはなかった。それどころか、イグレシアス大臣は元気でゴルフをしたり、各地の有力政治家と会合を開いたりして活発に活動していた。
 チクチャン兄妹は呪いの効果を疑い、いっそのこと直接大臣を襲撃することを計画した。しかし、それには件の男が反対した。意見の対立で、アラムは男を刺そうとしたが、何故かアウロラが兄に襲いかかってきた。アラムが必死に防御した結果、彼女は突然正気に帰り、兄を車に乗せて診療所へ運んだ。

 ケツァル少佐は大凡の経過を知った。チクチャン兄妹は貧しさ故に憎しみを建設大臣(誰でも良かったのだ)にぶつけようとした。彼等の面倒を見ていた老人も兄妹も、謎の男に唆され、神像の呪いを利用して大臣を亡き者にしようとした。謎の男は呪いで大臣(この男も大臣が誰でも良かったのか?)暗殺を企んだが、直接の殺傷は好まなかったのかも知れない。アウロラ・チクチャンは”操心”で動かされ、兄を殺害しようとして、男も爆裂波でアラムを殺そうとした。(あるいは、アウロラは爆裂波を使えるのか?)正気に帰ったアウロラが兄をバスコの診療所に運んで置き去った。アラムは男が妹を殺すのではないかと心配している。
 ケツァル少佐はアラムの記憶の中の男の顔に見覚えがなかった。そこで仕方なく、ピア・バスコに情報共有した。”心話”は一瞬で全て伝わる。ピア・バスコ医師の表情が強張った。

「随分嫌な話ですね。」

と医師が囁いた。少佐も同意した。バスコ医師は少し考えてから、少佐に告げた。

「患者の記憶している男の顔に、私も見覚えがあります。グラダ東港の荷運び労働者の元締めをしている男に似ています。名前は知りませんが、一度仕事中に怪我をした部下に付き添っていました。往診してくれる医者が見つからないとか言って、私が呼ばれたのです。あの時は一族の人間だとは知りませんでした。向こうも色々な医者に電話して最後に私を捕まえた様でしたから、私の正体は知らないかも・・・」
「ですが、アウロラは兄をここへ連れて来ましたよ。」
「患者にお金がなくても、夫は断らずに診療する主義です。この辺りでは、うちは案外有名なのです。」

 バスコ医師はちょっと苦笑した。
 それで、ケツァル少佐はアラム・チクチャンの治療を行うことにした。心を「盗まれた」アラム・チクチャンは気絶していた。

「これからこの人の患部に念を送ります。数秒ですが、私は無防備になります。」

 バスコ医師は彼女が求めていることを理解した。

「わかりました。私は微力ですが、この部屋に結界を張ります。」

 


2022/10/05

第8部 チクチャン     16

  ”ヴェルデ・シエロ”が「電話では伝えられない」と言う場合は、十中八九”ヴェルデ・シエロ”に関係している事案だ。ケツァル少佐は二つ返事で、「行きます」と答え、電話を切った。そしてフロアに残っている職員達に「また明日!」と声をかけて階段を駆け降りた。駐車場に着いて、車に乗り込んでから、思い出してテオにメールを入れておいた。

ーーバスコの診療所に呼ばれました。

 それだけだ。そして車を出した。バスコ医師と”ヴェルデ・ティエラ”の夫が経営する診療所はグラダ・シティの庶民が暮らす住宅地の中にある。大きな病院に行けない患者の為に簡単な手術もやってのけるクリニックだ。少佐が駐車場に車を乗り付けると、その日の診療は終わったばかりで、最後の患者が数人出て来た。看護師はまだ中にいるのだろう。少佐は医師が「すぐ」と言ったので、待たずに中へ入った。客が来ることを教えられていたのか、受付の女性が奥に向かって声を掛けた。

