2023/02/21

第9部 セルバのアメリカ人      6

  マイロは何だか不愉快な気分になった。カフェ・デ・オラスを出ると、通りを見回した。ダニエル・ウィルソンの姿はどこにもなかった。マイロは大学に戻った。しかし医学部には行かずに、生物学部の学舎に向かった。テオドール・アルストの研究室は2階にあり、ドアの間隔から想像すると、他の部屋より面積が広そうだった。もうアルストは部屋に戻っているだろうか、それともキャンパスのカフェでまだ学生達と喋っているのだろうか。マイロはドアをノックした。男の声が応えた。

「誰方?」
「医学部のマイロです。」

 ドアが開かれた。鍵は掛かっていなかった様だ。ドアを開けたのは、メスティーソの若い男だった。彼はマイロより背が低かったので、ちょっと見上げる感じで言った。

「ドクトル・アルストに面会でしたら、先生は帰られました。」
「帰った?」
「スィ。今日は午後の講義がないので。元々今日は先生の出勤日じゃないんです。スニガ准教授の代理で出て来られただけですから。言伝がありましたら、僕が承っておきます。」

 彼はそこでやっと自己紹介した。

「院生のアーロン・カタラーニです。宜しく。」
「あ・・・医学部微生物研究室のアーノルド・マイロ、アメリカから出向して来ています。」
「存じ上げてます。外国から来られる先生は学内報で紹介されますから。」

 カタラーニが人懐っこい笑を浮かべた。

「写真より実物の方がいい男ですね。」

 マイロはどう返して良いのかわからず、仕方なく尋ねた。

「ドクトル・アルストに話があるのですが、どこへ行けば会えますか?」
「んーー」

 カタラーニが考え込むふりをした。

「多分、ご自宅だと思います。先生は自宅に個人の研究室をお持ちなので、そこで個人的に依頼を受けた遺伝子分析をなさっています。所謂副業ってヤツですよ。だから、もし面会を希望されるなら事前に約束された方が良いです。大学の講義より熱心に研究されているんで、電話を掛けてもお手伝いさんが取り次いでくれない時もあるのでね。それに・・・」

 彼が、「ここが肝心」と言いたげに指を振った。

「奥様が軍人なので、滅多に客を家に入れないんです。客に会う時は、外で会われます。カフェ・デ・オラスって店で、文化・教育省のビルの1階にありますよ。」


 

第9部 セルバのアメリカ人      5

  ダメージを受けた細胞を修復するにはiPS細胞の研究が有望だろう、とアルストは言った。マイロの専門ではない。マイロは予防の観点から研究をしているのであって、治療は別の分野だ。彼は黙り込み、そのまま歩いて大学の駐車場に到着した。アルストは中古の日本車から着替えが入っているらしいバッグを取り出した。

「研究室で着替えてきます。キャンパス内のカフェでランチにするので、良ければ来て下さい。生物学部の他の教室の学生達も集まって来ますよ。」

 虫の研究者もいると言うことだったので、マイロは再会を約束して一旦アルストと別れた。医学部迄距離があるので、図書館で時間を潰した。スニガ准教授の「セルバの森の妖精達」とロマンティックな題名の書籍を見つけた。棚から取り出して開いて見ると、トカゲ類と両生類の写真集だった。昆虫に関する書籍もあったが、原虫はなかった。防疫学は医学部の図書館の方へ行った方がありそうだ。
 結局昼食会はパスしてしまった。スペイン語は堪能だが、現地の若い子達が繰り出す早口の現代語にはついていけない。
 ふと思いついて考古学部のケサダ教授の研究室へ電話をかけてみた。助けてくれたお礼がまだだった。しかし電話に出たのは秘書と名乗る男性で、教授はまだオルガ・グランデにいると言うことだった。
 仕方なく、一人で食事する場所を探して大学の外の商店街を歩いていると、一人の開襟シャツを着た中年男性が後ろから近づいて来た。マイロの横に並ぶと、「ハロー」と声をかけて来た。

