2021/12/09

第4部 忘れられた男     14

  2ヶ月の休暇はとても長く感じられた。カルロ・ステファンは退屈で2週間も経たぬうちに本部へ戻ろうかと思ったのだが、同じ時期に大学の雨季休暇に入った妹のグラシエラが、教員免許を取るための特別授業の一環で、スラム街の子供達の教育を行う団体にボランティアとして参加したので、その送迎をする為に実家に残った。グラシエラは”心話”と夜目しか使えない”ヴェルデ・シエロ”だから、普通の人間”ティエラ”と殆ど変わりがない。だから兄貴としては、妹が不良どもに狙われないかと心配だった。さらに気掛かりだったのは、妹の大学の同級生達だ。数人の男子学生がグラシエラを迎えに来たり、送って来たりする。彼女は「ただの同級生だ」と言うが、兄の目から見れば、どれも飢えた狼だ。だから顔を合わせると睨みつけてやる。学生達の間ですぐに噂になった。

 グラシエラ・ステファンの兄ちゃんはおっかない!

 グラシエラには、兄が大統領警護隊の隊員だと周囲に言うなと申し渡してあるが、それでも立ち居振る舞いは軍人だし、軍服を着て街で活動している彼の姿を目撃したことがある学生もいたので、正体がバレるのも時間の問題だった。
 流石にグラシエラも、同級生に片っ端から睨みを効かせる兄貴の態度にいささかうんざりしてしまった。それで彼女は、つい、言ってはいけないことを兄に言ってしまった。

「シータに振られたからって、私の友達に当たることはないでしょ!」

 その話をカタリナ・ステファンから聞かされたケツァル少佐は笑いが止まらなくて困った。カタリナも笑いながら、この3日ほど互いに口を利かない息子と娘に手を焼いている、と愚痴った。彼女達はステファン家の小さな居間でコーヒーを飲みながら世間話をしていた。

「カルロが貴女を慕っていたことを、私は知っていました。でも貴女の心が彼にないこともわかっていました。」
「彼は私にとって大事な部下で、愛する弟です。そして心から信頼出来る仲間です。それ以上でもそれ以下でもありません。」
「グラシエラも貴女を慕っています。でも兄と姉が結ばれる部族の古い習慣には抵抗があることも事実です。だから、貴女が彼に引導を渡してくれた時に、彼女も私も内心安心したのです。だけど、カルロは、まだ未練がある様です。」
「軍隊にいると女性と接する機会が少ないのも事実ですから。焦らずに長い目で見てやって下さい。それにしても、グラシエラの一発は今のカルロにとって、きつかったですね。」
「傷口に塩を塗ったようなものですよ。」

 カタリナは家の奥をチラリと見た。グラシエラはボランティア活動の最終日でスラムに出かけていた。新学期が始まるので、彼女の活動は休止だ。カルロの方も週明けに本部へ戻る。戻ってしまえば、次に実家へ帰るのは何時になるかわからない。本部では、彼を指揮官候補生として教育しているのだ。彼の念願の、「ケツァル少佐と同じ階級に上がる」日が近づいている。しかし、その昇級の目的だった女性は、もう彼のものにならない、と彼女自身から告げたのだ。カタリナは息子が自棄を起こさないかと、ちょっぴり心配だった。こうして彼女が少佐と居間でコーヒーを飲んでいる間も、カルロは自室に閉じこもって出て来ない。ハリケーンが来た時に、祈祷と言う任務で一時的に本部へ召喚されたが、自然災害の脅威が去ると、半ば強制的に実家へ戻された。カルロは丸2日、自室で眠りこけ、目覚めると部屋に閉じこもったままだ。
 ケツァル少佐は、ステファン家訪問の真の目的に入ることにした。何時までも失恋した弟を肴に喋るのも気の毒だ。振ったのは彼女自身なのだから、尚更だ。