「ドクトラ、お客さんです!」

 パタパタと足音がして、白衣のままのピア・バスコが出て来た。考古学教授フィデル・ケサダと同級生だった筈だが、苦労が多い人生を送ったせいで、ケサダ教授より老けて見える。彼女は双子の息子の1人を酷い形で失ったので、尚更老け込んで見えた。しかし、その目はまだ彼女のこの世での役割をこなしていこうとする力を失っておらず、輝いて見えた。

「よく来てくださいました!」

 ピア・バスコはケツァル少佐の手を両手で握った。一族の正式な挨拶を忘れている様だ。少佐は気にしなかった。視線が合った。バスコが伝えてきた。

ーー怪我人です。一族の者ですが、訳ありらしく、他の病院へ行けないらしいのです。

 怪我の手当てだけなら、バスコ1人で解決出来ただろう。しかし、訳あり患者は何か外に出られない理由があるのだ。そして診療所には、バスコの一般人の夫や家政婦や、看護師がいる。入院が必要な患者も1人抱えていた。バスコは彼等を彼女1人で訳あり患者から守る自信がなくて、ケツァル少佐を呼んだのだ。息子ビダル・バスコ少尉は本部勤務があるから来てくれない。
 ケツァル少佐は言葉で尋ねた。

「怪我人に面会出来ますか?」
「スィ。」

 バスコ医師は受付の女性と看護師に「片付けが終わったら帰りなさい」と言いつけて、それからケツァル少佐を奥の処置室へ案内した。バスコ医師の夫(正式には結婚していない)がベッドに横たわった男性の体に薄い上掛けを掛けてやるところだった。彼は優しく患者に話しかけた。

「今夜はここで泊まっていきなさい。後は妻が見てくれるから。」

 彼は外傷の縫合を行った様だ。ケツァル少佐は男の腕に巻かれた包帯を見た。それから上掛けで隠れてしまった胴体に視線を移した。さっきチラリと見えたのは、爆裂波の傷ではないだろうか? バスコの夫は妻が連れて来た女性に気が付かずにベッドから離れた。バスコ医師は夫に”幻視”を掛けて少佐が見えない様に思わせたのだ。彼は妻に軽くキスをして、

「君も患者が落ち着いたら休みなさいよ。」

と優しく声を掛けて出て行った。ドアが閉まると、バスコ医師が静かにドアに施錠した。

「両腕に刃物傷、防御創です。」

 彼女は両腕を己の顔の前に上げて見せた。そして脇腹を顎で指した。

「爆裂波による内臓損傷です。傷は私の力で治せましたが、呪いを祓うことが出来ません。」

 ケツァル少佐は頷いた。”ヴェルデ・シエロ”の爆裂波による傷は細胞の損傷を完全に治すことが難しい。特殊な技術を習得した指導師と呼ばれる有資格者でなければ、崩れた細胞の修復は不可能だった。
 バスコ医師が上掛けをめくって、患者の患部を見せた。右脇腹が腫れ上がっていた。肝臓のあたりだ。恐らく部分的に肝臓の細胞を破壊されたのだろう。放置すれば2、3日の内に死に至る。
 患者は若い男だった。年齢は20そこそこと見えた。土色の顔をして浅い呼吸をしていたが、意識はあるようだ。ケツァル少佐がそばに行くと、目を少しだけ開いて、彼女を見た。しかし彼女の目は見なかった。

「聞こえるか?」

と少佐が尋ねると、わずかに首を動かして、肯定した。

「一族の者か?」

 今度は首を左右に小さく振った。しかしバスコ医師が囁いた。

「彼は”心話”を使いました。私に傷の位置を教えてくれたのです。」

 若者は先住民に見えた。一族でないと言いながら”心話”を使ったのであれば、一族の血を引く異種族ミックスだ。かなり血の薄い・・・。少佐は試しに訊いてみた。

「チクチャンか?」

 若者が目を見張った。図星か、と少佐は思った。


 

