2021/08/05

太陽の野  11

  マリオ・イグレシアス建設大臣は憧れのケツァル少佐が建設省に足を運んでくれたので大喜びだった。しかし少佐は先に憲兵隊隊長と特殊部隊第17分隊分隊長も呼んでいた。ロホは大臣執務室の前にある秘書室で大臣の公設秘書と私設秘書を眺めながら従者用の席に座っていた。憲兵隊の担当班長と特殊部隊の副隊長も一緒だ。3人の軍人が無言で座っているので、公設秘書は落ち着かない様子で、パソコンを眺め、執務室のドアを眺め、机の引き出しを開け閉めして動き回った。私設秘書のシショカは静かに座っていた。新聞を広げ、隅々まで目を通している。多分、どちらの秘書も早く昼休みにしたい筈だ、とロホは思った。面会を昼にしたのは、ケツァル少佐の意地悪に他ならない。
 遅れて亡命審査官のシーロ・ロペス少佐が入って来た。ロペスから微かに脂の匂いがしたので、ロホは彼が先に昼食を済ませて来たことに気がついた。ロペスも大臣への嫌がらせが好きなのかも知れない。
 憲兵と特殊部隊の副隊長は”ヴェルデ・ティエラ”だ。だが厳しい訓練を欠かさず行っているプロの軍人には違いない。大統領警護隊の隊員とは言っても長年事務仕事を専門にやって来たロペス少佐とは雰囲気が違った。ロホは彼等の方に親しみを感じた。だから、ロペス少佐が大臣執務室に入ってしまうと、誰へともなく彼は話しかけた。

「シャベス軍曹の行方は掴めたか?」

 一瞬憲兵班長と特殊部隊副隊長が目を見交わした。勿論”心話”など出来ない。互いにどっちが話しかけられたのだろうと、探り合ったのだ。大統領警護隊に質問されたので答えなければと、彼等は焦った。副隊長が先に言った。

「C C T Vのデータを提出させて片っ端から見ている最中です。」

 憲兵班長も言った。

「当方も同じです。特殊部隊とは言え、車ごと姿を消して逃げられる筈がない。」

 副隊長がムッとして憲兵に抗議した。

「シャベスは犯人に脅されて誘拐の手伝いをさせられたものと思われる。逃げたのではない。」
「特殊部隊の隊員が抵抗せずに誘拐に手を貸すことを強要されるとは信じられない。」
「ドクトラを人質に取られたら、抵抗出来ないだろう。」
「犯人は何人だ? 複数犯とは思えないが?」

 副官同士で縄張り争いをしているので、執務室の中ではもっと熾烈な争いが繰り広げられていることだろう、とロホは思った。
 分隊長がロホを振り返った。

「大統領警護隊はこの件にどう関わっておられるのか? 亡命者達がケツァル少佐のお友達だと言うことは伺っているが・・・」

 憲兵班長がしたり顔で言った。

「現場のバスルームの鏡に呪い文が書かれていた。」
「呪い文?」
「鯨の文だ。」
「ああ・・・」

 分隊長はキルマ中尉から呪い文の存在を聞かされていたのだろう、頷いた。

「分隊長が言っていた。君等が鏡に書かれた文を見てビビっていたと・・・」
「それは分隊長殿の勘違いだ。」

 憲兵班長がニヤリとした。

「ビビってラ・パハロ・ヴェルデを呼んだのは、君等の分隊長殿の方だ。」
「何だと?!」

  副隊長が立ち上がったので、憲兵班長も立ち上がった。ロホは彼等が取っ組み合いの喧嘩を始める前に止めなければならなかった。

「キルマ中尉がケツァル少佐を呼んだのは、呪い文が古代の神の神聖さを汚す文面だったからだ。もし本気の呪いだったら、最初に見つけた憲兵に呪いがかかるところだった。悪霊祓いが必要になった場合を考えて、キルマは気を利かせて少佐を呼んだのだ。」

 ロホの言葉に、新聞を眺めた姿勢のまま、大臣私設秘書のシショカが口元に笑を浮かべた。呪い文を発見した時の”ヴェルデ・ティエラ”達の慌て様を想像したのだろう。”ヴェルデ・シエロ”にとっては古代の神を冒涜した怪しからぬ文にしか過ぎないが、”ヴェルデ・ティエラ”にとっては不吉で恐ろしいものなのだ。ロホは文を発見した時の憲兵達の怯えた様を笑う気になれなかった。少佐も憲兵達を脅かした文に腹を立てていた。神聖な言葉を汚されたのだ。
 副隊長と憲兵班長が互いに睨み合い、そしてソッポを向いて椅子に戻った。
 執務室のドアが開き、足早に憲兵隊隊長が出てきた。班長が立ち上がった。隊長が聞こえよがしに言った。

「C C T Vに手配の車が映っていた。西へ向かったようだ。」
「郊外はカメラがありません。」
「オルガ・グランデに連絡を取って、あちらに来たら捕まえるよう指示したまえ。」
 
 2人の憲兵は秘書達に挨拶もせずに出て行った。続いて特殊部隊第17分隊分隊長キルマ中尉が出てきた。何も言わずに、立ち上がった副隊長について来いと合図して、こちらも無言で去って行った。
 最後に出て来たケツァル少佐は、時計を見て、ロホに話かけた。

「お昼に何を食べましょうか?」

 ロホは執務室の中をチラリと見た。大臣が何処かに電話をしているのが見えた。手前の席にいるロペス少佐も何処かに電話中だ。ロホは何となく辛い物が食べたくなった。

「スパイスが効いた肉料理などが良いですね。」
「ビエン」

 少佐が微笑んで、秘書達には目もくれずに歩き出した。ロホは立ち上がり、公設秘書にさようならと言って後に続いた。


太陽の野  10

  大統領警護隊文化保護担当部が通常の業務をしていると、有り難くない客がやって来た。彼の姿を見た文化財・遺跡担当課の職員達が急に用事が出来て席を立ったり、熱心に仕事を始めたりした。彼と目を合わせたり口を利いたりしたくないのだ。当人もわかっていて、無言でカウンターの内側に入ると、大統領警護隊文化保護担当部のケツァル少佐の机の前へ直行した。少佐は忙しいふりをしてパソコン画面に目を凝らして睨みつけた。ステファン大尉が客に声をかけた。

「何か御用ですか、セニョール・シショカ?」

 建設大臣マリオ・イグレシアスの私設秘書にして”砂の民”でもあるマスケゴ族のシショカは、”出来損ない”を無視して少佐に話しかけた。

「昨晩の詳細をお聞きしたいと大臣が仰せです、ケツァル少佐。」

 ステファン大尉には初耳だった。彼はロホを振り返った。ロホは知らん顔をして書類をめくっていた。デネロス少尉も何も知らないので、書類を見るふりをして、そっとシショカの様子を伺っていた。
 ケツァル少佐が画面を見たまま言った。