「国立感染症センターから出向しているマイロ博士ですね?」
「そうですが、貴方は?」
「アメリカ大使館の職員のダニエル・ウィルソンと言います。」

 歩きながら彼はポケットから財布を出し、名刺を取り出した。

「お昼はもう済まさせれましたか?」
「いえ、まだ・・・」
「良ければ、あの店で一緒にいかがです?」

 男性が指差したのは「カフェ・デ・オラス」と書かれた看板の店だった。マイロが知っているビルの1階に構える店だ。文化・教育省が上階にあり、職員食堂みたいに昼間は賑わっている。勿論一般の客も気軽に入れるし、マイロも既に何度か利用していた。タコスが美味い店だ。
 店内に入ると、お昼の混雑時だったが、運よくテーブルが一つ空いたところだった。そこに席を取って、タコスとコーヒーを注文した。向いに座ったウィルソンを改めて見ると、よく日焼けした南欧系白人で、団子鼻はボクシングで打たれたのか、少し歪んで見えた。微かに傷跡があった。それでマイロは尋ねた。

「失礼を承知でお尋ねしますが、その鼻はボクシングで? それとも喧嘩ですか?」

 ウィルソンがニヤッと笑った。

「流石にお医者さんだ、イエス、これはボクシングです。骨を折られまして・・・それでも綺麗に治った方ですよ、なかなか気づく人はいません。」
「それで・・・どんな御用件です?」

 強盗被害に遭った報告を大使館にしておいたが、そんな用件に見えなかった。第一街中で偶然見かけて声をかけてくるような案件ではない。

「用ですか? そうですね・・・」

 ウィルソンは席の周囲に目を配った。

「貴方は最近、生物学部の遺伝子学者テオドール・アルストにお会いになりましたか?」
「最近、ええ、1時間前に会いました。東パスカル公園の池で。」
「池?」
「彼は学生達とカエルの捕獲をしていたんです。」

 ほうっとウィルソンが言った。

「カエルの捕獲ね・・・」
「同僚の別の准教授の代理だったようです。」
「何か言葉を交わされました?」
「僕の研究に遺伝子分析を使わせてもらおうと声をかけたのですが、やんわりと断られました。僕は防疫の研究をしていますが、彼は治療方法の研究を僕に期待したんです。でもそれは僕の専門分野ではない・・・」
「研究の話だけですか?」
「他に何か話すことがありますか? 僕は彼のことを知らないし、彼も僕のことを知らない。趣味の話なんて出来やしませんよ。」

 注文した料理が運ばれて来て、2人は暫く黙って食べた。ウィルソンは食べるのが早かった。マイロがまだ半分食べないうちに、平らげた。彼は口元と指を紙ナプキンで拭ってから、マイロに言った。

「もし、アルストがセルバへの帰化を誘っても話に乗らないで下さい。」
「どうして彼がそんな誘いを僕にかけるのです?」

 マイロが面食らうと、ウィルソンは「気にしないで」と言い、テーブルの上に2人分の代金を置いて、「ではさようなら」と言い、店から出て行った。

2023/02/20

第9部 セルバのアメリカ人      4

  亀の噛みつき騒ぎが収まると、アルスト准教授は学生達に撤収を命じた。学生達は全員男性で、半分はアルストの、残りの半分はスニガ准教授の教室の学生だと言うことだった。女性達はカエルの捕獲に参加しなかったので、アルストが自分の教室の学生を助っ人に連れて来ていたのだ。だから捕まえたカエルは全部スニガ准教授の学生達が大学へ持ち帰った。アルスト組は公園から出ると、近くの水場で泥を落とした。グラダ・シティには街角のあちらこちらに自由に水を使える水場が設けられていて、市民はそこで洗濯をしたり、物を洗浄するのに水を使っていた。飲料水ではないので、飲むことは出来ない。少なくとも、マイロは道端の水場で喉を潤す市民を見たことがなかった。衛生教育をしっかりしている街なのだ。
 アルストが大学のカフェに集合して昼食にしようと提案すると、学生達は大喜びで銘々好きな方角へ散って行った。衣服を着替えて長靴を片付けてくるのだ。
 マイロは大学の方向へ向かって歩き出したアルストを追いかけた。

