2024/05/09

第11部  紅い水晶     18

  ディエゴ・トーレスの顔は蒼白で生気がなかった。ケツァル少佐とロホは暫く彼の手から転がり落ちた紅い水晶のような物を見ていたが、やがてどちらが先ともなく我に帰った。少佐がギャラガを呼んだ。アンドレ・ギャラガ少尉が階段を駆け上がって来た。

「アンドレ、階下に誰かいましたか?」
「ノ、誰もいません。台所の様子から見て、その男性の一人暮らしの様です。」

 ロホが思い出したように、二階の残りの部屋を素早く見て回った。その間に少佐はギャラガに命じた。

「救急車を手配しなさい。それから水を持って来て。この人に飲ませます。」
「承知!」

 ギャラガは携帯電話を出して、電話をかけながら階段を駆け降りて行った。
 少佐がトーレスに声をかけた。

「セニョール・トーレス! 聞こえますか?」

 トーレスの瞼がひくひくと動いた。しかし開く力はないようだ。殆ど命の火が消えかけている、と少佐は判断した。しかしトーレスが病気に罹っている気配はなく、怪我もしていない。毒を飲んだかと思ったが、それもなさそうに見えた。
 寝室に携帯電話はなかった。カサンドラ・シメネスに教えられた番号を少佐の電話からかけてみると、呼び出し音がベッド脇の椅子の下に落ちているズボンから聞こえた。トーレスはズボンのポケットの中の電話に出ることも出来ず、廊下に這い出して力尽きたのか。
 少佐はもう一度トーレスの爛れた手を見た。それから紅い石を見た。それが技師の生命を脅かしている原因に思えたが、何なのかわからない。放射能だろうか? 彼女はゾッとした。それならトーレスが遺跡から帰って来る間にそばにいた人々も大なり小なり被曝している。 ”ヴェルデ・シエロ”は普通の人間より耐性が強いが、放射線の強さにもよる。
 彼女は大統領警護隊遊撃班指揮官セプルベダ少佐に電話をかけた。

2024/05/08

第11部  紅い水晶     17

  ノックと呼びかけに反応がなかったので、ギャラガはドアノブを掴んだ。 ”ヴェルデ・シエロ”に鍵は効力を持たないが、ドアは施錠されていなかった。ギャラガはチラリとケツァル少佐を見て、入ります、と目で伝えた。少佐が頷いた。形だけでもアサルトライフルを構えて、ギャラガは屋内に足を踏み入れた。少佐が続き、ロホが最後にドアを開放したまま入った。
 屋内は静かだった。ディエゴ・トーレス技師は整理整頓する主義なのか、リビングは片付いていた。ただ旅行で使用したスーツケースだけ二階へ通じる階段の下にぽつんと放置されていた。ここまで運んで来たが、スーツケースを抱えて階段を登る気力がなかったのか?
 ギャラガが一階をチェックし始めた。トーレスの名を呼びながら、各部屋を用心深くドアを開いて見ていく。少佐とロホは慎重に階段を上がった。リビングは吹き抜けで階段を上がった先にバルコニー状の廊下があり、ドアが3つあった。右端のドアが開いたままで、廊下に半身を出した形で倒れている人間の姿があった。Tシャツと短パンだけの男性だ。首や腕に日焼け跡がくっきり残っている。
 少佐が男性のそばにかがみ込むと、ロホは彼の下半身が残っている室内を見た。ベッドが乱れたまま放置され、窓はブラインドが閉じられている。クローゼットなどは閉じられたままだ。
 少佐が男性の首を眺めた。生気がないが、死人の肌には見えなかった。彼女はポケットからシリコンの手袋を出して装着し、男性の首に触れてみた。脈を確認すると弱々しくはあるが、まだ生きていることがわかった。

「セニョール・トーレス?」

 声をかけると、微かに呻き声が答えた。少佐は男性の体をゆっくりと仰向けにした。トーレスはげっそりとやつれていた。全身から水分を失った様に見えた。
 ロホが寝室から出てきた。

「怪しい気配はありません。」

と言ってから、彼はあることに気がついた。

「彼は何を握っているのです?」

 ケツァル少佐もトーレスが右手で何かしっかり握りしめていることに気がついた。手を開かせようとしたが、物凄い力で握っているので指が開かない。ロホが交代を申し出たので、手袋装着を命じた。死にそうな姿なのに抵抗するので、少佐が手首をつかみ、ロホが指をこじ開けた。
 コトリっと音を立てて、赤い光る物が転がり落ちた。それを見て、少佐とロホは顔を見合わせた。