「お昼に建設省へ伺います。それでよろしいか?」

 4階の人間全員が振り返った。ケツァル少佐がイグレシアス大臣の誘いを受けた?!
シショカがなんとも言えない表情で彼女を見下ろした。

「どう言う風の吹き回しかな、少佐?」
「ご不満ですか?」

 少佐がキーボードを力強く叩いた。プリンターがいきなり作動して、客をギクリとさせた。

「それは勿論、大臣は喜ぶでしょうが・・・」

 シショカが不審そうな表情を続けた。

「無理に誘いに応じることもありませんぞ。」

 少佐が初めて顔を上げて彼を見上げた。

「私は仕事で大臣に会うのです。そちらこそ、ご不満ですか?」

 2人が見つめ合った。ロホのパソコンにメッセージが着信した。見るとデネロス少尉からだった。

ーーグラダに張り合うマスケゴって、身の程知らずよね?

 ロホは仕方なく返信してやった。

ーーヤツが勝てる訳ないさ。

 シショカがケツァル少佐の目から視線を外した。額に微かに発汗していた。失礼、と彼は呟いた。

「お昼にお越しになるのですな?」
「12時20分に大臣のオフィスに伺います。用件が済み次第すぐに帰りますから、余計なお気遣いは無用です。」

 シショカは承ったと軽く頭を下げて、他の人間には見向きもしないで去って行った。
 少佐は部下達の視線に気がつくと、建設大臣との会見には触れずに指示を出した。

「ステファンは半時間後に病院にアスルを迎えに行きなさい。そのまま大統領警護隊官舎へ連れて行くこと。エステベス大佐が、宿無しの彼を心配して松葉杖が不要になる迄面倒を見て下さるそうです。」
「承知しました。」
「デネロスはこれからプリントアウトする書類をセルバ国立民族博物館へ届けなさい。ムリリョ博士がいらっしゃれば、直接お渡しして。用事が済めばすぐに帰って来なさい。
 ロホは建設省まで私の供をしなさい。」
「わかりました。」
「承知しました。」

 ステファン大尉がチラリとロホを見た。通常なら指揮官の運転手はその部署の末席の者が務める。しかし少佐は建設省に行く時は決してメスティーソの部下を同伴しない。ステファンも連れて行ってもらったことがないし、単独で遣いに出されたこともない。本来ならアスルが運転手をするところだが、その日本人は病院から退院するので上官のロホが務めるのだ。だからこの人事は当然なのだが、ステファン大尉は何となく朝から少佐とロホが目で会話する回数が多い様な気がしていた。それにロホ同様に官舎に住んでいるデネロスが、昨晩ロホが戻らなかったと言う噂を仲間から聞きつけていた。一番気に入らないのは、ロホが漂わせている石鹸の香りが少佐と同じ物だと言う事実だった。
 ロホがステファンに声をかけた。

「私が出かけるのは昼前だから、君の書類を片付けておく。」
「グラシャス。」

 ステファンは書類を整理してロホの机の上に置いた。一瞬目が合った。

ーー昨晩、少佐の家に行ったのか? 少佐は大統領の警護に就かれていた筈だが。

 ロホは目を逸らすと言う失礼な振る舞いが出来なかった。相手は親友だ。

ーー行った。テオも一緒だった。
ーー何の為に?

 ステファンは母と妹の家探しに友人達が少佐を巻き込んだのかと懸念した。しかしロホは一言、

ーー事件があった。

とだけ伝えて目を逸らした。ステファンは上官の視線を感じてケツァル少佐を振り返った。少佐が首を小さく振って、「来い」と合図した。彼女についてエステベス大佐のプレートが掛かったドアの向こうの部屋に入った。彼がドアを閉じると、少佐が言った。

「デネロスとアスルには絶対に伝えてはなりません。」

 そして彼の目を見た。
 ステファン大尉は衝撃を受けた。アリアナ・オズボーンが誘拐された? そして鏡に書かれた不吉なフレーズ。もしかしてトゥパル・スワレがシュカワラスキ・マナの血縁者を全員殺すと宣戦布告したのかも知れない。だが・・・
 ステファン大尉は少佐にこう言った。

「祖父が若い頃に”星の鯨”を地底で見たと言っていました。父はそれを探すために地下へ降りたのだと祖父は私に言ったのです。子供の頃は、父はそんな伝説の鯨を探して落盤で亡くなったのだと信じていました。ムリリョ博士の話を聞いた後は、父の死の真実を孫に知られまいとした祖父の作り話だったと思いました。しかし、昨夜ドクトル達の家の鏡にそんなフレーズが書かれていたとなると、祖父の話が本当だったのではないかと思い始めました。」

 少佐が困惑した表情になった。彼女は髪を掻き上げて考えるポーズになった。滅多にないが、彼女が悩む時の癖だと部下達は知っていた。

「ステファンのお祖父様が若い頃に”星の鯨”を見たと言ったのですね?」

 ステファン大尉がぼんやりとした記憶の中に残る祖父から伝えられたイメージを”心話”で少佐に見せた。真っ暗な闇の中で何か輝く大きな物がキラキラ光る物に包まれている、奇妙なイメージだった。

「そのイメージはお祖父様から父にも伝えられたのでしょうね?」
「恐らく・・・父はそのイメージを殺される前にトゥパルに見られたのではないでしょうか。」

 少佐は更に考えようとしたが、ドアをノックする者がいた。デネロスの声が聞こえた。

「大尉、そろそろ行かないとアスルが病院で待ちぼうけを食いますけど?」


太陽の野  9

  ケツァル少佐は客間のベッドを使わせてくれたが、シオドアはアリアナが心配でよく眠れなかった。恋愛感情は持っていなかったが、生まれた時からそばにいたのだ。血が繋がっていなくても妹だった。喧嘩もしたし、男女の関係になったこともあったが、家族だと思える人だった。しかし、その関係に甘えて彼女を構ってやらなかった。アリアナは孤独だったのだ。アメリカでもセルバでも。優しい言葉をかけてくれる護衛に気を許したのだ。そしてシャベス軍曹も油断した。何者かが侵入して2人を誘拐してしまった。
 眠れぬまま一夜明けた。キッチンで物音がしたので、シオドアは客間から出た。キッチンへ行くと、緯度が低い国の早い朝日が差し込む明るいキッチンでケツァル少佐が朝食の準備に孤軍奮闘していた。テーブルの中央にパイナップル、スイカ、マンゴーなどの果物が大雑把に切り分けられて盛り付けられ、申し訳程度の量のクロワッサンが籠に入れて置かれ、白身がしっかり焦げた目玉焼きが皿に載せられた。

