2024/05/28

第11部  紅い水晶     27

  夕刻、定時で役所が閉まる10分前に大統領警護隊文化保護担当部の隊員達はオフィスに戻った。
 椅子に座るなり、ケツァル少佐が命じた。

「報告!」

 最初にロホが片手を挙げ、言った。

「トーレスの家の中を捜索しましたが、怪しい品は何も出ませんでした。」

 これだけ聞いたら、隣の文化財遺跡担当課の職員達は、盗掘品の捜査だと思うだろう。ロホは上官の目を見て、”心話”で追加した。

ーー今夜に父に会って訊いてみます。

 少佐は頷き、次にギャラガ少尉を見た。ギャラガは肩をすくめた。

「例の救急隊員は臨時雇用のパートで、交通事故の怪我人を搬送した後、車を降りて姿を消しました。今夜、彼が盗品を持ち込みそうな故買屋を探してみます。」

 そして彼も”心話”で追加した。

ーー彼の同僚達は石を持っていませんでした。彼が救急隊に提出した住所はスラム街のもので、確実ではないので、そこも捜索します。
ーーご苦労。スラムは私が探してみます。貴方は故買屋をお願い。
ーー承知しました。

 アスルとデネロス少尉は遺跡に出ているので不在だ。少佐は業務終了を宣言して、彼等は解散した。
 階段を降りながら、少佐はパートナーのテオにメールを送った。

ーー厄介な仕事が発生したので、今夜は帰れません。

 車に乗り込む頃にテオからメールが返信された。

ーーわかった。カーラに残りの飯を持って帰らせて良いか?
ーーO K!

 まだ本当に禍々しい物なのか否か不明の石を探して、大統領警護隊文化保護担当部は夜のグラダ・シティへ散った。


2024/05/23

第11部  紅い水晶     26

 宗教学部に向かって歩き出したケツァル少佐は、背後でファルゴ・デ・ムリリョ博士とフィデル・ケサダ教授がなにやら静かに、しかし明らかに口論を始めたことを背中で感じ取ったが、介入せずに足を進めた。恐らく教授は博士がアンヘレスの近くに危険な禍々しい石があったことを見逃したと抗議しているのだ。博士は何も感じ取れなかったと言い訳しているのだ。ケツァル少佐でさえ実物を目の当たりにするまで、そんな石をトーレス技師が握っていたなんて知らなかった。

 あの石は何なのだ?

 セルバの歴史に名を残すことなく消え去ったラス・ラグナス遺跡に関する物であれば、どこで手がかりを求めれば良いのだろう。ノエミ・トロ・ウリベ教授が石に関する知識を持っているとも思えなかった。それに彼女になんと説明すれば良いのだろう。トーレスの身に実際に何が起こったのかさえまだわからないのに。
 ウリベ教授は研究室の中で学生2人と人形の整理をしていた。呪術に使用される人形で、実際に使われた物ではなく、未使用の物だ。殆どが木製か布製で、顔、手足、胴体だけの簡単な物だ。人形に呪う相手の持ち物や身体の一部、髪の毛や血がついた布などを取り付けて、針を刺したり、斧で叩き割ったり、火に焚べたりして、相手の不幸を願う。そんな類の不吉な人形ばかりだ。尤も一般人が使っても効果がない。然るべき修行をした呪術師が使ってこそ効果が顕れるのだ・・・と教授は学生達に常日頃説明していた。 

「オラ!」

とドアを半開きのドアをノックして、ケツァル少佐は声をかけてみた。ウリベ教授は開けっ広げな性格で、研究室のドアも開けっ広げが多い。誰でも興味があれば入って来いと言う訳だ。「呪いの先生」は部屋に篭って誰かを呪っているのではないよ、と言いたいのだろう。

「オラ! シータ!」

 教授が床から立ち上がったので、少佐は身構えた。そして予想した通りに、ふくよかな体格の教授に満身の力を込めてハグされた。息苦しさに耐えて、解放されると、彼女は突然の訪問を詫びた。

「授業のお邪魔をしてしまいました。」
「構わないわ。そろそろ休憩してお茶に行くつもりだったのよ。」

 教授が合図すると、学生達が人形を部屋の真ん中に置かれた段ボール箱の中に放り込んだ。呪い人形の割に扱いがぞんざいだ。教授が少佐を見た。

「貴女も一緒にどう?」
「では、ご一緒します。」

 どうせ真実は話せないのだ。少佐は教授と学生達と一緒に遅いお茶を飲むためにカフェに向かった。

2024/05/22

第11部  紅い水晶     25

  フィデル・ケサダは純血のグラダ族の男で、恐らく現在生きている”ヴェルデ・シエロ”の中で最強のパワーを持っているのだが、それを微塵も感じさせない制御で、普通の人間のふりを続けている。同じ一族の者にも気取られないのだから、見事という他にない。
 彼は無表情なまま、駐車場に入って来て、ケツァル少佐の車のそばに来た。彼が口を開く前に、ファルゴ・デ・ムリリョ博士が声を掛けた。

