2022/12/07

第9部 ボリス・アキム       2

  ボリス・アキムの診療所は普通の民家というより、中古のアパートを買い取って改装した雰囲気の建物だった。青いペンキを塗ったドアは、少々色が禿げていたが、そんなに古くなかったし、荒れた雰囲気もなかった。ドアの上に「アキムの診療所」と書いた看板が設置され、ドアノブに「シエスタ」と書かれた札が下がっていた。医者は昼休み中だ。ここに住んでいるのだろうか? マイロはドアをノックしてみた。チャパが「シエスタ」の札の下部に小さく電話番号が書かれていることに気がついた。

「かけてみます?」
「スィ、頼む。」

 チャパが己の携帯を出して、書かれている番号を入力した。だが呼び出し音が鳴る前にドアの内側でガチャリと鍵を外す音がした。チャパは入力を取り消した。
 ドアが小さく隙間を開けた。

「急患?」

と女の声がした。マイロは素早く大学のI Dを提示した。

「医学者のマイロと言います。グラダ・シティから来ました。ちょっとだけドクトルに地元の患者の話をお聞きしたいのですが、今日はお忙しいでしょうか?」

 ドアがさらに少し開いた。内側にチェーンが掛かっていて、それ以上は開かなかった。メスティーソの女性が尋ねた。

「手に取って見て良い?」
「どうぞ。」

 マイロは首からストラップを外し、I Dを彼女に渡した。女性はそれを眺め、そして顔を上げた。目の白い部分が印象的に見えた。

「夫に見せてくるわ。待っててくれる?」
「スィ。」

 ドアが閉じられた。炎天下で待つのは少し辛かったが、チャパが何も言わないし、周囲はそんなに治安が悪い様にも見えない。民家が立ち並んでいて、道路に家具を出して寛いでいる人が見えたし、立ち話している年配者のグループもいた。
 5分程して、女が戻って来た。ドアを開いて、「どうぞ」と招き入れてくれた。
 建物の中は涼しかった。南国の家は大概そうだ。石造りでも風通しが良い。アキムの診療所は煉瓦と漆喰の2階建に思えた。女性はその辺の女性達が着ている薄い袖なしのワンピースを同じように着用し、黒い髪を頭の上でお団子に結っていた。薬の匂いがしたので、看護師をしているのかも知れない。
 マイロとチャパは待合室の様な部屋に通された。木製のベンチが2つと、古いテレビと大勢に読まれてボロボロになりかけた雑誌があるだけだった。その辺に掛けて待ってて、と言い置いて、彼女は再び奥に姿を消した。

「旦那は寝ているのかも知れませんね。」

とチャパが囁いた。

「ロシア人にも昼寝の習慣があるのかなぁ。」
「そりゃ、あるだろうさ。」

 マイロは室内を見回しながら呟いた。清潔な部屋だ。サシガメが住んでいなさそうな空間だった。掃除が行き届いた待合室は、この診療所が繁盛している印象を与えた。経営者に余裕があるのかも知れない。
 廊下を歩いてくる気配がした。マイロが振り向くと、薄暗い通路から1人のがっしりとした体格の40過ぎと思える男が姿を現した。額が大きく、後退している髪は赤毛だった。短い顎髭も口髭も赤い。日焼けしていたが、顔つきはいかにもロシア人に見えた。服装はTシャツにジーンズで、逞しい左腕に青い鳥の刺青があった。

「ドクトル・ミロ?」
「マイロです。」

 マイロが名乗ると、男はアキムと名乗った。マイロは握手の後でチャパを紹介した。

「助手のホアン・チャパです。僕の研究室の唯一人の助手です。」

 アキムはチャパに軽く頭を下げた。チャパはセルバ人の常識として握手を求めなかった。アキムもそれは承知なのだ。彼はマイロに視線を戻した。

「貴方の記事を医療ジャーナルで読みました。ここへはどんな御用です?」



2022/12/05

第9部 ボリス・アキム       1

  アーノルド・マイロとホアン・チャパはレンタカーで昆虫採取の旅に出た。微生物研究室はマイロにこれと言った役割を与えていなかったので、彼が無期限の旅行に出ることに特に異論はない様子だった。ただ、室長のベンハミン・アグアージョ博士には毎日定時連絡を入れて現在地や助手の安全を報告する義務を課せられた。勿論、これはマイロ自身の安全確認のためでもあった。マイロが暫く旅に出ると告げた時、隣人のアダン・モンロイがお守りを貸してくれた。動物の牙を使ったネックレスだ。かなり大きな猛獣の牙に見えた。

