2023/12/05

第10部  依頼人     2

  ティコ・サバンをその場に待たせて、ンゲマはセルバ国立民族博物館に電話を掛けた。恩師の恩師、ファルゴ・デ・ムリリョ博士の電話番号は知っていたが、直接掛けるのは気が進まなかった。大先生は電話に出たくなければ無視する。ンゲマは無視されるのが嫌だった。
 電話に出たのは博物館の職員で、館長は執務室にいると言った。そして有無を言わせず電話を館長執務室に回した。職員も館長に電話に出るか否かお伺いを立てて、拒否されたら掛けて来た人に断らなければならない、それが嫌なのだ。
 電話が繋がった。ンゲマは相手より先に喋った。

「グラダ大学のンゲマです。」

 すると、彼が驚いたことに、館長は機嫌が良かった。電話の向こうで、「ハイメか」と彼の名前を呼んでくれたのだ。

「スィ、お仕事の邪魔をして申し訳ありません。先生に面会を希望する人がここにいますので、少し時間を頂きたく思いました。」

 ンゲマは素早く電話をサバンの口元へ持って行った。サバンはちょっと驚いた表情を見せたが、すぐに電話に話しかけた。それはンゲマが知らない先住民の言葉だった。
 短い遣り取りの後で、サバンは別れの挨拶らしき言葉を呟き、電話をンゲマに返した。ンゲマが画面を見ると、既に通話は終わっていた。

「グラシャス、先生。」

とサバンは丁寧にンゲマに頭を下げた。そしてくるりと向きを変えると、空港ロビーの雑踏の中に消えて行った。
 ンゲマは暫くその後ろ姿を目で追っていたが、すぐに先刻の出来事を忘れることにした。セルバ共和国の先住民には他人に詮索されることを極端に嫌う習性がある。それは白人でもメスティーソでも同じだが、この国の先住民は特にその傾向が強い。サバンが古い言語を使って喋ったのも、ンゲマや周囲を歩いている通行人に話の内容を聞かれたくなかったからだ。
 ンゲマは頭を切り替え、早く家に帰ろうと歩き出した。


2023/12/04

第10部  依頼人     1

  グラダ大学考古学部准教授ハイメ・ンゲマは短い休暇を終えてグラダ・シティの大学へ戻ろうとしていた。発掘中のカブラロカ遺跡のことや論文や学生達のことを暫し忘れて、ベリーズの遺跡をお気軽に観光して来た。同業者に会うこともなく、学術的な話をすることもなく、仕事から離れて、彼自身の趣味を探求する心だけを満たす旅だった。旅行中に得た知識が、現在彼が研究中のセルバにおける古代の裁判方法とどう繋がりがあるのか、そんなことは今考えないでおいた。詳細に写真を撮ったし、書籍も購入した。それは後日じっくり眺めることになるだろうが、今は自宅である職員寮に帰ってスーツケースを置き、昼寝をしたい。
 彼がタクシー乗り場へ向かっていると、声を掛けて来た人物がいた。

「ンゲマ先生。」

 聞き覚えのない声だったが、はっきり聞こえた。彼は歩きながら振り返った。インディヘナの年配の男が立っていた。都会の人間ではない、とンゲマは断じた。発掘現場周辺でよく見かける地方の住民だ。知り合いではないが、ンゲマは地元民との繋がりを大切にする主義だった。地元民は遺跡やそれにまつわる言い伝えを教えてくれる大事な情報源だ。
 彼は足を止めた。

「スィ、私がンゲマです。」

 男が近づいて来た。服装から、カブラロカやオクタカスではなく、もっと北部のティティオワ山東部の住民だろうと思われた。だがアスクラカンではない。
 男は丁寧に右手を胸に当ててセルバ式挨拶をした。

「サマルのティコ・サバンと申します。突然の声掛けの無礼をお許し願いたい。」

 ンゲマも同じ作法で挨拶を返した。

「ハイメ・ンゲマ、グラダ大学考古学部准教授です。どのようなご用件でしょうか?」

 すると男は、言った。

「貴方の先生に私を紹介して頂きたい。」

 ンゲマは正直なところ、内心ガッカリした。彼の師匠は有名だ。有力な遺跡に関する情報はいつも師匠の下に集まって来る。

「恩師ケサダのことでしょうか?」

 すると男は表情を変えずに言った。

「その先生の先生に・・・」


2023/02/26

第9部 セルバのアメリカ人      12

  マイロがカフェ・デ・オラスを出て間も無く携帯に電話がかかって来た。画面を見るとアダン・モンロイだった。

ーー今何処にいる?
「文化・教育省の前だ。」
ーー予定がなければ、今夜一緒に飯を食わないか?

