2024/06/01

第11部  石の名は     1

  テオドール・アルストが目を覚まして、朝食を作るために彼のパートナーの区画へ行くと、リビングのソファの上で彼女が眠っていた。遅くに帰ったのだろう、着替えもしないで、靴だけ脱いでクッションの上に半分俯せになっていた。床にバッグと靴が放り出されたままだ。彼女が無防備で眠る姿を見せてくれると、テオは信頼されていることを感じ、嬉しくなる。本人はきっとクタクタなのだろうけど。
 テオはキッチンに入り、朝食の支度をした。昨夜は半分以上夕食が残ってしまったので、家政婦のカーラが気を利かせて残り物を少しアレンジして朝食用に作り直してくれていた。それで彼はお菜を皿に盛り付け、パンを切ってテーブルの上に並べた。そしてコーヒーを淹れた。
 コーヒーマシンの豆を砕く音に、ケツァル少佐が目を開いた。頭をもたげ、自分の家にいることを確認してから、彼女は起き上がり、バスルームに入った。
 テオは彼女が素っ裸で廊下を通って寝室へ着替えをしに行くのを、気づかぬふりをして、湯気の立つコーヒーをカップに注ぎ込んだ。朝のコーヒーはミルクをたっぷり入れる。昼間はブラックしか飲まない少佐の習慣だ。ミルクは少しだけ温めておいた。
 猫舌の少佐が服を着て食堂に入ってくると、コーヒーが程よい温度に冷めていた。

「ブエノス・ディアス。 昨夜は遅かったんだね。」

 テオが挨拶すると、彼女はまだ眠たそうに「ブエノス・ディアス」と返した。

「こそ泥を働いた救急隊員を探すのに手間取りました。」

と彼女は言った。そして彼が話を聞きたがっていることを見越して、簡単に説明した。

「ムリリョ博士達と一緒にラス・ラグナス遺跡に行ったカサンドラ・シメネスの部下が、遺跡近くの山で石を拾ったのです。その石の正体が何なのか、まだ不明ですが、その部下は石のために命の危険に曝されました。ロホと私は彼の家で彼を救助しました。その時、彼は石を握っていたのです。石の危険性にその時誰も気が付かず、石は床の上に落ちて放置されました。彼を運んだ救急隊員がその石を拾ったとしか思えないのですが、兎に角、私達が思い出した時、既に石は姿を消していました。アンドレが救急車を追跡しましたが、件の救急隊員は仕事を終えると姿を消してしまい、まだ見つかっていません。」
「すると・・・」

 テオは考えた。

「今度はその救急隊員が危険に曝されているってことか?」
「その可能性があります。或いは、彼はその石を誰かに売ってしまい、その買取主が危険に曝されている可能性もあります。」

 そこまで語ると、少佐は猛然と朝食に取り組んだ。テオはまだ考えていた。

「その石は、ネズミの神様みたいに人間の生気を吸い取るのか? それとも人に乗り移る悪霊みたいなものか? 」
「わかりません。」

 少佐は食べ物をオレンジジュースで流し込んだ。

「トーレスは・・・サンドラの部下ですが・・・全身の血を抜かれたみたいな状態になっていました。輸血でなんとか助かったとサンドラから昨晩連絡がありました。」
「輸血? その石は血を吸うのか?」
「血のような色をしていますが、人間の血を溜め込める大きさではなかったです。」


2024/05/28

第11部  紅い水晶     27

  夕刻、定時で役所が閉まる10分前に大統領警護隊文化保護担当部の隊員達はオフィスに戻った。
 椅子に座るなり、ケツァル少佐が命じた。

「報告!」

 最初にロホが片手を挙げ、言った。

「トーレスの家の中を捜索しましたが、怪しい品は何も出ませんでした。」

 これだけ聞いたら、隣の文化財遺跡担当課の職員達は、盗掘品の捜査だと思うだろう。ロホは上官の目を見て、”心話”で追加した。

ーー今夜に父に会って訊いてみます。

 少佐は頷き、次にギャラガ少尉を見た。ギャラガは肩をすくめた。

「例の救急隊員は臨時雇用のパートで、交通事故の怪我人を搬送した後、車を降りて姿を消しました。今夜、彼が盗品を持ち込みそうな故買屋を探してみます。」

 そして彼も”心話”で追加した。

ーー彼の同僚達は石を持っていませんでした。彼が救急隊に提出した住所はスラム街のもので、確実ではないので、そこも捜索します。
ーーご苦労。スラムは私が探してみます。貴方は故買屋をお願い。
ーー承知しました。

 アスルとデネロス少尉は遺跡に出ているので不在だ。少佐は業務終了を宣言して、彼等は解散した。
 階段を降りながら、少佐はパートナーのテオにメールを送った。

ーー厄介な仕事が発生したので、今夜は帰れません。

 車に乗り込む頃にテオからメールが返信された。

ーーわかった。カーラに残りの飯を持って帰らせて良いか?
ーーO K!