「ブエノス・ディアス!」

と声をかけると、返事をしてくれたが、豆を煮込むのに忙しそうだ。セルバ人は煮込み豆が好きなのだ。貧しい家庭でも煮込み豆の缶詰は必ず常備している。シオドアはコーヒーを淹れて手伝った。

「いつも朝食は自分で作るのかい?」
「スィ。でも豆は1週間分作り置きします。今朝は切らしていたんです。」

 そしていきなり怒鳴った。

「起床!」

 リビングのソファで寝ていたロホが跳び起きた。時計を見て慌てたので、本当に寝過ごしたらしい。ロホは朝の挨拶もせずにバスルームへ駆け込んだ。シオドアは時計を見て、まだ省庁の開庁時刻に十分間があることを確認した。ロホはこのアパートから直接出勤する予定だから、少佐は単に日常の時間帯で彼を起こしただけなのだ。普段真面目なロホが少佐の側ではよく失敗する。恐らく、どこかに少佐への甘えがあるのだ、とシオドアは思った。ステファン大尉もアスルもそうだ。大統領警護隊文化保護担当部の男達は優秀なのだが、指揮官が優れ者過ぎて甘えてしまっている。ロホは官舎で寝ていれば遅刻などしないのだ、きっと。
 少佐が豆の鍋を火から下ろして3枚の皿に適量に盛りつけた。残りは冷蔵庫行きだろう。そこへロホが戻って来た。スッキリした顔になって、敬礼で朝の挨拶をした。
 朝食のテーブルを囲んで、ロホがアリアナを誘拐した犯人の目的は何だろうと言った。シオドアも思いつかなかった。亡命者を襲ったのだから遺伝病理学研究所関係のアメリカ人か、雇われたセルバ人だと思ったのだが、昨夜の鏡の文字が気になった。するとロホが前夜言いかけて言えなかったことを教えてくれた。

「あの鏡の文章は単語を間違えていると言いましたね?」
「うん、君は確かにそう言った。」
「原語は神聖な言葉なのでみだりに口に出来ないのですが、一つの単語がよく似た発音の言葉でそのままスペイン語に訳されていたのです。」
「ええっと・・・それはどう言う意味かな?」
「銀と言う単語がありましたね?」
「スィ。銀の鯨、と書いてあった。」
「原語は 星の鯨 なのです。原語の”銀の”と”星の”は発音がよく似ています。神代文字も似ているのです。」
「それじゃ、神様を讃える言葉は、太陽の野に星の鯨が眠っている ?」
「スィ。鏡にあの呪文を書いたヤツが故意に間違えた単語を書いたのか、或いは間違えて覚えているのか・・・」

 すると少佐が言った。

「”ヴェルデ・ティエラ”は”銀の”で覚えていますから、書いたヤツは”ティエラ”のふりをしたか、或いは本当に”ティエラ”なのか、と言うことです。」
「だけど、”操心”を使っただろう、犯人は。つまり、フリをしたんだ。」
「どうしてそんなバレバレのフリをするのです?」

とロホが問うと、少佐が推理を言った。

「憲兵隊には”ティエラ”だと思わせておきたいのでしょう。現に憲兵隊はシャベス軍曹がアリアナを誘拐したと考えている様です。キルマ中尉は部下に濡れ衣を着せられたと怒っていますよ。」
「しかし、”シエロ”が犯人だとして、どうして亡命アメリカ人を襲うのです?」

 すると、少佐がロホの目を見た。シオドアは彼女が一瞬にしてステファン大尉暗殺未遂事件の説明を彼に伝えたのだとわかった。ロホの顔色が変わったからだ。

「トゥパル・スワレ様がカルロの命を狙っている・・・? そして・・・」

 それ以上言わなかった部分は、恐らくケツァル少佐とステファン大尉の個人的な関係だ。シオドアは彼が思い悩む時間を与えたくなくて、素早く質問した。

「君はブーカ族の名家の出だろう? スワレ家も名門だと聞いたけど・・・」
「私はスワレ家の人と面識がありません。」

 ロホが不機嫌な顔で答えた。

「私の家は宗教的な職務で地位を保っています。スワレ家は昔から政治一筋です。古代社会の宗教と政治は一体でしたが、”ティエラ”にセルバの支配権を奪われて・・・譲ってからは政教分離で我々はやって来ました。その方が正体がバレずに済みますから。スワレ家から”砂の民”を出すことはあっても、マレンカ家から出したことはありません。」

 シオドアはそこで昨夜の疑問が一つ解決したことを知った。

「マレンカと言うのは、君の実家の本当の名前なんだね?」

 すると少佐がさりげなく言った。

「アルフォンソ・マルティネスは市民に覚えられやすい様に彼が自分で付けた名前です。本名はアルファット・マレンカです。」

 ロホは顔を少々赤らめて、「アルフォンソ・マルティネスの方が良いです」と言った。少佐がまた言った。

「野球やサッカーの有名選手にマルティネスが多いですからね。」

 そんな子供っぽい理由か? シオドアがロホを見ると、ロホはますます赤くなった。少佐の言葉は本当らしい。

「と・・・兎に角、ブーカ族だからと言って、私の実家とスワレの家は付き合いがないのです。祖父は長老会のメンバーですが、トゥパル・スワレと友達だと聞いたことはありません。会合に必ずしも全員が出席するとは限らないし・・・」
「長老会の会合は仮面を被って行うのです。」

と少佐が説明した。

「声も仮面を通すのでいつもと違って聞こえます。誰がどの意見を言ったか、互いにわからない様に行います。私は長老会に出る年齢ではありませんが、先輩方の”心話”で風景を見せてもらったことがあります。山羊の脂で火を灯した暗がりの中で行われる会議で、見て気持ちの良いものではありませんでした。そこで”砂の民”に誰を処分させるか決めたり、次の選挙で誰を支持して当選に持ち込むか決めるのです。」
「セルバの闇の国会か・・・」

 シオドアは少佐とロホを見た。

「アリアナを攫ったのは、やっぱりトゥパル・スワレの手下なのかな?」
「”太陽の野に銀の鯨が眠っている”と言うフレーズが気になりますね。」

とロホが憂い顔で言った。

「一族皆殺しの予告ですから・・・少佐が仰ったシュカワラスキ・マナと言う人の血統を滅ぼすと言うことであれば、カルロだけでなく、彼の妹も少佐も入るのではないですか? 」
「だけど、トゥパルがマナを殺害した証拠はないだろう。もしカルロが彼を父親の仇と考えることをトゥパル自身が恐れているとしたら、マナの血統を根絶やしにすることは却ってマズいんじゃないか? 長老会に怪しまれると思うが・・・」