 有り難かった。孤独感を覚えかけていたマイロはそのお誘いに乗った。モンロイはマイロが何度か連れて行かれたバルを指定し、半時間後に2人はそこのカウンターで出会った。
 ビールで乾杯して、モンロイは役所に何の用事があったのかと尋ねた。

「役所じゃないんだ、下のカフェで生物学部のドクトル・アルストと会っていた。」
「研究の話かい?」
「ノ、今朝初めて会って、ランチに誘われたんだが、僕はすっぽかしてしまって。」

 あれ?とマイロは思った。どうしてすっぽかしてしまったのだろう。理由を思い出そうとしたが、思い出せなかった。モンロイがのんびり尋ねた。

「ランチって、キャンパス内のカフェで?」
「スィ。彼は学生達と野外活動した後で・・・」

 モンロイが朗らかに笑った。

「それじゃ、別にすっぽかしても誰も怒らない。教授同士のランチだったら、失礼になるだろうけど、学生達と教師が一緒のランチは誰でも参加OK、勝手にドタキャンOKさ。君が参加しようがしまいが、アルストは気がつかなかっただろうし。」
「そんなものなのか?」
「そんなもの、セルバ流だ。」
「だが、アルストはアメリカ人だ。」
「元、だよ、彼は僕等以上にセルバ人になりきっている。」

 モンロイは愉快そうだ。

「それで、さっき彼に謝っていたのか?」
「そうなんだ・・・」

 謝罪の他にも何か喋った様な気がするのだが、マイロはそれも思い出せなかった。モンロイがチラリとバルの壁の時計を見た。

「この時刻だったら、役所は閉庁だな。ドクトル・アルストは1人だったかい?」
「スィ、彼は1人だった。」

 他に誰かいたっけ?マイロは何か記憶の一部が欠落している感が拭えなかったが、やはり思い出せなかった。モンロイは彼に視線を戻した。

「閉庁時間にあの店にいたんだったら、ドクトルはロス・パハロス・ヴェルデスと一緒だったと思うがな?」
「ノ、誰も来なかったぞ。」

 僕はずっとドクトル・アルストと2人で喋っていた。マイロはそう信じていた。モンロイはそれ以上突っ込まなかった。彼が店を変えようと提案したので、マイロはその前にトイレを借りると言って、店の奥に向かった。モンロイは携帯を取り出し、メールを打った。

ーー彼は全て忘れている。

 速攻で返信が来た。

ーー了解。

 モンロイはその遣り取りを削除した。

 行きつけのバルに入った大統領警護隊文化保護担当部の隊員達とテオドール・アルストはテーブル席に陣取った。ロホの携帯にメールが着信したので、ロホは素早く返信して、その遣り取りを削除した。そして上官に報告した。

「彼は忘れたそうです。」
「何を?」

とテオが無邪気に質問した。少佐が彼に説明した。

「貴方が通話をオンにしてさっきの男性との会話を私に聞かせてくれたでしょう?」
「スィ。彼の方から俺に面会を求めて来たので、どんな内容なのか不安になってね。案の定彼は大使館の人間に接触されていた。」
「ダニエル・ウィルソンに関しては、遊撃班が対処してくれます。私はカフェで彼が私達と会ったことを忘れさせたのです。大使館が彼に接触しなければ、放置出来たのですけど。」
「俺はウィルソンとやらが彼に言ったことを不愉快に感じたけど、彼も俺の過去に不審を抱いただろうからな・・・忘れてくれた方が、今後も彼と話を交わしやすいよ。」

 テオはロホを見た。

「彼の周囲に監視を置いているのかい?」
「特に彼を対象にしている訳ではありません。”砂の民”に情報収集係として仕える古の子孫がいるように、我が警護隊にもそう言う役目の人がいます。何か一族に関わることがあれば細やかに報告してくれる奇特なボランティアです。そのうちの1人がたまたま彼と友達になったと言うだけです。」
「細やかに?」
「スィ。彼が普段と違う行動を取ったら、教えてくれる。そして、これもたまたまですが、その人の窓口が私なのです。」