「ケツァルから報告がある。恐らく”名を秘めた女”が危惧している物だ。」

 ケサダ教授は養父であり、舅であり、マスケゴ族の族長で一族の最長老の一人であるムリリョ博士に、右手を左胸に当てて無言で挨拶すると、少佐に向き直った。目と目を見つめ合わせ、一瞬で情報の伝達が行われた。博士が尋ねた。

「何だかわかるか?」
「ノ。」

 即答だった。

「呪術に使われた石であろうと推測は出来ますが、正体は分かりません。」

 ケサダ教授はムリリョ博士に顔を向けた。

「私の専門は交易で宗教や呪術ではありません。これは寧ろノエミの得意分野でしょう。」

 ノエミとは、宗教学部でセルバの民間信仰を研究しているノエミ・トロ・ウリベ教授のことだ。様々な民間信仰を扱っているが、呪い人形などの収集はかなりの数で、学生の中には「呪いの先生」と陰であだ名を付けている程だった。ただ、残念なことにウリベ教授は普通のアケチャ族、つまりセルバ共和国東半分全域に分布している普通の先住民の女性で、”ヴェルデ・シエロ”ではなかった。そして実際に”ヴェルデ・シエロ”がまだどこかに生き残っていると信じているが、本物と出会ったことがなかった。目の前にいる友人のケサダ教授や教え子の大統領警護隊文化保護担当部の隊員達が何者なのか知らないのだ。
 ムリリョ博士がぶっきらぼうに言った。

「彼女を巻き込む訳にはいかん。」

 つまり、自分達の正体を打ち明けるな、と言う意味だ。ケツァル少佐が提案した。

「私がウリベ教授に質問してみます。」
「”操心”は使うなよ。」

とムリリョ博士が釘を刺した。

「あの女は心を操れるとは思えん。固い意思の持ち主だからな。」


2024/05/20

第11部  紅い水晶     24

  ケツァル少佐は近づいて来た高齢の考古学者に敬礼した。ムリリョ博士は小さく頷いて彼女の目を見た。少佐はトーレス邸であった出来事を伝えた。博士が小さな声で呟いた。

「石か・・・」
「石の正体をご存知ですか?」

 少佐が期待を込めて尋ねると、博士は首を振った。

「ノ。我々の先祖の物ではないのだろう。」

 少佐は駐車場の入り口を見たが、そこには誰もいなかった。

「ケサダ教授もお呼びしましたが、まだ来られませんね。授業中ですか?」
「あれは怒っているのだ。」

と博士が微かに皮肉っぽく笑った。

「自分の娘が危険のそばにいたのに、儂とカサンドラがその危険に気づけなかった、とな。」

 それでケサダ教授の今朝の愛想のなさの理由が判明した。

「教授なら、あの石の異常さに気がつけたのでしょうか?」

 少佐がちょっと意地悪な質問をすると、博士はまた皮肉っぽく笑った。

「無理だっただろうな。お前も技師の手から石が出て来るまでわからなかったのだろう?」

 少佐は認めた。

「石を見た後も、あれが禍々しい物だと言う感触はありませんでした。でも、ママコナは・・・」
「”名を秘めた女”はピラミッドの力で感じたのだ。彼女自身の能力ではない。」

 ケツァル少佐は”曙のピラミッド”が建つ方角を見た。

「ピラミッドに話が出来ると良いのですけどね・・・」
「はっ!」

と博士が声を発した。

「面白いことを言う女だ、お前は。しかし、その考えはあながち外れておらぬのだろう。ピラミッドの石達は、その砂漠の中にあった石が良くない物だとわかっているのだ。」
「あの紅い石は今迄眠っていたのですね?」
「恐らく技師の手に握られて目覚めたのだ。恐らく何らかの呪術に用いられたのだと思う。ラス・ラグナスが滅びる時に山に放置されたのだ。秘密を守るためか、あるいは人を守るためか・・・」

 その時、やっとケサダ教授が歩いて来るのが見えた。

第11部  紅い水晶     23

  ケツァル少佐はアンヘレス・シメネス・ケサダと別れて、グラダ大学へ向かった。シエスタの時間はとうに終わって午後の授業が始まっていた。車を駐車場に停めると、彼女はまずギャラガ少尉に電話をかけた。ギャラガはまだ救急隊員を捕まえていなかった。

ーー交通事故が発生して、トーレスを運んだ救急車も他の救急車と一緒にルート22に駆けつけているんです。トラック5台の事故で、怪我人が多数出ています。ちょっと隊員に声をかけられる状況じゃないですね。

とギャラガは少し弱音を吐いた。少佐はため息をついた。隊員が石を窃盗したかどうか、まだ確定していない。一刻も争う救命現場で疑いがあるだけの案件で邪魔をするのもどうかと思われた。