「来週、イェンテ・グラダへ派遣されることになりました。」

 カタリナにはピンと来なかったようだ。不思議そうな目で義理の娘を見た。それで少佐は簡単に説明した。

「シュカワラスキ・マナとウナガン・ケツァルが生まれた村です。貴女のお父様の故郷でもあります。」

 ああ、とカタリナは頷いた。夫はイェンテ・グラダ殲滅事件があった時、まだ1歳だった。だから夫から村の話を聞いたことはなかった。父親は10代の頃に村を出て鉱山へ出稼ぎに行った。1度だけ里帰りしたが、その時点で既に村は消滅していた。父親は、故郷を失ったとだけ妻子に語り、それ以上村の思い出を語ることはなかった。恐らく、彼が出稼ぎに出る前からイェンテ・グラダ村には不穏な空気が満ちていたのだろう。父親は村がどうなったのか真相を知らなかったが、何故消滅したのか、理由は漠然と理解したのだ。だから娘に伝えなかった。堕落して自滅した故郷の話を語らなかった。
 カタリナ・ステファンにとって、イェンテ・グラダ村は古代セルバ同様、遠い存在だった。

「ジャングルの中の村だったとだけ聞いています。住む人がいなくなって、既に半世紀経っているのですから、ジャングルに呑み込まれてしまっていることでしょう。」

 彼女はケツァル少佐に微笑みかけた。

「貴女はお仕事で何度もジャングルに入られていると思いますが、気をつけて行ってらっしゃいね。」

 


第4部 忘れられた男     13

  カルロ・ステファンを男性として見ることが出来なくなった、とケツァル少佐はテオに言った。

「彼は、私にとって、グラシエラと同じレベルの人間です。」

と彼女は言い、テオは彼女をそっと見下ろした。2人はバルからリストランテに移動し、食事をして、一旦少佐のアパートまでベンツで帰った。テオが歩いて帰ると言ったのだ。だから、彼女は自宅の車庫にベンツを置いて、彼をマカレオ通りの長屋迄護衛してくれているのだった。

「グラシエラと同じレベル?」

とテオは繰り返した。ケツァル少佐にとって、グラシエラ・ステファンは可愛い妹だ。腹違いだし、互いの存在を知ったのはほんの2年前だ。しかし少佐は妹を愛している。どんなことがあっても守りたい存在だ。そしてグラシエラもこの強い姉を信頼し、心から慕っている。だが、少佐は彼女の人生に干渉しようと思わないし、少佐自身の人生に妹が干渉することも望まない。つまり、

「つまり、君はカルロを求婚者としては認めない、と解釈して良いのかな?」

 テオが確認すると、少佐は「スィ」と頷いた。

「彼は弟です。それ以外の存在ではありません。強いて言えば、私の命を預けられる同士です。」

 テオは微笑んだ。

「それは最高の褒め言葉だと思うな。」

 だけど、カルロ・ステファンの方はどう感じているのだろう。実力を認めてくれて信頼してくれた上官以上の存在として少佐を見ているあの男は、あっさり姉を諦め切れるのか?

「まだ22歳ですよ。」

と少佐が呟いた。

「カルロはまだ若いのです。これからいくらでも女性との出会いがあります。」
「確かに・・・」

 テオは少佐が体を寄せて来たので、ドキッとした。彼女が囁いた。

「私はもう28です。」
「だから? 痛い!」

 いきなり腕をつねられてテオは声を上げてしまった。少佐がパッと離れた。悪戯好きな子供の様な目で彼を見た。

「北米の男性はもっと積極的だと思っていました。」
「俺は消極的だと言いたいのか?」
「少なくとも、カルロ程ではありません。」
「それじゃ、マリオ・イグレシアス並みに迫ろうか?」

 少佐が笑った。
 車が走って来たので、2人は道端に身を寄せた。テオは彼女の肩に腕を回した。
 蒸し暑い夜だったが、お互いの体温を感じながら暫く道端に立っていた。テオは何時キスをしようかと考えた。キスは既に何回かしている。ただ、毎回少佐の方が挨拶程度に、スッと唇を接触させてくれるだけだ。もっと愛情を込めたキスをしたい。ここで強引に・・・。
 少佐がスッと体を離した。