 まだ本当に禍々しい物なのか否か不明の石を探して、大統領警護隊文化保護担当部は夜のグラダ・シティへ散った。


2024/05/23

第11部  紅い水晶     26

 宗教学部に向かって歩き出したケツァル少佐は、背後でファルゴ・デ・ムリリョ博士とフィデル・ケサダ教授がなにやら静かに、しかし明らかに口論を始めたことを背中で感じ取ったが、介入せずに足を進めた。恐らく教授は博士がアンヘレスの近くに危険な禍々しい石があったことを見逃したと抗議しているのだ。博士は何も感じ取れなかったと言い訳しているのだ。ケツァル少佐でさえ実物を目の当たりにするまで、そんな石をトーレス技師が握っていたなんて知らなかった。

 あの石は何なのだ?

 セルバの歴史に名を残すことなく消え去ったラス・ラグナス遺跡に関する物であれば、どこで手がかりを求めれば良いのだろう。ノエミ・トロ・ウリベ教授が石に関する知識を持っているとも思えなかった。それに彼女になんと説明すれば良いのだろう。トーレスの身に実際に何が起こったのかさえまだわからないのに。
 ウリベ教授は研究室の中で学生2人と人形の整理をしていた。呪術に使用される人形で、実際に使われた物ではなく、未使用の物だ。殆どが木製か布製で、顔、手足、胴体だけの簡単な物だ。人形に呪う相手の持ち物や身体の一部、髪の毛や血がついた布などを取り付けて、針を刺したり、斧で叩き割ったり、火に焚べたりして、相手の不幸を願う。そんな類の不吉な人形ばかりだ。尤も一般人が使っても効果がない。然るべき修行をした呪術師が使ってこそ効果が顕れるのだ・・・と教授は学生達に常日頃説明していた。 

「オラ!」

とドアを半開きのドアをノックして、ケツァル少佐は声をかけてみた。ウリベ教授は開けっ広げな性格で、研究室のドアも開けっ広げが多い。誰でも興味があれば入って来いと言う訳だ。「呪いの先生」は部屋に篭って誰かを呪っているのではないよ、と言いたいのだろう。

「オラ! シータ!」

 教授が床から立ち上がったので、少佐は身構えた。そして予想した通りに、ふくよかな体格の教授に満身の力を込めてハグされた。息苦しさに耐えて、解放されると、彼女は突然の訪問を詫びた。

「授業のお邪魔をしてしまいました。」
「構わないわ。そろそろ休憩してお茶に行くつもりだったのよ。」

 教授が合図すると、学生達が人形を部屋の真ん中に置かれた段ボール箱の中に放り込んだ。呪い人形の割に扱いがぞんざいだ。教授が少佐を見た。

「貴女も一緒にどう?」
「では、ご一緒します。」

 どうせ真実は話せないのだ。少佐は教授と学生達と一緒に遅いお茶を飲むためにカフェに向かった。

2024/05/22

第11部  紅い水晶     25

  フィデル・ケサダは純血のグラダ族の男で、恐らく現在生きている”ヴェルデ・シエロ”の中で最強のパワーを持っているのだが、それを微塵も感じさせない制御で、普通の人間のふりを続けている。同じ一族の者にも気取られないのだから、見事という他にない。
 彼は無表情なまま、駐車場に入って来て、ケツァル少佐の車のそばに来た。彼が口を開く前に、ファルゴ・デ・ムリリョ博士が声を掛けた。

「ケツァルから報告がある。恐らく”名を秘めた女”が危惧している物だ。」

 ケサダ教授は養父であり、舅であり、マスケゴ族の族長で一族の最長老の一人であるムリリョ博士に、右手を左胸に当てて無言で挨拶すると、少佐に向き直った。目と目を見つめ合わせ、一瞬で情報の伝達が行われた。博士が尋ねた。