 喋りながら、シオドアはテーブルの中央に山盛りになっていた果物が既に消滅しかけている事実に気がついて愕然とした。少佐の前にパイナップルやスイカの皮が山積みされている。いつの間に食べたんだ?
 ロホは豆にしか興味がないらしく、彼自身の分を平らげると、コンロに残されている鍋をチラリと見た。少佐が舌打ちこそしなかったが、チェっと言いたげな表情をして、席を立ち鍋を持ってきた。ロホの皿にお代わりを入れてやる。優しい上官だ。
 
「ここであれやこれや論じていても仕方がありません。憲兵隊と特殊部隊が何か手がかりをつかんでいないか、後で電話を入れておきます。いつもの様に仕事に行きましょう。早く食べてしまいなさい。」

 シオドアは2切れしか残っていないパイナップル、スイカ、マンゴーを一切れずつ皿に取り、バナナも1本取った。ロホがパイナップルは要らないのでシオドアに食べて良いと言ったので、少佐が笑った。

「マレンカは我々の古い言葉で、パイナップルの意味です。」
「それじゃ、マルティネスの方が良いよな。」

 シオドアも笑ったので、ロホはむくれた。彼は強引に話題を変えた。

「今日はアスルが退院してきます。事件を伝えた方が良いですか?」
「ノ。」

と少佐が速攻で答えた。

「暫くはこの3人だけの話にしましょう。ドクトルは普通に大学に行きますか?」
「行くけど、大学事務局に事件の報告はしなきゃいけない。きっと内務省からも連絡が行くだろうし。」
「わかりました。では、貴方を大学に送ってから、私はオフィスに出勤します。夕刻は私達のところへ来て下さい。下のカフェで落ち合いましょう。貴方が何処へ帰るか、それから決めます。」

 


2021/08/04

太陽の野  8

  シオドアは室内の気温が3度ばかり下がった様な寒気を覚えた。ケツァル少佐が不機嫌な顔をして鏡を見つめていた。少佐だけではない、ロホも強張った表情で鏡面を睨みつけていた。シオドアは背後で憲兵達がヒソヒソと話をしているのに気がついた。鑑識の係官も1箇所に固まってバスルームを見ている。キルマ中尉が小声で言った。

「憲兵達が動揺している。」

 するとロホが振り返った。

「私が鎮めてきます。」

 彼は少佐の返事を待たずに、憲兵達の方へ歩いて行った。シオドアはまだ意味がわからなかった。鏡に文字を書いたのは、恐らくアリアナを拉致した犯人なのだろう。しかし文章の意味がわからない。憲兵達が動揺する理由がわからない。
 キルマ中尉がまた言った。

「神代文字でなくて良かった。」
「エクサクト・・・」

と少佐が同意の声を出した。シオドアは後ろを振り返った。ロホが憲兵達を宥めていた。

「ただの嫌がらせだ。君達に悪意を向けているのではない。」

 屈強な兵士である筈の憲兵達が何に動揺しているのか、シオドアはまだ理解出来ないでいた。ケツァル少佐が鑑識班を振り返り、鏡の写真を撮ったのかと尋ねた。鑑識の連中は互いに顔を見合わせ、やがて一人が決心したかの様に前に進み出て、バスルームに入った。フラッシュを焚いて写真を撮ると、彼は少佐に尋ねた。

「指紋も採取しますか?」

 少佐は粉が振りかけられている鏡面を見た。

「お願いする。これはただのガラスの鏡だ。」

 少佐の口調はすっかり軍人のものだった。特殊部隊にも憲兵隊にも命令を下せる大統領警護隊の口調だ。少佐が鏡の前に立っているので、鑑識班は勇気づけられた様だ。急にテキパキと動き出した。
 シオドアはロホに宥められた憲兵達が慌てて仕事に戻るのを見た。キルマ中尉は憲兵隊を冷ややかに眺め、それからリビングへ出て行った。彼女の野太い声が特殊部隊の兵士に集合をかけた。

「シャベスの車を探せ! グラダ・シティを出る前に捕まえろ。」

 兵士達が「おう!」と声を上げて家から出て行った。キルマ中尉は憲兵隊の指揮官と少し言葉のやり取りをしてから、部下の後を追って出て行った。
 鑑識が鏡の指紋採取を終えたと報告した。ケツァル少佐が彼等に命じた。

「その文字を消せ。くだらない悪戯だ。」

 鑑識が大喜びで鏡を拭き始めたので、シオドアはロホのそばへ行った。ロホが彼を見て苦笑した。

「セルバ人でなければ先刻の事態を理解出来ないでしょうね。」
「あれは何だ? アリアナを攫ったヤツが残したんだと思うが、俺には意味がわからない。」
「あれは”ヴェルデ・ティエラ”の迷信で、見た者の一族を一人残らず殺すと言う呪いの呪文なのです。」
「”ヴェルデ・ティエラ”の?」

 意外だった。キルマ中尉が「神代文字」と言ったので、”ヴェルデ・シエロ”に関係した文だと思ったのだ。するとロホが声を潜めて解説した。

「元は”ヴェルデ・シエロ”の神殿の壁に書かれていた文句です。文字と言っても、神代文字と呼ばれる象形文字なのですが、新しい時代の人間である”ヴェルデ・ティエラ”にとっては太古に滅んだ種族の文字ですから、読めませんでした。いつの時代にか誰かが翻訳して、神代文字のまま部族戦争の時に戦う相手を呪う言葉として用いたのです。それが現代も残っていて、不良グループの喧嘩で使われる程度なら可愛いですが、反政府ゲリラや麻薬密売組織が敵対する相手、主に政府軍に宣戦布告する時に使うのです。」
「それで憲兵隊が心穏やかじゃなかったのか。しかし、太陽の野に銀の鯨が眠っている・・・綺麗な詩の様に思えるが・・・」
「”ヴェルデ・ティエラ”には、『あの世で眠れ』と言う意味に採られています。」
「本来は違うのか?」
「貴方が感じた様に、あれは神を讃える”ヴェルデ・シエロ”の言葉です。それに単語を間違えている。だから少佐もキルマ中尉も、そして私も不愉快に感じたのです。」
「単語を間違えている?」

 その時鑑識班がバスルームの鏡を拭き終わったので、ケツァル少佐がバスルームから離れた。時計を見て、彼女はロペス少佐を呼んだ。シーロ・ロペス少佐が疲れた顔でやって来た。内務大臣に事件を電話で報告し、きっと叱責を受けたのだろう、シオドアを不愉快そうに見た。ケツァル少佐は捜査に関して一切触れずに、