「貴方はどこへ?」
「大学の駐車場。車の中に着替えを常備しているんです。」

 野外活動が好きらしいアルストと並んでマイロは歩いた。

「実は、シャーガス病の病原であるトリパノソーマ・クルージの遺伝子を分析して、あいつらを撲滅する薬剤とか開発出来ないかな、と思っているんですが・・・」

と話しかけると、アルストは肩をすくめた。

「遺伝子から弱点を見つけるのは、すぐに出来ることじゃないですね。」
「ええ、わかっています。」
「俺なら、原虫にやられた臓器を回復させる薬剤を作る方を選択しますよ。」
「それは・・・」

 まだ開発されていない。トリパノソーマ・クルージからダメージを受けた臓器は細胞が破壊され、修復不可能なのだ。しかしアルストは言った。

「細胞を蘇生させる、あるいは修復させる為の研究をされているんじゃないんですか?」
「僕は予防法を探っていて・・・」
「自然界の昆虫の体内から原虫を殺してしまうなんて不可能です。人間に出来ることは、せいぜい虫が我々の生活圏に入って来ないようにするだけですよ。」

 アルストはマイロを見た。

「貴方が所属される国立感染症センターは高度な技術と知識の塊の様な場所でしょう。俺達在野の研究者にとっては手の届かない高い所にある城みたいなもんです。どうかそこで病人が元の生活に戻れる様な治療法を早く見つけて下さい。待っています。」

 

2023/02/19

第9部 セルバのアメリカ人      3

  東パスカル公園はグラダ大学から歩いて20分ほどの距離にある住宅地の中の緑地だった。そんなに広くなく、芝生の中に花壇がいくつか造られており、真ん中に池があるのだ。池は多分天然のものだろう。コンクリートやブロックで護岸されているのでなく、草が生えた土の土手で囲まれていた。水深もなくて、行政は安全柵を設けてもいない。そこに学生が10人ばかり長靴を履き、ゴム手袋と泥除け用にゴーグルを装着して歩き回っていた。カエルを捕まえると岸辺に置かれたバケツに入れていく。
 麦わら帽子を被った白人の男が学生が捕まえたカエルに標識を取り付けていた。彼も丈の長いゴム手袋を装着し、ゴーグルをかけていた。
 マイロは白人の男に近づき、声をかけた。

「ドクトル・アルストですか?」

 男が顔を上げた。眩しそうに目を細めたのは、マイロが逆光の中にいたからだ。

「スィ。貴方は?」

 マイロは立ち位置をずらして自分の顔を見せた。

「アーノルド・マイロ、医学部微生物研究室の客員研究者です。」

 ああ、とアルストが頷いた。彼は英語に切り替えた。

「アメリカ国立感染症センターから来られた方ですね。」

 彼は立ち上がった。身長はマイロほどある。背が高いし、スリムで、そして若い。彼はゴム手袋を右手から抜き取り、ゴーグルも取った。綺麗な青い目をした北欧系と思われる顔だ。

「テオドール・アルスト・ゴンザレスです。世間ではアルストで通っています。アメリカではシオドア・ハーストと言う名前でした。」

 手を差し出され、マイロは握手に応じた。彼も英語で話した。

「カエルを集めているのですか?」
「ええ・・・」

 アルストはバケツの中を見せた。毒々しい色をした美しいカエルが数匹入っていた。

「先日、ここで遊んでいた近所の子供がカエルの毒で重体に陥った事故がありました。今までにない事故だったので、市当局が事態を重く見て、この池にヤドクガエルが棲息していないか調査するよう依頼して来たんですよ。本来は小動物の研究をしているスニガ准教授の仕事になるのですが、彼は今スペインへ出張中で、俺が代理で学生達と資料集めをしているところです。似たような色合いのカエルが住んでいますが、こいつらは昔からこの池にいるそうで、毒なんてないって地元民が言うんです。もしかすると誰かが毒ガエルを持ち込んで交雑したのかも知れないと思い、これから大学へ持ち帰って遺伝子分析します。」