「来週から暫くオクタカスの遺跡へ行ってきます。半月は帰りません。」
「はぁ?」

 いきなり仕事の話だ。テオはがっかりした。

「オクタカスって、あの”風の刃の審判”の遺跡がある所だったな。」

 随分昔の出来事の様に思い出せるが、あの遺跡は、カルロ・ステファンと初めて出会い、ロホやステファンが異種の人間だと確信を抱いた場所だった。そして・・・・

「イェンテ・グラダ村の遺構を確認して、オクタカス遺跡発掘が再開される前に村の遺構を完全に消滅させます。」

 イェンテ・グラダ村は”ヴェルデ・シエロ”の歴史の中で負の遺構になるのだ。ケツァル少佐の母と、彼女とカルロの父が生まれた村。存在すると危険だと一族から見做されて抹殺された村人達。その遺構が残っていて、もし考古学者達の目に触れれば、また厄介なことになる。

「君1人で行くのか?」
「そうしたいのですが、今回は長老会のメンバーも何人か行きます。彼等には、村を殲滅させた責任がありますから、最後の始末をするのだそうです。私は、彼等の護衛です。」

 ”ヴェルデ・シエロ”の長老会と言ったら、最高の超能力者集団だ。その護衛を命じられたと言うことは、少佐のグラダ族としての能力がどれだけ強いかと言う証拠だ。

「カルロは行かないのか?」
「聞いていません。でも長老が彼も一行に加えたいと思えば、彼も呼ばれるでしょう。」

 父親の誕生地を見たいだろうか? と考え、テオは別の可能性を思い付いた。

「カルロは、お祖父さんの故郷を見たいだろうな。」

 少佐が頷いた。カルロが見て記憶するイェンテ・グラダ村の景色を、母親のカタリナ・ステファンも息子を通して見るかも知れない。

 

第4部 忘れられた男     12

  エルネスト・ゲイルについて知りたい情報を引き出すと、憲兵隊はテオを大学へ送り届けてくれた。必要ならまた呼びます、と言う注釈付きで。
 テオは研究室に入り、次週から正式に始まる新学期の準備に取り掛かった。前期から続けて受講してくれる学生の授業と、新規に履修してくれる学生の為の入門講座の2つの教室を受け持つことになる。忙しくなるが、給料もその分多少アップするので文句を言わないことにした。シエスタ返上で働き、何とか授業方針に目処がたった。予算も降ろしてもらえる内容だ、と自分で思う。
 ホッと一息ついて、ふとエルネスト・ゲイルの現在に心が向いた。あの男は実際のところ、今は何をしているのだろう。何処かに潜入しようとした印象だが、彼にスパイ行為が務まるのか? バス事故に遭う前のテオは我儘で身勝手で他人への思い遣りがない人間だと評価されていた。しかし、彼自身の記憶の中のエルネストは、もっと酷かったと思う。エルネストは我儘と言うより、自分のことしか関心がなく、自分の殻に引きこもっていた。盗撮や盗聴が好きなのも、1人で楽しめるからだ。ネットに公開して視聴者を獲得し、標的となった他人を苦しめようとか、そんな目的ではなく、彼1人楽しめれば十分満足、と言う人間だ。諜報部から教育を受けてスパイ活動を行うなど想像出来ない。しかし、亡命はもっと想像出来ない。生まれ育った研究所が失われてしまったとしても、あの男は現代アメリカ文明の中でしか生きられない。ネットと宅配ミールのない世界で生きていけるだろうか。
 省庁が業務を終わる時間が近づいたので、彼はケツァル少佐にメールを入れた。

ーー夕食を一緒にどうだい?