「私は今日はこれで撤収します。」

と言った。ロペスは反対せずに頷いた。大統領警護隊の仕事はここにない。ケツァル少佐がシオドアを見てさらに言った。

「ドクトル・アルストをここに置けません。私のアパートに保護します。」

え? とシオドアは驚いたが、ロペス少佐もちょっとショックだった様だ。独身で独居生活をしている美人が、白人の男を自宅へ連れて行く? ケツァル少佐はロホを振り返った。

「貴方も官舎の門限が過ぎてしまっていますから、うちで泊まりなさい。官舎には私から連絡を入れておきます。」
「感謝します。」

 ロホが素直にホッとした表情をした。そしてシオドアに荷物を持って行くようにとアドバイスをくれた。
 ケツァル少佐は2人の男を率いて家から出た。ロホのバイクを見て、憲兵隊の指揮官を呼んだ。

「車と運転手を1台半時間ほどお借りしたい。」

 シオドアは少佐が憲兵隊や特殊部隊と話をする時は大統領警護隊として上から目線で話すことに気がついた。偉ぶっているのではなく、彼等の守護者である警護隊として強いところを見せているのだ。先刻ロホが鏡の文字を見て動揺した憲兵達を宥めた様に、守護者がいるから安心して任務に励めと示しているのだった。憲兵達も半月足らずのうちに負傷から復活したケツァル少佐に声を掛けられて張り切っていた。
 シオドアと少佐は憲兵隊の車で少佐のアパートへ向かった。ロホはバイクでついて来た。ステファン大尉のアパートで家を買う相談をしていたのが遠い昔の様に思えた。


太陽の野  7

  シオドアはキルマ中尉に通報し、メイドの為に救急車を呼ぶ許可をもらった。メイドは怪我をしていないと言ったが、やはり念のために診察を受けさせたかった。2人の兵士は彼等の上官の判断に任せるしかない。

「彼女の寝室をご覧になりました?」

とロホがそっと尋ねた。シオドアは頷いた。

「男女の秘事の跡があったでしょう。」

とロホが控えめな表現で言った。シオドアはアリアナが心配だったが同時に腹が立った。何故彼女は同じ過ちを繰り返すのだ? しかしロホが問題にしたのは、そんなことではなかった。

「男の臭いがしましたが、複数でした。貴方の臭いを除外しても2人はいた様です。」
「2人?」
「スィ。一人は若いです。恐らく護衛のシャベス軍曹でしょう。」

 ロホの鼻はジャガーの鼻だ。

「もう一人がはっきりしません。タバコの臭いで人の臭いが薄まっています。」
「タバコ・・・」
「カルロが吸っているのと同じタバコです。」

 シオドアはロホの目を見つめた。

「”出来損ない”がここに来た? 犯人はそいつか?」

 ロホは首を傾げた。

「果たして”出来損ない”でしょうか? 兵士2人の記憶を”操心”で消しています。メイドも同じ手口で気絶させられたのでしょう。犯人は己の気の強さを誤魔化す為に敢えてタバコで鎮めたのだと思います。」
「それじゃ・・・シャベス軍曹も攫われた?」
「ガレージに車がありません。軍曹は操られてアリアナの拉致に手を貸したと思われます。」

 緊急車両のサイレンの音が近づいて来た。先ず陸軍特殊部隊第17分隊が到着した。それからほぼ同時に救急車と憲兵隊が来た。
 陸軍特殊部隊第17分隊の分隊長アデリナ・キルマ中尉はステファン大尉が呟いた通り胸の大きな女性だった。胸だけでなく体全体が大柄だった。そして純血種の顔をしていた。野太い声で部下を指図して家の周囲を固めた。憲兵隊がアリアナ誘拐事件の現場を捜査し始め、当然ながらシオドアとロホは事情聴取を受けた。メイドと2人の兵士も同様だ。
 メイドが救急車で運ばれる頃に、高級乗用車が門の前に停車した。車から場違いなタキシードとイブニングドレスで正装した男女のペアが降りて来た。当然ながら捜査員達や遠巻きに眺めている近所の野次馬の注目を集めた。そのペアが純血の先住民でありながら板にハマった着こなしをしていたのは、その服装に慣れていたからだろう。
 ロホが彼等を見て、手で己の額をピシャリと打った。

「しまった、今夜は大統領の誕生日祝賀会だった。」

 シオドアはドレス姿のケツァル少佐からロホに視線を移した。

「彼等はパーティーに出ていたのか?」
「スィ。任務です。大統領警護隊ですから。」
「ああ・・・大統領を警護していたんだな、文字通りに・・・」

 少佐がツカツカとハイヒールの音を響かせて家の中に入って来た。捜査の邪魔になりそうだが、憲兵隊は黙認した。彼女はロホの前に立つと一言命令した。

「報告!」

 報告は目と目で行われた。シオドアは一瞬で全てが伝わる”心話”が羨ましかった。言葉も映像も音も全部伝わるのだから。それにしても、今夜の彼女は実に美しい・・・。

「パーティーを抜け出させてごめんよ、少佐。」

 シオドアが謝ると、ケツァル少佐が彼をジロリと見た。

「アリアナを一人にしたのですね?」
「彼女には悪いことをした。友人の相談に乗ってやる為に、先に帰したんだ。だけど、彼女が狙われるなんて予想していなかった。」
「貴方は夜間に外出したのですか?」

 タキシードを着込んだシーロ・ロペス少佐が厳しい声で質問してきた。亡命審査官だ。1年間の観察期間中、シオドアとアリアナが毎日同じスケジュールで生活することを奨励していた男だ。
 シオドアは仕方なく夜間外出を認めた。

「友達の相談に乗るために、出かけていたんだ。アリアナは護衛のシャベス軍曹の車で帰った。夜間警護は2人いるし、大丈夫だと思ったんだ。」
「貴方は護衛も付けずに?」

 ロホが黙っていられなくなって、口を出した。

「今夜のドクトルの護衛は私です。」

 ロペス少佐が彼をジロリと見た。

「マレンカの御曹司、君をドクトルの護衛に任命した覚えはないが?」
「マレンカ?」

とシオドアが呟いたが、誰も説明してくれなかった。ロホは頬を赤らめたが、言い返した。

「特殊部隊が10人いるより私1人の方がドクトルを護衛する能力は上だと思います。」
「マルティネス中尉!」

とケツァル少佐が、上級将校に口答えした部下の口を閉じさせる為にきつい調子で名を呼んだ。ロホは仕方なくと言った表情で口を閉じた。
 ロペス少佐は腹立たしげにキルマ中尉の方へ歩き去った。特殊部隊と憲兵隊に捜査の指示を出すつもりだろう。
 シオドアはもう一度ケツァル少佐を見た。胸元が大きく開いたセクシーなドレスだ。ただ脇はしっかり隠してある。多分胸の傷跡を見せない配慮だろう。スカート部分に深いスリットがあり、チラリと太腿に装備した小型拳銃が見えた。本当に大統領を警護していたんだ。