「わかりました。貴方はそのまま当該救急車を監視して下さい。隊員に余裕が出たと思えたらすぐに接触すること。”操心”を使っても構いません。」
ーー承知しました。

 次にロホに電話をかけた。ロホはトーレス邸に何も異常な物を発見出来なかったので、文化保護担当部のオフィスに戻るところだった。

ーー怪しいのは、あの石しかありません。私はオフィスを片付けてから、実家の父に石のことを訊いてみます。

 ロホの父はセルバ共和国でも権威ある祈祷師だ。 ”ヴェルデ・シエロ”社会だけでなく、普通の国家的行事に参加して神に祈りを捧げる仕事もしている。呪術や儀式の知識が豊富でその方面では生き字引の様な存在だった。少佐は「よろしく」と言って電話を切った。
 電話をポケットに入れてから、彼女は大きく深呼吸をして、それから”感応”で2人の考古学者に呼びかけた。大学の駐車場に来て欲しい、と。弟子の分際で師匠を呼びつけるのか、とムリリョ博士に叱られることを覚悟していた。最も博士が大学に出勤しているのかどうか知らなかったが。
 しかし、数分後、真っ先に駐車場の入り口に姿を現したのは、ファルゴ・デ・ムリリョ博士だった。少佐の車を見つけると真っ直ぐにやって来た。博士は、やはりあの技師のことを気にしているのだ。

2024/05/17

第11部  紅い水晶     22

  ケツァル少佐はトーレス邸の詳細な捜査をロホに命じ、自分はグラダ・シティの富裕層の子供達たちが通学する高校へ向かった。アンヘレス・シメネス・ケサダは彼女が校門の前に自家用車を停めた時に自転車を押しながら出て来るところだった。友人たちと喋りながら自転車に跨ろうとしたので、少佐は窓を開けて声をかけた。

「アンヘレス・ケサダ!」

 アンヘレスはビクッとして、声がした方を振り返った。普段、誰かに名前を呼ばれてもすぐに反応してはいけない、と親族の大人達から言い聞かされていたのだが、この声は彼女に従わなければならないと思わせる響きがあった。
 何となく見覚えのある顔の女性がベンツのS U Vから手招きしていた。アンヘレスは友人達に「また明日」と挨拶して、自転車を押したまま車に近づいた。ドアが開き、すらりと背が伸びた女性が降りて来た。迷彩柄のパンツを履いていたので、軍人だと少女は判断した。大統領警護隊だ、と思った。

「アンヘレス・ケサダです。何か御用でしょうか?」

 すると相手は緑色の徽章が入ったパスケースを出して、彼女にチラリと見せた。

「大統領警護隊の文化保護担当部指揮官ミゲール少佐です。」

とケツァル少佐は名乗った。それでアンヘレスは彼女とどこで出会ったのか思い出した。文化保護担当部のオフィスに遺跡見学の許可申請に行ったのだった。少佐がすぐに要件に入った。

「先日ラス・ラグナス遺跡に行った時、一緒に出かけたロカ・エテルナ社の技師を覚えていますか?」
「スィ、出かける時は面白いお話とかして下さいましたから、良い人だな、と思ったのですが、2日目から体調を悪くしたのかあまり口を利かなくなって、伯母や祖父が心配していました。セニョール・トーレスがどうかしましたか?」
「貴女が覚えている彼の様子を教えてくれませんか?」

 それは”心話”を要求しているのだ。アンヘレスはまだ大人の様に情報をセイブするコツを完全にマスターした訳ではなかったが、旅行の間の同行者の行動を見せることは出来た。
 アンヘレスの記憶には、トーレス技師の異変の原因を突き止める手がかりはなかった。だから少佐は言った。

「貴女がホテルで感じた嫌な気持ちを再現出来ますか?」

 アンヘレスは戸惑った。あの時の感情をどうやって再現したら良いのだろう。彼女はホテルの部屋を思い起こしてみた。夢を思い出せる限り思い出そうと努力した。それが”心話”で相手に伝わるのかどうか、自信がなかった。
 ケツァル少佐がふーっと息を吐いた。

「私はママコナが誰かに送ったメッセージを読み取る能力がありません。あるいは、まだ習っていないのかも・・・」
「ママコナからのメッセージですって?!」

 アンヘレスは驚いて声を上げ、思わず口を抑えて周囲を見回した。幸い彼女達に注意を向けている人間はいないと思われた。いても大統領警護隊に関心を持っていると思われたくなくて、離れて見ているだけだ。
 少佐が囁いた。

「貴女がホテルで感じた嫌な感触は、ママコナが貴女に危険を知らせようと送られたメッセージです。でも幸い貴女も貴女のお祖父様と伯母様、学芸員の方は無事でした。」
「では、トーレスは・・・」
「彼は今体調を崩して病院にいます。」

 アンヘレスは不安になった。

「どうしてママコナは私にメッセージを送られたのでしょう? 祖父や伯母は何も感じなかったのです。あ、祖父は何だか落ち着かなかったみたいですが・・・」
「理由はお祖父様かお父様に聞いて下さい。」

 ケツァル少佐はアンヘレスに血統の真実を話せないことをもどかしく思った。しかし、これはケサダとムリリョの家の問題で、彼女は口を出せないのだ。

「兎に角・・・」

と少佐は言った。

「貴女はもう安全です。トーレスのことは伯母様に任せておきなさい。」

2024/05/13

第11部  紅い水晶     21

  アンドレ・ギャラガ少尉がケツァル少佐からの電話に出たのは、市民病院に到着して患者が院内に運び込まれた直後だった。

「ギャラガです。」
ーーケツァルです。今、どこですか?
「市民病院の救急搬入口です。患者は無事に病院内に入りました。」

 すると少佐はそんなことはどうでも良いと言う声音で尋ねた。

ーー救急隊員はまだそこにいますか?