「ジャガーの牙だ。僕の先祖から伝わっている家宝だ。だから無くさないでくれよ。帰ってきた時、返してもらうからな。それから、もし追い剥ぎとかに遭ったら、これを見せてやれ。きっと君を守ってくれる。」

 マイロは迷信を信じない男だった。しかしモンロイが家宝を貸してくれるのだから、無碍に断ることが出来なかった。それをチャパに見せると、驚いたことに医学を修めている若者が、ネックレスに向かって手を合わせてお祈りした。マイロは彼が口の中で呟く言葉をなんとか聞き取った。

「雨を呼ぶ人、我らを守り給え。」

 マイロは民間信仰に興味がなかった。少なくとも、病気に関する迷信以外は関心がなかったので、このお祈りもすぐ忘れた。
 借りた車は大きめのSUVだ。あまり長期の旅行にはならないとマイロは思っていた。採取する昆虫の体内にいる原虫の研究だから、昆虫を死なせたくない。出来るだけ早く帰るつもりだった。
 一番最初の目的地はアスクラカンだ。商都なので、それなりに清潔な宿泊施設があるとガイドブックにあったが、サシガメは人間の住居の壁の中にいたりする。だから可能な限り宿のランクを落とした。費用節約も目的の一つだ。
 早朝にグラダ・シティを出て、昼前にアスクラカンに到着した。想像したより道路が整備されていて、快適なドライブだった。道の両側も家並みが続いており、ジャングルは見えなかった。時々目に入る緑色の広がりは、農地だとチャパが教えてくれた。果樹園が主だった使用目的だ。セルバ共和国は果物が美味しい。マイロもドライブの途中で道端の出店で果物を買って、飲み物代わりにした。その際に売店の周囲を飛ぶ昆虫も少し採取した。サシガメではないが、人や果物に留まって給液する虫たちだ。羽虫はすぐ死んでしまうので、スライドグラスに挟んだりして、ちょっと時間をくった。だが、それも想定内の時間使用だ。チャパもテキパキと作業に協力してくれた。医者になりたいのだから、彼はセルバ人としては珍しく真面目によく働く若者だ。マイロは彼との旅行が楽しいものになると期待した。だから車内で流す音楽はチャパの好きな曲で統一した。

「ドクトルの好きな曲は?」
「聞いて笑うなよ、僕はドイツのクラシック派なんだ。」
「はぁ?」

 アフリカ系のマイロの顔を見て、チャパが意外そうな顔で声を上げたので、マイロは笑ってしまった。

「勿論、先祖の音楽も好きさ。だけど、クラシックの方が気分が落ち着くんだよ、僕はね。」

 それでも2人でラジオの音楽に声を合わせて歌いながら、運転を続けた。
 アスクラカンの街はグラダ・シティほど都会ではないものの、賑やかで活気に満ちていた。住民は殆どメスティーソで、マイロの肌の色は少し目立った。敵意はない視線を感じながら、彼はドライブインと思われる店に休憩するために入った。客は男性が多いと思った。するとチャパが囁いた。

「近くの工場の従業員の行きつけの店みたいですよ。同じ服を着た人が多いです。」

 確かにそんな雰囲気だった。通りすがりのドライバーもいる様だが、他所者が少ないのか、視線を感じてしまった。店の従業員がチャパに向かって注文を聞いた。チャパがマイロを見たので、マイロは任せるよ、と言った。それでチャパが「お勧め」を聞いてくれて、鶏肉の煮込みとパンでお昼を食べた。隣のテーブルの男が話しかけてきた。

「グラダ・シティからかい?」
「スィ。今夜はここに泊まるけど。」
「だったら、晩飯はセントラルへ行った方が良いぜ。あっちの方が色んな店があるし、酒も飲める。」
「グラシャス。」