「大統領警護隊がここへ来る理由はないよな? 君が来たのは、ロホが事件の通報者だったからだろう?」
「当然です。」

 ケツァル少佐はアリアナの寝室やキッチンで指紋採取をしている憲兵隊を見ながら言った。

「友達が攫われたのに、厳重な警備で固められている大統領府でのんびりしていられないでしょう。」

 それって、アリアナの身を心配して来てくれたってことか。シオドアは素直になることにした。

「彼女から目を離してごめん。ロホから報告があったと思うが、犯人はセルバ人だ。遺伝病理学研究所じゃない。」

 キルマ中尉が近づいて来た。ケツァル少佐の前に立って敬礼した。少佐も敬礼を返した。2人の女性が目で情報を交わしたので、シオドアはキルマ中尉も”ヴェルデ・シエロ”だとわかった。大統領警護隊にはスカウトされずに陸軍に残った人だ。だが特殊部隊の分隊長を務めているのだから、決して能力が劣っている訳ではない筈だ。
 中尉は一言も声を使って喋らなかった。多分、この場に来ている憲兵隊に一族はいないのかも知れない。
 キルマ中尉はもう一度少佐に敬礼し、ロホにも敬礼した。そしてくるりと向きを変え、部下達の方へ歩き去った。
 ロホが少佐に囁いた。

「彼女、相当怒っていますね?」
「部下が1人姿を消して、2人は不甲斐なくやられましたからね。」

 ケツァル少佐が冷たく言った。

「憲兵隊と仲は良いんですか?」
「どうでしょう。」

 少佐が他人事の様に言った。

「捜査権を巡って争うかも知れません。内務省は軍に責任を押し付けるでしょうから。」

 憲兵隊が何やら騒がしくなった。キルマ中尉が憲兵達を押しのけてアリアナの寝室に入っていった。シオドアは不安になった。何か見落としがあったのか? キルマ中尉が戸口から顔を出して怒鳴った。

「少佐!」

 ケツァル少佐とロペス少佐が振り向いたので、彼女は怒鳴り直した。

「ケツァル少佐!」

 ケツァル少佐が寝室に向かったので、シオドアとロホもついて行った。2人の男性がついて来たことにキルマ中尉は苦情を言わなかったが、ロホにはこう言った。

「バスルームを見なかったのか、マルティネス中尉?」
「見たが?」
「では、鏡に気づかなかったのだな?」
「鏡?」

 キルマ中尉は憲兵達を退がらせ、ケツァル少佐とロホ、そしてシオドアにアリアナの寝室にあるバスルームを示した。鏡に鑑識の指紋採取用の粉が振りかけられていた。そこに文字が浮かび上がっていたのだ。

 太陽の野に銀の鯨が眠っている



2021/08/03

太陽の野  6

  カルロ・ステファン大尉が母親と妹の為に購入したいと希望する家は、戸建てだった。出来るだけ治安の良い場所で、しかし値段が高くない土地と家。シオドアは旧市街地で大きなお屋敷が沢山あったと言う地区に興味を引かれた。そこは今、お屋敷が解体され、新たに宅地分譲地として売り出されているのだ。更地を買って家を建てるか、それとも早い時期に家が建てられ中古物件となったものを買うか。シオドアがマークした数軒の中から1軒をロホが指差した。

「私はこの家が気に入ったな。もし結婚して家を持つとしたら、この家が良い。」

 ステファンが眉を上げて彼を見た。ロホの実家はブーカ族の名家だと言うから、きっと大きな家に住んでいるに違いない、とシオドアは想像した。ロホ自身は大統領警護隊の官舎に住んでいるのだが。

「親の家に戻らないつもりか、ロホ?」
「戻らない。兄がいるのに、私が戻ったら家が狭いだろう。」

 ロホがシオドアを振り返って言った。

「私には兄が3人いるのです。」
「3人?」
「それに弟が2人。」
「コイツは男ばかり6人兄弟なんですよ。」

 それはさぞかしむさ苦しい家だろう、とシオドアは想像した。反対にステファン家はカルロ以外は全員女だ。2人亡くなって1人は腹違いだが、シュカワラスキ・マナの子供は息子が1人だけであとは全員娘なのだ。

「なぁ、カルロ・・・」
「はい?」
「君の妹は、やっぱり美人だろうな?」

 するとロホが笑った。彼はまだ少佐と親友が異母姉弟だと知らないのだが、シオドアにこう言った。

「髭を剃ったカルロの顔を思い出して下さい、テオ。コイツの素顔は可愛いでしょう? その妹ですよ、美人でない筈がないじゃないですか。」
「褒められているのか貶されているのか、わからん。」

とステファンが拗ねて、シオドアとロホは笑った。ロホがお気に入りの家が載ったページを指で叩いた。

「この家にしろよ、カルロ。皆んなでリフォームを手伝ってやるから。」
「ああ、それいいな!」

 シオドアも乗り気になった。大工仕事やペンキ塗りに大いに興味が湧いてきた。

「現状のまま買えば、値段は高くない。俺達で改装しよう。カルロ、お母さんや妹さんにそれとなく家の好みを訊いておいてくれないか?」

 ローンの計画を考えると言うステファン大尉に「おやすみ」を言って、シオドアとロホは彼のアパートを出た。ロホのバイクの後部席に乗せてもらい、夜の街中を走ると気持ちが良かった。シオドアは愉快な気分だった。遺伝子も研究も超能力も暗殺も遺跡も関係ない、普通の市民の会話を堪能した。ロホもステファンも普通の幸せを求める普通の若者だ。
 シオドアの亡命生活観察期間の家の近くまでやって来た。ロホが門の少し手前でバイクを停めた。ヘルメットのシールドを開けて暗がりの中を見て、シオドアの方へ顔を向けた。

「テオ、夜はいつも門を開けているんですか?」
「ノ、閉めている。」
「では、今夜は貴方の帰りが遅くなるから開けている?」
「そんな筈はない。遅くなったら夜警の兵士に開けてもらうんだ。」

 ロホはシールドを下ろし、バイクを再発進させた。門の中に入らず、一旦前を通り過ぎた。1ブロック先迄走ってから、バイクを停めてエンジンを切った。シオドアが先に降りて、ロホも降りた。ヘルメットを脱いでバイクのハンドルに引っ掛けた。滅多に使用しない拳銃を抜き、安全装置を解除してシオドアに渡した。