 ギャラガは救急車の進入口を見た。既に空っぽだった。彼が患者の搬送に気を取られている間に、救急車は基地へ帰ったか、別の患者の元へ去ってしまったのだった。

「もういません。隊員に何か?」
ーートーレスが握っていた紅い石が紛失しました。廊下に落ちていたのは、サフラ少尉が放射線検知を行った時に見ました。それ以降誰も石を見ていないのです。

 あちゃーっとギャラガは心の中で叫んだ。救急隊員は職務には真面目だが、稀に、患者の持ち物をちょろまかす人間がいることも確かだった。

「紅い石ですか?」

 ギャラガはその石を見ていない。どんな赤なのか、どんな大きさなのか、どんな形なのか、知らなかった。少佐もそれを思い出したのだろう、説明してくれた。

ーー男性の手で握って隠せる大きさです。形は涙型、色は・・・新鮮な血が集まった様な色で、水晶に似た材質に思えました。

 ギャラガは”心話”が電話で使えないことを残念に思った。”ヴェルデ・シエロ”は距離が開いた場合にテレパシーによる情報交換を使えない種族だ。呼びかけは出来るが、画像や映像を送ることは出来ない。出来るのはママコナ様だけだ。

「その石が、今回の出来事に関係しているのでしょうか?」
ーーわかりません。でもトーレスの衰弱の原因がその石である可能性があります。
「わかりました。すぐにさっきの救急車を探します。」

 通話を終えたギャラガは近くを通りかかった病院スタッフに声をかけた。

「大統領警護隊だ。さっきここへ患者を運んで来た救急車は、どこに基地を持っている?」


2024/05/12

第11部  紅い水晶     20

  間も無く救急隊員が3名階段を昇ってきた。1人は医療キットを持ち、2人は折り畳みストレッチャーを運んでいた。医療キットを持つ隊員が倒れているディエゴ・トーレスを見た。

「貧血ですか?」
「そう見えますか?」
「失血が多くて出血性ショックを起こしている様に見えます。」
「彼は怪我をしていません。」
「そうですか、兎に角代用血液を注入します。」

 救急隊員達はストレッチャーの上にトーレスを移動させた。素早くバイタルチェックを行い、代用血液の点滴を始めた。ロホは液剤が緩やかにチューブに落ちて行く様を見た。トーレスは生きている。
 患者を救急車に乗せると言うので、ロホはストレッチャーを階段から下ろすのに手を貸した。ギャラガも走って来て手伝った。
 ケツァル少佐は家の中が薄暗くなっていることに気がついた。時刻はまだ午後3時になっていなかった。空が曇っているのだ。
 ストレッチャーが階下へ辿り着いた時、窓の外で稲妻が光り、突然滝のように雨が降り出した。セルバではスコールがよく来るので珍しくないが、この時はまだ季節的にそんなに多くない時期だった。開放されたままの玄関から雨が降り込んで来た。

「面倒だな。」

と救急隊員の一人が呟いた。患者を雨で濡らしてしまうのだ。しかし雨が止むの待って患者の治療を手遅れにしてしまう訳にいかない。点滴のパックを手にしていた隊員が近くにいたギャラガに声を掛けた。

「2階からシーツを取ってきます。それまでこれを持っていて下さい。」

 ギャラガに点滴パックを押し付けると、彼は階段を駆け上がった。ケツァル少佐は、彼女に頼めば良いのに、と思いつつ、廊下の突き当たりの窓から見える空を見ていた。真っ黒な雲の向こうの端が白く見え、スコールは10分もすれば小降りになるだろうと思われた。
 トーレスの寝室からシーツを掴んで救急隊員が走り出して来た。彼はシーツの端を踏んだのか、一瞬足を止め、ちょっと屈んだがすぐに体勢を整え、階段を駆け下りた。
 トーレスの体にシーツを掛けると、救急隊員達は門の外に停まっている救急車に向かって走った。一緒に走ったギャラガが搬送先となる病院の名を尋ね、ロホが彼に救急車に同乗して行って来いと命じた。救急隊員は大統領警護隊が同乗することに一切文句を言わず、トーレスとギャラガを乗せると扉を閉じて走り去った。
 慌ただしく去っていく救急車の音を聞きながら、ケツァル少佐は電話を出し、カサンドラ・シメネスに掛けた。ディエゴ・トーレスを保護して病院に搬送させたことを告げてから、彼女はふと廊下に視線をやった。そしてギクリとなった。

 紅い石がない!