 珍しいことに、速攻で返信が来た。

ーーO K

 思わずメアドを確認してしまった程だ。
 研究室を出て、歩いて文化・教育省へ行った。午後6時になって、何時ものごとく、職員達が一斉に雑居ビルから吐き出されて来た。
 ケツァル少佐は普段最後の方で出て来るのだが、その日は珍しく早いグループに混ざっていた。角に立っているテオを見つけると足速に歩み寄った。そして彼の顔を見るなり、言った。

「お腹ぺこぺこです。」

 テオは吹き出した。彼女は病院からオフィスに戻ってから、一心不乱に溜まった書類と格闘していたのだ。昼食も取らずに。
 部下を同伴するかしないか、それは夜の予定で決める文化保護担当部指揮官だ。少佐はテオをいつものバルに連れて行った。ビールと小皿料理で夕刻の一時を2人でのんびりと過ごした。テオは簡単に憲兵隊との遣り取りやエルネスト・ゲイルの現状を説明した。そして少佐はいつもの様に食べることに集中しているふりをして、彼の話の一言一句をしっかり聞いていた。

「要するに、現在のところエルネストが何処へ何をしに行こうとしていたのかは、まだ不明なんだ。あまり素直な男じゃないから、憲兵隊の尋問に正直に答えるかどうかも疑問だけどね。ただ、俺はあいつがこの国で問題行動を起こして、眠っている人々を起こしはしないかと、それだけが心配だ。」

 眠っている人々、と言うのは”砂の民”のことだ。テオは初めてこのロマンティックな隠語を思いついて使ってみたのだ。少佐はあっさり理解した。

「私はあの男のことを誰にも話すつもりはありませんが、シーロは私から事情を説明した時に、ゲイルが危険な存在であると思った筈です。」
「わかる。」

とテオは頷いた。

「ロペス少佐は、一族と共に婚約者も守りたい筈だね。」
「スィ。彼は私に感想を伝えませんでしたが、何か手を打つかも知れません。」

 事務仕事を長年してきたと言っても、シーロ・ロペスは大統領警護隊の少佐だ。移民や亡命者を相手に様々な対策も練ってきただろう。外務省の顔の1人として他の省庁にも出入りしているのだから、顔も広い筈だ。

 エルネスト・ゲイルは生きてセルバ共和国から出ることが出来ないかも知れない

 テオはふとそんな予感がした。

「ところで少佐、彼がセルバに流れ着いたことを、カルロに教えるつもりはあるかい?」

 ケツァル少佐が意外そうな顔をした。

「その必要があるのですか?」
「もし、エルネストが街中に出て、そこにカルロが通りかかったら・・・」

 よく考えると、馬鹿な心配だ。ここはカルロ・ステファンのホームベースで、ゲイルは紛れ込んでしまった異分子だ。ゲイルがどんなに騒ごうが、周囲は”ヴェルデ・シエロ”を信仰するセルバ人ばかりだ。そしてセルバ人にとって、カルロ・ステファンは、ただのメスティーソの大統領警護隊隊員だ。超能力を持っていようが、ジャガーに変身しようが、ゲイルがどんなに喚き立ててもセルバ人は無視する。ステファンも無視するだろう。
 テオは手を振った。

「いやいや、忘れてくれ、俺の余計な心配だった。」
「そうでしょう。」

 と少佐はビールをごくりと飲んだ。そして囁いた。

「カルロとは連絡を取り合っていませんから。」


2021/12/08

第4部 忘れられた男     11

  シエスタの時間だ。ロペス少佐は外務省から迎えに来た部下が運転する車で帰ってしまった。エルネスト・ゲイルの病室には憲兵隊の軍曹が見張りに着き、テオはアウマダ大佐とムンギア中尉と共に昼食に出た。勿論憲兵が彼を食事に誘ったのには目的があった。テオはエルネスト・ゲイルとの関係や、ゲイルのアメリカでの仕事について色々と質問された。それで彼は後々に厄介な事態に陥らないよう、可能な限り本当のことを喋った。
 彼とゲイルは親がいない子供で、同じ施設で育ったこと、長じてそれぞれ遺伝子分析を研究する分野に進んだこと、テオ自身はセルバ共和国で旅行中事故に遭い、そこで受けたセルバ人の親身の世話に感動して、セルバ国民になることを決意したこと、ゲイルはそれに反対で妨害を試みたこと、ゲイルはさらにセルバ人を誘拐して研究に使おうとしたこと・・・