「ルビーですか?」
「ノ、この質感は水晶です・・・」

 ケツァル少佐の養母は宝飾品のデザイナーだ。少佐も幼少の頃から色々な石を見て育ってきた。しかし、目の前にある、ルビーの様に真っ赤な水晶は見たことがなかった。
 少々困惑して少佐はトーレスの手を見た。開かれた技師の手の内側を見て、彼女はギョッとした。黒く爛れていたからだ。まるで火傷をしたみたいに・・・。

2024/05/06

第11部  紅い水晶     16

  ロホとアンドレ・ギャラガが車から降りて来た。2人とも上半身はTシャツだが、下は迷彩柄のパンツと軍靴で、ギャラガはアサルトライフルを持っていた。悪霊に銃器は効力がないが、別の使い方がある。
 大統領警護隊のロゴ入りジープを見た通行人達が急いで遠ざかるのを、3人の”緑の鳥”達は気にせずに集合した。ケツァル少佐はロホ、ギャラガの順に”心話”でカサンドラ・シメネスからの情報を伝えた。
 ロホとギャラガは顔を見合わせた。彼等はラス・ラグナス遺跡に行った経験がある。ギャラガは2回行って、1回目は空間通路を初体験したし、2回目はロホとステファン大尉と共に盗まれたコンドルの神像を元に収める儀式を行った。何の時も不審な気配を感じなかった。

「セニョーラ・シメネスが目撃した拾い物が山の中に転がっていた物だとすると、その正体に見当がつきません。」

と祈祷師の資格を持つロホが言った。

「ラス・ラグナス遺跡と関係があった物なのか、別の村の物なのか、それ一つだけなのか、まだ同じ物があるのか・・・」

 少佐が手を挙げて彼の言葉を遮った。

「まだ実物を見ないうちからあれやこれや考えても埒が開きません。兎に角、ディエゴ・トーレスが無事なのかどうか、確認しましょう。」

 彼女は体の向きを変え、道に面して建っているクリーム色の壁の小さな2階建ての家を見た。小さいが高級住宅地に建つ家らしくスパニッシュ・コロニアル様式で、若い富裕層に人気の建築だった。低いフェンスで囲われた庭は芝生と草花が植えられている。ディエゴ・トーレスは独身だと言うことだが、一人暮らしでそんな庭の世話が出来るだろうか。
 門扉を開いて、ギャラガが上官達を振り返った。

「私は何も怪しい気を感じませんが・・・?」
「ノ、私もだ。」

とロホが同意し、ケツァル少佐も認めた。
 3人は狭い庭を横切り、ドアの前に立った。少佐が正面に立ち、ロホが脇に立ち、庭に面した掃き出し窓の方を見た。ギャラガがドアをノックした。
 返事はなかった。屋内に人がいる気配もなかった。ギャラガはそれでもノックを試み、声をかけた。

「セニョール・トーレス、大統領警護隊だ。」


2024/05/05

第11部  紅い水晶     15

 在野の”ヴェルデ・シエロ”が大巫女ママコナに直接テレパシーを送ることは不敬に当たる。しかしママコナが何か不穏な気を感じていたのなら、それを知っておかねばならない。ケツァル少佐は2秒程躊躇ってから、大統領警護隊副司令官トーコ中佐に電話をかけた。その日の昼間の当直はトーコ中佐だった。シエスタの時間だから、会議中ではないだろう、と思った。電話の向こうから男の声が聞こえた。

ーートーコだ。
「文化保護担当部のミゲールです。」

 軍部の連絡は形式的な挨拶を抜く。少佐はすぐに本題に入った。

「民間から悪霊の仕業かも知れない事案の通報を受けて出動しています。”名を秘めた女性”(ママコナのこと)から何かお言葉はありませんでしたか?」

 トーコ中佐がフッと息を吐く音が聞こえた。

ーー今、チュス・セプルベダ少佐が”彼女”から何かお言葉を頂いて、ステファン大尉とこの部屋へ来たところだ。

 ママコナはマスケゴ族では埒があかぬと判断して、大統領警護隊遊撃班の指揮官にメッセージを送ったのだ。だが、彼女の言葉はいつも曖昧だ。セプルベダ少佐は優秀だが、彼女が何を心配しているのか、まだ掴めていないだろう。
 ケツァル少佐はママコナがトーレス技師が直面している災難を承知していることに、少しだけ安堵した。セルバの人民を災難から守護する、それが大巫女の役割だ。まだ20代半ばで、生まれてから一度もピラミッドから出たことがないカイナ族の娘でも、しっかりと役目を果たしているのだ。