 マイロは風土病のことを聞きたかったが、控えた。少なくとも食事を終える迄は穏やかに過ごしたい。ところがチャパが携帯の画面を出して、その男に見せた。

「この街でこんな虫を見たことありますか?」

 サシガメの写真だ。男が顔をしかめて画面を睨んだ。

「どこにでもいそうな虫だな。この虫がどうかしたか?」
「家の中にいたりします?」
「普通にいるだろ?」

 男が胡散臭そうに視線を向けてきたので、マイロは仕方なく大学のI Dを出した。

「昆虫の研究をしているんです。正確には、昆虫が媒介する病気の研究です。」

 男が彼をジロジロ眺めた。

「あんた、医者?」
「医者と言えば医者ですが、研究専門です。治療はしない・・・」
「それじゃ、ここじゃなくて、アスクラカン市民病院で聞けよ。この街で一番良い病院だ。ちょっと金が要るけどな。」

 するとどこかの会社の制服らしき繋ぎを着た男が話しかけて来た。

「俺らの会社の産業医が近所に診療所を開いている。そこへ行ったらどうだい?」

 それは耳寄り情報だ。町医者の方が大病院の医者よりシャーガス病の情報を持っていそうだ。マイロは医者の名前を聞いてみた。

「ドクトル・アキム、ボリス・アキムってロシア人の医者だ。ロシアから来たとは聞いていないが、ロシア人だ。」

 すると別の男が言った。

「俺はポーランドから来たって聞いた。」
「ノ、ドイツからだって言ってた。」
「嘘だろ?アメリカ人だぜ。」

 店内が賑やかになり、マイロはチャパを見た。チャパが肩をすくめた。グラダ・シティの酒場でもよく見かけた光景だ。この国の人は他人に無関心なふりをするが、一旦火が着くとお節介になる。そして質問者の存在を忘れて自分が正しいと主張を始めるのだ。

「ボリス・アキムって医者なんですね?」

 マイロが大声で尋ねると、口々に喋っていた男達が全員揃って、「スィ!」と怒鳴ったので、可笑しかった。


2022/12/02

第9部 シャーガス病     11

  マイロの寮の部屋には小さなバルコニーがあった。人が3人もいればいっぱいになる。隣を見ると、モンロイが時々Tシャツやパンツを干していた。他の部屋でも洗濯物を干すのに使われている様だ。反対側の部屋の住人は喫煙に使用していたので、干し物は彼が留守の時が良かった。
 マイロもTシャツやタオルを干すのに使った。
 チャパと旅行の打ち合わせを終えて部屋に戻り、旅支度を始めて間も無く、彼はそのバルコニーに動物がいることに気がついた。視線を感じたので振り向くと、ガラス戸の向こうに斑模様の大きな猫が座っていた。一瞬ヒョウかと思った。しかしヒョウにしては小柄で、ほっそりしていた。
 マイロはガラス戸が半分開いていて、網戸になっていることを思い出した。ドキリとした。

「ヤァ」

と猫に声をかけてみた。猫は黙って彼を見返した。マイロは写真を撮ってやろうと思った。携帯電話をポケットから出そうとお尻に手を伸ばすと、猫が立ち上がった。細い長い脚だ。スリムでかっこいい。尾も長く、すらっとしていた。

「君の写真を撮るだけだよ。」

とマイロが言うと、猫は黙ってそっぽを向き、くるりと体の向きを変えて、次の瞬間素早く彼の視界から消えた。

 ここは2階だ!

 マイロは慌ててバルコニーへ出る戸を開いた。猫が消えた方向を見たが、猫がバルコニー伝いに走り去って、庭の立木に飛び移って姿を消すまで見送っただけだった。
 その日の夜、アダン・モンロイと廊下で出会った時に、その話をすると、モンロイが首を傾げた。