2024/05/10

第11部  紅い水晶     19

  2台目の大統領警護隊のロゴ入りジープがトーレス邸の前に到着した時、既に救急車が1台門前に停まっていた。クレト・リベロ少尉とアブリル・サフラ少尉がジープから降り立った。2人は遊撃班の隊員で、勿論大統領警護隊のエリートだ。サフラ少尉が一般にガイガーカウンターと呼ばれる放射線計測器を手にしていた。
 救急車の乗務員を門前で足止めしていたギャラガ少尉が2人に「2階だ」と告げた。リベロ少尉とサフラ少尉は彼に軽く敬礼して、家の中に入った。階段の下に来ると、階上からロホが声を掛けてきた。

「計測器を持つ者だけ上がって来い。もう一人はその場で待機。」

 サフラ少尉が一人で階段を上がった。そして倒れている男とそばに立っているケツァル少佐を見た。少佐に彼女が敬礼すると、少佐が頷き、

「放射線の有無を調べるだけだ。確認を取ったらすぐに下へ降りて待って欲しい。」

と言った。サフラ少尉は、少佐は部下達を放射線に曝したくないのだな、と理解した。電源を得てから、彼女は計測を開始した。しかし計器は電力を得てから一回「ポンッ」と音を立てただけだった。少尉が説明した。

「自然界にある放射線を感知しただけです。」

 ケツァル少佐が頷いた。サフラ少尉はトーレス技師の体を、頭から爪先まで端子で走査してみたが、計器は2、3回小さく音を立てただけだった。トーレスから放射線が出ている訳ではない。次に床に転がっている紅い石に端子を向けたが、やはり音はしなかった。
 ロホが彼女をトーレスの寝室に誘導し、トーレスが旅に持って行ったと思われる品々を測ってもらった。しかし放射線は検出されなかった。
 
「グラシャス。」

と少佐がサフラ少尉に言った。

「放射能の心配はありません。あなた方には無駄足を踏ませましたが、安全を確認するのに必要だったと理解して欲しい。」
「グラシャス、少佐。」

 サフラ少尉は敬礼した。

「では、本部に帰投します。」
「グラシャス、セプルベダ少佐によろしく。」

 ロホが彼女に伝言を頼んだ。

「救急隊にここへ来てくれるよう、伝えて欲しい。」
「承知しました!」

 サフラ少尉が軽々と階段を降りて行った。

2024/05/09

第11部  紅い水晶     18

  ディエゴ・トーレスの顔は蒼白で生気がなかった。ケツァル少佐とロホは暫く彼の手から転がり落ちた紅い水晶のような物を見ていたが、やがてどちらが先ともなく我に帰った。少佐がギャラガを呼んだ。アンドレ・ギャラガ少尉が階段を駆け上がって来た。

「アンドレ、階下に誰かいましたか?」
「ノ、誰もいません。台所の様子から見て、その男性の一人暮らしの様です。」

 ロホが思い出したように、二階の残りの部屋を素早く見て回った。その間に少佐はギャラガに命じた。

「救急車を手配しなさい。それから水を持って来て。この人に飲ませます。」
「承知!」

 ギャラガは携帯電話を出して、電話をかけながら階段を駆け降りて行った。
 少佐がトーレスに声をかけた。

「セニョール・トーレス! 聞こえますか?」

 トーレスの瞼がひくひくと動いた。しかし開く力はないようだ。殆ど命の火が消えかけている、と少佐は判断した。しかしトーレスが病気に罹っている気配はなく、怪我もしていない。毒を飲んだかと思ったが、それもなさそうに見えた。
 寝室に携帯電話はなかった。カサンドラ・シメネスに教えられた番号を少佐の電話からかけてみると、呼び出し音がベッド脇の椅子の下に落ちているズボンから聞こえた。トーレスはズボンのポケットの中の電話に出ることも出来ず、廊下に這い出して力尽きたのか。
 少佐はもう一度トーレスの爛れた手を見た。それから紅い石を見た。それが技師の生命を脅かしている原因に思えたが、何なのかわからない。放射能だろうか? 彼女はゾッとした。それならトーレスが遺跡から帰って来る間にそばにいた人々も大なり小なり被曝している。 ”ヴェルデ・シエロ”は普通の人間より耐性が強いが、放射線の強さにもよる。
 彼女は大統領警護隊遊撃班指揮官セプルベダ少佐に電話をかけた。

2024/05/08

第11部  紅い水晶     17

  ノックと呼びかけに反応がなかったので、ギャラガはドアノブを掴んだ。 ”ヴェルデ・シエロ”に鍵は効力を持たないが、ドアは施錠されていなかった。ギャラガはチラリとケツァル少佐を見て、入ります、と目で伝えた。少佐が頷いた。形だけでもアサルトライフルを構えて、ギャラガは屋内に足を踏み入れた。少佐が続き、ロホが最後にドアを開放したまま入った。
 屋内は静かだった。ディエゴ・トーレス技師は整理整頓する主義なのか、リビングは片付いていた。ただ旅行で使用したスーツケースだけ二階へ通じる階段の下にぽつんと放置されていた。ここまで運んで来たが、スーツケースを抱えて階段を登る気力がなかったのか?
 ギャラガが一階をチェックし始めた。トーレスの名を呼びながら、各部屋を用心深くドアを開いて見ていく。少佐とロホは慎重に階段を上がった。リビングは吹き抜けで階段を上がった先にバルコニー状の廊下があり、ドアが3つあった。右端のドアが開いたままで、廊下に半身を出した形で倒れている人間の姿があった。Tシャツと短パンだけの男性だ。首や腕に日焼け跡がくっきり残っている。
 少佐が男性のそばにかがみ込むと、ロホは彼の下半身が残っている室内を見た。ベッドが乱れたまま放置され、窓はブラインドが閉じられている。クローゼットなどは閉じられたままだ。
 少佐が男性の首を眺めた。生気がないが、死人の肌には見えなかった。彼女はポケットからシリコンの手袋を出して装着し、男性の首に触れてみた。脈を確認すると弱々しくはあるが、まだ生きていることがわかった。