「何故、彼はセルバ人を研究しようと考えたのです?」

と大佐が尋ねた。テオは肩をすくめた。

「彼は、セルバ人には古代の神様の子孫がいると言う噂を耳にしたのです。」

 憲兵達が顔を見合わせた。中尉が肩をすくめ、大佐が溜め息をついた。

「そんな噂をすることこそ、神に対する不敬ですがね。」

と彼は言った。

「セルバの神々は恐ろしいのです。失礼のないように我々は日々心がけています。あの男は命を落としても仕方がないことをしたのですな。」
「海が荒れたのも、神様を怒らせたからでしょう。」

とムンギア中尉が言った。若い彼がそんなことを言うと、ちょっとおかしく聞こえた。テオは彼等が白人であるテオを警戒していると感じた。エルネストの仲間とは思っていないが、セルバの秘密を打ち明けてはならない相手、と見做されているのだ。打ち明けてはいけないどころか、神様そのものと親しくなり過ぎている彼は、内心可笑しく感じながら、ムンギア中尉の言葉を冗談として受け止めたふりをして笑った。

「それで、誘拐されたセルバ人はどうなりました?」

と大佐が訊いたので、テオは本当のことを言った。

「無事にアメリカを脱出してセルバに帰国しましたよ。その時に俺も一緒に逃げて、セルバに亡命したんです。前にも言いましたが、エルネストと俺は軍の施設で研究者として働いていましたから、他国の人間になりたいと言っても許してもらえません。だから、俺は亡命するしかなかった。エルネストは、捕虜に逃げられて、俺にも逃げられて、恐らく軍から何らかの罰を受けた筈です。ただ、俺はセルバに来てから彼の消息を耳にすることが全くなかったので、彼の存在を忘れていました。だから、さっき病院のベッドで寝ている彼を見て、びっくりしたのです。」

 ふむ、と大佐が考え込んだ。

「彼がパナマ辺りに亡命しようとしたとは考えられませんか?」
「俺には考えられません。」
「何故?」
「それは・・・」

 テオは肩をすくめた。

「彼が育った施設以外の場所を全く知らない男だからです。彼は自活出来ません。社会のルールだってまともに守れない。それに、こう言っては何ですが、彼はメキシコから南の国々や民族を蔑視しています。己が馬鹿にしている国に逃げて来るなんて想像も出来ません。彼が亡命するなら、EUかイギリスぐらいです。」
「それでは・・・」

 アウマダ大佐とムンギア中尉は互いの顔を見たが、マナーとして目は見ていなかった。ムンギア中尉が呟いた。

「母国へ強制送還、と言うのは駄目ですね。」


第4部 忘れられた男     10

  エルネスト・ゲイルの事情聴取やその後の扱いについては、憲兵隊に権限があるので、テオは大統領警護隊の仲間の元に戻った。ケツァル少佐とロペス少佐は待合スペースで退屈そうに座っていた。周囲の患者は彼等が何者か気がついていないので、何か勘違いした年配の女性がケツァル少佐に、「おめでたか?」と尋ねて彼女を赤面させた。2人の少佐を夫婦と勘違いした様だ。テオが近づくと、どちらもホッとした表情で立ち上がった。