「何だかわかるか?」
「ノ。」

 即答だった。

「呪術に使われた石であろうと推測は出来ますが、正体は分かりません。」

 ケサダ教授はムリリョ博士に顔を向けた。

「私の専門は交易で宗教や呪術ではありません。これは寧ろノエミの得意分野でしょう。」

 ノエミとは、宗教学部でセルバの民間信仰を研究しているノエミ・トロ・ウリベ教授のことだ。様々な民間信仰を扱っているが、呪い人形などの収集はかなりの数で、学生の中には「呪いの先生」と陰であだ名を付けている程だった。ただ、残念なことにウリベ教授は普通のアケチャ族、つまりセルバ共和国東半分全域に分布している普通の先住民の女性で、”ヴェルデ・シエロ”ではなかった。そして実際に”ヴェルデ・シエロ”がまだどこかに生き残っていると信じているが、本物と出会ったことがなかった。目の前にいる友人のケサダ教授や教え子の大統領警護隊文化保護担当部の隊員達が何者なのか知らないのだ。
 ムリリョ博士がぶっきらぼうに言った。

「彼女を巻き込む訳にはいかん。」

 つまり、自分達の正体を打ち明けるな、と言う意味だ。ケツァル少佐が提案した。

「私がウリベ教授に質問してみます。」
「”操心”は使うなよ。」

とムリリョ博士が釘を刺した。

「あの女は心を操れるとは思えん。固い意思の持ち主だからな。」


2024/05/20

第11部  紅い水晶     24

  ケツァル少佐は近づいて来た高齢の考古学者に敬礼した。ムリリョ博士は小さく頷いて彼女の目を見た。少佐はトーレス邸であった出来事を伝えた。博士が小さな声で呟いた。

「石か・・・」
「石の正体をご存知ですか?」

 少佐が期待を込めて尋ねると、博士は首を振った。

「ノ。我々の先祖の物ではないのだろう。」

 少佐は駐車場の入り口を見たが、そこには誰もいなかった。

「ケサダ教授もお呼びしましたが、まだ来られませんね。授業中ですか?」
「あれは怒っているのだ。」

と博士が微かに皮肉っぽく笑った。

「自分の娘が危険のそばにいたのに、儂とカサンドラがその危険に気づけなかった、とな。」

 それでケサダ教授の今朝の愛想のなさの理由が判明した。

「教授なら、あの石の異常さに気がつけたのでしょうか?」

 少佐がちょっと意地悪な質問をすると、博士はまた皮肉っぽく笑った。

「無理だっただろうな。お前も技師の手から石が出て来るまでわからなかったのだろう?」

 少佐は認めた。

「石を見た後も、あれが禍々しい物だと言う感触はありませんでした。でも、ママコナは・・・」
「”名を秘めた女”はピラミッドの力で感じたのだ。彼女自身の能力ではない。」

 ケツァル少佐は”曙のピラミッド”が建つ方角を見た。

「ピラミッドに話が出来ると良いのですけどね・・・」
「はっ!」

と博士が声を発した。

「面白いことを言う女だ、お前は。しかし、その考えはあながち外れておらぬのだろう。ピラミッドの石達は、その砂漠の中にあった石が良くない物だとわかっているのだ。」
「あの紅い石は今迄眠っていたのですね?」
「恐らく技師の手に握られて目覚めたのだ。恐らく何らかの呪術に用いられたのだと思う。ラス・ラグナスが滅びる時に山に放置されたのだ。秘密を守るためか、あるいは人を守るためか・・・」

 その時、やっとケサダ教授が歩いて来るのが見えた。

第11部  紅い水晶     23

  ケツァル少佐はアンヘレス・シメネス・ケサダと別れて、グラダ大学へ向かった。シエスタの時間はとうに終わって午後の授業が始まっていた。車を駐車場に停めると、彼女はまずギャラガ少尉に電話をかけた。ギャラガはまだ救急隊員を捕まえていなかった。

ーー交通事故が発生して、トーレスを運んだ救急車も他の救急車と一緒にルート22に駆けつけているんです。トラック5台の事故で、怪我人が多数出ています。ちょっと隊員に声をかけられる状況じゃないですね。

とギャラガは少し弱音を吐いた。少佐はため息をついた。隊員が石を窃盗したかどうか、まだ確定していない。一刻も争う救命現場で疑いがあるだけの案件で邪魔をするのもどうかと思われた。

「わかりました。貴方はそのまま当該救急車を監視して下さい。隊員に余裕が出たと思えたらすぐに接触すること。”操心”を使っても構いません。」
ーー承知しました。

 次にロホに電話をかけた。ロホはトーレス邸に何も異常な物を発見出来なかったので、文化保護担当部のオフィスに戻るところだった。

ーー怪しいのは、あの石しかありません。私はオフィスを片付けてから、実家の父に石のことを訊いてみます。

 ロホの父はセルバ共和国でも権威ある祈祷師だ。 ”ヴェルデ・シエロ”社会だけでなく、普通の国家的行事に参加して神に祈りを捧げる仕事もしている。呪術や儀式の知識が豊富でその方面では生き字引の様な存在だった。少佐は「よろしく」と言って電話を切った。
 電話をポケットに入れてから、彼女は大きく深呼吸をして、それから”感応”で2人の考古学者に呼びかけた。大学の駐車場に来て欲しい、と。弟子の分際で師匠を呼びつけるのか、とムリリョ博士に叱られることを覚悟していた。最も博士が大学に出勤しているのかどうか知らなかったが。
 しかし、数分後、真っ先に駐車場の入り口に姿を現したのは、ファルゴ・デ・ムリリョ博士だった。少佐の車を見つけると真っ直ぐにやって来た。博士は、やはりあの技師のことを気にしているのだ。