 すると、アスルが言った。

「アメリカの政府機関から来た医者だからな、遊撃班も監視している。マーゲイは彼にナワルを見られたらしい。ロホの情報提供者が野良猫だと誤魔化してくれたそうだが。」
「もしかして、マイロがオルガ・グランデから帰る道中に車に乗せた太平洋警備室の隊員も、彼を監視するのが役目だった?」
「恐らく本部からの指示でしょう。だから航空機を飛べなくしたのも太平洋警備室の仕事ですよ。ただあの監視はマイロを警戒すると言うより強盗や山賊から警護する意味もあったでしょうね。」
「あの人は良い人です。楽しい思い出だけを持って帰国して欲しいです。」

とアンドレ・ギャラガが言って微笑んだ。




2023/02/25

第9部 セルバのアメリカ人      11

  大統領警護隊の隊員達が全員立ち上がった。テオドール・アルストも立ち上がった。マイロは入り口の方向を見て、やはり立ち上がった。近づいて来るのが上官だからではなく、先住民の美女だったからだ。先に来ていた4人の隊員より年長だろうがまだ若い。そして歩き方が堂々として力と自信に満ち溢れているように見えた。まるで雌のライオンが近づいて来る様だ。否、ここは中米だ。彼女は雌のジャガーだ。
 部下達が敬礼で迎え、彼女も敬礼で返した。ほんの一瞬だ。他の客が気付く暇もない程に。アルストは優しい笑みで彼女を迎えた。

「お疲れ!」
「グラシャス。」

 彼はマイロを手で指して彼女に紹介した。

「グラダ大学医学部微生物研究室のアーノルド・マイロ博士だ。ドクトル、こちらは大統領警護隊文化保護担当部指揮官ミゲール少佐です。」
「初めまして。」
「初めまして。」

 少佐も握手をしてくれなかった。彼女はアルストの隣に座り、彼女が座ったので隣のテーブルの部下達も座った。

「彼はシャーガス病の予防を研究しているんだ。」

とアルストが彼女に説明した。

「俺は今朝初めて彼に会ったんだが、その時にうっかり彼の専門を無視して治療薬の開発をしてくれと的外れな要求をして、彼を困らせてしまった。」
「いいえ、困ってなどいませんよ。」

 マイロは苦笑した。

「ただ現場が求めていることに僕の研究がすぐに役に立てないのがもどかしいと言うだけです。」
「私には科学の難しい話は分かりません。」

と少佐が言った。

「でも時間がかかると言うことは知っています。貴方の研究がいつか実を結ぶ日が来ることを願っています。」

 隣のテーブルで2人の先住民の部下達が相談を始めた。夕食をどの店で取ろうかと言う内容だ。魚が良いとか、カーラが休みとか、そんな言葉が聞こえたが、マイロを誘う提案は出なかった。
 マイロはそろそろ退散した方が良さそうだと感じた。相手は軍人で、先住民で、そこにアメリカ政府から良くない心象を持たれている元アメリカ人が加わったグループだ。
 マイロは腰を上げた。

「僕は寮へ帰ります。」
「そうですか、お気をつけて・・・」

 アルストが立ち上がって握手してくれたが、引き留めなかった。マイロは座ったままの女性軍人を見た。彼女が顔を上げて彼の目を見た。


第9部 セルバのアメリカ人      10

  大統領警護隊と名乗ったからには、彼等は全員軍人なのだ。しかしマイロの目の前にいる若者達はTシャツにデニムパンツと言うラフな姿だった。ただ庶民と違うのは、彼等は薄手であるがジャケットを着ており、その下にホルダーに収まった拳銃を装備していたことだ。
 セルバの軍人らしく彼等はマイロと握手してくれなかった。そして隣のテーブルに腰を落ち着けた。彼等が注文を始めたので、マイロは仕方なく席に腰を下ろした。アルストがクスッと笑った。

「まだセルバの習慣に慣れていないんでしょう?」
「そうです。助手から度々注意されますが、どうしても挨拶に握手をするものだと体が動いてしまう・・・」
「親しくなれば握手してもらえます。」

 ギャラガと目が合った。少尉が質問してきた。

「もう強盗事件のショックは無くなりましたか?」
「有り難う、山の様な報告書と事情説明と電話でくたびれましたがね。」

 だが別のショックを今経験したところだ。

「君は軍人だったんですね。てっきり学生かと思って・・・」
「学生です。通信制ですが。軍人と二足草鞋と言うより、軍務に必要なので勉強しています。」
「文化保護担当部は考古学の履修が必要なんですよ。」