「話を聞くと、そいつはマーゲイって野生の猫みたいだけど、この国でマーゲイがいるのは、僕の故郷のプンタ・マナ近辺で・・・」

 急に彼は口をつぐんだ。マイロが次の言葉を待っていると、彼は苦笑して見せた。

「ラッキーだったな、珍しい物を見られて。」


第9部 シャーガス病     10

  アーノルド・マイロがセルバ共和国に入国して1ヶ月経った。彼はグラダ大学の職員寮に住み、医学部微生物研究室でシャーガス病がセルバ共和国で発症していない事実を確証しようと研究していた。と言っても、この1ヶ月は文化・教育省へ大学職員として働くための手続きで通ったり、保健省で感染症の症例に関する資料を閲覧する為の許可を申請したり、国内を資料収集の為に移動する許可を得る為に外務省へ行ったり、内務省へ行ったり、と忙しく、研究らしいことは殆ど出来なかった。この南国の役所は、兎に角どの省も部署も、緩いのだ。書類を提出して、次の日に、記入の誤りや抜けた箇所の指摘の連絡が来る。書類を返してもらいに行き、訂正して提出すると、申請受理の連絡が来るのはまた次の日で、その日が週末だったりすると次週に持ち越しだ。しかも書類の種類によって担当部署や担当者が異なり、同じ建物の中を行ったり来たりする羽目になるのだった。
 唯一人の助手ホアン・チャパはマイロをドクトル・ミロと呼んだ。訂正しても直ぐ間違えるし、役所の職員達もミロと呼ぶので、マイロは1ヶ月でアーノルド・ミロに改名した気分になった。一度ある役人が彼のスペイン語が堪能なことを感心して称賛した。

「アメリカ人でそんなに喋れるなんて思いませんでした。もしかして、ジャマイカ人ですか?」
「いや、カリブ諸国に親戚はいない。だけど、研究の為にもっと若い頃からメキシコから島々やベネズエラ辺りを歩き回っていたからね。」
「ああ、成る程ね。商社マンではなかったんですね。」
「商社マンだったら、何か都合悪いのかい?」
「そうじゃありませんが・・・」

 役人が罰が悪そうに苦笑した。

「スパイ映画とかで、C I Aがよく商社マンとか新聞記者になっているじゃないですか。」

 マイロは噴き出した。

「僕がスパイだって思った? そうなら、もっと自由に活動しているよ。僕は今大学の規則に縛られているんだから。寮の門限が午後10時なんだ。」
「それはお気の毒に。」

 週末は日付が変わっても外で騒ぐセルバ人が大笑いした。
 大学のカフェは医学部よりも全学部共通の場所であるキャンパス中庭に面した大きなカフェが人気だった。学生も職員もそこで昼食を取るので、医学部のカフェは午前のお茶などでコーヒーや菓子を出す程度だ。食事を取りたければ大きなカフェへ行く。料理は一流レストラン並みとは言えないまでもリーズナブルな値段でそれなりに美味しいし、量もあるので、マイロは朝食以外はそこで済ませることが多かった。たまに隣のモンロイと外食することはあるが、大学内で用が足りるのだ。寮にはコインランドリーがあったし、病院内にもコンビニがあった。しかし、そろそろ昆虫を採取しにグラダ・シティから出る頃だな、と彼は思った。行くべき場所を助手のチャパに相談して決めてから外務省へ許可を取りに行くと、結構大雑把に「セルバ共和国北部」と言う範囲で許可証をもらえた。

「感染症の原因を捕まえに行くから、人が住んでいる場所で昆虫を捕まえる。北部なら、どんな場所に行けば良いかな?」

 農村地帯を想定しながらチャパに話しかけると、助手は地図を出して、幹線道路を示した。

「グラダ・シティから西部の基幹都市オルガ・グランデを結ぶハイウェイです。ここをドライブしながら行く先々で民家の壁などを調べて行くのはどうでしょう?」
「人口は?」
「アスクラカンと言う都市はセルバ共和国3番目の都会です。先住民もいるし、農村も周辺に集まっていますから、サンプル採取なら、ここが一番最適でしょう。次に、エル・ティティと言う小さな町をハイウェイは通ります。ここは車が休憩する程度の本当に鄙びた町ですが、東西の移動には必ず通過します。昆虫の移動もあるでしょう。但し、宿泊出来る所は1軒しかありません。滅多にありませんが、稀に満室になっていることがあって、そんな夜にエル・ティティに到着すると悲劇です。」