 一気に喋ってから、アルストはマイロをジロリと見た。

「ところで、何か御用ですか?」

 マイロは笑いそうになった。アルストはすっかりセルバ人のペースで行動している。准教授なら学生にさせて自分は研究室で待っていれば良いだろうに、と思った。尤もマイロだってサシガメを求めて太平洋岸まで行った人間だ。自分で行動しなければ気が済まない口だった。

「僕の研究テーマをご存知ですか?」

 アルストはこちらに関心ないだろうと思っての質問だったが、意外にも相手は頷いた。

「シャーガス病の予防策を研究されているのでしたね。」

 向こうにはこちらの予備知識がある。マイロは少し緊張した。

「そうです。アメリカにいる時に、セルバ共和国ではシャーガス病の発症例がないと聞いて、どんな予防対策を講じているのか、或いはセルバ人に原虫への耐性があるのかと、調べに来ました。しかし・・・」

 彼はちょっと肩の力を抜いた。

「開発途上国だと思って上から目線で見ていたようです。この国では都市部で住居の消毒などの対策を取っているのですね。セルバ人が特別丈夫な様でもない様だし・・・」

 アルストが口元に小さく笑いを浮かべた。

「まあね、シャーガス病対策と言うより、マラリアや他の病気の予防対策に保健省が市民の家を消毒して回っていることは事実です。地区毎に分けて2、3年の周期で行っています。それに地方では民間信仰で使用されるお香が消毒薬と似たような効果を出しているみたいです。」

 突然池の中で大声で喚きだした学生がいた。マイロとアルストが振り向くと、一人の学生の袖に大きな亀が食らいついていた。アルストがマイロを置いて池の中へ駆け込んだ。

「ハイメ、腕を噛まれていないか?」
「ノ、服だけです。買って間なしのパーカーですよ! こら、亀、放しやがれ!」
「脱げ、ハイメ! 亀に触るんじゃない!」


2023/02/17

第9部 セルバのアメリカ人      2

  マイロは微生物研究室の人々に、シャーガス病に感染した臓器を回復させる薬を研究している人はいないか期待して、セルバ共和国へ来た。しかしセルバ共和国には感染症例が極めて少なく、病気の研究者そのものがいなかった。僻地では患者がいたのだが、報告されていないのだ。グラダ大学で研究を続けても無駄だと感じた。家屋を消毒してサシガメの侵入を阻止するだけしか予防策がない。トリパノソーマ・クルージを殺す薬剤はある。高価なので開発途上国の庶民にはなかなか手が出ない。

 僕の仕事は、安価な薬の開発に繋がる原虫の研究だな・・・

 国立感染症センターに戻って研究を続けよう、と決心した。本国にその旨を伝えると、大学の次の学期が始まる迄待てと言われた。大学との契約があるのだ。
 それなら待ち時間を利用してトリパノソーマ・クルージの遺伝子分析をもう一度じっくり勉強しようと思った。そして、グラダ大学生物学部遺伝子工学科のテオドール・アルストのことを調べてみた。だがどうにもよくわからない人物だと言う印象をネットデータから得ただけだった。
 テオドール・アルストは5年前に突然アメリカから移住して来た。移住や帰化した理由は一切ネットでは拾えなかった。いきなりグラダ大学の生物学部に採用され、遺伝子学者として講師から准教授へと進んだ。遺伝子マップの解析に非常に優秀だと言う話だが、何か大きな発見をした訳ではない。ただ何百年も経ったミイラの遺伝子を分析して、性別のみならず出身部族まで読み解いてしまうところは、他の遺伝子学者には出来ない芸当だった。さらに遺伝子からその人物や生物の個体が持つ特徴、個性まで分析してしまえるのだ。
 こんな才能を持ちながら、何故この准教授は無名なのだろう。
 マイロは大学の内線電話の番号を押してみた。