「セニョール・トーレス?」

 声をかけると、微かに呻き声が答えた。少佐は男性の体をゆっくりと仰向けにした。トーレスはげっそりとやつれていた。全身から水分を失った様に見えた。
 ロホが寝室から出てきた。

「怪しい気配はありません。」

と言ってから、彼はあることに気がついた。

「彼は何を握っているのです?」

 ケツァル少佐もトーレスが右手で何かしっかり握りしめていることに気がついた。手を開かせようとしたが、物凄い力で握っているので指が開かない。ロホが交代を申し出たので、手袋装着を命じた。死にそうな姿なのに抵抗するので、少佐が手首をつかみ、ロホが指をこじ開けた。
 コトリっと音を立てて、赤い光る物が転がり落ちた。それを見て、少佐とロホは顔を見合わせた。

「ルビーですか?」
「ノ、この質感は水晶です・・・」

 ケツァル少佐の養母は宝飾品のデザイナーだ。少佐も幼少の頃から色々な石を見て育ってきた。しかし、目の前にある、ルビーの様に真っ赤な水晶は見たことがなかった。
 少々困惑して少佐はトーレスの手を見た。開かれた技師の手の内側を見て、彼女はギョッとした。黒く爛れていたからだ。まるで火傷をしたみたいに・・・。

2024/05/06

第11部  紅い水晶     16

  ロホとアンドレ・ギャラガが車から降りて来た。2人とも上半身はTシャツだが、下は迷彩柄のパンツと軍靴で、ギャラガはアサルトライフルを持っていた。悪霊に銃器は効力がないが、別の使い方がある。
 大統領警護隊のロゴ入りジープを見た通行人達が急いで遠ざかるのを、3人の”緑の鳥”達は気にせずに集合した。ケツァル少佐はロホ、ギャラガの順に”心話”でカサンドラ・シメネスからの情報を伝えた。
 ロホとギャラガは顔を見合わせた。彼等はラス・ラグナス遺跡に行った経験がある。ギャラガは2回行って、1回目は空間通路を初体験したし、2回目はロホとステファン大尉と共に盗まれたコンドルの神像を元に収める儀式を行った。何の時も不審な気配を感じなかった。

「セニョーラ・シメネスが目撃した拾い物が山の中に転がっていた物だとすると、その正体に見当がつきません。」

と祈祷師の資格を持つロホが言った。

「ラス・ラグナス遺跡と関係があった物なのか、別の村の物なのか、それ一つだけなのか、まだ同じ物があるのか・・・」

 少佐が手を挙げて彼の言葉を遮った。

「まだ実物を見ないうちからあれやこれや考えても埒が開きません。兎に角、ディエゴ・トーレスが無事なのかどうか、確認しましょう。」

 彼女は体の向きを変え、道に面して建っているクリーム色の壁の小さな2階建ての家を見た。小さいが高級住宅地に建つ家らしくスパニッシュ・コロニアル様式で、若い富裕層に人気の建築だった。低いフェンスで囲われた庭は芝生と草花が植えられている。ディエゴ・トーレスは独身だと言うことだが、一人暮らしでそんな庭の世話が出来るだろうか。
 門扉を開いて、ギャラガが上官達を振り返った。

「私は何も怪しい気を感じませんが・・・?」
「ノ、私もだ。」

とロホが同意し、ケツァル少佐も認めた。
 3人は狭い庭を横切り、ドアの前に立った。少佐が正面に立ち、ロホが脇に立ち、庭に面した掃き出し窓の方を見た。ギャラガがドアをノックした。
 返事はなかった。屋内に人がいる気配もなかった。ギャラガはそれでもノックを試み、声をかけた。

「セニョール・トーレス、大統領警護隊だ。」


2024/05/05

第11部  紅い水晶     15

 在野の”ヴェルデ・シエロ”が大巫女ママコナに直接テレパシーを送ることは不敬に当たる。しかしママコナが何か不穏な気を感じていたのなら、それを知っておかねばならない。ケツァル少佐は2秒程躊躇ってから、大統領警護隊副司令官トーコ中佐に電話をかけた。その日の昼間の当直はトーコ中佐だった。シエスタの時間だから、会議中ではないだろう、と思った。電話の向こうから男の声が聞こえた。