 チャパは経験があるのか、苦笑した。マイロは興味を感じて、「そんな場合はどうする?」と尋ねた。チャパは答えた。

「教会にお願いして泊めてもらいます。エル・ティティだけじゃなく、この国では教会があれば泊まる場所を何とか確保出来ます。聖堂に泊まるか、どこかの民家を紹介してもらうか、ですけど。」

 彼は画面を移動させ、オルガ・グランデを出した。

「ここは、軍の病院が一番大きな医療施設で、医療に関することは軍病院で聞けば良いとされています。病気も怪我もそこで診てもらえます。民間の病院となると、医療費が高いので庶民は利用出来ないんです。ああ、でも・・・」

 彼はある一点を指した。

「ここはアンゲルス鉱石と言う一番大きな鉱山会社の病院で、従業員やその家族は格安で診療を受けられます。グラダ大学病院とも患者のデータ共有をしています。それで、ここ数年は一般の市民も軍病院の紹介があれば診てもらえるそうですよ。」
「それじゃ、シャーガス病の研究にも多少の情報を提供してもらえるかな?」
「多分・・・オルガ・グランデにシャーガス病の発症例があれば、ですけど。」

 それではオルガ・グランデを最終目的地にして、昆虫採取旅行に出かけようか、と言うと、チャパは喜んだ。

「君1人だけなら、旅費は僕の研究費から出せる。但し、食費は別だぞ?」
「わかってます。グラシャス、ドクトル!」

 マイロはチャパに抱きしめられ、頬にキスされた。このラテンの乗りはまだ馴染めないな、と思った。


2022/11/30

第9部 シャーガス病     9

  セルバ共和国の教育施設は午前10時頃に半時間のお茶の時間があり、正午または午後1時から午後4時または5時迄シエスタと呼ばれる昼寝の時間がある。授業は午後6時頃に終わるのだ。マイロが休憩時間にも仕事をしても良いのか、と尋ねると、それは自由だとチャパは答えた。

「だけど助手や学生に手伝わせることは出来ませんよ。」

とニヤニヤしながら言った。

「ドクトルは今日の午後、文化・教育省に各種の手続きに行かれると思いますが・・・」
「スィ、バルリエントス博士が案内してくれるそうだ。」
「役所は正午から午後2時迄シエスタです。但し、職員によってはもっと長く休憩している人もいるので、3時頃に行かれた方が無難ですよ。」
「バルリエントスも4時迄シエスタなんじゃないか?」
「役所は3時台が一番混まないんです。」

 地元民がそう言うのだから、正しいのだろう。チャパはマイロを医学部のカフェに案内してくれた。職員に混ざって車椅子の人もいたので、患者も利用するのだ。2人はコーヒーを買って、テーブルに着いた。

「君はシャーガス病について、どの程度知っている?」
「一応、ドクトルに着くようにと言われて急遽勉強したんです。サシガメ類の昆虫が人間の皮膚を刺して吸血します。その時に糞もする。その糞の中に微生物クルーズトリパノゾーマ原虫がいて、刺した傷などから人間の体内に侵入し、臓器を侵します。」

 チャパは症例を挙げたが、どれも文献による知識の枠を出なかった。彼はシャーガス病症例に実際に接した経験がないのだ。研究者としてでなく、患者の身近な人としての経験もなかった。

「君が知っている人で、シャーガス病の罹患者はいたかい?」
「あー・・・」

 チャパは考え込んだ。

「心筋炎や栄養失調や・・・そう言う患者はいたかも知れませんが、病気の名前を聞いたことはありません。」
「だが近隣諸国では発症例があることは知っている?」
「スィ。国外に出かける時は気をつけるように、と言われます。外国には”シエロ”はいないので。」

 マイロは一瞬キョトンとした。

「”空”(シエロ)がないって?」

 チャパが苦笑して見せた。

「セルバの昔話に出てくる守り神です。仲良くしていたら病気や怪我を防いでくれる神様です。」

 医学を勉強する人間にそぐわない発言だ。だがマイロは気にしなかった。英語にだって神を普通に会話に登場させる表現があるのだから。
 チャパが小さな声で囁いた。

「さっき目を見つめて人間を支配する神様の話をしたでしょう?」
「うん。」
「その神様が”ヴェルデ・シエロ”って言うんです。セルバ人の精神的な支えです。」
「そうなのか・・・でもどうして小声で話すんだ?」
「”シエロ”はその辺にいて、こちらの会話を聞いているんです。あまり自分のことを話題に出されるのを嫌うので、大きな声で呼んではいけないのです。」