ーー准教授テオドール・アルスト・ゴンザレスの研究室です。

 若い女性の声が聞こえた。多分秘書か助手だ。マイロは名乗り、准教授と面会したいと伝えた。すると女性が言った。

ーードクトル・アルストは、今日朝から東パスカル公園の池に学生達と共に蛙を捕まえに行っています。帰りは未定です。

 マイロは時計を見た。

「昼には戻られますか?」
ーー午後には戻られるでしょうが・・・

 女性はのんびりと言った。

ーー多分どこかで泥を落として食事をされてシエスタになさる筈ですから、もしかするとそのまま帰宅されるかも知れません。

 悠長だな、とマイロは思った。アルストはアメリカ人じゃなくセルバ人になりきっている。

「君はそこで留守番しているの? 夕方迄?」
ーー私は定時になれば帰ります。

 そして女性はマイロにアドバイスした。

ーー東パスカル公園に行かれたら、ドクトル・アルストに会えますよ。アポなしでも大丈夫です。公園ですから、誰でも行きます。


2023/02/16

第9部 セルバのアメリカ人      1

 グラダ大学に戻ると、マイロは忙しかった。先ず、旅行のレポートを医学部微生物研究室の室長ベンハミン・アグアージョ博士に提出しなければならなかった。さらに文化・教育省にも国内旅行が終了した報告を怠る訳にいかなかった。その前に、盗まれたクレジットカードの処理をカード会社に連絡し、新しいカードを作ってもらう手続きをしなければならなかった。パスポートは戻って来たが、もしかするとコピーされて悪用されるかも知れない。アメリカ大使館にも連絡を入れておいた。銀行にアクセス出来るようになると、真っ先にホアン・チャパに立て替えてもらった旅行費用を返済した。大学から一部の費用は出る筈だが、それがいつになるか見当がつかなかったので、チャパには出してもらった全額を返したのだ。
 寮友のアダン・モンロイにお守りを返して、役に立ったと告げると、モンロイは真面目な顔で話を聞いてくれた。

「僕の先祖は大昔に神と友達になったそうだ。その神がこの世から去って行く時に、僕の先祖にこの牙をくれたんだと、と言う話が家に伝わっている。」
「君の先祖はジャガーと友達だったのかい?」
「神様はジャガーなんだ。」

 モンロイはマイロの狭い部屋で、彼のベッドに腰掛けてビールを飲んでいた。ビールは彼の差し入れだ。

「この国では、森に住んでいるジャガーやマーゲイやオセロットは神様なんだ。ピューマも神様だけど、ピューマは恐ろしい神で、審判を行うと言われている。彼等を怒らせちゃいけない。」
「よその国の伝説や神話を馬鹿にするつもりはない。」

 とマイロは言った。

「でも呪いを信じて、防疫を疎かにするとシャーガス病などの厄介な病気に罹る。君も気をつけろよ。」

 すると、モンロイが首を傾げた。

「同じアメリカ人でも、君とドクトル・アルストは正反対だな。」
「ドクトル・アルスト?」

 名を口にしてから、マイロは思い出した。生物学部で遺伝子工学を教えている准教授だ。確かアメリカから帰化したと誰かが言っていたな。モンロイが窓の外に目を向けた。文化系や理系の、医学部以外の学部がある方角だ。

「アルストはセルバ人の信仰を迷信と片付けずに、真面目に受け容れるそうだ。それに彼はロス・パハロス・ヴェルデスと友達だからな、神様に守られている人って先住民の学生達は呼んでいる。」



2023/02/15

第9部 古の部族       21

  翌日、マイロはオルガ・グランデを出た。所持金を盗まれたし、セルバ共和国にシャーガス病が存在しないと言う伝説が嘘だと判明したからだ。アメリカへ報告されていたのは、東部の清潔な都会での話だった。郊外に出れば、病気は存在したし、患者も死者もいたのだ。
 帰りも車だった。ただ、同乗者が一人増えた。グラダ・シティに行くから乗せてくれと頼んで来た兵士がいたのだ。胸に緑色の鳥を象った徽章を付けた軍服姿の若い男だった。メスティーソだったが、チャパが大統領警護隊の隊員だと教えてくれた。太平洋警備室所属ブラス・オルニト少尉、と兵士は名乗った。