とデネロス少尉が教えてくれた。

「私達は、我が国の文化遺産を守ることが任務です。遺跡発掘申請の審査や盗掘から遺跡を守る仕事をしています。だから普段はこんな格好でオフィスにいます。」

 彼女は楽しそうに笑った。彼女の2人の上官はマイロに関心なさそうで、それぞれ携帯の画面を眺めていた。

「普段着で勤務出来るんですね。」

とマイロはオルガ・グランデから帰る時に同乗させた若い軍人を思い出して言った。

「西からこちらへ帰って来る時に、頼まれて大統領警護隊の隊員を1人車に乗せました。彼は軍服を着ていたなぁ。」

 へぇっとアルストが反応した。

「頼まれて?」
「スィ、太平洋警備室とか言う部署から本部へ出かけるとか何とかで、その時に飛行機が飛べなかったんです。それでホテルを出る時に声をかけて来て・・・」

 そこで初めてマイロは重大な謎に気がついた。

「どうして彼は僕がグラダ・シティに帰るって知ったんだろう? ホテルの前で待っていたかの様な・・・」

 彼はドキリとした。カフェ・デ・オラスにいる4人の大統領警護隊の隊員達が無言で彼を見たからだ。
 テオドール・アルストがその沈黙を破った。

「その隊員の名前は?」
「ブラス・オルニト少尉。」
「誰か知ってるか?」

 アルストの問いに、クワコ中尉が頷いた。

「アスクラカン出身の警備班のヤツだ。以前時々サッカーの練習に来ていたが、最近顔を見ないと思ったら、太平洋警備室に転属していたのか。」
「良い人ですね。アスクラカンで実家に泊めてくれました。強盗に僕は所持金を盗られたので、助かりましたよ。」
「ガソリン代は出さなかったでしょ? その代わりの親切よ。」

とデネロス少尉が笑った。
 するとマルティネス大尉が入り口に目を遣って呟いた。

「おっ、やっと指揮官殿がお出ましだ。」


第9部 セルバのアメリカ人      9

  そのまま時間が経つのを忘れてマイロはアルストと互いの研究の話を語り合った。話しながら、マイロはアルストが非常に頭脳明晰だと気がついた。専門用語は殆ど説明が不要なのだ。医学の知識はあまりないと言いながら、アルストは一度聞いたことを忘れないし、聞き返しもしない。マイロが行った実験や分析もその工程や目的を忽ち理解した。そして何が問題点なのかも聞くだけで分析して指摘してくれた。マイロは説明していたつもりが、いつの間にか教わる立場になっている己に気がついた。

 この人は本当に政府の重要な研究機関に居たに違いない。だから外国人と恋愛して外国に移住することを政府は警戒し、阻止しようとしたのだろう。そして今も警戒されているんだ。

 原虫の遺伝子の話を終える頃に、アルストが視線を店の入り口へ向け、ニッコリした。

「やっと俺の連れ達が勤務を終えた様です。」

 マイロが振り返ると、若い男女が店に入って来るところだった。その一人は彼が知っている顔だった。

「あの彼は、考古学の学生のアンドレ・ギャラガ君じゃなかったですか?」
「スィ、俺の友人のアンドレです。」
「オルガ・グランデで僕が強盗に遭った時に、助けてくれた考古学者のチームにいましたよ。彼にも世話になりました。」
「存じています。彼から聞きました。」

 新しい客の一団はアルストを見つけると近づいて来た。先住民の男性2名とメスティーソの女性1名、それに白人に見えるギャラガだ。アルストが片手を挙げて、「ヤァ」と挨拶した。女性が足早に近寄って来た。

「今日は、テオ。どうしたんです、今日は素敵な連れがいるんですね!」

 陽気に目を輝かせて視線を向けて来たので、マイロはドキドキした。すごく可愛い女性だ。彼は思わず立ち上がった。

「アーノルド・マイロ、グラダ大学医学部微生物研究室で研究しています。アメリカの国立感染症センターから出向して来ています。専門はシャーガス病の予防対策の研究です。」
「お医者さんですか?」
「医師免許を持っていますが、臨床医ではありません。研究専門です。」

 女性の後ろで一番身長が高い男性が咳払いした。とても綺麗な顔立ちの先住民の男だ。女性がペロッと舌を出した。

「いけない! あの、こちらは・・・」

 彼女が後ろを振り返った。

「上官のマルティネス大尉です。それから・・・」

 マルティネス中尉の隣の少し背が低い男性を指して、

「上官のクワコ中尉、それからこっちは・・・」

 ギャラガを指した。

「後輩のギャラガ少尉です。私はデネロス少尉です。よろしく!」

 アルストが笑った。

「マハルダ、何か忘れているぞ。」
「え? あ!」

 デネロス少尉はそそっかしいのだろう、バツが悪そうに言い足した。

「私達は、大統領警護隊文化保護担当部です。それでぇ・・・指揮官は後から来ます。」


 