 

第9部 シャーガス病     8

  微生物研究室は教授、准教授、助手を合わせて全部で17人だと言うことだった。クアドラードと呼ばれる休憩室にいた10人の他に、講義に出て来る准教授が1人、研究室にこもっている助手が2人、休んでいる准教授と助手が2人ずついた。バルリエントスは准教授だ。マイロは彼に充てがわれた研究室に案内された。誰かのお下がりの部屋と言う感じで、中古の電子顕微鏡や、質量分析器、パソコンなどが置かれている狭い部屋だった。もし助手を付けてもらっても、1人が精々だ。狭くて動きが取れなさそう、とマイロは思った。

「前の住人はどんな研究を?」

と訊くと、案内してくれた若い男性研究者が首を傾げた。

「僕が来た時にはここは既に空き部屋だったので、時々道具を使いに誰かが来る程度でした。」

 そして彼は言った。

「僕はまだ研究対象を明確にしていないので、暫くドクトルの下に着くよう言われています。」

 つまり、助手だ。確か、名前はホアン・チャパだったな、とマイロは思った。覚えやすい名前だ。

「院生かい?」
「スィ。実は遺伝病の先生の下に入ったのですが、その先生が子供を産むので休んじゃって、仕方なく微生物研究室へ鞍替えしたんです。」

 遺伝子の研究と微生物の研究か。マイロはチャパのクリッとした目を見た。チャパが慌てて目を逸らしたので、セルバのマナーを思い出し、マイロは謝った。

「すまない、目を見てはいけないんだったね。」
「心を盗まれないように、と言う昔からの作法です。」

とチャパが言った。

「古代の神様は人間の目を見つめて心を支配して言うことを聞かせた、と言い伝えられています。だから、現代でも礼儀作法として、他人の目をまともに見つめるのはタブーなんです。」
「わかった。心しておく。だけど、遺伝子と微生物の研究はかなり違うだろ?」
「微生物の遺伝子分析をするでしょう? だから僕はここで研究を続けられるだろうと、アグアージョ教授が仰って・・・」
「そうだね。これから、2人で頑張っていこう。」

 マイロが微笑んだ時、チャイムが鳴った。チャパが言った。

「お茶の時間です。」


第9部 シャーガス病     7

 マイロは微生物を探して野外活動することも多かったので、野営は慣れていた。大学の寮に戻ると、モンロイと別れ、自室に入った。まだ午後10時になっていなかったが、くたびれたので、荷物の中から寝袋を出し、ベッドのマットレスの上に広げて、その中で寝た。熱帯でも夜は冷え込むことがある。マイロはその点は経験があったので、用心を怠らなかった。
 翌朝、買ったばかりのポットで湯を沸かした。モンロイが寮の水は沸騰させれば安全だと言ったので、それに従ってコーヒーを淹れた。窓の外は霧が出ていた。湿度が高いので、夜間の気温低下と無風状態の結果だ。コーヒーとビスケットだけの軽い朝食を取り、それから廊下の突き当たりのバスルームに行った。モンロイが昨晩忠告してくれた通り、ちょっとした渋滞が起きていたが、お陰で同じ階の住人5人と挨拶が出来た。4人はモンロイを含めた若い研究者で、 1人だけ初老の准教授だった。准教授で寮生活なのか?と思ったが、気難しそうなその男は名前しか教えてくれなかった。医学部小児科のホアン・デル・カンポ博士だった。マイロが同じ医学部で働くと言っても、黙って頷いただけだった。モンロイ以外の3人の若い男達は、それぞれ文学部で教員を目指す学生達の指導を行なっている体育講師や、物理学の助手、考古学部の助手だった。カンポ博士は白人で残りはメスティーソだ。マイロの様なアフリカ系の人は2階にはいなかった。若い男達はモンロイ同様人懐こい風だったので、カンポ博士は黒人が嫌いなのかな、とマイロは勘ぐってしまった。
 イメルダ・バルリエントス博士は約束の9時を10分ほど遅れて迎えに来た。セルバでは10分は遅れたことに入らない、と堂々と言われて、マイロは改めて己が異国に来たのだと感じた。
 