「家の様子が変です。私が見てきます。ここで待っていて下さい。」
「俺も行くよ。アリアナが心配だ。」

 シオドアの勇敢さは反政府ゲリラからロホを救出した時に証明済だ。ロホはそれ以上何も言わなかった。2人は歩いてシオドアの家迄戻った。用心深く門から内側へ入った。夜目が効くロホが庭を見回した。そっと囁いた。

「左手の奥、植え込みの下に一人倒れています。陸軍の制服を着ています。」
「夜警は2人いる。」

 シオドアは真っ暗な家を見た。アリアナは無事だろうか。警備兵が倒れているのだ、無事でいられる筈がない。一人にするのではなかった。だが、何者が襲撃したのだ? CIAか? それとも反政府ゲリラか? 強盗か? 警備兵は陸軍特殊部隊の兵士だ。普通の人間であっても、厳しい訓練を受けた若者達だ。賊に簡単にやられるとは思えない。
 ロホが窓から屋内を覗いた。人の気配がないので、彼は玄関のドアを押した。ドアが簡単に開いた。一歩中に入り、彼は全神経を集中して家の中にいる人間の気配を探査した。何かを見つけ、キッチンへ向かった。シオドアは闇の中で目を凝らしながらロホの後ろをついて行った。彼の耳に奇妙な唸り声が聞こえてきた。キッチンの床の上で何かが動いていた。
 突然照明が灯って、シオドアは声を出しそうになった。だが、それはロホが壁のスイッチを押して天井の照明を点けただけだった。
 キッチンの冷蔵庫の前でメイドが縛られて床の上に転がされていた。唸り声は彼女が口に貼られたダクトテープの下で呻いていたのだ。シオドアは拳銃をロックしてベルトに挟み、彼女に駆け寄った。テープを剥がしてやると、彼女は空気を求めて喘いだ。手首を縛っているダクトテープは包丁で切った。

「大丈夫か? 何処か怪我していないか?」

 シオドアはメイドに怪我がないか目視で確認した。メイドは涙でベトベトになった顔のまま、彼にしがみついてきた。

「ドクトル、グラシャス! 殺されるかと思いました。」
「何があったんだ?」
「わかりません。お夕食の支度をしていたら、後ろに誰かが立って、振り返ったら・・・そこから覚えていないんです。目が覚めたら縛られていて・・・」
「アリアナは?」
「わかりません、すみません、ドクトラはどうなったんです?」

 キッチンの調理台の上には調理しかけた野菜などがそのまま残っていた。シオドアがメイドを落ち着かせている間に家の奥へ様子を見に行ったロホが戻って来た。

「誰もいません。」

と彼が報告した。

「でも、アリアナの鞄が寝室にありました。帰宅されたのは間違いないようです。」

 そして外をもう一度見てきます、と言って彼は裏口から庭に出た。
 シオドアはリビングの照明を点けて、そこが荒らされていないことを確認して、メイドをソファに座らせた。水を飲ませてから、自分の寝室へ行ってみた。朝出かけた時のままだ。彼はロホが一度覗いたアリアナの部屋にも行ってみた。ドアを開けて、愕然とした。
 ロホは先刻言わなかったが、恐らくそれはメイドがいたからだろう。アリアナのベッドは乱れていた。彼女の下着が散乱していた。彼女は裸で拉致されたのか? クローゼットの扉が開いたままだ。ロホが隠れている者がいないか確認したのだろう。シオドアはその中に何気なく目を遣って違和感を覚えた。ちょっと考えて、クローゼットに近づき、ぶら下がっているアリアナの服を探った。何か足りない。そして気が付いた。
 セルバに亡命して来た時、北米は冬だった。アリアナはコートを着て来た。だからそれはクローゼットにあった筈だ。それが消えていた。アリアナを拉致した人間は、彼女にコートを着せて連れて行ったのだ。他の服を着せるより簡単だから。
 ロホが呼ぶ声がしたので、キッチンに戻った。ロホが兵士2人をキッチンの床に座らせ、水を与えていた。

「彼等は気絶させられただけで、無事でした。襲撃者を見ていないと言っています。」

 彼はシオドアに囁いた。

「多分、”操心”で見ていないと信じこまされています。」
「それじゃ、襲撃したのは”ヴェルデ・シエロ”?」
「特殊部隊の兵士を怪我させずに簡単に気絶させているので、そうとしか思えません。」

 ロホは携帯を出した。

「私は少佐に報告します。貴方はキルマ中尉に連絡して下さい。内務省に内緒にする必要はありません。」


太陽の野  5

  結局シャベス軍曹の直属の上官アデリナ・キルマ中尉が”ヴェルデ・シエロ”なのか違うのか訊けず仕舞いで、シオドアは文化・教育省を出た。大学に戻ると昼だった。昼食を取る前に、研究室からキルマ中尉に電話をかけてみた。野太いが女性の声だとわかる人が電話口に出た。

「キルマ中尉・・・」
「テオドール・アルストです。内務省から護衛をつけてもらっている・・・」
「ああ、アメリカから来た博士。」

 キルマ中尉は余計なお喋りをしないタイプらしい。

「何かご用件ですか?」

 まるでケツァル少佐だ。愛想がない。もしかすると、セルバの女性軍人はこれが普通なのだろうか。シオドアはすぐに要件に入ることにした。直ぐに昼休みだ。

「昼間の護衛につけてもらっているシャベス軍曹ですが、最近俺の妹と無駄話が多いと友人から聞きました。」
「無駄話?」
「任務遂行中に世間話をしているのを見たと言う人がいます。俺がいる時は静かですが。」

 ああ、とキルマ中尉が声を出した。言いたいことはわかる、と言う意味だ。

「軍曹に注意しておきます。他の者に交代させましょうか?」
「いや、そこまでしなくても良いです。ただ、任務に集中して欲しいだけです。」
「承知しました。」
「よろしく。」

 シオドアは電話を切った。もしかするとアリアナに恨まれるかも知れないが、休日にデートぐらいなら許そう、と思った。2人が互いに好き合っていると言う前提だが。
 シエスタの後、授業を行った。学生達はもうすぐ独立記念日の休暇が来るので、浮き足立っていた。旅行やら帰省やらで国外や田舎へ行くのだ。シオドアはエル・ティティのゴンザレス署長にグラダ・シティに遊びに来ないかと電話したのだが、ゴンザレスは独立記念日の休暇は帰省する若者で街の人口が増えるので忙しいと断った。

「それじゃ、俺も来年はその人口の一人だから。」

と言ったら、ゴンザレスが笑って、待ってるぞ、と言ってくれたのだ。
 夕刻、授業が終わってアリシアが研究室を出るのを待っていると、ステファン大尉から電話がかかって来た。