「詳細を説明することは後に致します。私が受けた通報は、正に”彼女”が憂いている内容と同じだと確信しますので、これから私の部署で対処します。」
ーー何が起きているのか、簡単に教えてくれないか。
「”ティエラ”(普通の人間)の男が、ラス・ラグナス遺跡の近くで何かを拾ったのです。彼はロカ・エテルナ社の社員で、副社長のカサンドラ・シメネスが彼と連絡がつかなくなったと心配して私に相談して来ました。彼女は彼が遺跡近くで何かを拾ったのを目撃していますが、それが何かはわからないと言っています。」

 少佐は現在地の住所を告げた。トーコ中佐は文化保護担当部が出動することを理解した。

ーー君達に任せる。だが、遊撃班を待機させておくから、何か問題が起きた場合は直ぐに連絡を寄越せ。
「承知しました。」

 少佐が通話を終えた時、大統領警護隊のロゴマークが入ったジープが彼女の車の後ろに停車した。

2024/05/04

第11部  紅い水晶     14

  ロカ・エテルナ社を出たケツァル少佐は自分の車に乗り込むと、電話を出して副官のロホにかけた。

ーーマルティネスです。

 ロホが正式名で名乗った。勿論かけて来た相手が誰かはわかっている。少佐は「ミゲールです」とこちらも正式名で応えた。

「まだ詳細は不明ですが、霊的な現象による事案が発生した模様です。これから告げる住所に手が空いている者は全員集合のこと。」

 カサンドラ・シメネスから教えられたディエゴ・トーレス技師の住所を早口で告げた。ロホは正確に聞き取った。復唱して、すぐに行きます、と言った。

ーーオフィス窓口を閉鎖します。
「許可します。では、現地で会いましょう。」

 大統領警護隊文化保護担当部は緊急事案が発生した場合は、事務的業務を臨時休業して全員オフィスの外に出かけてしまう。彼等は軍人で、軍務がその仕事の最優先事案だからだ。文化・教育省は決して彼等の軍務遂行に口出ししてはならない。
 ケツァル少佐は車をロカ・エテルナ社の車庫ビルから出した。トーレス技師は少佐やテオが住んでいる西サン・ペドロ通りから東サン・ペドロ通りへ抜ける南北の坂道の中程、東側に住んでいた。東西サン・ペドロ通りは富裕層が住む地区だから、トーレス技師はロカ・エテルナ社の中では高級取りなのだ。
 トーレス技師の戸建住宅に近づいて、少佐は車を路肩に駐車した。目を閉じて神経を周囲の空気の流れを読み取ることに集中させた。悪霊がいれば何か感じる筈だ。しかし彼女は何も感じ取れなかった。アンヘレス・シメネス・ケサダは感じたのだ。ムリリョ博士も落ち着かなかったのだ。特定の人間にしか感じ取れない気配なのか? それとも悪霊は動く時だけ気配を発して、普段は眠っているのか? 
 ケツァル少佐は大巫女ママコナから何も言ってこないことに気がついた。人間に害を及ぼす悪霊が首都に入ると大巫女様は感じとる。そして汚れがピラミッドに近づくことを嫌う。
 トーレスが拾った「何か」は悪霊ではないのか? あるいは「汚れ」ではないが人間に害を及ぼすものなのか? そんな物があるのか?
 少佐はそこで気がついた。

 ママコナは気がついていた。だから、汚れに最も近いアンヘレスに警告を出したが、アンヘレスはまだ子供だ、大巫女の警告を十分に理解しきれなかったのだ。いや、半分だけのグラダのアンヘレスにはママコナからのメッセージが上手く伝わらなかったのかも知れない。マスケゴ族のムリリョ博士はママコナのメッセージを感じたが、理解出来る力はなかった。彼は男だし、マスケゴだから・・・カサンドラが感じなかったのも同じ理由だ。マスケゴ族ではママコナのメッセージを十分に理解出来ない。今のママコナはグラダではなく、マスケゴより力が弱いカイナ族の女だから・・・。


2024/05/02

第11部  紅い水晶     13

  カサンドラ・シメネスはケツァル少佐にラス・ラグナス遺跡視察旅行の経緯を”心話”で語った。そして言葉で告げた。

「それっきりディエゴ・トーレスと連絡がつかなくなりました。」

 ケツァル少佐は腕組みした。ロカ・エテルナ社の土木設計技師ディエゴ・トーレスが何か悪い物を遺跡近くの山で拾ったことは確実だ、と思った。カサンドラは彼が転んだ時に何かを拾ってポケットに入れたのを見たのだ。しかし彼女は重要と思わなかったので、彼女の記憶の中の「何か」は殆ど認識不可能な形だった。大人の男性の手の中に収まってしまう大きさ。