2024/05/17

第11部  紅い水晶     22

  ケツァル少佐はトーレス邸の詳細な捜査をロホに命じ、自分はグラダ・シティの富裕層の子供達たちが通学する高校へ向かった。アンヘレス・シメネス・ケサダは彼女が校門の前に自家用車を停めた時に自転車を押しながら出て来るところだった。友人たちと喋りながら自転車に跨ろうとしたので、少佐は窓を開けて声をかけた。

「アンヘレス・ケサダ!」

 アンヘレスはビクッとして、声がした方を振り返った。普段、誰かに名前を呼ばれてもすぐに反応してはいけない、と親族の大人達から言い聞かされていたのだが、この声は彼女に従わなければならないと思わせる響きがあった。
 何となく見覚えのある顔の女性がベンツのS U Vから手招きしていた。アンヘレスは友人達に「また明日」と挨拶して、自転車を押したまま車に近づいた。ドアが開き、すらりと背が伸びた女性が降りて来た。迷彩柄のパンツを履いていたので、軍人だと少女は判断した。大統領警護隊だ、と思った。

「アンヘレス・ケサダです。何か御用でしょうか?」

 すると相手は緑色の徽章が入ったパスケースを出して、彼女にチラリと見せた。

「大統領警護隊の文化保護担当部指揮官ミゲール少佐です。」

とケツァル少佐は名乗った。それでアンヘレスは彼女とどこで出会ったのか思い出した。文化保護担当部のオフィスに遺跡見学の許可申請に行ったのだった。少佐がすぐに要件に入った。

「先日ラス・ラグナス遺跡に行った時、一緒に出かけたロカ・エテルナ社の技師を覚えていますか?」
「スィ、出かける時は面白いお話とかして下さいましたから、良い人だな、と思ったのですが、2日目から体調を悪くしたのかあまり口を利かなくなって、伯母や祖父が心配していました。セニョール・トーレスがどうかしましたか?」
「貴女が覚えている彼の様子を教えてくれませんか?」

 それは”心話”を要求しているのだ。アンヘレスはまだ大人の様に情報をセイブするコツを完全にマスターした訳ではなかったが、旅行の間の同行者の行動を見せることは出来た。
 アンヘレスの記憶には、トーレス技師の異変の原因を突き止める手がかりはなかった。だから少佐は言った。

「貴女がホテルで感じた嫌な気持ちを再現出来ますか?」

 アンヘレスは戸惑った。あの時の感情をどうやって再現したら良いのだろう。彼女はホテルの部屋を思い起こしてみた。夢を思い出せる限り思い出そうと努力した。それが”心話”で相手に伝わるのかどうか、自信がなかった。
 ケツァル少佐がふーっと息を吐いた。

「私はママコナが誰かに送ったメッセージを読み取る能力がありません。あるいは、まだ習っていないのかも・・・」
「ママコナからのメッセージですって?!」

 アンヘレスは驚いて声を上げ、思わず口を抑えて周囲を見回した。幸い彼女達に注意を向けている人間はいないと思われた。いても大統領警護隊に関心を持っていると思われたくなくて、離れて見ているだけだ。
 少佐が囁いた。

「貴女がホテルで感じた嫌な感触は、ママコナが貴女に危険を知らせようと送られたメッセージです。でも幸い貴女も貴女のお祖父様と伯母様、学芸員の方は無事でした。」
「では、トーレスは・・・」
「彼は今体調を崩して病院にいます。」

 アンヘレスは不安になった。

「どうしてママコナは私にメッセージを送られたのでしょう? 祖父や伯母は何も感じなかったのです。あ、祖父は何だか落ち着かなかったみたいですが・・・」
「理由はお祖父様かお父様に聞いて下さい。」

 ケツァル少佐はアンヘレスに血統の真実を話せないことをもどかしく思った。しかし、これはケサダとムリリョの家の問題で、彼女は口を出せないのだ。

「兎に角・・・」

と少佐は言った。

「貴女はもう安全です。トーレスのことは伯母様に任せておきなさい。」

第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...