「今夜はご予定ありますか?」
「ノ。フリーだけど?」
「もし良ければうちに来てくれませんか? ご相談したいことがあります。」

 例の暗殺未遂事件のことだろうか。シオドアは「行くよ」と答え、駐車場へ向かった。シャベス軍曹が既に来ていて、車の横でタバコをふかしながら待っていた。シオドアが近づくと、ちょっと罰の悪そうな顔をしてタバコを地面に落として足で揉み消した。恐らくキルマ中尉から電話で注意をされたのだろう。シオドアは故意にそれに触れないで、夜の予定が変わったことを告げた。

「友人の家に行くことになった。悪いが、アリアナだけ乗せて帰ってくれ。俺は夕飯も要らないから。」
「夜間のお出かけは護衛をつけて頂かないと・・・」

 シャベスの言葉を彼は遮った。

「大丈夫だ、いつもの友達がいるから。」

 軍曹が溜め息をついた。

「ロス・パハロス・ヴェルデスですか。」
「スィ。エル・パハロかロス・パハロスになるかわからないが、兎に角少なくとも連中の一人と一緒だ。だから護衛は必要ない。」

 大学を出て、文化・教育省に向かって歩いた。徒歩10分の距離だ。直ぐに到着した。午後6時の定刻になると役所は一斉に閉庁し、職員達がゾロゾロ雑居ビルから出て来た。出て行く人に入り口の番をしている軍曹は知らん顔だ。シオドアはロホが出て来て、路地の奥の駐車場に入って行くのを見送った。次にデネロス少尉が若い女性職員達とお喋りしながら出て来た。彼女達も駐車場へ向かった。ロホのバイクが走り去り、デネロスが女性友達の車に同乗して去った。シオドアがさらに待っていると、ケツァル少佐が2人のスーツ姿の男性と話をしながら出て来た。一人は文化・教育大臣だったので、シオドアはちょっと驚いた。大臣の運転手は既に待機していたのだろう、彼等がビルから出ると直ぐに駐車場からやって来て、大臣と少佐を後部席に、もう一人の男性を助手席に乗せて走り去った。少佐はまだ仕事なんだ、とシオドアは思った。しかし少佐はTシャツにジーンズだ。大臣級の人間とデートする服装ではない。彼等の行き先が高い店とは思えなかった。
 ビルから出て来る人の流れが薄くなった頃に、やっとステファン大尉が現れた。携帯電話で誰かと話しながらビルから出て来て、シオドアに気づくと手で「ついて来い」と合図した。電話の相手は親しい友人らしく、テイクアウトの食べ物の話をしていた。夕食の打ち合わせか?とシオドアは彼と2人きりだと思っていたので、3人目は誰だろうと考えてしまった。
 ビートルの前でステファンは電話を終えて、ドアを開けた。そしてシオドアを振り返った。

「急にお呼びだてして済みません。」
「構わないさ。友達も来るのかい?」
「スィ。」

 ステファンはちょっと意味深に笑って、シオドアを見覚えのある古いアパートへ連れて行った。アパートの前に路駐すると、階段を上がって、部屋に入った。若い男の一人暮らしだ。散らかっていそうで整然としている。と言うより、あまり私物を持っていないのだ。彼はシオドアにキッチン兼ダイニングの椅子を勧め、冷蔵庫からビールを出して来た。シオドアは床を見た。

「以前ここへ来た時は、沢山の猫を飼っていたよな?」
「猫なんて飼っていませんよ。時々飯を食いに来ていた連中です。私が北米へ行って長い間留守にしたので、何処か別の家へ行ってしまいました。」

 その時、外で聞き慣れたバイクのエンジン音が近づいて来て、アパートの前で停まった。シオドアは3人目が誰だかわかったので、安心した。
 果たして美味しそうな匂いを漂わせた大きな紙袋を持ってロホが現れた。

「スイートソースが品切れだったから、ややスパイシーソースにしたぞ。」
「あの店の やや は やや じゃないぞ。」
「激辛よりはマシだろう。」

 シオドアを不安にさせる会話をしながら、大尉と中尉がテキパキとテーブルの上に料理を並べた。大統領警護隊の男達は家事をこなすのが上手い。もしかすると、一番下手なのはケツァル少佐かも知れない、とシオドアは思った。
 支度が整うと、男達はテーブルを囲んだ。各ビールの瓶を掴んだ。ステファンが言った。

「明日やっとのことで退院するアスルに乾杯!」
「松葉杖の英雄に乾杯!」
「ひ弱なアスルの脚の骨に乾杯!」

 本人が聞いたら気を悪くする祝辞で彼等は乾杯した。ビールをゴクリと飲んでからシオドアは質問した。

「相談したいことって何だい?」

 ステファン大尉が席を立ち、直ぐに棚から何かのパンフレットを持って戻ってきた。

「家を買おうと思うのですが、どれが良いですか?」
「はぁ?」

 シオドアは思わず彼を見つめ、それからロホを見た。ロホが説明した。

「カルロはオルガ・グランデから母親と妹をグラダ・シティに呼び寄せる決心をしたんです。それで貯めた金を頭金に、家を買って女性達を住まわせたいと考えているのですが、どんな家が良いか、貴方に助言をいただこうと思って・・・」
「そんなの、お母さん達に訊けば良いだろう?」
「母にはまだ言っていないのです。家を贈ってびっくりさせたいのです。」

 ステファンは自分がトゥパル・スワレに狙われていると知って、母と妹を目の届く場所に置きたいのだ。しかし、それは多分ケツァル少佐には相談出来ない話なのだ、とシオドアは理解した。ステファンの母親カタリナが夫シュカワラスキ・マナと知り合った時、ケツァル少佐の母親は既にこの世にいなかった。しかし正式の夫婦でない男女の間に生まれた少佐は、父親の正式な妻が今も健在で子供達と一緒にいられることに複雑な感情を抱いているだろう。マナは妻に出会う前の彼と彼の2人の半分グラダの血を引く仲間のことを話しただろうか。カタリナは”心話”が出来るから、恐らく夫の目から過去の話を伝えられただろう。夫のもう一人の娘の存在を知っているに違いない。その娘が現在彼女自身の息子の上官だと知ったら、どんな気持ちになるだろう。

「わかった。先ず、予算はいかほどだい?」



第11部  神殿        15

 ほんの10数分だったが、テオは眠った。声をかけられて目を覚ますと、彼が住んでいるコンドミニアムの前に停車していた。アブラーン・シメネス・デ・ムリリョが運転席で微笑を浮かべて彼を眺めていた。 「疲れているんですね。何があったのか聞きませんが、貴方が大統領警護隊を呼べない状況なのだ...