「本来は空軍の航空機で本部へ一時帰還する予定でしたが、空軍の整備が遅れているので、車で帰還することにしました。バスは週末にしか走らないので、便乗を願います。」

 「願う」と言っているが、この国で軍人に物を頼まれて断る人間はいない。最初から「乗せろ」と要求しているのと同じだ。チャパが囁いた。

「承諾して下さい。エル・パハロ・ヴェルデが一緒に居れば、どんなトラブルにも巻き込まれずに済みます。」

 生きている魔除けか、とマイロは思った。

「当然、ガソリン代は出ないんだろうな?」
「向こうは公務なので、普通は出ません。」

 微生物の研究も公務なのだが、と思いつつ、マイロは若い兵士を後部席に乗せた。兵士の荷物は足元の床に置かれた。しっかりアサルトライフルもあったので、マイロは余り良い気持ちがしなかった。
 道中、オルニト少尉は静かで、全く話しかけてこなかった。マイロがチラリと後ろをミラーで見ると、彼は寝ていることもなく只窓の外の風景を眺めているだけだった。
 往路と同じくバス事故の現場に来ると、チャパが車を停めた。短い祈りを捧げ、マイロが先に目を開けて後ろを見ると、兵士も殊勝に祈っていた。
 エル・ティティで水とガソリンを補給した。マイロは全てチャパに立て替えてもらっていたので、使用した金額をきっちりメモしておいた。
 夕刻、アスクラカンに到着した。宿を探さなければならない。するとオルニト少尉が携帯電話でどこかにかけて、それからチャパに道を教えた。

「もしかして、アスクラカン出身ですか?」

とチャパが尋ねると、少尉は「スィ」と答えた。

「乗せてもらった礼に、私の実家で泊まってもらおうと思うが、かまわないですか?」
「グラシャス。」

 思いがけず宿代がただになった。マイロは伝統的な先住民の家を想像したが、メスティーソのオルニト少尉の実家は普通の庶民が暮らす住宅地にある、普通のコンクリートの家だった。息子同様に口数の少ない父親と、陽気な母親はどちらもメスティーソで、突然の客を温かくもてなしてくれた。
 食事をしている間、オルニト親子が殆ど会話をしないことにマイロは気がついた。時々目を合わせるだけだ。しかし仲が悪い様に見えず、母親は嬉しそうだ。
 美味しい夕食で満腹になると、「狭くて申し訳ないが」と言いながら、少尉の個室で3人一緒に寝る準備が出来ていた。床にマットレスを敷いて、薄い毛布だけの寝床だが、家の中は清潔でサシガメの心配は不要だった。

「実家によく帰るのですか?」

とチャパが横になってから質問した。すると、初めて少尉が恥ずかしそうに笑顔を見せた。

「ノ、2年ぶりです。本当は航空機で帰る予定だったので、この帰省はない筈でした。しかし、飛行機が飛べないとわかり、太平洋警備室に報告すると、上官から、誰かの車に便乗させてもらえと指示がありました。その時、彼が言ったのです、途中アスクラカンで宿泊するようなら、実家に立ち寄って構わない、と。」

 厳しい表情しか見せなかった兵士が、普通の若者に見えた一瞬だった。マイロは彼を乗せて良かった、と思った。
 翌日、朝食の後で、オルニト親子は丁寧に先住民式挨拶を交わし、マイロとチャパには握手をしてくれた。最後に母親が息子をハグして、普通に親子の情愛を見せた。
 グラダ・シティまでの道中は順調で、首都に入るとマイロはホッとした。大統領警護隊本部前で、オルニト少尉は車から降りて、丁寧に敬礼でマイロとチャパに別れを告げた。
 

第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...