2023/02/22

第9部 セルバのアメリカ人      8

  テオドール・アルストはカフェ・デ・オラスのテーブル席でグラスに入った冷たいグァバジュースを前に本を広げていた。かなり前に着いた様だ。マイロが声をかけると、座ったままで向かいの席を手で示した。

「昼間はランチに行けなくて申し訳ありませんでした。」

とマイロは謝罪した。アルストは肩をすくめた。

「こちらがいつもの作業の流れに貴方を誘っただけです、気になさらぬよう。」
「実は、この店でランチを食べたんです。」

 マイロは昼間の不愉快な体験を思い出しながら言った。

「正直に申せば、今朝貴方にシャーガス病の治療法を研究して欲しいと言われて動揺しました。僕の専門は防疫の方なので・・・」
「ああ・・・」

 アルストが申し訳なさそうな表情になった。

「すると俺は貴方に的外れな要求をしてしまった訳ですね。」
「お互いに初対面でしたから、僕の専門分野が何なのか貴方がご存知なかったのは、仕方がありません。ただ、その時はちょっとモヤモヤした気分になって、貴方のお誘いを蹴ってしまったんです。だが・・・」

 マイロはちょっと急いだ。今の会見がその件に関することだと誤解されたくなかった。目的は別にあるのだ。

「僕が貴方にもう一度お会いしたいと思ったのは、その件ではないんです。」

 彼は無意識にテーブルの周囲に目を配った。店内の客は昼時と違って、早い時間に仕事を終えてのんびりしている年配者が多かった。オフィス街のカフェの多くは夕刻には閉まるので、その日最後のお茶を楽しんでいる雰囲気が漂っていた。

「昼飯を食べる店を探して歩いている時に、アメリカ大使館の人間に声をかけられて、この店に誘われたんです。」
「大使館の人間?」
「ダニエル・ウィルソンと名乗り、身分証も見せられました。」

 マイロはアルストの表情を伺ったが、相手は聞き覚えのない名前を聞いたと言う顔をしただけだった。

「最初は、僕が先日オルガ・グランデで強盗被害に遭った件で声をかけて来たのかと思いました。しかし道で偶然出会ってそんな話をする筈はないでしょう。」
「偶然ではなかったのですか。」
「多分、大学から尾行して来たのだと思われます。彼は僕が貴方に会ったことを確認して来ました。」

 アルストの顔から人懐こい表情が消えた。真面目な顔で彼はマイロを見た。

「俺はあまり本国の政府から好かれていないんです。理由は言えない。申し訳ないが、理由を聞けば貴方も本国に帰れなくなる可能性があります。」

 マイロは戸惑った。

「それはどう言う・・・」
「医学部で俺の話をどうお聞きになったか知りませんが、俺はアメリカからの留学生や客員講師達から出来るだけ距離を置いています。彼等に迷惑をかけたくないのでね。」
「何故です?」

 マイロはテーブルの上に身を傾けた。

「ウィルソンは、貴方が僕にセルバへの帰化を誘っても話に乗るなと言いましたが・・・」

 アルストがクスッと笑った。

「そんなことを言いましたか、アイツらは・・・」
「アイツら?」
「俺が怒らせた連中です。俺がセルバに帰化したのは、愛する人々と一緒に暮らしたかったと言うだけの理由です。しかし、連中はそう受け取らなかった。俺が祖国を裏切って祖国に不利な情報をセルバ政府に流したと思い込んでいるんですよ。」

 マイロは暫くアルストの顔を見つめた。遺伝子分析に非常に優秀な才能を持っているのに無名の学者・・・もしかすると、政府関連の施設で働いていて、国家機密を扱う仕事をしていたにも関わらず、外国人と恋に落ちて国外に出てしまったと言うことなのか? 
 そう言えば、アルストの助手が言っていたな、「奥様が軍人なので」と。アルストは国家機密を扱える部署にいたが、セルバ共和国の軍人と恋に堕ちて亡命したのか?

「安心して下さい、俺は貴方を誘うと言う気はありません。貴方が勝手にセルバを気に入って、住み着きたいと思われるのは勝手ですけどね。」

 アルストがウィンクした。マイロは思った。恐らくアルストに近づくアメリカ人は大使館から似たような忠告を受けているのだろう。祖国を裏切った男と親しくするな、と。
 マイロはアルストに尋ねた。

「ドクトル、貴方は今幸せですか?」

 アルストが微笑んだ。そして力強く答えた。

「スィ!」


第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...