「石でしょうね。」

と少佐は呟いた。カサンドラも少佐が何について言ったのか、すぐに理解した。

「やはり、彼が山で拾った物が原因と思いますか?」
「他には考えられません。」

 少佐は副社長を見た。会社経営には優秀な能力を発揮する女性だが、呪いや祈祷とは無縁な人なのだ、と確信した。ムリリョ博士は己が純血至上主義者で古代からの掟や風習を守る長老会の重鎮にも関わらず、己の子供達を古い因習や呪術からは遠ざけて育てたのだ。家族を現代社会で生き延びさせて栄えさせるために必要だと信じているのだろう。だからカサンドラは一族に伝わる伝承やしきたりは知っているし守っているが、それ以外の悪霊や邪神に関する知識を持っていないのだ。

「貴女はトーレスと一緒に山を歩いている間、何も感じなかったのですか?」
「感じませんでした。2人とも周囲の地形を記録することやダムの影響を考えることで頭がいっぱいでした。だから、トーレスも何かを拾った直後はその影響を受けなかったのかも知れません。」
「ホテルで一人になって気が緩んだところに悪霊がつけ込んだのでしょう。」

 カサンドラは電話を出して、もう一度技師の電話にかけてみた。しかし虚しく呼び出しが鳴るだけだった。

「その技師は独り身ですか?」
「スィ。田舎に親兄弟がいると聞いていますが、ここでは一人暮らしです。同居人もいないようですね・・・同居人も何か災難に遭っていることも考えられますが・・・」

 少佐が立ち上がった。

「技師の家の住所を教えて頂けますか? これはどうやら大統領警護隊の仕事の様です。」


2024/05/01

第11部  紅い水晶     12

  カサンドラの父ファルゴ・デ・ムリリョ博士が彼女に「山で変わったことはなかったか」と尋ね、姪のアンヘレス・シメネス・ケサダが「ホテルに悪い気が漂っている感じ」と言った。カサンドラは不安になったが、姪にそれを気取られぬよう用心して、その夜は何事もなく過ごした。
 翌朝、朝食の席に技師のディエゴ・トーレスが遅れて現れた。彼はひどく疲れた顔で、カサンドラが大丈夫かと声をかけると、山歩きの疲れが出ただけです、と答えた。しかしアンヘレスが彼を見て嫌そうな表情をして、急いで食事を済ませ、ムリリョ博士も孫と一緒にさっさと席を発ってしまった。
 カサンドラと博物館員のアントニア・リヴァスはトーレスの食事が終わるのを待ってやったが、トーレスは食欲がないのか少ししか食べなかった。彼の顔色が悪いとリヴァスが心配したが、トーレスは平気だと言い切った。
 空港に到着すると、ムリリョ博士がチケットカウンターに行き、帰りの便の予約をしていたにも関わらず、新しいチケットを1枚持って一行のところに戻って来た。そしてトーレスにそのチケットを手渡した。
ーー君は体調が悪そうだから、半時間後の便で先に帰りなさい。
 カサンドラはびっくりした。急な便の変更は既に不可と言える時間だったからだ。しかし、ムリリョ博士は、恐らく”操心”を用いて、強引にチケットを手に入れたのだろう。トーレスの手にチケットを押し込み、搭乗手続きのゲートへ連れて行ってしまった。
 リヴァスは普通の人間で、博士が”ヴェルデ・シエロ”であるなんて想像すらしていなかったが、彼女は発掘旅行で上司の奇妙な行動に慣れているのか、「また博士の魔法ですね」と言って笑った。
 カサンドラは父がトレースを先に帰したことが気になった。だから博士が自分達のところに戻って来ると、”心話”で何かトーレスに良くないことが起きているのか、と尋ねた。しかし博士は答えなかった。
 帰りの飛行機は時間通りに離陸し、無事にグラダ国際空港に到着した。トーレスが乗った飛行機も無事に着いており、カサンドラが電話をかけると、技師は既にタクシーで自宅に向かっていた。
 空港にカサンドラの見知らぬ男性が彼等を待っていて、博士に挨拶すると少し2人だけで話をしていた。ムリリョ博士はとても不機嫌になり、男性と別れると、カサンドラにアンヘレスを家に連れて帰るよう言いつけ、己はリヴァスと博物館へ向かった。
 カサンドラはアンヘレスと一緒にタクシーに乗った。 ”心話”で姪に尋ねた。
ーー貴女のお祖父様は何を怒っているのかしら?
ーー知らない。
とアンヘレスは答えた。
ーーお祖父様はセニョール・トーレスを助けたかったの。だけど、何かが上手くいかなかったみたい。

第11部  神殿        17

  大学での仕事は何事もなく平穏にこなせた。学生達は遺伝子の組み替えのさまざまなパターンを考察し、人間の病気に対する遺伝子の影響を考えた。どうすれば病気に強い子供を産めるようになるのか。 それは人口の減少が早い少数民族の課題でもあった。多産でも生まれた子供が病気に罹りやすければ、...