ーートーコだ。
「文化保護担当部のミゲールです。」

 軍部の連絡は形式的な挨拶を抜く。少佐はすぐに本題に入った。

「民間から悪霊の仕業かも知れない事案の通報を受けて出動しています。”名を秘めた女性”(ママコナのこと)から何かお言葉はありませんでしたか?」

 トーコ中佐がフッと息を吐く音が聞こえた。

ーー今、チュス・セプルベダ少佐が”彼女”から何かお言葉を頂いて、ステファン大尉とこの部屋へ来たところだ。

 ママコナはマスケゴ族では埒があかぬと判断して、大統領警護隊遊撃班の指揮官にメッセージを送ったのだ。だが、彼女の言葉はいつも曖昧だ。セプルベダ少佐は優秀だが、彼女が何を心配しているのか、まだ掴めていないだろう。
 ケツァル少佐はママコナがトーレス技師が直面している災難を承知していることに、少しだけ安堵した。セルバの人民を災難から守護する、それが大巫女の役割だ。まだ20代半ばで、生まれてから一度もピラミッドから出たことがないカイナ族の娘でも、しっかりと役目を果たしているのだ。

「詳細を説明することは後に致します。私が受けた通報は、正に”彼女”が憂いている内容と同じだと確信しますので、これから私の部署で対処します。」
ーー何が起きているのか、簡単に教えてくれないか。
「”ティエラ”(普通の人間)の男が、ラス・ラグナス遺跡の近くで何かを拾ったのです。彼はロカ・エテルナ社の社員で、副社長のカサンドラ・シメネスが彼と連絡がつかなくなったと心配して私に相談して来ました。彼女は彼が遺跡近くで何かを拾ったのを目撃していますが、それが何かはわからないと言っています。」

 少佐は現在地の住所を告げた。トーコ中佐は文化保護担当部が出動することを理解した。

ーー君達に任せる。だが、遊撃班を待機させておくから、何か問題が起きた場合は直ぐに連絡を寄越せ。
「承知しました。」

 少佐が通話を終えた時、大統領警護隊のロゴマークが入ったジープが彼女の車の後ろに停車した。

2024/05/04

第11部  紅い水晶     14

  ロカ・エテルナ社を出たケツァル少佐は自分の車に乗り込むと、電話を出して副官のロホにかけた。

ーーマルティネスです。

 ロホが正式名で名乗った。勿論かけて来た相手が誰かはわかっている。少佐は「ミゲールです」とこちらも正式名で応えた。

「まだ詳細は不明ですが、霊的な現象による事案が発生した模様です。これから告げる住所に手が空いている者は全員集合のこと。」

 カサンドラ・シメネスから教えられたディエゴ・トーレス技師の住所を早口で告げた。ロホは正確に聞き取った。復唱して、すぐに行きます、と言った。

ーーオフィス窓口を閉鎖します。
「許可します。では、現地で会いましょう。」

 大統領警護隊文化保護担当部は緊急事案が発生した場合は、事務的業務を臨時休業して全員オフィスの外に出かけてしまう。彼等は軍人で、軍務がその仕事の最優先事案だからだ。文化・教育省は決して彼等の軍務遂行に口出ししてはならない。
 ケツァル少佐は車をロカ・エテルナ社の車庫ビルから出した。トーレス技師は少佐やテオが住んでいる西サン・ペドロ通りから東サン・ペドロ通りへ抜ける南北の坂道の中程、東側に住んでいた。東西サン・ペドロ通りは富裕層が住む地区だから、トーレス技師はロカ・エテルナ社の中では高級取りなのだ。
 トーレス技師の戸建住宅に近づいて、少佐は車を路肩に駐車した。目を閉じて神経を周囲の空気の流れを読み取ることに集中させた。悪霊がいれば何か感じる筈だ。しかし彼女は何も感じ取れなかった。アンヘレス・シメネス・ケサダは感じたのだ。ムリリョ博士も落ち着かなかったのだ。特定の人間にしか感じ取れない気配なのか? それとも悪霊は動く時だけ気配を発して、普段は眠っているのか? 
 ケツァル少佐は大巫女ママコナから何も言ってこないことに気がついた。人間に害を及ぼす悪霊が首都に入ると大巫女様は感じとる。そして汚れがピラミッドに近づくことを嫌う。
 トーレスが拾った「何か」は悪霊ではないのか? あるいは「汚れ」ではないが人間に害を及ぼすものなのか? そんな物があるのか?
 少佐はそこで気がついた。

 ママコナは気がついていた。だから、汚れに最も近いアンヘレスに警告を出したが、アンヘレスはまだ子供だ、大巫女の警告を十分に理解しきれなかったのだ。いや、半分だけのグラダのアンヘレスにはママコナからのメッセージが上手く伝わらなかったのかも知れない。マスケゴ族のムリリョ博士はママコナのメッセージを感じたが、理解出来る力はなかった。彼は男だし、マスケゴだから・・・カサンドラが感じなかったのも同じ理由だ。マスケゴ族ではママコナのメッセージを十分に理解出来ない。今のママコナはグラダではなく、マスケゴより力が弱いカイナ族の女だから・・・。


2024/05/02

第11部  紅い水晶     13

  カサンドラ・シメネスはケツァル少佐にラス・ラグナス遺跡視察旅行の経緯を”心話”で語った。そして言葉で告げた。

「それっきりディエゴ・トーレスと連絡がつかなくなりました。」

 ケツァル少佐は腕組みした。ロカ・エテルナ社の土木設計技師ディエゴ・トーレスが何か悪い物を遺跡近くの山で拾ったことは確実だ、と思った。カサンドラは彼が転んだ時に何かを拾ってポケットに入れたのを見たのだ。しかし彼女は重要と思わなかったので、彼女の記憶の中の「何か」は殆ど認識不可能な形だった。大人の男性の手の中に収まってしまう大きさ。