第8部 チクチャン     15

  その日の夕方、ケツァル少佐は胸の内のモヤモヤ感を拭えないまま帰り支度をしていた。朝業務を始めて直ぐに司令部から呼び出しがあった。急いで本部に出頭すると、副司令官の1人エステバン中佐から、アーバル・スァットの盗難捜査はどの程度進んでいるのかと訊かれた。素直に進捗状況を口頭で報告すると、中佐は申し訳なさそうな顔をして言ったのだ。

「盗難の実行犯を逮捕したら、直ぐに本部へ引き渡せ。それ以上の追求は文化保護担当部の管轄から離れる。」

 少佐はムッとして、上官に逆らうのは御法度なのだが、思わず質問した。

「理由をお聞かせ願えないでしょうか?」

 それに対して、中佐は彼女の目を真っ直ぐ見て答えた。

「ある部族の政治の問題だ。彼等自身で解決させなければならない。他部族の介入は許されぬ。但し、他所に飛び火したり、一族の秘密に関わる様な大事になりそうな場合は、大統領警護隊が動かねばならぬ。」

 それ以上は決して教えてくれない。少佐は理解して、了承した。敬礼して本部を後にしたのだった。 
 オフィスでの業務は普段通りだった。カルロ・ステファン大尉がいなくなったので、隣の遺跡・文化財担当課の職員達ががっかりしていたが、昼前にはもういつもの生活に戻っていた。デネロス少尉とギャラガ少尉が申請書を整理して審査し、アスルが警備の規模を想定し、ロホが予算を組む。少佐がそれを承認
するのだ。事務仕事をしながらも、銘々が盗難捜査のことを心のどこかで考えていることを少佐は気がついていた。彼等に司令部が介入してきたことを告げるのは気が重かった。昼休みに思い切って打ち明けると、予想通り、アスルとデネロスが露骨に不満を漏らした。ただの神様の盗難でないことを知っているから、尚更だ。事件の根底を調べたいのに、それは駄目だと言われたのだ。

「要するに、ただのダム建設に関する恨みじゃなかったってことですね?」
「関係者が多いってことですか?」
「一族の偉いさんも関わっているんですね?」

 少佐はノーコメントで押し通した。ロホが同情的な眼差しで見ているのを感じたが、彼女は”心話”を避けた。今”心話”を許可したら、司令部に対する不満までぶちまけそうだ。
 ギャラガがのんびりと呟いた。

「でも、例の警備員が回復に向かっていることは救いですよ。」

 それで、やっと部下達の関心が、ロホの身内が行った施術に方向転換され、少佐は救われた気分になった。
 なんとか一日を乗り切り、少佐は帰り支度をしているのだ。デネロス少尉はお使いに出てそのまま官舎へ帰還すると言って少し前にオフィスを出た。ギャラガ少尉とアスルは久しぶりにサッカーの練習場へ行く約束を交わし、早めの夕食の為にさっさと退勤した。ロホは財務課へ出かけていた。そのまま退勤する筈だから、オフィスに最後まで残ったのは少佐だけだった。彼女が鞄を手にした時、オフィスの電話が鳴った。遺跡・文化財担当課の職員が電話に出て、それから少佐を振り返った。

「少佐、お電話です。医者のバスコさんと言う方から・・・」
「バスコ?」

 少佐は少し考え、大統領警護隊警備班の若者の顔を思い出した。職員に「グラシャス」と声をかけて、電話に出た。

「ケツァル・ミゲール少佐・・・」
ーーピア・バスコです。

 女性の声が聞こえた。バスコ少尉の母親で町医者をしているアフリカ系の”ヴェルデ・シエロ”の女性だ。

「ドクトラ・バスコ、お元気ですか?」

 形通りの挨拶をすると、医者は答えずに直ぐに要件に入った。

ーーもし宜しければ、診療所にすぐきていただけますか? 電話では伝えられない事態です。


第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...