「早速アダン・モンロイと仲良くなられたのですね。」

と医学部に向かって歩きながら、バルリエントスが微笑んだ。マイロが昨夜の夕食の話をした後だ。

「彼とお知り合いですか?」
「知り合いと言えば知り合いです。プンタ・マナ近辺で貝の寄生虫を研究した時に、少し協力してもらいました。この国の先住民達は都会の人間を警戒しますので、地元出身者の協力があると大変助かります。」
「プンタ・マナの先住民と言うのは、ガマナ族ですね?」
「スィ。アダンから聞かれたのですね?」
「スィ。これから僕はジャングルとかにも入ると思いますが、用心しなければならない先住民はいるのでしょうか?」

 すると彼女は笑った。

「もし、弓矢や吹き矢で攻撃してくる裸の人々を想像なさっているのでしたら、それは間違いです。セルバ共和国の先住民は既に文明化されています。ただ、土地を使う権利に煩いだけなのです。」
「では、土地に踏み込む許可をもらう必要があると?」
「そんなのはないです。個人の所有地でない限りは。」

 医学部の建物はグラダ大学の中で最も近代的だった。病院と隣り合わせで、中庭で散歩する患者が数人見えた。マイロはバルリエントスと共に病棟ではなく、学舎の入り口から中に入った。入り口で彼は職員証を渡された。

「これがなければ、学舎に入れませんから、絶対に紛失しないでください。」

 職員証は昔ながらのパスケースにプラスティックのカードを入れて、ストラップで首から下げる形式だった。裏面を学舎の入り口の壁に備え付けられているパネルにタッチすると、ドアが開く。

「他の学舎、文系や理系の学舎は日中の出入りが自由なのですが、医学部は研究対象の人間の個人情報や外部に持ち出されると困る微生物などの資料があるので、セキュリティを厳重にしています。」

 微生物研究室は2階にあった。ガラス張りの壁で仕切られ、階段を上り終えると、最初に職員全員が休憩出来る広いスペースがあった。そこに10人ばかりの男女がいて、マイロを見ると立ち上がった。バルリエントスが紹介した。

「アメリカから来られたアーノルド・マイロ博士です。」
「マイロです、よろしく。」

 マイロが挨拶すると、彼女が年配の男性を紹介した。

「微生物研究室の室長、ベンハミン・アグアージョ博士です。水中微生物の研究をされている、私の恩師でもあります。」

 アグアージョ博士は2メートル近い大男で、メスティーソであろうが白人に近い風貌だった。手を差し出して挨拶した。

「君のことは国立感染症センターから聞いている。セルバへようこそ!」

 その後、マイロはその場に居合わせた人々を順番に紹介された。どの人も人当たりの良さそうな笑みで迎えてくれた。それぞれの専門を聞けば、この研究室の主だった研究対象は水中微生物のようだ。飲料水による感染症が多いのだろう、とマイロは心の中で結論着けた。彼のように昆虫を媒介とする微生物感染症はそんなに研究されていない。少し奇異に感じたが、シャーガス病の発症例が殆どない国なので、関心を持たれていないのだろう。
 アグアージョも彼の心の中を見透かした様に言った。

「恐らく、もう察しておられるだろうが、ここには君と共同研究する研究者はいないのだ。シャーガス病が中南米では珍しくない感染症だと知っているが、セルバ共和国では珍しい病気となっている。もしかすると逆に多過ぎて誰も関心を持たないと言う可能性もあるがね。君に部屋を用意しているが、研究の手助けが必要な時は、生物学部を頼ると良い。あちらは昆虫の研究をしている准教授がいる。ええっと・・・」

 アグアージョがちょっと戸惑って、傍の若い男性を見た。若い研究者が囁いた。

「スニガ准教授。」
「スィ、スィ、マルク・スニガだ。彼に相談しなさい。昆虫の採取や分類など、喜んで協力してくれるだろう。」


第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...