「彼は大丈夫でしたか?」

とケツァル少佐が尋ねたのは、エルネストの体調のことだ。テオは頷いた。

「彼は元気だ。どうやらパナマへ行く途中だったらしい。ここがセルバだと言うことを知って、ちょっと驚いていた。」

 ロペス少佐が廊下の奥のドアを見た。

「憲兵隊が指導権を持つ様ですね。」
「スィ。今のところ遭難者として事情聴取を受けるらしいです。」

 アウマダ大佐が出てくるのが見えた。ロペス少佐はケツァル少佐を振り返った。

「貴女はもう撤収してもらって結構だ。運転手を頼んですまなかった。」

 ケツァル少佐が微かに笑った。

「これで終われば良いのですが・・・」

 彼女はテオを見た。

「アリアナとテオをあまりあの男の件に巻き込まないよう気をつけて下さい。」
「アリアナには彼の話は聞かせません。」

とロペス少佐は言い、彼もテオを見た。 テオに、アリアナにはエルネストの出現を言うなと暗に要請したのだ。テオは、承知したと首を振った。やっと精神的な落ち着きを得て、幸福を掴もうとしているアリアナに、過去の亡霊を見せたくなかった。
 ケツァル少佐はテオの帰りの足のことをちっとも心配していないようで、「ではまた」と言って、病院から去って行った。その後ろ姿を見送って、テオはロペス少佐を振り返った。ロペス少佐はアウマダ大佐がそばに来るのを待ってから、エルネスト・ゲイルをどうするのかと尋ねた。
 アウマダ大佐は大統領警護隊の目を見ないように努めながら答えた。

「今日のところは南基地の憲兵隊分室へ連れて行きます。」
「事情聴取の後は?」
「宿舎を用意します。見張りは付けます。パスポートも何も持っていない外国人を野放しには出来ませんから。」
「少なくとも、彼は今のところハリケーンの遭難者で、我が国へ移民する為に来たのでも亡命に来たのでもない様だ。移民・亡命審査官の私に用はないと思うが?」

 アウマダ大佐はチラリとテオを見てから、ロペス少佐の意見を認めた。

「我が国へ入国するのは目的でない様です。しかし調査は必要です。アルスト博士をもう暫くお貸し願いたい。」

 ロペス少佐が顔を向けたので、テオは溜め息をついた。

「まぁ、ずっとここに詰める訳ではないでしょうから、俺は良いですよ。」

第4部 忘れられた男     9

  エルネスト・ゲイルは呻き声を立てながら目を開け、起き上がろうとした。点滴も酸素マスクも何も装着されていないから、簡単に体を動かせる。医師も憲兵も黙って彼の動きを見ていた。
 ゲイルが上体を完全に起こした時に、テオはムンギア中尉の後ろから声を掛けた。

「おはよう、ゲイル博士。」

 アウマダ大佐と医師がチラリと彼を見たが、何もコメントしなかった。エルネスト・ゲイルは手で顔を擦り、英語で「おはよう」と答えた。それから、ふと気がついた様に視線を上げた。メスティーソの中米人の医者と軍人が彼を取り囲んでいるのを見て、一瞬不思議そうな顔をした。それから、ハッとして周囲を見回した。

「ここは?」

 医師が英語で答えた。

「グラダ・シティのブルノ・リベロ病院です。」
「グラダ・シティ?」

 エルネストは怪訝な表情になった。

「パナマですか?」
「ノ。セルバ共和国です。」
「セルバ?」

 彼はピンと来なかった様だ。もう一度病室内を見回し、憲兵の後ろに立っているテオを見つけた。え? と言う驚きの表情になった。

「テオ? シオドア、君か?」

 テオは中尉の横に進み出た。

「そうだよ、君の昔馴染みのシオドアだ。今はテオドール・アルストと名乗っているがね。」
「それじゃ、ここはセルバ・・・」
「だから、ドクターがそう言ったじゃないか。」