「石でしょうね。」

と少佐は呟いた。カサンドラも少佐が何について言ったのか、すぐに理解した。

「やはり、彼が山で拾った物が原因と思いますか?」
「他には考えられません。」

 少佐は副社長を見た。会社経営には優秀な能力を発揮する女性だが、呪いや祈祷とは無縁な人なのだ、と確信した。ムリリョ博士は己が純血至上主義者で古代からの掟や風習を守る長老会の重鎮にも関わらず、己の子供達を古い因習や呪術からは遠ざけて育てたのだ。家族を現代社会で生き延びさせて栄えさせるために必要だと信じているのだろう。だからカサンドラは一族に伝わる伝承やしきたりは知っているし守っているが、それ以外の悪霊や邪神に関する知識を持っていないのだ。

「貴女はトーレスと一緒に山を歩いている間、何も感じなかったのですか?」
「感じませんでした。2人とも周囲の地形を記録することやダムの影響を考えることで頭がいっぱいでした。だから、トーレスも何かを拾った直後はその影響を受けなかったのかも知れません。」
「ホテルで一人になって気が緩んだところに悪霊がつけ込んだのでしょう。」

 カサンドラは電話を出して、もう一度技師の電話にかけてみた。しかし虚しく呼び出しが鳴るだけだった。

「その技師は独り身ですか?」
「スィ。田舎に親兄弟がいると聞いていますが、ここでは一人暮らしです。同居人もいないようですね・・・同居人も何か災難に遭っていることも考えられますが・・・」

 少佐が立ち上がった。

「技師の家の住所を教えて頂けますか? これはどうやら大統領警護隊の仕事の様です。」


2024/05/01

第11部  紅い水晶     12

  カサンドラの父ファルゴ・デ・ムリリョ博士が彼女に「山で変わったことはなかったか」と尋ね、姪のアンヘレス・シメネス・ケサダが「ホテルに悪い気が漂っている感じ」と言った。カサンドラは不安になったが、姪にそれを気取られぬよう用心して、その夜は何事もなく過ごした。
 翌朝、朝食の席に技師のディエゴ・トーレスが遅れて現れた。彼はひどく疲れた顔で、カサンドラが大丈夫かと声をかけると、山歩きの疲れが出ただけです、と答えた。しかしアンヘレスが彼を見て嫌そうな表情をして、急いで食事を済ませ、ムリリョ博士も孫と一緒にさっさと席を発ってしまった。
 カサンドラと博物館員のアントニア・リヴァスはトーレスの食事が終わるのを待ってやったが、トーレスは食欲がないのか少ししか食べなかった。彼の顔色が悪いとリヴァスが心配したが、トーレスは平気だと言い切った。
 空港に到着すると、ムリリョ博士がチケットカウンターに行き、帰りの便の予約をしていたにも関わらず、新しいチケットを1枚持って一行のところに戻って来た。そしてトーレスにそのチケットを手渡した。
ーー君は体調が悪そうだから、半時間後の便で先に帰りなさい。
 カサンドラはびっくりした。急な便の変更は既に不可と言える時間だったからだ。しかし、ムリリョ博士は、恐らく”操心”を用いて、強引にチケットを手に入れたのだろう。トーレスの手にチケットを押し込み、搭乗手続きのゲートへ連れて行ってしまった。
 リヴァスは普通の人間で、博士が”ヴェルデ・シエロ”であるなんて想像すらしていなかったが、彼女は発掘旅行で上司の奇妙な行動に慣れているのか、「また博士の魔法ですね」と言って笑った。
 カサンドラは父がトレースを先に帰したことが気になった。だから博士が自分達のところに戻って来ると、”心話”で何かトーレスに良くないことが起きているのか、と尋ねた。しかし博士は答えなかった。
 帰りの飛行機は時間通りに離陸し、無事にグラダ国際空港に到着した。トーレスが乗った飛行機も無事に着いており、カサンドラが電話をかけると、技師は既にタクシーで自宅に向かっていた。
 空港にカサンドラの見知らぬ男性が彼等を待っていて、博士に挨拶すると少し2人だけで話をしていた。ムリリョ博士はとても不機嫌になり、男性と別れると、カサンドラにアンヘレスを家に連れて帰るよう言いつけ、己はリヴァスと博物館へ向かった。
 カサンドラはアンヘレスと一緒にタクシーに乗った。 ”心話”で姪に尋ねた。
ーー貴女のお祖父様は何を怒っているのかしら?
ーー知らない。
とアンヘレスは答えた。
ーーお祖父様はセニョール・トーレスを助けたかったの。だけど、何かが上手くいかなかったみたい。

第11部  神殿        8

 ママコナは、大神官代理を救えるのは大統領警護隊文化保護担当部とテオだ、と断言した。テオは驚きのあまり口をあんぐり開けて、馬鹿みたいに立ち尽くした。ママコナが続けた。 「貴方と貴方のお友達は旧態のしきたりにあまり捉われません。それは古い体質から抜け出せない神官達には脅威なのです。...