 やっとエルネストの顔に不安そうな色が現れた。

「どうして僕はセルバにいるんだ? パナマへ行く筈だったのに・・・」
「ハリケーンで遭難したんだ。」

 とムンギア中尉が言った。

「貴方は救命筏に乗って、我が国の浜辺に打ち上げられていた。」

 ああ、とエルネストが枕に頭をどすんと落とした。少し安堵の表情になった。

「それじゃ、助かったってことか・・・」

 医師が憲兵にエルネストの診察をして良いかと尋ねた。

「問題がなければ退院させて結構です。」
「では、診察をお願いする。」

 医師が聴診器でエルネストの胸の音を聴き、目や舌をチェックし、脈や血圧を測って、憲兵大佐に頷いて見せた。大佐が中尉を振り返った。

「この男に着せる衣類が必要だな。」

 テオは大佐に尋ねた。

「彼をどうなさるおつもりですか?」
「遭難の状況を事情聴取する。船が遭難したとわかれば、関係ありそうな国に連絡して救助を促す。手遅れかも知れないがね。取り敢えず、彼を何処かのホテルに泊めることになるだろう。貴方がこの男性の身元をご存知で手間が省けた。」

 大佐は廊下の方へ視線を遣った。

「大統領警護隊のお出ましは、その後にお願いすることになるだろう。」


 

 

2021/12/07

第4部 忘れられた男     8

  エルネスト・ゲイルはまだ目を閉じていた。痩せたな、と言うのがテオが抱いた最初の印象だった。以前はぽっちゃりした体型だったが、かなり贅肉を落としていた。しかし美男子には程遠い顔立ちだ。太っていた時の方が可愛いかった、とテオは思った。やつれているのかも知れない。生まれてからずっと特別な子供扱いされ、大事に養育された男が、人生で最大の失敗をしたのだ。エルネストが生け捕った超能力者がとんでもないヤツで、その仲間もとんでもない女で、軍の基地内にある警戒厳重な研究所をメチャクチャにして、研究データを全て消去してしまって逃亡した。しかも2人の、やはり大事に育てた筈の研究者を道連れにして。軍は、あるいは国は、エルネストの失敗をどう処理したのだろう。エルネストは汚名返上の為に新しい仕事を背負い込んだのか? それとも母国に未来はないと諦めて逃げて来たのか?
 アウマダ大佐がテオを見た。大統領警護隊と何の話をしていたのか、と問いたげな表情だったので、彼は囁いた。

「この男は俺の知っている人間です。アメリカ人です。」

 それ以上の説明は、医師や看護師の前で言うのを憚られた。それにこの2人の憲兵は”ティエラ”だ。アメリカで起きた事件を全く知らない普通の人々だった。

「科学者ですか?」

とムンギア中尉が尋ねた。テオは頷いた。

「アメリカ合衆国陸軍の研究施設で働いていた男です。」

 それだけで、憲兵にエルネスト・ゲイルに対する警戒感を持たせるに十分だった。身元を徹底的に隠した装備を持ったアメリカ軍関係者だ。セルバ共和国と敵対している訳ではないが、友好的な活動をしていたとは言い難い。

「何処か南の方の国で活動していて、ハリケーンでセルバへ流された可能性も考えられるな?」

とアウマダ大佐が呟いた。漂流して来たと考えれば、大佐の意見が正しく思えた。パナマやコロンビア辺りが目的地だったのかも知れない。
 その時、エルネストがうーんと声を上げた。アウマダ大佐がテオに尋ねた。

「彼の名前は?」
「エルネスト・ゲイル。」
「アーネストではなく、エルネストですか?」
「スィ。何故かその発音で彼は子供の時から呼ばれていました。」
「子供の時から?」
「幼馴染です。」

 兄弟とは言いたくなかった。言えば、また話がややこしくなる。大佐がベッドの上の男に英語で声を掛けた。

「エルネスト、起きなさい。」



第11部  神殿        12

 テオは用心深く尋ねた。 「白人の俺が、貴方方の秘密を知り過ぎると、生きてここから出られないような気がするのですが、俺は今どんな立場にいるのでしょう?」  最長老が近くの棚に心なしかもたれかかった様に見えた。 「貴方の立場は、ピラミッドの中に現れた時から危険な位置にあります。神殿...